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2006年2月 4日
ちいさきものの儚さ。
将棋の羽生さんの「決断力」という本を読んだところ、むしょうに将棋をやりたくなり、ついに会社の帰りに玩具屋さん(といってもヨドバシカメラなんですが)で将棋の駒と盤を買ってしまいました。ぼくは影響を受けやすいひとなので、非常に行動がわかりやすい。もしぼくがラーメン屋に行ったことを書きはじめたら、どこかでラーメンの本を読んだか、テレビで番組を見たか、きっとそんなことがあったことに間違いありません。
将棋盤は1000円ぐらいで、駒が780円というところでしょうか。盤は任天堂製なんですが、任天堂ゲームキューブのソフトといえば8000円ぐらいするので、いつもゲームばっかり息子に買っていたぼくとしては、拍子抜けするぐらい安かった。勢いあまってウルトラマンのソフトビニール製の人形を買ってしまうぐらいです。しかしながら将棋を買って帰宅する気持ちというのは、ゲームのソフトを買って帰る気持ちと何かが違う。なんだろう?と思ったのですが、うまく言えません。重さと大きさが違うというのもあるのだけれど、心のまんなかあたりに浮かぶ何かが違う。なんでしょうね、これは。
さっそく家で駒と将棋盤を出してみたところ、次男(2歳)は「いいにおいがしゅる」とのこと。ラッピングを破ると新しい木の匂いがほわーという感じで漂って、確かにいい匂いでした。昨日は長男(9歳)に教えながらやってみたのですが、教えるのに夢中になって気が付くと、自分の陣地がガラ空きで王手をさされてしまいました。その初勝利に味を占めたのか、将棋やりたいと言ってくる。今日は本気を出して勝ちました。
思えばぼくも小学校の頃に父から将棋を教わった気がします。家には余った板を使って手製の将棋盤があったような気もする。ぼくには弟がいるのですが、弟とは年齢が2つしか違わなかったので、弟とよくやったような気もします。ただ遊びとはいえ、勝負に負けるのはむちゃくちゃ悔しかったですね。それが悔しいからあえてやらない、などとへそを曲げたこともあったかもしれない
うちの息子たちは年齢差が大きいので、次男がもう少し大きくならないと兄弟で将棋を楽しむことは難しいのですが、長男と遊んでいると次男は面白くないらしく、駒を隠したり、説明書を隠したりする。ウルトラマンを盤上に投げようとする。ちょっと困る。将棋ができるぐらいに、はやく大きくなってください。
それにしても羽生さんの本を読んだときに、なんとなく将棋ってこういうものなのね、と理解していたつもりだったのですが、実際にやってみるとぜんぜん違いました。木製の駒の手触りも想像に描いていたものとは違っていたし、木の匂いも違う。何十手も先を読むなんて無理で、いまある駒の動きしか見えない。だから将棋のプロの世界というのは、想像もつかないものです。わかったつもりってダメだな、とあらためて思いました。やってみないとわからないことも多い。ハワイの海について語るには、やっぱりハワイに言ってみなきゃわからないこともある。
いま、茂木健一郎さんの「「脳」整理法」を読んでいるのですが、次のような言葉があり、印象的でした。引用してみます。
私たちの体験する世界は、確かに大きくなりました。しかし、どれほど世界が大きくなっても、それは、一つ一つをとれば、小さなものから成り立っています。世界の大きさにかかわらず、世界はあいかわらず「個物」からできていて、私たちは「個物」を通して世界を認識しているのです。
そのあと「小さきものの儚さ」という言葉を使って、「石ころ」は池に波紋と作ったり積み上げて山を作ることができるけれど、「石ころ」という概念が人類を誤った道に導くことはない、ということを書かれています。
さらに茂木さんは、気をつけなければならないのは「大文字」の言葉である、と述べている。個物の認識と対比される考え方で、「一見普遍的で、適用範囲が広いように見える」概念だそうです。「人間」「神」「国家」「価値」などの概念らしい。つまり本来、変化するべきものを不変であると認識するときに、さまざまな弊害が生まれるということです。
そこで考えたことは、ビジネスで戦略というと、すぐにロードマップやシナリオなどを作りたがるものです。けれども現実と乖離した「大文字」のロードマップやシナリオというのは無駄なものでしかない。そういうものを作ると、あたかも「神の視点」を得たかように、これは絶対的だ、わたしはえらい、というように気持ちがでっかくなるのだけど、実際のビジネスに活用できる情報でなければ、意味がありません。
将棋をやってみないと、飛車の動きはわからない。やってみてはじめて、戦略についてもわかる。
昨日の話ともつながるのですが、統計的に世界の成り立ちを解明するよりも、個々が生きるための知恵を獲得することが重要ではないか、と考えています。そのためにはまず、地にしっかりと足をつけておかなければならない。ビジネスにおいても、プライベートにおいても。一方でインターネットのテクノロジーは、個々の地に足をつけた経験を知恵に変えるためのツールとして有用であるという気がしています。
投稿者 birdwing : 2006年2月 4日 00:00
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