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2012年12月31日

2012年の終わりに。

2012年が暮れようとしています。今年の10大ニュースは・・・と考えてみたのですが、あまりにも芒洋としすぎていて、まとまりませんでした(苦笑)。しかし年の後半、政治への関心が高まったことだけは言えそうな気がします。とはいえその期待も、どちらかというと脱力感のなかで萎えた印象がありますが。

個人的には、今年の後半から朝もしくは夜にツイッターで140文字×5ツイートの連投ツイートをするという課題を継続していましたが、年末には滞りがちでした。とはいえツイートしたままにしておくのも年を持ち越すのもどうかとおもいますので、12月の連投ツイートを以下にまとめます。

それではみなさん、よいお年をお迎えくださいね!


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■主体的に進化すること。2012.12.10

406253312Xダーウィン論・主体性の進化論 (今西錦司全集)
今西 錦司
講談社 1993-07

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読後の興奮が静かにつづいているのだが、今西錦司氏の『主体性の進化論』は久し振りに感動した本だった。全体の80%ある前半部分では、ダーウィンとラマルクの進化論を引き合いにしながら、ウスバカゲロウの棲み分けについてフィールドワークで得た結果などを解説していて、のどかな雰囲気である。

今西錦司氏の『主体性の進化論』が凄いのは、最終章の「人類の進化――応用問題として」の思考の突き抜け方だ。ここで四足歩行から二足歩行に至る人類の進化は、長時間かけて途中段階を経た進化ではなく、ある日突然に同種の人類の祖先に起きた大進化(レ・オリエンテーション)だという。

人類の直立二足歩行がどのようにして達せられたかについて今西氏は「赤ん坊は立つべくして立った」という。人類は「変わるべくして変わる」のだ。この視点が衝撃的だった。確かにぼくらの一生を進化に喩えると、赤ん坊から立ち上がるということは大きな進化のようにおもう。が、当然の進化なのだ。

人類を取り巻く環境の変化が人類を進化させたのではなければ、徐々に二足歩行に移行していったのでもない。今西氏は、人類は「変わるべくして変わる」進化の道筋が定められていたのだということを語っている。つまり環境や他の要因が進化させたのではなく「主体的」に進化したのだと考察する。

ぼくらは自分が変われない(進化できない)要因を、得てして政治とか社会とか、あるいは会社や学校など「環境」に責任転嫁したがる。しかし、人類を含めた生物には「主体的」に進化できるチカラを秘めていたと仮定すると希望も生まれる。いつかその進化の種が芽を出すときがくると考えると楽しい。


■選挙が終わって。2012.12.17

選挙が終わった。結果はともかく(といって済まされることではないが)、朝日新聞によると今回は衆院選投票率59.32%と戦後最低の記録を更新したようだ。政治に対する関心が低かったというわけではなかったという気がする。政治に対する諦め感というか不信感が強かったのではないかとおもわれる。

実際に投票場へ行って感じたことだが、体感的には過去と比較してそれほど投票者が少ないとは感じられなかった。それでも最終的に蓋を開けてみれば、投票率は低下していた。いったい投票者のどの層が投票率を下げていたのか。世代なのか地域なのか。分析する視点はいろいろとあるだろう。

若年層の投票にも期待が集まったが、どうだったのだろう。ぼくは自宅の近くに投票場があったので、およそ30分で投票を済ませることができたが、投票場所が遠いと足が重いかもしれない。だからといってネット投票は早急すぎる気がしている。日本においてネット投票はまだ先ではないか。

投票を促進するアイディアでは、ガ島通信などに挙げられていたが「投票済証」をいただいて、ネットにアップするというアイディアが秀逸だとおもった。AKB48のカードにするとまでは言わないが、各地の投票済証の写真をネットにアップロードして収集するような、ゲーミフィケーション的なアイディアは必要だ。

