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2006年10月 1日

規律(ルール)について考える。

小学校四年生になる息子の運動会に参加しました。昨年は思いっきりピーカンで日に焼けまくったのですが、今年はといえば雨に降られまくりです。それでもすべての種目を終えることができ、雨のなか、練習を重ねた息子の演技をみて、身長はあまり伸びないけど確実に成長している息子に拍手を送りました。かっこよかったぞ、と。

ところで、彼の参加する種目ではなかったのですが、参観していてとても深く考えてしまうことがあり、そのことについて書いてみようと思います。それは一年生の種目で、「おまつりたまいれ」というような競技でした。

これは何かというと、わーっと玉入れをするのですが、じゃんかじゃんかと阿波踊りのような音楽が流れたときにはカゴから離れて踊らなければならない。玉入れ+ダンスという複合的な競技です。別に踊らなくても玉入れはシンプルに玉入れでいいでしょう、と思うのですが、どうしてもダンス競技を入れなければ先生方の気持ちがおさまらないらしい。この競技に限らず、全体的に待ち時間に音楽に合わせてYMCAの振り付けをするとか、踊る競技が多いようでした。流行なんでしょうか。よくわかりません。わからないけれど、なんとなくみていても華やかな感じがすることは確かなので、これも新鮮でいいなと思っていました。

ところが今年は、この「おまつりたまいれ」で、ちょっとした事件がありました。

紅白で競うのですが赤のチームが音楽が鳴っても無視して、わーいという感じで玉を入れまくっている、という状況がおきたのです。白のチームは、きちんと規律を守ってカゴから離れて踊っている。ところが赤の一年生は、音楽の鳴っている最中にも玉を入れつづけている。どこか暴動的な印象さえありました。踊っていられるかー玉入れちゃえー勝つのだーという。当然、規律を無視したほうが玉は入る。玉入れは二度ほど行うのですが、どちらも赤組の圧勝でした。

白組の全校生徒がこれにはブーイングのようでした。そりゃそうでしょう。大人であるぼくですら、理不尽なものを感じたのですから。どうやら今年から若手の先生が担任のようでしたが、うちの息子が一年生のとき、ベテランの先生が担当していたときにはこんなことはありませんでした。音楽が鳴るとさーっと輪になって律儀に踊りはじめるちいさな子供たちをみて、思わず吹き出して笑ったものです。とはいえ今年のこの規律を無視した行動には、なんとなく首を傾げるものがありました。

このときぼくは2つの問題を感じていて、ひとつめは当日に至るまでの先生方の指導の徹底に対する疑問です。勝敗やダンスを教えることは大事ですが、この競技でいちばん教えなければならなかったのは「規律(ルールを守ること)」ではないでしょうか。

何度かブログで書いていることですが、ひとつのことに集中すると、集中していること以外のことは意識から欠落するものです。しかしながら、この「考えていないこと」を「考える」ことが重要であって、玉を入れて勝つことが目的だけれど、いま音楽が鳴っている、音楽が聴こえるよね、音楽が鳴っているから戦闘態勢を解除して戻らなきゃ、ということを意識すると同時に、きちんと行動に起こせることが重要です。という意味では、「おまつりたまいれ」はなかなか意義のある競技だと思うのですが、それが徹底されていなかったことが残念です。

ふたつめは競技のときの先生の采配です。ブーイングがあったし、参観しているぼくらもおかしいと感じていたのですが、時間通りに進行する必要もあったかと思うけれど、マイクを持った先生はこのちいさな「不正」にひとこともふれず「はい、赤の勝ち」と淡々と進めていた。

そうじゃないと思うんですよね。「音楽が鳴ったら戻る」という規律を乱したわけだから、「ちょっと赤のみなさん聞いてください。音楽がなったらどうするんでしたっけ?踊るんですよね。みんな守りましょうね。守れますか?はい、じゃあもう一度やってみましょう」ぐらいのことは言うべきだと思う。無視しているわけではないでしょうが、ぼくらからみると無視しているようにみえて、その無関心さ、対話のなさが、問題であるように感じました。これを単純に学校荒廃のきざしだ、のように大きな問題にすりかえるのはどうかと思うのですが、ちいさな一年生だからこそ、こういうところにも配慮すべきじゃないか、と。

あるいは「ドロー(引き分け)」にする配慮もありかと思います。このとき赤の生徒からは、「なんでー?」というブーイングがあると思う。この「なぜ?」が問われたときがチャンスだと思っていて、そのことについて後日、道徳の時間などを通じて話せばいい。ものすごく意義のある授業ができるような気がします(ああ、先生でないのが残念だなあ。ぼくの親父は教師だったのですが、親父に言われた通り教師になっていればよかった)。

