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2009年1月31日

自分を再構築する。

恒例の人間ドックに行ってきました。昨年もブログに書いたけれどドッグではなくてドック。どこかしら人面犬を思わせますが、人間ドッグじゃないですよ。年末に予約して都合によりキャンセルしたところ、スケジュールが合わなくて1月に延期となりました。日記を読み直すと、去年もそんなことを書いています。進歩がないわたくし(困惑)。

パソコンも定期的にメンテナンスが必要なように、ぼくらの健康もときどきチェックが必要です。病院に1泊して、血を抜かれたり、心電図のケーブルをつながれたり、超音波で腹をぐりぐりされたり(くすぐったい)、白くてまずいバリウムを飲まされて、胃の検査のために俎板のような機材の上をゴロゴロ転がったりしてチェックしてきました。胃の検査に関していえば、ほんとうは胃カメラのほうがピロリ菌なども検出できるようですが、いまだにぼくは怖くてカメラが飲めません。

泊りがけで人間ドックを受けるひとたちは、白髪のおじさんを通り越して、おじーさんばかりです。枯れた年配の方が多く、茶髪のちゃらちゃらした似非おにーさんはぼくぐらいでした。そろそろシニアの仲間入りなのだなあ、ということを実感。しかし、最初は戸惑ったのですが、年を重ねるにしたがって、おじさまたちにすっかり馴染むようになってきています。いいのかどうか。

090131_dock.jpg病室内では携帯電話は使ってはいけないのですが、ちょっとだけ病院内の自分をスナップ。寒いのでガウン着ています。リッチな感じもなきにしもあらず。しかし、ガウンの下は検査着です。

近所の学校から子供たちの声を聞きながら、ベッドの上でうとうとする時間が贅沢なのですが、今年は大雨のため、窓の外はごうごうという風と雨粒の音ばかり。毎年、ぼくがドックに入る日は晴れの日が多く、日差しの差し込む部屋で少しだけ人の世を離れた楽園気分にもなれるのですが、雨の日の病院はなんとはなしに憂鬱です。気持ちが塞ぎます。入院している患者さんは大変ですよね。

とはいえ、糖尿病の診断のために、甘い炭酸水を飲まされて1時間ごとに3回採血をされるのですが、かわいい女性の看護師さんに2回抜いていただいて、それがせめてもの救いでした(「抜いていただいて」という表現がいかがなものか、とも思うけれど)。ちなみに最後の1回はベテランのおばーちゃん看護師さんでした。はやかった。すぐ抜けた。手際よすぎる。

診察と診察の空き時間、消灯後の夜。ぼくは静かにいろんなことを考えました。人生のあれこれとか、自分についてとか。自分と向き合って思索に耽り、さらに集中して本を読むことができました。合計で400ページぐらい読んだでしょうか。2冊の本を読んだのですが、面白くてアドレナリンが出た。血圧が上がってしまうとまずいので、控えようと思ったぐらいです。診察に行ったんだか、読書に行ったんだか、よくわかりません(苦笑)。

まず1冊目は、ビジネス書で「戦略のパラドックス」。「イノベーションの解」のクレイトン・クリステンと共著者であるマイケル・E・レイナーの本です。こちらは第3章89ページまで読み進めました。

4798115088戦略のパラドックス
高橋 淳一 松下 芳生 櫻井 祐子
翔泳社 2008-01-18

by G-Tools

正しい戦略が必ずしも成功を導くとは限らない。正攻法で緻密に練られた戦略であるがゆえに失敗になることもある、という指摘が鋭いと思いました。時代は変化していくものであり、不確実性要因によって、完璧な計画をも狂わせてしまう。つまり動く的を自分自身も動きながら狙うようなものあって、結果が予測できない。戦略的に完璧なものではなく、不完全なものが成功することもある。

「成功の反対は失敗ではなく、凡庸である」という言葉にも頷きました。

中立的な戦略をとろうとすると、あっちもこっちも取り入れて、まあ折衷案で・・・というように、ありふれた凡庸なプランになっていきます。しかし凡庸な戦略は成果を生まない。リスクを回避することによって成功からも遠ざかるわけです。ハイリスクであっても、先鋭化された戦略(純粋戦略)のほうがよいとされる。もちろん、その成功の影には無数の失敗があるわけだけれど。

余談ですが、成功の反対は凡庸であると同じような言葉として、「対立物の類似性」というコラムで次のような見解が取り上げられていました。とても奥が深いものでした(P.3)。

対立物には、思ったほどの違いがないことが多い。たとえばノーベル賞受賞者エリー・ヴィーゼルが指摘するように、愛の反対は憎しみではなく、無関心だ。だれを愛したり憎んだりするということは、その人に対して少なくとも強烈な感情を持つということだからだ。

愛の反対は憎しみではなく無関心、といったのは、マザー・テレサだと思っていたのですが、エリー・ヴィーゼルも述べていたのでしょうか。

相反するふたつの感情は似ているということは、とてもよくわかる。単純に相手のことを考える時間だけを抽出しても、それだけの労力を割いていることになります。愛情がほんとうに終わるのは、"あなたには関心がなくなった"というときなのかもしれません。確かに辛いな、それを言われると。憎い、といわれたほうがましかもしれません。

