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2008年4月15日

ポータブルな知。

小説を読むことが少なくなりました。物語に没頭することが少なくなったような気がします。気分の問題なのか、それともネットに接することが多くなった時代(自分?)の問題なのか。あるいは年齢かもしれないし、そもそも読みたくなるような物語がないのかもしれません。といっても本を読んでいないわけではなく、そこそこ読んでいます。では何を読んでいるかというと、新書です。通勤時に持ち歩く本は文庫よりも新書であることが多くなりました。

どうやら新書ブームらしい。出版業界は低迷していると言われていますが、確かに新書はたくさん出ています。新書はタイトルだけ眺めてもキャッチーであり、興味を惹く内容が多く、それほど厚くないので手軽に読める。文庫に比べたら少しだけ割高だけれど、なんとなく購入しやすい。内容によっては、深い教養や知識を与えてくれるものもあります。好奇心のきっかけを作ってくれることもある。

新書とはなんだろうか、と考えてみたのですが、持ち歩ける知(ポータブルな知)ではないか、と考えました。

持ち歩くためには、軽くなくてはいけない。物理的な重量として軽いだけでなく、内容が軽いこともポイントです。この軽さがカル(=軽)チャーであるなどと数年前に使い古されたキャッチコピーというかおじさんの戯言が思い浮かびましたが(苦笑)、へヴィな内容のものは朝もしくは疲れ果てた帰りの電車で読むには辛すぎる。要約(圧縮)されていたり、いっそのことウワズミだったり、断片だけ抽出したり、かいつまんで読んでも理解できたり、そのまま誰かに読んだ内容を話せるようなものがいい。

茂木健一郎さんの「思考の補助線」という本を読んでいるということを先日も書いたのですが、茂木さんも最近は新書が多いですね。

「クオリア降臨」「脳と仮想」「脳と創造性」のハードカバーによるごつごつした文章で、ぼくは茂木さんのファンになったのだけれど、茂木さんの著作の第一印象は読みにくいということでした。それでも読み進めていくうちに茂木さんの思考のうねりを感じ取れるようになり、生きざまに打たれて思わず読後に涙を流したことがあった。貴重な経験でした。

小説を読んで泣くことはあっても、評論や哲学のような本を読んで感涙したことはなかった。そんなわけで茂木さんのファンになったわけですが、最近多発している新書の軽さはいかがなものか。ただ、茂木さんご自身もジレンマを抱えているようです。後半をぺらぺらとめくっていたら、まさに新書に言及していたところがあったので引用します(P.106)。

時は流れ、もはや売れる本が薄味であるという事実に対して誰も驚かなくなった。折からの「新書ブーム」で、以前ならば単行本で出版されていたはずの内容や、一昔前にはレベル的には新書に成りえなかったであろうと思われる原稿が、「再定義」された「新書」のフォーマットで大量生産されている。

時代に絡めとられながら、茂木さんも憤りと申し訳なさを感じているようです。商品として大量生産され、売れるためにカルさというフォーマットのなかで自分の知を発信しなければならない。嫌だなと思っていてもそんな時代やマーケティングに流されることに対する苛立ちや不甲斐なさのようです。時代に絡めとられる表現者としての思いを次のように語られています。

かくなる私も、そのような思いがないわけではない。内心、忸怩たるものがあることは否めない。誰もいない夜に、突然、うぁーっと叫びたくなることもある。カントや、ヘーゲルや、アインシュタイン、夏目漱石のような先人に対して申し訳なく思う。

この軽さはブログ文化の影響もあるのではないか、と思いました。

そもそもブログは文芸のジャンルに当てはめると何か、などということもとめどなく思いを巡らせていたのですが、エッセイもしくはコラムに近い気がします。小説ではない。詩でもないですよね(たまに詩的なブログもありますけど)。もちろん論評のようなブログもあります。社会批判もある。けれどもそこには物語性よりも、架空半分リアル半分の個人の考えや生活が反映されていることが多い。ちょっとだけ薀蓄を語ったり、引用したりしながら、軽く読めてしまうものが多い。

ブログは表現者に門戸を開きました。ああ、ぼくにも書けるんだ、書いていいんだ、ということは、ものすごい革新的なことでした。ただそのことによって生まれた一億総表現者時代というものが、プロの書き手の領域を侵食している気がします。もちろんぼくはその表現者の革命を歓迎するのだけれど、その一方で、やはりプロの書き手には一般のぼくらには到底かけないような文章を書いてほしいと願う。まさにブログそのままの文体で新書になっているような本もありますが、正直なところ金を払って読むようなものではないですね。そのレベルの文章であれば、ブログでタダで十分に読める。

ところでちょっと視点を変えます。持ち歩くためには、小型化、軽量化が重要なポイントになります。

ソニーのウォークマンの登場により、音楽を持ち歩くというスタイルが生まれたことは革新的なことだったと思うのですが、その後、ガジェットと呼ばれるさまざまな情報機器は小型化する傾向にあり、いま電話を持ち歩くこともできれば、ワンセグによってテレビを持ち歩くこともできる。あるいは、ゲーム機だって持ち歩けるし、そもそもノートPCや携帯電話でインターネットを持ち歩くこともできるようになりました。

しかし、そのためには機能を制限したり、動画や音声を圧縮する必要があります。音楽のmp3は圧縮技術のひとつといえますが、やはりWAVEなどのファイルに比べると音質は損なわれる。音質は損なわれるけれども、持ち歩くことを最優先にしたわけです。

新書文化というのは、それこそ持ち歩くために知を軽くしているわけですが、持ち歩けない知、重い知というのもあっていいのではないか。というよりもそもそも知はそういうものであって、簡単に持ち歩けてはいけない。圧縮されたmp3のようなぺらぺらな音を楽しむのではなく、どっしりとしたスピーカーで原音を楽しむような知もあっていい。

と、ここでさらにころころと視点を転換するのですが(苦笑)、一方でぼくは音楽でいうとポップスを信奉しています。クラシックやジャズなどのエッセンスをうまく使って、気軽に聴ける音楽にだって素晴らしさはある。軽いから軽視されるものかというとそんなことはなく、難解な音楽を凌駕するような感動や、まっすぐに生きる想いや、生活に潤いを与えてくれるようなポップスもあります。たとえばぼくにとっては、ロジャー・二コルスの音楽などがそうなのですが。

ポータブルな知をきっかけにもっと重い知に挑戦してもいい。あるいはファッショナブルに、ポータブルな知だけをまとってみるのもいい。

ただし、とても大切なことは、ぼくはその軽さを蔑んだり一方的に批判したり、意識から排除するような人間にはならないようにしたいと思いました。重ければいいってものではありません。カルさのなかに、ゆるさのなかにぼくらを癒してくれるものもある。どんなものであれ世のなかに存在している以上、その存在には意義がある。もちろんその意義を理解できないこともあるけれど、異質なものを理解するスタンスでいたい。

実はぼくは最初、このエントリーで全面的に新書のような軽い知を批判する文章を書いていたのですが、ネットを通じてその誤りに気付かせてくれる文章に出会いました。そこで目が覚めた。

多様性に目を開いていたいと思います。余裕がないと、ひとつの側面しかみられなくなるのだけれど、世界はいろんな側面から成り立っている。だからすばらしいんですよね、ぼくらの住む世界は。

というわけでぼくの鞄のなかには、今日も新書が入っています。難解なビジネス書だったり哲学書のハードカバーが入っていることもあるけどね。

投稿者 birdwing : 2008年4月15日 23:58

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