個人的には、政治的知識に自信をもって臨むことができなかった選挙だった。やさしい解説による津田大介氏や荻上チキ氏の本を読んで、政治について意識的に考えるようにはなったのだが、まだまだ政治を語るには道のりは遠い。しかしながら、選挙は終わりではなく政治を考えることのスタートでもあるといえる。これからの政治を考えたい。


■ゼゼヒヒで二者択一。2112.12.23

津田大介氏が作った国民投票サイト「ゼゼヒヒ」が面白い。似たようなサービスはWiiにもブログパーツにもあったのだけれど、リサーチ会社ではなく津田氏のようなジャーナリストが作ったところに意義がある。「ヒヒ」というネーミングがTwetterの「tt」に似せている部分にもセンスを感じる。

ゼゼヒヒ
http://zzhh.jp/
ZZHH_2012-12-31.jpg


「ゼゼヒヒ」への登録は簡単だ。ログインはツイッターアカウントで認証される。いくつかのお題が画面に表示されているので(現在は35個)、賛成か反対かのどちらかをクリックすると円グラフが連動してリアルタイムで結果を表示する。リサーチの仕事をしているとき、こういうサイトが大好きだった。

ツイッターと連動し、なぜ選択肢のうちのひとつを選んだのか自由回答(FA)で理由がわかるところが「ゼゼヒヒ」のよいところである。定量的だけでなく定性的な分析が可能になる。メルマガの記事やPR記事にも活用できる。UGC(User Generated Contents)のひとつになる。

しかしながらチキンなぼくは、まだ「ゼゼヒヒ」に参加していない。優柔不断なのだ。二項対立の狭間にあるグレイな部分が大事であって・・・・・・などと言い訳してみるが、要するに選べない男なのである。選べない男は嫌われる。ここはひとつ「ゼゼヒヒ」に参加して、ずばっと世論を斬ってみようではないか。

AかBかどちらかを選ぶこと。二者択一を生活の習慣化して理由を考えるクセをつけることは、選挙で候補者を選ぶよい練習になるかもしれない。津田氏がそこまで構想して「ゼゼヒヒ」を作ったのであれば凄い。いや津田氏は、記事・PR化、政治選択の下地作りを考えてこのサイトを作ったと睨んでいる。


■信じること、覚悟を決めること。2012.12.16

「永遠に愛してる」というコトバは、それが嘘であったとしても歴史を越えて多くの人々に支持されてきた。ラヴソングにも多用されている。なぜだろう。逆説的に、ぼくらは永遠に誰かを愛することなどできないからではないだろうか。不可能かつ虚言だが、ゆえにそのコトバは「必要」であり支持される。

「大丈夫だよ」「安心しろ」という言葉も、どう考えても大丈夫じゃない場合に使われることがある。だからといって「おまえもう無理だ。観念しろ」とはいえない。その「大丈夫だよ」という言葉が延命に役立つこともあるからだ。ひとはいつでも真実をいえばよいものではない。必要な「嘘」がある。

しかしながら、行動の伴わない言葉だけの約束には、ぼくらは耐えられなくなってきている。実行できない自覚なしに繰り返される「日本を変える」という建前の政治の公約などがそうである。どう動いても日本は変わらないのではないか。積み重なった諦観がある。麻痺してしまった感覚がある。

池田信夫氏はアゴラで、民意をウェブで反映するのをやめ「専門家が合理的な政策を独裁的に実行」する「独裁制による都市国家が21世紀の国家モデル」と述べている。いささか過激にもおもわれるが、変わらない日本を変えるには、それぐらいの構造的な変化が必要とされるのかもしれない。

窮地に置かれても、ぼくらはまだお花畑のようなスローガンを信じて、安穏に生活している。変わらない日本から一抜けた!で降りてしまうのではなく、変わるよ、日本は永遠だよ、という虚妄な言葉を信じている。だか愚かであっても日本で生きていく覚悟をしてしまったのだ。かなしいことではある。