2冊目は、かなり前に購入しておきながら遅々として読み進めていなかったポール・オースターの「ミスター・ヴァーティゴ」。

4102451099ミスター・ヴァーティゴ (新潮文庫)
Paul Auster 柴田 元幸
新潮社 2006-12

by G-Tools

4分の1ぐらいしか読んでいなくて、300ページほど残っていたのですが一気に読了。面白かった。ぐいぐい読み進めて、2度ほど病院のベットでぼろぼろ泣きました。いまのところ、オースターの作品のなかではいちばんです。

しかし、個人的な評価です。人間ドックで人生について考えていたぼくには、時期的に、ぴったりとはまったのかもしれません。作品とめぐりあう適切な時間というものがあって、最適な時期にめぐりあうと、作品以上の効果を読者のなかに生むと、ぼくは考えています。作品は作品単体で存在しているのではなく、時代や個人のさまざまな文脈が交差する場に生まれるものとしてとらえています。ちょうど「ミスター・ヴァーティゴ」という作品にめぐりあう時期だったのでしょう。そんな時期に読み終えたことがぼくにはとてもうれしい。

読むまで知らなかったのだけれど、実は内容もBirdWingというハンドルを使うぼくには無関係とはいえませんでした。というのは、この小説は、ひとりの少年が「ウォルト・ザ・ワンダーボーイ」として、修行をして空を飛べるようになり、その後年老いるまでの物語だからです。鳥男(バードマン)などという言葉も出てくるのだけれど、空にまつわるおとぎばなしです(柴田元幸さんの訳者あとがきを参考にしました)。そして、物語中に何度も少年が映画を観に行くのですが、とても映画的なストーリーです。映画にしてほしいなあ。

映画ではネタばれなのでエンディングは言うべきではないのですが、この小説でぼくが打ちのめされて、めまい(Vertigo)まで感じたのは最後の部分でした。まずは次の部分(P.410)。

ようやく初めて宙に浮いたとき、それはべつに師匠に教わったことのおかげじゃなかった。冷たい台所の床で、俺は一人でやってのけたのだ。長いあいだしくしく泣いて、絶望に浸っていた末に、魂が体の外に飛び出ていき、もう自分が誰なのかの意識もなくしていたとき、初めて床から浮かび上がったのだ。ひょっとすると、唯一本当に必要だったのは、絶望だったのかもしれない。

ウォルトは「三十三段階」の厳しい修行をします。地面に生き埋めにされたり、小指を切り取られたりする。その上にやっと掴んだ飛ぶ技術なのですが、高揚した楽しい気分が自分を宙に浮かせるのではなく、飛ばせるためのエネルギーは重く沈みこむような「絶望」だ、というのがいい。そして最後の終わり方(P.411)。

胸の奥底で、俺は信じている。地面から身を浮かせて宙に漂うのに、何も特別な才能は要らないと。人はみな、男も女も子供も、その力を内に持っているのだ。こつこつ根つめて頑張っていれば、いずれは誰でも、俺がウォルト・ザ・ワンダーボーイとして成しとげたことを成しとげられるはずだ。まずは自分を捨てる、それを学ばなければならない。それが第一歩であって、あとのことはすべてそこから出てくる。自分を霧散させなくてはいけない。筋肉の力を抜いて、魂が自分の外に流れ出るのが感じられるまで呼吸をつづけ、それから目を閉じる。そうやるのだ。体のなかの空虚が、周りの空気より軽くなる。少しずつ少しずつ、体の重さがゼロ以下になっていく。目を閉じる。両腕を拡げる。自分を霧散させる。そうやって、少しずつ、地面から浮き上がっていく。
そう、そんな感じ。

物語を読んでいないとそれほど感動はないかもしれませんが、この部分は凄い。途方もない人生の物語を経由して、ウォルトが尊敬する師匠の「楽しかった日々を忘れるなよ(P.312)」という言葉やいっしょに過ごしてきた日々がありながら、長い時間と人々のつながりの蓄積を、すべて飛ぶ瞬間において無に変えてしまう結末。詩的でさえあります。

飛ぶためには、「自分を捨てる」ことが必要であるということ。自分という重みが地面に繋ぎとめているのであって、気球が重い砂袋を捨てて空に上がるように、何かの犠牲なくしては高みに行けない。「そう、そんな感じ。」という終わり方も秀逸です。この部分は大好きですね。原文で読みたい。

読書以外に考えたことについても書こうと思ったのですが、エンドレスな長文になりそうなので、見送ることにしました。

「自分を大切に」というアドバイスをいただいたことがあり、そのことをずっと考えていました。自分を究める、というテーマとも重なりそうです。しかしエゴではなく、自分を大切にすることで同時に誰かを大切にするような、関係性の連鎖のなかで考えようとしています。

自分や内なるものを出発点として考えているのですが、最終的な到達点は、「ミスター・ヴァーティゴ」のウォルトのように、絶望のなかで自分を捨てて重力から解放される方法がゴールなのかもしれません。

人間ドックを契機として、自分を再構築中です。ちなみに、簡単な検査の結果が出たのですが、再検査になりそうなのは血液中の鉄分です。一般に80~140なのですが、前々回112 → 前回47 → 今回29と激減しています。鉄が減りすぎ。なぜだ。ああ、そういえば、去年は再検査の連絡を受けたのだけれど行かなかったんだった。今年はきちんと行きます。

投稿者 birdwing : 2009年1月31日 18:10

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