ただ、別の観点からの考察もあって、そういう采配をすると子供よりも文句を言うのは親ではないか、ということです。ぼくもこんな風に学校の批判を書いてしまっているわけですが「ドロー(引き分け)」という判定をしたときに、何か言い出す親もきっといるに違いない。なぜかというと、ビデオを構えて林立する親たちの殺気だった光景をみるとわかるのですが、なにしろ子供の晴れの舞台なわけです。その「空気」は現場にいないとわからないかもしれないのですが、かけがえのない思い出になるはずの映像を汚された、なんてことを言い出す親もいそうです。やれやれ。

何をやっても勝てばいいだろう、結果の数字(得点)を出せばいいだろう、という結果主義もありかと思うのですが、スポーツにしても仕事にしても、ルールを守ることを前提としています。ルールを無視して下克上を企てたり稼ごうとすれば、某ベンチャー企業の社長の暴走のようなことも起こりうる。それは大人の社会だけでなく、子供の社会にも必要なことだと思います。大人が優位、子供が劣位ということはなくて、同じ社会である以上、ぼくは同等のものであると考えます。同等なものだからこそきちんと品位や規律が必要だと思うし、まずそのことを率先するのは、経営者(教師)ではないかと思うのです(そして親たちも)。

結局のところ最終結果として赤組が勝ったのですが、勝ち組だった赤の息子に帰りの道すがら「おまつりたまいれ」について聞いてみると、やはりクラスのなかでもいろいろと意見があったとのこと。「あんなことして勝っても、うれしくない」などなど。いいぞ少年。とはいえぼそっと言ったことは、「といっても一年生だからねえ、仕方ないかも」とのこと。がーん。小学校四年生のほうがぼくよりオトナだ。

雨に降られたことはどちらかというと爽快だったのですが、そんな気持ちのためにすっきりしないものが残る運動会でした。

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■補足

さて、ぼくはこのブログで、趣味×仕事×家庭をクロスオーバーさせて(というとかっこよく聞こえますが、ある意味ぐちゃぐちゃにミックスして未整理のまま)、いろいろなことを横断的かつ俯瞰的に、そして立体的に考えていこうと思っています。というのは、「考える生き物」である人間は、形而上的な高みをめざすことも重要だけれど、日常の泥沼のなかを這いずって知恵を獲得することも重要であると考えたからです。この思考のベースにあるのは茂木健一郎さんの文章なのですが、整理されないものを整理されないまま掲載できるのもブログのよさではないかと思っています。

だからマーケティング理論についての考察を書いたあとで、息子やいまは亡き父についての思いを書いたりもする。それが一体何になるのか、というと正直なところ何にもならないかもしれません。ただ、何にもならないことがひとの一生であるとも考えていて、何にもならないからこそ丁寧に、誠実に、きちんと生きていたい。このブログは、丁寧に、誠実に、きちんと生きようとしたぼくの生きざまの記録なのかもしれません。といっても、なかなか丁寧に、誠実に、きちんと生きるのは難しいことなんですが。あ、ついでに、しなやかにも生きたいです。頑なではなくて。

丁寧に、誠実に、きちんと生きるためには、考えることが重要になります。そして、何かを深く考えるためにはインプットの重要性も感じています。バランスのよい食事をすることが身体を健全にするように、偏向のない知を獲得するためには、書籍も映画も音楽もマンガもインターネットも、あらゆることに自己を開いていくことが重要ではないかと考えています。殻に閉じこもって机上の理論を構築するだけではなくて、リアルな場に身体を置くことも重要です。

具体的には今年一年、本を年間100冊読み、映画を100本観ることを自分に課しているのですが、なかなか思うように進展しません。しかしながら、進展しないという結果を得たことが進歩なのかもしれない。

ときには暴言破壊的発言*1もあるかもしれません。ただ暴言破壊的発言を言おうとしている自分の状況に誠実でありたい。というと、おまえには責任がないのか、と言われそうですが、何かを選択しなければ(つまり何かを言葉化しなければ)その先には進めない、ということも感じています。その暴言破壊的発言がマイナスであればあるほど、逆にプラスに思考を跳躍させることができるかもしれない。弓で矢をぎゅっと引っ張って、的に向けて飛ばすようなものです。

10月になりました。あまりにも未整理な自分の考え方を、ちょっと整理してみました。この補足は自分のためのメモです。


*1:gadochanさんからコメントをいただき、いろいろと考えた結果、暴言はまずいだろうと思いました。誹謗中傷や愚痴、悪口のたぐいの印象があるからです。ぼくはそれらとは区別して、批評もしくは批判は必要ではないかと思うのですが、前向きに考えると、まあいっかという現状維持をぶち壊す「破壊的発言」ではないかと思いました。それは、自分の枠組みを壊す発言でもあります。10月2日追記

投稿者 birdwing : 2006年10月 1日 00:00

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