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2009年1月23日

「日本語が亡びるとき」水村美苗

▼book09-01:愛を見失った小説家の、さびしい日本語論。

4480814965日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で
水村 美苗
筑摩書房 2008-11-05

by G-Tools

期待とともに読みはじめた「日本語が亡びるとき」。中盤からは失望と反感とともにページをめくる速度が緩み、いったん読む意欲が萎えました。しかし、偏見というバイアスをかけて中断することは、成熟した知の在り方とはいえないのではないか。そう考えて批判的な気持ちや感情的な抵抗を押さえながら、最後まで読み終えることに決めました。きちんとこの本と関わってみよう。それから判断しよう、と。

そして読了。最終的にぼくが到達した気持ちは、途方もない"さびしさ"でした。

水村美苗はさびしい小説家である。

この卓越した文章力を誇る「日本語で書く」作家は、日本文学に対する愛を見失い、愛するものの生命を自ら亡びさせようとしている。そんな寂寥とした気持ちを残したまま本を閉じました。

作家論と作品論を考えたとき、ひとつの作品しか読んでいないにもかかわらず、作家のすべてを見抜いたように批評を語るのは傲慢であり、慎むべき行為といえるでしょう。

また、作品に出来不出来の波があるとすれば、可能な限りすべての作品を網羅しなければ、ひとりの作家について十分な評価ができないかもしれません。一冊の駄作をもって作家のすべてを全否定するのはフェアではない。違うでしょうか。

ぼくは水村美苗さんの小説をまったく読んでいません。漱石が生き返って書いたようだと絶賛された「續明暗」も読んでいなければ、英語と日本語が混じりあう実験的ともいえる「私小説 from left to right」も読んでいない。だから本来であれば評価を保留にして、もう少しだけ作家を理解すべきかもしれない。歩み寄る努力が必要です。結論を出すのは早急ともいえます。

ただ、妄信的なファンではないからこそ、「日本語を亡びるとき」を読んで直感的に感じたことがありました。暴言・偏見を辞さずに論じてみたいと思います。感想やレビューというよりも、「日本語を亡びるとき」を通じて、作家である水村美苗という人間を批判することになるでしょう。まずは非礼をお詫びします。

ぼくは評論家でもなければ、文学者でもありません。ひとりのブロガーです。ブロガーのぼくにとって関心があるのは、うまい感想文を書くことでもなければ、書いたエントリの対価として原稿料を請求することでもない。レビューで注目を集めてアクセスを稼ぐことでもなければ、アフィリエイトで稼ぐことでもありません。

小説にしろ映画にしろ音楽にしろ、ぼくがこの場で作品を通じて追究するのは、自分がよりよく生きるためのヒントです。

自分を救済する方策を探ることで、わずかであったとしてもここに訪問して共感できるような誰かを救済できればいい、と考えています。文章のテクニックを修練したい気持ちはありますが、無駄に思考遊びに長文を費やしているわけではありません。文章を書くことによって、現実を生きるためのヒントを探りたい。そんなエントリを展開したい。

というスタンスから、失礼極まりないのですが、水村美苗さん個人を想定して、作家というひとりの女性に向けて語らせていただきます。

+++++

水村美苗さん。あなたは、誰よりも日本の近代文学を、そして日本語を愛していたのではないのでしょうか。

まずあなたには当たり前すぎると思われるそんな問いから投げかけてみます。寂れた美しい池に石を投げ込むように。みなもに、わずかな波紋を起こすように。

漱石の作品に対する深い造詣はもちろん、ちりばめられた膨大な日本語と日本文学の歴史に、ぼくはあなたの愛情を感じました。

学問的には少々あやしい評論だったとしても、あなたは学者ではない。だから赦すことができます。読書家としてのひたむきな姿勢には、ぼくは素直に尊敬を送りたい。

たとえば、何度か引用されている漱石の「文学論」。ぼくも学生の頃にわざわざ古本屋を数件めぐって購入した本でした。その後、社会人になって購入した新版の岩波の漱石全集とともに、2冊の「文学論」をぼくは持っています。しかし、不勉強なぼくは、この風変わりな科学的なアプローチによって書かれた漱石の理論書を完全に読破していません。

「文学論」が失敗だったかどうかについては別に詳しく論じたいのですが、漱石を研究するひとにとってはメジャーでも、一般的にはマイナーともいえる「文学論」をあなたが取り上げていたことが、ぼくには嬉しく感じました。少しばかり親しみを抱きました。

