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2006年10月20日

酩酊しつつ、世界の雑音を聴く。

深夜に書くせいもあるのだけれど、たいていぼくがブログを書くときには酔っ払っています。昨夜は渋谷で飲み、とてもいい気持ちの飲みだったので、しあわせな感じでお酒が回りました。終電近い電車で帰ってきて、3時ごろまでブログを書くなどしていたような気がします。おかげで今日はとっても眠い一日でした。

飲んでいい気持ちになっているときには、自動操縦モードにチェンジされるせいか、どうやって家に帰ってきたのか記憶がありません。なんとなく断片的に覚えてはいるのだけど、帰宅途中の確かな記憶がない。時々、時空を超越してしまったのか、あるいは何か帰宅途中にとんでもないことをしでかしてしまったのではないか、と不安になることがあります。とんでもないこととは何か、と考えると怖くなるので、考えないようにしていますが、覚醒しつつ記憶にない時間というのは怖い。なぜ記憶にないのでしょうね。脳科学的に何か説明できるとは思うのですが。

酔っ払ってもある程度きちんと何かを書くことができるのがぼくの特技だと思っていて、その特技に安心もしていたのですが、昨日はとんでもないメールを送っていたことが発覚。かなりへこみました。何がどのようにとんでもなかったか詳細は書けませんが、お酒は精神を解放するので、気が緩んでしまったのかもしれません。お酒を飲んでいたこともあって、とお許しをいただけたようですが、飲んだら書くな、書くなら飲むな、ということもいえるかもしれません。といいつつ、今日も酩酊状態で、まったくぼくは懲りないひとです。

飲酒運転による事故が問題になっています。自動車に乗る場合には、ちょっとぐらいいいだろう、という甘さは許されない。お酒に弱いひとは、きっと乗らないだろうと思います。自分の弱さを自覚しているので。けれども逆に、お酒に強いひとは、おれは強いんだ、これぐらいの酒なら大丈夫、と過信して乗ってしまうのではないでしょうか。強さは盲目(ブラインド)の状態を引き起こします。お酒にかかわらずあらゆることで同様で、たとえばおれは知識がたくさんある、と思う人間は盲目になるものです。そして、知識のない人間を見下そうとする。体力的に強い人間も盲目になる。力のない人間を、鍛錬が足りないと、こき下ろすでしょう。弱さを自覚している人間のほうが謙虚です。自分の弱さを自覚している人間は、ひとに対してやさしくなれる。

弱いものであっても、さらに弱いものを見下せばそれは強いものと同様なので、盲目になる。ところが、弱さを弱さとして自覚していれば、過信に陥ることはありません。しかしながら逆に自信喪失に陥ることがデメリットかもしれないのですが、過信も自信喪失も同じ心の動きで(ただベクトルはプラスかマイナスか違いますが)、結局のところ心にブラインドが落ちている状態だと思う。その状態では、判断が正確ではなくなります。過信もせずに、自信喪失もせずに、ありのままに自分を観るということはなかなか難しいのですが、そんな安定した自己を確立できれば、どんなことにも動じないで明確な判断ができそうです。

自分の弱さを認めることは負けではないと思います。むしろ弱さを認めないことが(あえて言うと)負けであって、弱さを認めない人間は変わることがない。変わろうとするためには、自分の無知、愚かさ、弱さを認める必要がある。

ところで、情報に対してブラインドが落ちると、主観によってゴミと宝を選別するようになります。もちろん、そのような主観(もしくは直感)が情報選別のために重要な能力となることもありますが、主観のフィルターをかけることで、ほんとうは宝であってもゴミにしかみえなくなることもある。

たとえば世の中はさまざまな音で溢れています。鳥の声、クルマが走る音、工事現場の騒音、電車の音、サイレン、話し声、靴音などなど。

ソニーからノイズキャンセル機能搭載のウォークマンが登場するらしいのですが、これはマイクで周囲の雑音を拾って逆相の音を再生し、そのことによってノイズを低減するとのこと。ぼくは少年の頃に購入した、ソニー製のボーカルキャンセラーの機械を思わず想像してしまったのですが(あの機械は、センターの音の逆相を生成することで、通常はセンターに定位しているボーカルの音を消して、カラオケにする)、この技術自体は面白いと思うし、それを低価格で実現するソニーもすばらしい。

でもちょっと思ったのは、電車の騒音だけでなくひとの声なども消してしまうんだろうな、ということです。自分にとっては快適な空間ができるかもしれないけど、騒音を消してしまうことでブラインドも落ちる。「あのー、ちょっと座らせていただけないでしょうか」というようなおばあさんの声も消してしまうのではないか。そこには自分の快適なリスニング空間ができあがるけれど、雑音としての世界を抹殺する。とはいえ、人間の声だけは聞き取りやすくキープする機能もあるのかもしれません。

確かに技術の進化は大切ですが、こういう進化の方向が果たして正しいのだろうか。主観的に電車の音をノイズと決め付けて、不要なノイズ、ゴミを消しさることは、どこか自分本位の権力的な思考がないか。

ぼくはソニーのファンなのだけれど、VAIOを修理に出したときに、コールセンターの対応から非常に不快な気持ちになったことがありました。それは他人の状況を考えずに携帯に電話をかけてきて、一方的に要件を告げるようなものだった。さらにそのとき告げられた要件とは、ぼくには非常に不利な問題があることだった。ちょうど昼食を取っていたのですが、こんなところでそんなことを一方的に告げられても困る、と思った(メモだって取れないし)。

このとき、ソニーは確かにすばらしい製品を作っているかもしれないけれど、人間的な何かを見失っているんじゃないか、と直感的に感じました。コールセンターだけの問題かもしれないけれど、その配慮のなさの背後には、きっと企業としての誠実な姿勢を失いつつある何かがあるような気がする。いいもの作っているからいいじゃん、というような思いあがりをそのオペレーターの口調から感じました。その感覚が、誤りであることを祈っているのですが。なぜなら、ほんとうに少年時代からソニーのファンなので。

話題がそれましたが、ノイズキャンセルについては、多くの携帯プレイヤーがノイズキャンセル機能を搭載しています。開発競争が進んでいて、ノイズキャンセル機能がない機種は、店頭でアピールできないのかもしれません。あって当然という空気が市場を支配している。したがって、ソニーだけの問題ではないともいえます。

面倒なことやノイズにも溢れているのが、ぼくらの現実です。うるさいから消しちゃえ、という一方的な発想はどうなんでしょうか。電車の音やテレビの砂の嵐などのノイズは、子供にとって母親の胎内で聞く音にも似ているといいます。そのせいか、ベビーカーに乗っていた頃の息子たちが電車に乗ると、すぐに眠っちゃったものです。

ときには雑音に耳を傾けてみる。目的思考であると、そんな音に耳を傾ける時間はムダと考えてしまうかもしれません。けれども、ぼくはムダも豊かさのひとつだと思うので。

■ノイズキャンセル機能つきのウォークマンのニュース。
http://plusd.itmedia.co.jp/lifestyle/articles/0610/12/news070.html

投稿者 birdwing : 2006年10月20日 00:00

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