« 闘争論。 | メイン | 「50代からの選択」大前研一 »

2008年4月27日

ブログのスタイル。

個人的には勝手に何度か自分のブログを閉じた経験があるのですが、お気に入りのブログが閉じられる立場にたってみると、さびしいものだな・・・と思いました(涙)。なんだか切ない。いきなりのっけから感傷に浸っておりますが、そういう気分なのだ。公言しなくてもいいだろう、というもうひとりの自分の囁きが聞こえるのだけれど、であれば公言したっていいだろう。感傷的なのだよ、いま、わたくしは。そのブログに何度元気をもらったことか。だから辛い。

現在、ほとんど限られたブログしかぼくは読んでいません。しかし限られたブログを深く何度も繰り返し読むことによって、たくさんのブログを読むよりも考えさせられることが多いと思いました。

というのは、人間のなかに宇宙がある、細胞のひとつが完璧な世界を構成している、のような考え方かもしれないですね。勢いで書いてしまったのですが、科学的な裏づけは一切ありません(苦笑)。言いたかったのは、さまざまな人間の多様な言葉に耳を傾けることも必要かもしれませんが、ひとりの人間のなかにある自分とは異なった思考の本質を理解しようと努めることも大切である、ということです。多読乱読だけが読書ではなく、一冊を丁寧に読むことも読書のスタイルであるのと同様に。

ブログという言葉は数年前には、なんだそりゃ?な感じだったのですが、いまほとんど当たり前のように使われるようになりました。とはいえ、パワフルに書いているひとはまだまだ少数ではないかと思っています。基本的には、ぼくはブログを書ける人間が凄いとは思わないし、書かない人間がダメだとも思わない。書きたいひとは書けばいいし、書かないひとは書かなくてもかまいません。

ブロガーというカタチには固執せずに、ただ書きたいからブログを書いているひとの書く文章の瑞々しさ、考えのストレートな感覚に打ちのめされるばかりです。一方で、わたしはブロガーですと宣言しているひとの文章は、その割にたいしたことがなかったりしますよね。あ、ぼくもそうか(苦笑)。

書き手の立場から経験を語ると、ブログを書くことによって享受することはとても多いと思います。それは、よいことばかりではなくて悪いことだってあるのだけれど、ときには深い(まるで小説のような)人生をもたらす可能性がある。

一方で、メタ的な思考、つまり「考えることについて考える」とか、「書くことについて書く」ようなことに対して、そんなことを熟考しているのであれば、きちんと考えろ、まず書け、のように醒めてとらえていたこともあるのですが、あらためて考えると、そうしたメタ的な思考は非常に豊かなものをぼくらに与えてくれるような気がしました。ぼくの好きな言葉で語ると、メタ思考こそが上空から俯瞰する思考であって、その考え方をとことん追求できるのもブログだからこそできる文化のような気がしています。

そこでメタ思考のひとつとして、個人的にぼくがどのようにブログを書いていたいか、またどんなブログを読んでみたいか、というスタイルを3つにまとめてみることにしました。

①一般論より個人のあれこれ

感情は情報である、ということも書いたことがあるのですが、一般論をあたかも自分の理論のように引用しておしまい、というブログはつまらない。そこに、憤りであるとか感動であるとか、そのひと個人の感情の動きがあるような、そんなブログを読みたいと思います。というのは、一般論や事実であれば、マスメディアを通じていくらでも入手できますよね。騒がれている動向に対しての個人的な見解を知りたい。

と、同時にですね、考えじゃなくてもかまわない。いま喫茶店でカフェラテを飲んでしあわせ、とか、寝不足で電車のなかで爆睡、とか、ほんとうに瑣末な日常の断片でかまわないと思います。Twitterのミニブログにはまるのはそんな日常の断片性であって、これはわからないひとには、まったく理解できないことかもしれません。

②完成度より生成感、というか勢い

印刷文化であれば、一度刷ってしまったものは取り返しがつかないし(正誤表のようなものを付けたり、シールで上から修正したり大変でした)、完全なものを提供する必要があったかと思います。しかしながら、ブログは何度でも書き直せる。ただ、考えておきたいのは、この修正可能なことが問題にもなり得るということです。書いちゃえーという勢いでアップして、それが波紋を呼んで青くなって消してしまっても、キャッシュに残ったりトラックバックなどで残ったりするわけで、完全に過去を抹消することはできない。

ただ、その勢い、完成度よりも生成する感じがブログのよさではないか。無知であってもいいと思います。書き続けることによって、知らなかったことを知ることもできます。コメントしていただいた方から学ぶこともできる。リアルタイムに限りなく近い勢いが、ブログの醍醐味という気もしました。

③身の程にあったサイズと匿名性

一般的にアクセスは多ければ多いほどよいとされるのですが、どうでしょうか。ぼくは身の程に余るアクセスは不要だと思うし、そういう意味での逆SEO(適正化)が必要ではないかと考えます。実は簡単なことで検索されたくなければ、PINGを飛ばさないこと、検索エンジンのロボットを回避するファイルをディレクトリに追加すればいい。いろいろなことがあり、そんな知識もつけたのですが、不特定多数を読者とするブログは、なかなか苦労も多いものです。そして、実は不特定多数の知らないひとよりも、面識のある知人のコメントがいちばん危険性が高いことがあったりする。もちろん知人だからこそのあったかい言葉をかけていただけることもシアワセなのですが。

韓国などでは実名によるブログがほとんどということも聞いたことがありますが、日本では匿名性のほうが高い。ただ、これは悪い面だけではなく、匿名だからこそ新しい自分の一面をプロデュースできるというメリットもあります。なので、自分のブランディングといってしまうと大袈裟だけれど、ハンドルのネーミングから何を書くかということまで設計して、意図的に違った自分を演出することだってできそうです。それがあまりリアルとかけ離れていると苦しくなりますが、自分の引き出しを増やすというか、魅力を増やす意味ではよいのでは。また、実はオトコだと思っていた書き手の方が、非常に美しい女性の方だったりすると、そのギャップが魅力的だったりもします。

ブログのスタイルについて考えてみましたが、これは状況や環境が変わるにしたがって、変化していくものだと思います。ときどき考えてみたいテーマですね。

+++++

ついでに備忘録。昨日はこの映画を観ました。

B000F6YR4Yマイ・プライベート・アイダホ デジタルリマスター版2枚組【初回限定生産 メモリアル・フォト集付】
キアヌ・リーヴス リヴァー・フェニックス ジェームス・ルッソ
角川ヘラルド映画 2006-05-26

by G-Tools

ガス・ヴァン・サント監督の映画では、「グッド・ウィル・ハンティング/旅立ち」「小説家を見つけたら」 がお気に入りなのですが、この映画は男娼であるリヴァー・フェニックスとキアヌ・リーヴスが主人公。石田衣良さんの「逝年―call boy2」なども読んでいるところであり、なんとなく。いや、ぼくにそういう趣味はございませんが(苦笑)。

それから、ツンドク本もこなしていないのですが、これを購入。

4620318698見えるアイデア ヴィジュアル・コミュニケーション・トレーニング塾
秋草 孝
毎日新聞社 2008-03-14

by G-Tools

発想を鍛えようと思っています。デザイン系の(しかも純粋にデザインではなく発想やビジネス関連の)本を読んでみたい。

投稿者 birdwing : 2008年4月27日 13:23

« 闘争論。 | メイン | 「50代からの選択」大前研一 »


トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://birdwing.sakura.ne.jp/mt/mt-tb.cgi/921