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2006年9月15日
閾値、可変性について。
世のなかには確固としたモノサシがある、と考えたい。しかしながら人間の尺度というものは伸びたり縮んだりするものです。長さを測る道具は変わっちゃいけないものですが、人間を測るモノサシは常に変化するものです。
変化し生成する人間を標本箱に押し込んで測るために、統計的な処理も可能だとは思うけれど、統計的に処理されたくない「個」としての自分もいる。頭があまりよくないので、感覚に頼った見解ばかりなのですが、今日は、可変性ということについて考えみます。
昨日、「閾値」という言葉を使ってみたのですが、はてなのキーワードでリンクしたところ「Threshold」という英語の解説があり、一気に親しみを覚えました。音楽をやっているひとならわかるかもしないのですが、エフェクター(音を歪ませたり、エコーをかけたりする機械)に、スレッショルドというつまみがあります。効果の効き方を調節するつまみです。たとえばコンプレッサー(リミッター)であれば、どこから音を圧縮しはじめるか、という部分を設定するのがスレッショルドのつまみで、低めに設定するとはやくから効果が効きはじめる。ゆるめに設定すると、ちいさな音のときには効かないのですが、大きな音になると効くわけです。
ぼくがDTMで使っているSONARというアプリケーションに付属しているSonitus:fxのコンプレッサーでは次のような画面になっています。
赤く丸で囲んでしまったのですが、左側の「-14.0db」という値がThresholdで、その下のグラフをみると、-14.0dbあたりからカーブががくんと曲がっているのがわかると思います。つまり、この部分からエフェクトが効きはじめるということです。
昨日は、このエフェクトが効きはじめるということを、人間の「満足」に置き換えて、この値をぐぐっと下げてしまえば満足しやすくなるし、一方でどばっと上げてしまうと満足であると感じられにくくなる、という解説を試みてみました。
人間のことを考えてみると、この「閾値」は常に変化しています。一定の設定のまま、いつでも効果の効き目が決まっているということはない。ひとりの人間の場合も可変ですが、ひとそれぞれ設定が違います。だから、ばらばらな閾値が、常にめまぐるしく変わっている状態が人間の世界といえるかもしれません。
そして、意識的に閾値を変えている、ということもある。親しいひとに対しては、大目にみる(閾値を下げる)のだけど、敵対する誰かに対しては非常に厳しい評価をする(閾値を上げて、満足の敷居を高くする)。あるいは「空気」というものも影響して、「なんとなくみんなの評判が悪い」という事前の情報があると、先入観を生じさせて閾値を高めてしまうこともあります。よいものであったとしても、バイアスがかかってしまう。
普遍的なモノサシがないばかりか、満足させようと思っても効き目が一定ではない、ということをぼくらはもっと意識すべきだと思うし、逆に、前提として閾値のハードルを下げることができれば、ささいなことでも満足を向上させることができるかもしれません。
たとえばですね、仕事でお客様を訪問したときに、いきなり難しいことを言う、お客様を批判する、売り込みを開始する、というと、一気に閾値を上げてしまうことになりかねません。けれども、当たり前のことですが、最初はウォーミングアップとして、あえてプライベートなことを語ってみる。すると、ガード(閾値)が下がることもあるかもしれない。もちろん、すべてに通用するテクニックではありません。プライベートはいいから本論へ!という方もいます。ただぼくは、身体が温まっていないところに強行突破をかけても無理だと思うし、逆にその強行な印象がすべてを壊す場合もあり得ると思う。相手のレベルメーターがどの辺りを指しているのか推しはかりつつ、前進、留保、迂回、撤退、飛翔、潜行、隠蔽、消去などの方策を練ることが重要という気がします(もちろんテクニックの話ではありませんが)。
感動の閾値が低い状態にあると、どんな映画を観ても小説を読んでも泣けてくるのかもしれないのですが、じゃあこの程度で十分だろう、とたかをくくって制作されたりすると、つまらん、なんだこりゃ?と批判が殺到する場合もある。かといって、顧客重視の観点が行き過ぎて、お客様に媚びたりすると作為的な姿勢がマイナス評価になり、「この製品は、ぼくが欲しかったものですっ!」のようなピュアなプロダクトアウト製品のほうが、やんやと受けたりもする。
あらゆる状況に適応するセオリーはありません。すべては変化しつつあり、「いまここで」と言った言葉が過去になっている、ということなのかもしれません。
さて、ひとの心が変わりつつある浮動的なものであるからこそ、誰かの心を変えることもできるかもしれない、という夢もある。一定の法則が支配する世界ほど殺伐としたものはないと思うのですが、法則が生成し、消滅し、また誕生するような世界であるからこそ、誰かを、そして世界を変えてしまうような言葉が創造できそうな、わくわくした感じもある。
言葉は世界を定義し、静的な構造に落とし込もうとするのですが、言葉化したときに、その対象は既に過去のものになっています。まだ言葉になっていないもの。言葉にしようとするとするりと脳のなかを潜り抜けていってしまうものにこそ、ぼくは目を向けなければいけないのかもしれません。
まったく可変性について語っていませんね。可変性について語りたいことがあったのですが、忘れてしまいました。思い出したら追加します。
投稿者 birdwing : 2006年9月15日 00:00
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