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2007年8月 1日
ここから、どこかへ。
3歳頃の自分の写真を貼り付けた古いアルバムをぼくは持っています。○十年前のぼくのスナップを集めた、タイムカプセルのようなアルバムです。どこいったかな? 部屋のなかの手の届かないところへしまい込んでしまったようで、手元にはみつからないのですが。
アルバムのなかの一枚の写真が印象に残っているのですが、その写真のなかで、ちいさな子供用の椅子を机にして、ちょこんと座りながら眉間に皺を寄せて、ぼくは何かを書いていました。
何を書いていたのでしょう。手に握っているのは緑色のトンボ製の鉛筆だったような気がするのですが、なんというか縮小版の芥川龍之介というか太宰治というか、そんな人生を憂うような顔で、3歳のぼくは何かを一生懸命書いている。3歳児の頭のなかには、そんな高尚な悩みなんてないはずなのに。
写真のなかのぼくが夢中になっていたのは絵かもしれないのですが、幼い頃から、ぼくは何かを書くことが好きな子供でした。高校教師だった父が持ち帰ったプリントのヤレ紙(失敗した紙)の裏側を使って、いつも何かを書いていた記憶があります。
そんな父はといえば、写真を撮ったりドライブのために頻繁にクルマを買い替えたり、いまにして思うとかなりの多趣味でした。その写真はたぶん大事にしていた一眼レフのカメラで撮影されたのでしょう。ちいさなぼくはギブスを嵌めていて(足が悪かった)、気むずかしい顔をしたぼくの前には、ブリキ製の玩具のロボットが置かれていました。意図的に玩具を置いたその構図はなかなかのもので、はじめての子供を前にした初々しい父のよろこびが感じられて、なんだかほほえましい。
そういえば、ぼくも息子(次男。まだ1歳頃)のお座りする姿を写真に撮ったことがありました。彼の後ろ姿がくまのプーさんに似ていて、ちょうど着ていた黄色い服もそっくりで、人形と並べて写真を撮ったことがあったっけ。かわいいというよりも、でっかい頭だなあ、という感動の方が強かったのですが(苦笑)。これです。
うーむ、やっぱり頭でっかい(笑)。
3つ子の魂百までも、と言いますが、無意識だったとしても、幼い頃に自分が好きだったものは永遠に好きでありつづけるのかもしれないですね。自分探し、ということがよく言われますが、探さなくても自分はここにいるもので、気付いても気付かなくても、ここにいる自分こそが唯一無二の自分なのかもしれません。
というわけで、ぼくは3歳の頃の写真にあったように、何かを書きつづけるのではないか、と思っています。いまは亡き父が何気なく撮影した瞬間こそが、その後のぼくの運命を決めるシーンであって、鉛筆をキーボードに変えたとしても、ぼくは永遠に書きつづける。
書きつづけて、どこへ行くのでしょう。わかりません。でも、わかってしまったら、つまらないような気もしています。目的地がわからないまま、今日もぼくは日付変更線が変わるあたり、家族が寝静まった11時頃から日付変更線をまたいで次の日の1時頃まで、あれこれ思ったことを書きつづける。
かつては文章で世界を変えてやる、というような意気込みもあったのですが、最近ではそんな熱い気持ちもすっかりなくなっています。他人を変えられるほどの文章力なんて、おこがましい。けれどもぼくの書く文章が誰かのこころにわずかなあかりをぽっと灯したり、くたびれた毎日に少しだけ光を見出せるようなことがあれば、それがいちばんしあわせだと思っています。
アクセス数を上げようだとか、書いたものを出版しようだとか、そんな大きな目標はいまのところはありません。けれどもぼくの文章を読んでいただける僅かなひとのために、結晶のような文章を書きつづけたいと考えています。
ここから、どこかへ。もう何度目かのリスタートになりますが(苦笑)、まずはおそるおそる、けれども姿勢を正して胸を張って、第一歩を踏み出そうと思います。
Lifestyle Innovation。思考の翼をひろげて、より高みへと飛翔するために、ここから書き始めます。
投稿者 birdwing : 2007年8月 1日 00:10
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