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2006年10月12日

時間的な配列×空間的な配列。

空が高くなりました。東京の今日の空には、うっすらとうろこ雲が広がっていて、雲を透かしてみえる薄い青がきれいです。ぼくはもう少し濃い青(インディゴのような)が好きなのですが、この空も悪くないですね。

昼食後に空を眺めながら考えていたことは、いまこうして見上げている空は確かに存在しているけれど、数分後にはまったく別の空に変わるということです。空は空であって変わらないじゃないか、という考え方もあるかと思うのですが、一日一時間一秒ごとに「空は生まれ変わる」と考えると楽しい。人間もそうかもしれません。細胞は日々代謝されていくものらしいので。

ということを考えたとき、時間的な配列×空間的な配列という言葉を思い浮かべました。雲は青空に空間的に存在していると同時に、常に変化をつづけて時間的にも存在している。

この時間的・空間的という考え方は、ときとして別々に考えられがちです。時間の場合、タイムラインのようなもので考えられ、空間の場合はデザインの平面図や模型などで考えられる。しかしながら、ぼくの考えでは

時間と空間が密接に関わっているのが現実であり、別々に分離させて考えることは非現実的ではないか

ということです。空間だけ存在して永遠に変わらないものはないと思うし、逆に空間的な広がりのない純粋な時間というものもない。

と、考えたとき、Webのインターフェースはタイムラインだけ、平面的なデザインだけ、というのはどこか不十分です。Ajax的にユーザーの行動に合わせて変化するというか、動的に組み替えていくことが自然であり、望ましいのではないでしょうか。あまり複雑なものを例に挙げると混乱するので、たとえばGoogle Suggest を例に挙げると、Google Suggestでは検索語句を一文字入力すると、その語句を推測して候補を表示していきます。先日、アブダクションについても書いたのですが、最良のものを推測し選択していく。この流れが自然です。願わくば、ここにランキング的な配列ではなく空間的(立体的)な配列があるといいのですが、Vista以降にはそんなインターフェースも生まれるのではないではないかと期待しています。

ぼくは立体的な思考の獲得をめざしてブログを書いているのですが、立体的というのは「いまここ」に静的かつ永遠に存在するものではなく、変化していくアメーバのようなものです。構造を書き留めたときに、その構造は過去になってしまうもの、といったらいいでしょうか。生成し、変化しつづけるものともいえる。

たとえば写真で撮影した風景は、既に過去のものです。文章で書き留めたテキストも過去のものであり、情報は変わらないものであっても、ぼくらの意識はもう次の未来へ進んでいる。シャッターを押したとき、ペンを置いたとき、そこに表現されたものはもう過去の記録であって、現実ではない。

この時間的な配列×空間的な配列の組み合わさったものが現実という考え方に記号論的な視点を導入すると、空間的な配列=範列(paradigme)、時間的な配列=連辞(syantagme)ではないかと思いました。学生時代に学んだ用語なので、若干不安も感じますが。

抽象的になりそうなので、具体的に考えることにします。ぼくの好きな、音楽、映画、小説、そして企業戦略(これは好きなのか?)を例にあげて、変奏させていくことにしましょう。

■音楽

音楽でいうと、範列(paradigme)は和声もしくは音像の定位であって、連辞(syantagme)はメロディもしくは楽曲の流れでしょうか。同じメロディが繰り替えされるとき、ぼくらの脳のなかでは「これ、さっきも聞いたよね」という仮想的な範列が生じる。あるいは作品のなかにはなくても、「これはモータウンのリズムだ」というような作品外にある経験(文脈:コンテクスト)からパターン認識することも範列の一種でしょう。リミックスのアルバムは、脳内に存在する原曲を範列的に存在させながら、その作品内における連辞関係を破壊するようなものかもしれません。

■映画

映画でいうと、範列はある場面の映像的な配置もしくは意味の連関性で、連辞はストーリーといったところ。「ベットに爆弾をしかける」という場面があり、再度ベットのシーンが出てきたときには、範列的にイメージが重ねられる。けれども今回はベットは爆発しなかった、というように変奏(バリエーション)することで、ストーリーに広がりが生まれます。この緊張感がエンターテイメントとしては重要です。ちなみに、いまぼくの頭のなかに浮かんでいるのは、「ミュンヘン」なのですが。

■小説

小説では、範列は暗喩(メタファ)であって、連辞はストーリーでしょうか。メタファに関して述べると長くなるのでここではやめますが、例えば物語内に金木犀が出てきたとき、それは主人公の心情をイメージさせているというようなことがあります。記号表現としての文字(シニフィアン:signifiant)には、意味されるもの(シニフィエ:signifié)があり、両者の結びつきは「恣意的」なものです。どういうことかというと、もし実体としての金木犀の木が、絶対に「金木犀」であれば英語の「Osmanthus」という呼び名はあり得ない。英語でも「Kinmokusei」でなければおかしい。ある意味、金木犀はモクイセキンと呼んでもいいのですが、「かすかに香る花をつける樹木としての実体:金木犀という言葉」が結びついている。このつながりがゆるやかだからこそ、意味を重層的に重ねることができるわけです。そして重層的に重なった意味が物語内で、空間としての広がりをつくる。物語の流れはリニア(線的)ですが、意味の広がりが空間をつくります。逆に直接的な言葉は広がりを生まない。トム・ヨーク(レディオヘッド)がテレビのインタビューで言っていたように、わかりきったことは意味がない、というわけです。

■企業戦略

企業戦略においては、範列はある時点における競合関係や協働関係(コラボレーション)であって、連辞は戦略のシナリオといったところ。仮説を立てるときには、いくつものオプションを設定できますが、現実に実行したとき、あるシナリオの時系列を入れ替えることが困難になる場合もあります。しかしながら、自由度をもったシナリオを用意した方が、実行レベルでは有効かもしれないですね(場合によりますが)。意思決定においては、どのオプションを選択するかということが重要です。多くのカリスマ経営者は直感的にオプションを選んでいるようで、必ずしも選択肢が多ければ多いほどよいというわけではなさそうです。

複数の視点をクロスさせると、新しい発想も生まれるものかもしれません。まだまだ表層的なので、継続して考えていきたいと思います。まずは当然といえば当然の考察ですが、そこからはじめてみました。

投稿者 birdwing : 2006年10月12日 00:00

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