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2008年4月26日

闘争論。

人間が精神面や身体能力で飛躍的に伸びるとき、成長するときについて考えてみました。

幼児の場合、そもそも成長率が高い状態にあります。別格だと思う。ぼくもふたりの息子の成長をみていて、痛切に感じたことですが、生まれたばかりの赤ちゃんが喋ることを覚え、立ち上がり、やがて友達と走り出すスピードはものすごい。ほんとうにびっくりします。昨日できなかったことが今日はできている。まったく別の子供になっているような印象さえ受けます。その成長の速度を目の当たりにすると、のほほーんと昨日と同じ生活を送っている大人である自分の成長のなさに焦ったものです。

また、10代や20代の若い時期も同様でしょう。この時期の特長は遠くを見過ぎていることでしょうか。それがまあ若さなのだけれど、意図的もしくは潜在的に背伸びをしている状態にあります。だから理想と現実のギャップに悩んだり凹みがちなのですが、背伸びをすることが成長の原動力になっていることも多い。

本人たちにとっては停滞感があったとしても、もっと上の大人たちからみると、彼等の成長はめざましい。届かない理想であっても、手を伸ばしている姿が美しいですね。あとちょっとでリーチできるような状態だってある。誠実に手を伸ばそうとしている姿がまばゆい。素直だしね。

そんな時期をとっくに通り越していま思うのは、おじさんたちはもはや成長が止まっている、ということです(苦笑)。成長を考えるときに、まず身体の動きが硬い、鈍い、動けない。あとは、衰退していくばかり、のようにみえます。新しい何かを開拓するよりも、いままで確保した何かを使い減らしていくことに意識が向いてしまう。

しかしですね、それでいいのか。持続的な成長なくして企業の発展もあり得ないように、個人の成長なくして、社会の成長もあり得ない。勝手に成長していく子供たちや若者たちはともかく、おじさんたちも日々新たに成長すべきじゃないか、とあらためて背筋を伸ばしました。成長なんか知るか、俺が楽しければいいんだという考え方もありかもしれません。ただし、ぼくも含めて、そんな大人になれない大人たちの考え方が、社会を行き詰らせている気がしています。

一般的な「べき」論で語ってしまうとどうかと思うので、自ら主体的に宣言すると、ぼくは成長したいですね。まだまだ変われると思う。というか変わりたいし、自分を変えてくれる誰かと出会いたい。憂さばらしに酒を飲んでくだを巻いて、てきとーに仕事やって趣味を楽しむ、そんな人生もありですが、そうやって生きているとなんとなく毎日が弛緩する。

現役でありたいものです。みかけは現役のようにみえて実質的にリタイアして余生のような感じで居残っている人間もいるけれど、さまざまなことに対して現役のスタンスを守りたい。ブログであれば、もちろん他者のブログを読むひとであると同時に、書けるひとでいたい。趣味のDTMであれば、過去に作った曲を引用するのではなく、新しい作品をひとつでも発表したい。

ひょっとしたらぼくはまだ精神的におじさんになりきれていない、というか青い?と思ったりしたのだけれど、成長したいんだよう(泣)。ほんとうに自分を変えたいのです、いま。

しかしながら身体的にも精神的にも、老いていく自分を感じずにはいられないわけで、ものすごい危機感がある。先日ひとつまた年を取って崖っぷちに追い込まれた気がする昨今、なんとかしなければ状態がつづいています。

というわけで、はてな批判、茂木健一郎さん批判と、今週は立てつづき過激なエントリーを書いてみたのですが、はてなにも茂木健一郎さんにも悪いのだけれど、背筋が伸びました。

つまり批判するということは、逆にいえば自分も批判される立場に晒されるわけで、緊張感がともなう。ぼくは勢いで感覚的に書いてしまったのだけれど、本来であるならば批評や批判には、緻密な情報収集や学習、分析が必要になります。裏付けのない憤りだけを感情のおもむくままにぶちまけて、批評・批判するのは幼稚すぎる。ちょっと真面目にビジネスモデルや知的なあれこれを勉強し直そうと思いました。

そして思うのだけれど、オトコは・・・ってちょっと気合が入りすぎて恥ずかしいけど・・・自分よりも格の上のものに喧嘩をうるべきではないか。強いやつにあえて歯を剥く。もちろん相手のほうが強いから、ぼこぼこにやられてしまうわけですが、その反逆精神が成長のエネルギーになる。

よくブログなどを読んでいて、くだらねーなと思うのは、同じレベルもしくは自分よりも下の弱者にコメントなどで批判して溜飲を下げていたり、あるいは不毛なやりとり自体をエンドレスで愉しむ暗さがあることです。ブロガーどうしの論争もありだとは思うけれど、感情論的に炎上させる方向性は不毛でしかなくて、むしろそんなことをやっているのであれば、社会だとか、政治だとか、あるいは世界という相手にならないくらいでかい何かと格闘したほうがいい。

社会や政治や世界を相手にしたら勝ち目はありません。しかし、勝ち目のない闘争に熱くなることが、必要なのではないかと思いました。

いまあらためて考えるのは、もうちょっと硬派でもいいな、と。しっぽを丸めてしあわせな小屋で眠る犬よりも、荒野を放浪するぎらぎらと目つきの悪いオオカミでありたい。でもやっぱり身のほどというものはあるもので、ぼくの場合には、しっぽを振って、わん!と叫ぶ犬になってしまうのかもしれないけれど(苦笑)。というか、ブログのハンドルは鳥なんですけどね。どうでもいいか。

少し視点を変えるのですが、なんだかやりきれない社会になっているような気がします。人身事故による電車の遅れが毎日のようにあったり、動機が曖昧なままの殺人事件が多発したり、社会全体をなんとなく行き詰った何かが覆っている。不穏な空気がある。

やや軽めのところで気になることを述べると、現在、企業においては内部統制が流行りだけれど、あれはビジネスを失速させるための余計な潮流にしか思えないのですが、どうでしょう。もちろんやらなければならない理由はたくさんあるかと思います。大義だってある。しかし、かつての何倍もの書類を発生させることが、果たしてビジネスをよりよくするためになることなのかどうなのか。

書類作りにやっきになると、本業の仕事をする時間がどんどん損なわれていくような気がしてなりません。疲弊するばかりで生産性は上がっていない。むしろ競争力が衰えていくのを感じる。書類作りのために去勢されて、くたびれはててしまう。そもそも管理を強化することで、飛躍的にビジネスの成長がもたらされることはないんじゃないだろうか。管理は、コスト削減や効率化のためとしては必要だけれど、管理自体が本業と離れたところでメタボリックに体質を圧迫する企業は、書類の重さで沈んでいくような気がします。本末転倒という感じ。

喩えるならば、「未来世紀ブラジル」という映画のなかで風刺された世界でしょうか。YouTubeからトレイラーを引用します。

コーネリアス(小山田圭吾さん)がこの映画のタイトルである楽曲をカバーされていましたね。

闘い方にもいろいろあると思うのですが(風刺も闘い方のひとつではある)、キバを失わないようにしたいと思います。いちおう、いくつになっても、青臭い理想を熱く語りたがる野心に溢れたオトコのコでいたい。

逃走ではなく闘争する姿勢で、飼いならされた犬ではなく、傭兵のようなオオカミ的な志をもって生きてみたいものです。というわけで、とりあえず吠えてみました。わん・・・(やっぱり犬か。苦笑)。

投稿者 birdwing : 2008年4月26日 23:59

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