■憧れというビタミン。2012.12.12

いきなり辛辣なことを書く。書店で平積みされていた伊藤春香(はあちゅう)氏の『自分の強みをつくる "なりたい自分"を"自分"にしちゃえ。』の表紙をみて、幼稚園児の落書き本か?とおもった。家入一真氏の『もっと自由に働きたい とことん自分に正直に生きろ。』はアイドル本だな、とおもった。


4799312057自分の強みをつくる (U25サバイバル・マニュアル) (U25 SURVIVAL MANUAL SERIES)
伊藤春香(はあちゅう)
ディスカヴァー・トゥエンティワン 2012-08-26

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B009SKNUOQもっと自由に働きたい とことん自分に正直に生きろ。 (U25 Survival Manual Series)
家入一真
ディスカヴァー・トゥエンティワン 2012-08-25

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余計なお世話だが、はあちゅう氏や家入氏の本を信者のように読み耽っている若者たちの脳は大丈夫か?というのが、おじさんの率直な危惧である。ディスカヴァー21から出版されている「U25 Survival Manual Series」という25歳以下の読者に向けた一連のシリーズのようだ。

店頭で内容をさらっただけだが「U25 Survival Manual Series」は自己啓発の本としては内容が浅いと感じた。だからこそ若者に理解されるのだろう。だが人生の苦渋を舐めてきたおじさんは、責任感のない薄っぺらなこと言いやがって、のような冷ややかな目で眺めている。

しかしながら前言を覆すが、はあちゅう氏や家入氏は、その存在が若者たちに必要であるから本も支持されていると、ぼくは擁護したい。安藤美冬氏やイケダハヤト氏のようなカリスマもいらっしゃるが、よしあしはともかく若い世代を元気付ける「ビタミン」性が共感を生み、人気があるのではないか。

カリスマ的なひとの存在は若者たちにとっては「憧れというビタミン剤」なのだろう。もちろん成長するためにはビタミンだけでなく多様な栄養が必要になる。しかしビタミン以外は他から摂取すればいい。元気のない社会において、元気を出すためのビタミン摂取が取りあえず急務なのかもしれない。


■突っつく挨拶。2012.12.19

POKE_2012-12-31.jpgフェイスブックに「POKE」という機能がある。すこし前までは「あいさつする」だった。POKE(ポーク)ってなんだろうな、とおもって調べると「指で突っつく」という意味のようだ。「つんつん」という感じである。あるサイトに「小学生の授業中の消しゴム爆弾」と解説されていて納得した。

個人のウォールに「最近どう?」と書くのも大袈裟だし、だからといってメッセージするほどでもない。そんなときに「つんつん(どうしてる?)」というフェイスブックのPOKEは手頃だ。ちょっとあったかい。もちろん突っつきすぎには注意だが、言葉にする以上に相手の気持ちが伝わることもある。

多くのソーシャルメディアはテキストによるメッセージが主体である。しかしフェイスブックの「POKE」は、非言語的な独特のコミュニケーションといえるかもしれない。「つんつん」という名称自体が身体に訴えるものであり、突っつく相手との距離も配慮すべきだが、上手く使うと親近感が沸く。

「いいね!」ボタンは、コメントを書くほどでもないが、読んだよという気持ちを伝えたいときには使いやすい。カジュアルである。「POKE」と同様、言葉以上の感情を相手に伝えることができる場合がある。当然、ボタンを押してはいけないときにはボタンを押さないリテラシーも大事である。

とかく考え込んで「あっち(どっち?)」の世界に行ってしまいがちなぼくは、心友の「POKE」に救われることが多い。ボタンの向こうから「おーい、そっち行っちゃダメだよー、戻っておいでよ」という声が聞こえてきて目覚める。ひとりじゃないんだと気付かせてくれる。ありがたいことである。

投稿者 birdwing : 2012年12月31日 18:57

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