少女の時代に渡米して、英語の空気に馴染めず、ひたすら海の向こうの日本と日本の文化を想い、古典から近代文学まで読みあさった日々。トラウマのようにあなたを苦しめた過去かもしれませんが、反面、夢のように甘く美しい時間だったことでしょう。孤独な日々のなかで醸成された日本文学に対する焼け焦がれるほどの憧れは、「日本語を亡びるとき」のなかに息づいています。

しかし反面、あなたのなかには、愛しさとともに憎さがある。その相反する感情が論旨を揺さぶっているような印象を受けました。

揺さぶっているどころではない。この本のなかで亡びているのは、日本語ではありませんでした。水村美苗という小説家、というよりも愛に疲れたひとりの女が亡びている。そんなイメージをぼくは抱きました。あなたが愛したものたちの骸(むくろ)がここにある。そう感じました。

「日本語を亡びるとき」から浮かびあがる水村美苗像は、一途に愛しつづけたあまりに愛の強度に疲れ果てて、愛するものたちを亡びさせようとしている、ひとりのさびしい女の姿でした。愛の残骸、想いのなれの果てが、がらくたのようなことばで積み重ねられています。

論旨が紆余曲折して文章だけが途方もなく膨れ上がる日本語論は、自暴自棄になっているようにさえ読み取れました。あなたは、愛するものたち、愛する日本語を抱きしめることを放棄しようとしている。絶対的な多数として世界を制圧しつつある<普遍語>としての英語に、あなたが少女の頃から愛してきた日本語が亡ぼされることを夢見ている。

それはどういうことなのか。

極論かもしれないし、批判を覚悟でぼくは言い切ります。あなたは絶対的な強者に降伏し、<普遍語>という相手に力ずくでレイプされることを望んでいるのだ。愛してもいないのに。愛されてすらいないのに。

あなたはプライドを捨てた。英語という権力に屈しようとしている。侵されるがままにしている。情けなくだらしなく文体という身体を開いて権力を受け入れようとする文章に、自分を捨てた無力な女のなれの果てを感じました。あなたは、ほんとうに英語に「犯されて」いいと思っているのでしょうか。あなたが愛していた、あれほどまでに強く抱きしめていた日本語を見捨てて。

力がなくても、マイノリティだったとしても、凛とした姿勢で数の圧力に背を向けて自分のことばで語ろうとしている作家もいます。自分の選んだことばを愛しつづける作家がいます。たとえば第一章に登場する、北欧のことば、ノルウェー語で書くブリットです。

ノルウェーには公用語として「ブークモール」と「ニノーシュク」があるそうですが、ブリットはあえて新しい言葉である「ニノーシュク」を使います。それは圧倒的に使うひとが少ないことばです(P.47)。

ノルウェーの人口は四百六十万人。その一〇パーセントというと四十六万人。私が住む杉並区は人口五十四万である。ということは、ブリットは、杉並区の住民に読者を限って書いているようなものなのである。「ブークモール」で書くこともできたブリットが、あえて「ニノーシュク」で書くことを選んだのは、彼女が漁村で生まれ育ち、「ニノーシュク」の方が自分の魂と奥深くつながっているような気がするかららしい。詩的な言葉、詩的すぎるぐらいの言葉なの、と彼女は言っていた。

あなたに欠けるのは、この高潔さ、自分の気持ちに誠実に向きあい、愛情を守ろうとする信念ではないでしょうか。

世界的に絶対多数であろうとなかろうと、ブリットには関係ありません。<私>が、「詩的な言葉」だから、好きだから、マイノリティな言語でも書きつづける。たとえ読者が少なかったとしても、たぶんブリットは、「杉並区の住民に読者を限って書いているような」ことばをきちんと抱きしめることができていると思います。

作家・水村美苗に、ブリットのような覚悟はないでしょう。暗いこころの水面にうごめくものは、格差の呪縛ではないか。圧倒的な規模の経済が弱者を駆逐する囚われた思考が、あなたの自由を奪っている。

世界に向けて普遍的でありたい、たくさんのひとに読まれたい、という大きな志とともに、売れたい、というさもしい低い欲望もあるかもしれません。しかし現実として、あなたは「日本語で書く」マイノリティな作家にすぎません。

自虐で自分を嗤い、売名の欲望にとらわれている。敗者のみじめな意識で、時代を嘆く自分に陶酔し、退廃的な思考に溺れている。澱んだ沼から抜け出すことができないあなたは、その苛立ちを、自分の暗い欲望を、日本語が亡びるという言葉に転嫁して誤魔化しつづけている。自分の内なるほんとうの気持ちに目を瞑って。

