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2006年10月19日

非線形思考でいこう。

息子(長男)が低学年の頃、小学校の参観日に出席したぼくは、算数の教え方に新鮮な驚きを覚えました。簡単な足し算なのですが、通常、ぼくが小学生の頃には、

7+3=□

として、□のなかに入る答えを求めていたような気がします。ところが、息子たちの教室で教えていた方法は、
□+■=10

という式でした。つまり□と■を埋める答えを求めるわけです。

となると、7+3も正解だし、4+6も正解。正解が複数ある。このときに重要なことは、□と■に入る数字という「要素」を問題としているのではなく、□+■という文脈(コンテクスト)全体を重視している点です。

稚拙かもしれませんが文学的に解釈すると、「□さんと■さんが出会ったとき、そこに10というものが生まれた。さて□さんと■さんとは何だろう」という存在意義を問題としているともいえる。□の「7」という豊かなものと■の「3」という貧しいものの出会いかもしれないし、□の「2」という小さいものと、■は「8」という大きなものの出会いかもしれない。あるいはいずれも「5」という対等な双子だったりもする。□と■は可変的な関係性にあるのですが、ふたりが相補的に協力すると10になる。コラボレーティブな関係です。

そして、それらの式は、10という結末に向けて「範列(paradigme)」的に存在します。どの式も正解であって、間違いではない。しかしここで問題となるのは、複数ある正解のうち「(情報の受信者である)あなたが」どれを選ぶか、ということです。

正解が複数あること、その正解を評価するものは絶対的なモノサシではなく主体となる情報の受信者にあること(100人が選択しなくても、あなたが選択すればその答えは正しい)、受信者のチョイスによって文脈が完成すること。これが、ぼくはこれからの情報化社会においては重要な視点ではないかと思います。だからこそ、情報の受信者によって選択された結果が変化していくAjaxという技術はイケているのです。

いま、大前研一さんの「考える技術」という本を読み進めています(現在、P.254。読了まであとわずか)。ぼくが考えていたことの多くは、この本のなかに書かれていて、ああ、やっぱり大前研一さんにはかなわないや、ということを感じました。

4062124920考える技術
講談社 2004-11-05

by G-Tools

このなかで「線形思考では通用しない」として、以下のように書かれています(P.148 )。

ニュートン力学や線形思考では、原因が同じなら結果も同じことになるが、複雑系の世界ではそうはいかない。線形思考とは、方程式に当てはめれば必ず正解が得られるという直線的な方法だ。一方、非線形または複雑系の世界では、初期条件がほんのちょっとでも違えば結果は予測不可能になる。

ここでぼくが思うことは、分解された要素を組み合わせれば結果が出るというのは、7+3=□という直線的な思考です。しかしながら、この方程式は自己完結してしまい、空間的な(範列の)広がりがない。結果を出すための要素が複数考えられる□+■=10の場合には、ある規則性および関係性にしたがって(ここでは足すと10)、さまざまな変奏が可能になり、自由度が増して、多様な文脈が生まれる。表現として広がりができます。

たとえば「明日13:30に会いましょう」と言って会う場合には、必ず会うことができます。約束したのだから当然です。ところが、複数の日程というオプションがあり、さらに1日の24時間の広がりのなかで、もし偶然に会えたとしたらどうでしょう。ただ約束して会ったことの数十倍もの感動と嬉しさがあるのではないでしょうか。え?どうしてここにいるわけ?と思う。なんとなく夢のなかの時間というか、信じ難いものがあるわけです。会えてよかったー!!と感動する。茂木健一郎さんの著作に頻出する言葉ですが、これを「セレンディピティ」というそうです。偶然を楽しもうとする考え方です。

7+3=・・・という線形思考では、答えはひとつしかなく、そこに範列的な広がりはありません。しかし、□+■=10という非線形思考こそが多様化する現実をとらえたものであり、左から右へと流れる連辞(syntagme)で統合されつつ、範列(paradigme)の広がりもつくる。既に誰か記号論の学者が言っていることかもしれないのですが、残念ながらぼくには検証している時間がないので、自分の勝手なアイディアとして述べさせていただきます。

ぼくはさまざまな情報の構造を学習したいと思うのですが、完全な答えを求めようとしてはいけないと思っています。構造を確定してはいけない。あらゆることに通用する方程式なんてものはないだろうし、あったとしてもこれからの時代では、すぐに陳腐化して使いものにならなくなる。むしろ、ゆるかやな結びつきをいくつも想像する、範列的な思考(=それはメタファの思考かもしれない)が重要になるのではないか。

たとえば、あなたの指(要素)を切り取って「これはあなたですね?」と言ったとします。確かにそれはあなたの一部だけれど、もはや死んでしまっていて、あなたではない。指はあなたという全体のなかにあり、温かな血が流れていてこそ、あなたの一部として存在する。科学的思考に観察者的なクールな視線(悪く言ってしまえば冷血さ)を感じるのは、切り取られた肉片としての指もあなただ、だってあなたの遺伝子があるじゃん、と神のように見下ろして説得するようなときです。

もちろん、そうではない要素の分析もあるかと思うのですが、Webなどの分析も同様で、数字の一部を切り取って、これがあなただ(企業の姿だ)と突きつける。しかし複雑で多様な社会においては、現象はそんなに単純なものではありません。あるいはブログの一部の文章を引用して、これがあなただ、と突きつけることもよくありますが、ひとことで他者をわかったようなつもりになることほど不遜なものはなく、確かにそれはわたしかもしれないが、わたしのすべてではない。7+3=10的な線形思考によるシンプルさの罠を駆使して臨在感的な空気を発動し、ひとを貶めようとするレトリックにこそ反論すべきではないか。多様性かつ複雑さに富んでいる、豊かな、わたしの可能性を削ぎ落とすのは、いい加減にしてほしい、と。

構造の正解を探そうとするよりも、ひとつの答えに集約しそうな思考を疑い、このバリエーションがもっと考えられないか、ということに注力することが大切ではないでしょうか。それは検索項目をひとつに絞り込むよりも、検索項目を果てしなく広げていく思考です。この点においても、天文学的に増加しつつあるブログやWebサイトは意味があるのではないか。

大前研一さんの本のなかでは学校の秀才である「アカデミックスマート」から現場で実践を通して成功する「ストリートスマート」へ、ということも書かれていました。それは答えのない世界を答えがないというままに受け入れることであり、反マニュアル的な考え方です。次のように書かれています(P.167)。

学校に行ったアカデミックスマートは、やはり答えを求めてしまう。「答えはない」と言っているのに、「答えはなんですか?」と聞く。学校秀才に限らず、日本の学校に通っている子供は皆同じだ。

答えを自分で選ぶ時代ではないでしょうか。世間的にどんなに間違っていても、あなたが正しいと思えば、その答えは正しい。自分の選んだ答えに誇りを持っていい。ぼくもまた、そうありたいと考えています。

投稿者 birdwing : 2006年10月19日 00:00

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