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2007年8月16日

「知の遠近法」ヘルマン・ゴチェフスキ編

▼科学・芸術・文学を横断した、見ることの考察。

4062583852東大駒場連続講義 知の遠近法 (講談社選書メチエ 385)
H. ゴチェフスキ
講談社 2007-04-11

by G-Tools

思考を可視化することは、あらゆる活動において大きな意義があるのではないでしょうか。文章にしても絵画にしても写真にしても、いまここで見えている世界、もしくは仮想的に脳内に広がる世界を再現もしくは表現するために、はるかな歴史のなかでさまざまな科学者や芸術家が挑戦してきたように思います。それはつまり「見えない世界」を見えるようにする挑戦だったような気もします。

見るということは、ただ目を使って世界からの刺激を脳内に伝えるということだけではありません。見るということは、世界を個人の遠近法によって関係性を距離でとらえるということでもあり、心の目で視ることもできれば、音を視ることもできます。

音を関係性でとらえるとき、そこには音を視覚化する意識が働いています。また、表現する主体の位置を変えることによって、見えてくる世界も変わる。絵画のような視角的な芸術だけでなく、見るという行為は、世界をとらえる科学や芸術において重要な「視点」=考え方をもたらすものだと思います。

という考え方のもとに、この本では天文学から絵画、写真、音楽、小説に至るまで、「見る」という行為、パースペクティブの問題を追求していきます。「東大駒場連続講義」というタイトルになんとなく近より難いものがあるのですが、ともかくアカデミックな講義を本のなかで再現されているということでは、ありがたい。ジャンルを横断して、さまざまなパースペクティブ論が展開される本としては、ぼくの知的好奇心を満たしてくれるものでした。

冒頭の序章では、編者であるヘルマン・ゴチェフスキ氏が、Perspectiva(ペルスペクティーヴァ)という中世に作られたラテン語の語源から、心眼として視ることを中心に考察する学問の成立について解説されています。perspecioという動詞は、ただ光学的に光をとらえるのではなく、「理解するために障害になるものを克服して理解する」という意味だったようです。つまり、ペルスペクティーヴァという言葉自体にも奥行きがあり、観察するという意味から、見えないものまで見て深く理解する、という意味まである。

確かに、「みる」ことにもいろいろなレベルがあり、ただぼーっと見ているだけもあれば、その動きのひとつひとつを見過ごさないように注意して見るときもある。特に理解できない相手を理解するためには、感覚のすべてを総動員して「みる」ことが必要になりますね。

いくつかの章について感想を書いてみます。

第1章「宇宙の地図づくり(舟渡陽子)」は天文学の話であり、専門的な話については文系出身のぼくはよくわかりません。しかしながら、「宇宙の地図づくり」として何も書かれていない天空に線を引き、座標によって星の位置を測ろうとすること。しかしながらそこには時間的な推移が関わってしまい、結局、いま見ている星は既に過去の星になっている。つまり三次元だけでなく四次元の考え方で見ようとしている、という指摘に興味を感じました。

非常に興味深いと感じたのは第3章「西洋近代絵画におけるパースペクティブの変容」で、ここでは絵画における遠近法の成立と、それがいわゆるステレオタイプ化して浸透していくことを壊そうとした芸術家の試みが紹介されていました。エドガー・ドガの「コンコルド広場」における緊張感のある構図は、産業の進展によって親密性を失った都市空間が表現されている、とその構図が読み解かれて解説されているのですが、次のように評されています(P.85)。

写真よりも先行し、浮世絵版画とも平行するかたちで、スナップショット的な視像、断片的な切り取り構図を提示し得たのが、まさにドガの絵画であった。固定された眼差しに収まる、統一性のある完結した世界像から、動く眼がとらえた、恣意的で、瞬間性を示唆する世界像へ。印象派の画家たちは刻々と変化する世界の様相を、それに相応しい「パースペクティブ」で表現したのである。

この瞬間性については、つづいてクロード・モネの「カピュシーヌ大通り」についても述べられています。批評家シュノーの言葉を引用して、次のように書かれている部分を興味深く読みました(P.88)。

離れて見ると「とらえがたいもの、移ろいやすいもの、動きの瞬間性」を見事に表現し得た「傑作」だが、近づいて見ると「不可解な色調のカオス状態の絵の具の屑」が目につく「下絵」に過ぎないという判断が面白い。

これは視点の焦点のあわせ方のような気もしますが、たとえば現実世界も分子レベルまで細分化してミクロの目でみるとしたら、「屑」の集まりに過ぎないかもしれません。けれども、そのレンズを引いてみると、複雑に分子が集まった人間という存在だったりもする。

インターネットの世界も同様かもしれないですね。それぞれの書くブログは屑のような文章かもしれないけれど、それらが集まるとブロゴスフィアのなかにおけるひとつの意思として力を持つ。

その他、音楽とパースペクティブ、小説におけるパースペクティブについての解説も面白かったのですが、ここでは触れないことにします。あまりに長文化しそうなので(苦笑)。何かの機会に思い出すことがあれば、思考を再開することにしましょう。

文学系の学部出身のぼくとしては、小説の話はもうひとつ突っ込んだ論点がほしい気がしたのですが、ヘンリー・ジェイムズの「視点(point of view)」という小説技法について触れながら、物語内の一人物の視点から世界を眺めつつ、非人称的な視点から客観的に彼を描く、という技法はなかなか面白いものがありました。

知識のメモ書きというか備忘録に過ぎない理系的なブログはともかく、ぼくのような文系の人間がプライベートでありながらデイリーコラムニスト的な観点から書こうとするとき、個人のPoint of Viewはもちろんのこと、その視点と距離を置いた客観性が重要になる。

パースペクティブ、知の遠近法、視点などについては、継続していろんな本を読んだり、考えつづけていくつもりです。

投稿者 birdwing : 2007年8月16日 22:16

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