冷めた読者の目で読んだとき、あなたの妄想の熱さがぼくには非常識に思われました。だから、とらわれたこころに批判的なことばを投げかけたい。いい加減に目を覚ましたらどうか、と。それでいいのか。

そうではない生き方、あなたが好きだったものたちを愛しつづける方法もあるのではないでしょうか。

ぼくは日本語を信じています。そもそも日本語は、中国からの漢字や、日本独自のひらがなや、外来語をしなやかに吸収して、生成変化しつつあることばであったはずです。

日本語を大切にすることは、古きよき時代を懐古し、古典という権威に絶対的に服従することではない。もちろんそんな至上主義もあるかと思いますが、別の考え方もあると、ぼくは考えます。時代は変わっていきます。変わっていく時代のなかで生成変化するものを受け止めることもまた愛である、と。

「英語の世紀」に入ったことは確かな現実かもしれません。けれども決して日本語はなくなったりはしない。守りつづけようとするひとが、たったひとりでもいる限り、日本語は生きつづける。

日本の教育が、社会が、政治が・・・と批判しはじめると、あまりにもブンガクは無力です。何もできなくなってしまう。けれども、朝起きたときに「おはよう」を大切に告げたり、子供の鏡面文字のようなひらがなの「の」や「と」を正したり、書きかけのブログの助詞や接続詞にこだわって何時間も悩むとき、ささやかではあるけれど、ぼくの行動は日本語を守っているのではないか、と感じます。

水村美苗さんのような国の言葉をどうこうしようという大義はぼくにはない。しかし、このパーソナルコンピュータの前にひろがるインターネットの身近な場所で、ぼくは(あくまでも個人としてのぼくは)日本語をきちんと抱きしめていたい。

<普遍語>として圧倒的な勢力を誇る英語を受け止めるということは、単純に英語を公用語にすること、英語教育を強化すればよいという話ではないと思います。言語の背景にある文化をきちんと流通させなければ意味がありません。

だからもし日本のグローバル化について考えるとすれば、英語力はもちろん、自分で考えること、意思をはっきりと述べるという英語圏の文化を社会に流通させることが重要ではないでしょうか。引用で自分を武装するのではなく、自分の思考力を駆使して自分で考えて、世界に向けて主張する姿勢を獲得すること。その真摯な取り組みのなかでは必然的に英語で話す必要性が生まれます。また、異なる文化に耳を澄ませることで、逆に日本のことばについての意識も高まるのではないでしょうか。

愛情は変化します。ティーンエイジャーのように、ひたすら憧れのひとに夢中になり、高いテンションで想うだけが愛情ではありません。抑圧され虐げられたとしても静かに長く想いつづけることもまた、愛情のひとつのかたちです。直視しがたい憎しみも含めて、変わり果てた愛をみつめるときもあるでしょう。だから、亡びるという水村美苗さんの言動も、日本語に対する愛の変容のひとつかもしれません。けれども、その姿はあまりにもさびしすぎます。

陳腐なことばではありますが、日本語と英語を継ぎ接ぎにしたような両性具有の作品を作るのではなく、英語のロジックをゆき渡らせながら日本語で書くような、きちんと交合した、つまり異なるものたちが愛し合ってひとつになったブンガクを生み出すことができたら・・・。

漱石は、そういうひとであったと捉えています。ロンドン留学における苦渋は彼に影を落としましたが、その悩み苦しんだ時間を作品のなかに融合させていったのではないか。村上春樹さんもまた、翻訳という仕事を通じて、文化の架け橋に注力されています。外国文学を愛しながら、日本のぼくらにもきちんと伝えようとしてくれている。きちんと日本語に対してこだわっている。

あなたは、決してマクロ経済のような冷たい視点でブンガクを語るのではなく(あなたは経済学者の父親のもとに生まれたということも知りました)、日本を担う作家のひとりとして、愛した日本語を<普遍語>のなかで生かす新しい日本語の「子供たち」を産み出すことができるはず。亡びるなどという安易な言葉で終わりを告げるのではなく、たとえ亡びつつあるものであっても抱きしめること。それが日本語を愛した作家として意義があるのではないでしょうか。

いまのあなたの姿勢には、ぼくは情けないとしか感じない。水村美苗さん。あなたは見失った愛を再発見するべきだと思う。余計なおせっかいではあるけれど、ぼくはそのことを伝えたい。

あなたは、自分の愛したものたちを、日本語を亡びさせるべきではない。日本語と日本文学に対する愛を貫いてほしい。そう願っています。あくまでも日本語を愛しているひとりとして(1月16日読了)。

投稿者 birdwing : 2009年1月23日 23:59

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