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2008年4月11日

優柔不断という選択。

通勤電車のなかで座ることができてほっとしていると、乗っていた電車は、駅に入りきらないおかしな場所で停車。どうしたんだろうなと訝しがっていたところ、緊急停車の合図があって停めたというアナウンスが入りました。

最初は、なんとかをなんとかせずの合図が出ているため電車を緊急停止いたしました・・・のような業務用語らしきアナウンスが流れていたのですが、聞き取りにくく理解できませんでした。その後、慌しいノイズ混じりで、「社内がいちばん安全です。しばらくお待ちください」を何度か繰り返したあとで、隣りの駅で人身事故が起きたことが伝えられました。

隣りの駅って・・・。ぼくが通う路線では、都内の隣りの駅は歩いても30分かからない場所にあります。というか、この駅のプラットホームから隣りの駅が見えたはず。しばらくぼんやりしていると、現在、救出作業をしていて、電車の発車時刻は30分後とのこと。

ぱたぱたと携帯電話を開く人が増えて(というよりも、そうではなくても電車の車内では携帯電話を使っているひとが多い)、入学式に遅れることを告げる母親などもいました。新品のランドセルを背負った女の子は、ちょっとかわいそう。ぼくも携帯メールで打ち合わせ先のお客様に遅れる連絡を入れたのですが、「人身事故で」と理由を打ったときになんだか滅入った。

電車のなかの楽しみがいくつかあるのだけれど(携帯電話を使ったあれこれ、本を読む、音楽を聴く、そして・・・眠る)、そのいずれもやる気が起きずに、放心しているばかり。

電車の窓からは青空がみえました。昨日は冷たい雨が降っていたのに、今日は雲の流れが早くて日差しが零れる。その後、打ち合わせが終わって撮影した今日の青空をスクラップしておきます。

080411_sora.JPG

それにしても、なぜこんなに天気のいい日に電車に飛び込んでしまおうと思うのでしょう。いや、こんなきれいな青空だからこそ、かなしみが深まるというか日常からの手が緩まるというか、もういいかな、というふらっと気が抜けることがあるのかもしれません。その気持ちは、わからないでもない。明るすぎる風景が逆に耐えられない思いを募らせることがあります。なんだか切ない。

亡くなった方のご冥福をお祈りしながら、それでも考えずにいられないのは、

なぜ、いつかは終わってしまう生を、自らの手で終えてしまうのか

ということです。ちょっとヘヴィなテーマに入ってしまいました。けれども少し考えてみたいと思います。

ぼくらの生には限りがあります。永遠に20代でいられることもできなければ、楽しい時間ばかりを持続することもできない。辛いこともたくさんあります。こんな辛さには耐えられない、いっそのこと終わらせてしまえばすっきりするだろうと考えて、つながっている線を断ち切るための決断に迷うことも多い。

続けるか/終わらせるか、というぎりぎりのエッジに佇んでいると、それだけで精神は消耗し、疲弊していきます。本来の問題よりも決断のために力が奪われて、それだけで疲れ果てていく。かつては耐えられていたとしても、どんどん自分のほうが弱くなる。辛さの度合いは変わらなかったとしても、自分の方が弱ってしまうので、ちょっとしたことで、もういいかとリアルから手を放してしまう。辛さや痛みが大きければ大きいほど、終わらせる側へ転がり落ちる可能性は高くなるものです。

もちろん終わらせてしまうことが潔い場合もあります。終わらせてしまったことで、新しい何かがはじまることもある。また、尊い状態や美しい状態を守ることもできます。もっと酷い状態になる前に、手を打つこともできるわけです。学校であるとか、仕事であるとか、さまざまな人間関係とか、潔い決断が求められることは確かに多い。

ただ、生という問題に限ってはどうなのか。

生を閉じるための選択は、勇気がいるものかもしれません。しかしながら、ぼくは保留をすることも勇気が必要ではないかと考えました。

選択自体を保留にして、現状維持のままにする。ものわかりのよさを捨てて割り切った答えを出さずに、複雑な人生を曖昧なまま生きてみる。というよりも、優柔不断になってしまう。

迷っている状態のまま、しばらく別のことを考えることができればいいのですが。気晴らしというのは安易だけれど、意識を別に向けることによって、世界の解釈が変わることもある。しかしながら、そもそも思い詰めているからこそ、生を閉じるようなことを考えるわけで、別のことを考える余裕がないはずです。

余裕がない状態では、どんなに美しい風景も音楽も耳に入りません。誰かのアドバイスも遠い場所で聞いているような言葉に思える。料理の味さえ感じられなくなる。目を閉じて、耳を塞いで、盲目的に、ひたすら続けるか/終わらせるかの選択だけを考える。この悪夢のような状態をどうすれば終わらせることができるのか。きっとそう考えるはず。終わらせることになれば楽になる。とにかく楽になりたい。

辛いことを抱えて生きていく未来を想像すると、現在の重圧よりも未来の重圧のほうが大きくなる。「耐えられない/続けたい」というバランスが崩れると、ふらりと揺らめいてしまう。でもですね、だからこそ結論を早めずに、そのアンバランスな状態で、しばらく課題を先回しにしてみたらどうか、と思うわけです。

というのは自分が変わらなくても、環境が変わる場合もあります。現在が最悪であれば、さらに最悪になることは有り得ない。もちろん最悪だと思っていた現在より、さらに最悪な深い場所があるのかもしれませんが、そのときはそのときで。

要するに、ぼくらの人生は、いつか終わってしまうものじゃないですか。その人生を自らの手で終わらせてしまう必要はないのではないか。うーむ、なかなか難しい問題ではあるのだけれど。

そんなことを考えながら一日を終えた帰宅途中、茂木健一郎さんの次の本を購入しました。ずっと気になっていたタイトルの本です。

448006415X思考の補助線 (ちくま新書 707)
茂木 健一郎
筑摩書房 2008-02

by G-Tools

久し振りに読んだ茂木健一郎さんの本は、文体が熱い(笑)。「クオリア降臨」などを読んだときの興奮を思い出しました。とはいえ、なんとなく言葉が像を結びにくいイメージもあります。確かに専門的な話題も多く扱っているのだけれど、専門用語を抜いても、熱い文体の割には脳内で像を結ばない感じ。茂木さんの個人的な経験を書きながら、抽象的すぎる。なんだろう、これ。

引用している知の分子(というか構成要素)が、うまく結合していないような印象です。という第一印象を保留にしながら読み進めていきたい。

おかげさまで体調も大分よくなりました。とはいえしばらく文章を書いていなかったら、なかなか書けないものですね。練習を中断していたアスリートがいきなり走り出したようなもどかしさ、でしょうか。ブログは逃げていかないので、ゆっくりと書けるときに書いていこうと思います。自分のスタイルで。

投稿者 birdwing : 2008年4月11日 23:49

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