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2006年9月14日
満足って何だろう。
限りのある人生なのできちんと生きたい、満足できる人生を送りたい、と思う秋のとばぐち。しかしながらきちんと生きることと満足のいくように生きることは違うのではないかと思いました。きちんと生きても満足できないこともあるし、ちゃらんぽらんであっても大満足ということもあり得る。
満足というのは幅広い分野で使うことができる言葉で、たとえば仕事では顧客満足(CS:Customer Satisfaction)などということが重視されます。そのためにマニュアルを整備したり、調査を行ったりする。またモチベーションのマネジメントにおいても重要で、マズローの欲求五段階説なども、ある段階の欲求が満たされると高次の欲求を求める、という充足(満足)の考え方が基本にあったような気がします。Webサイトのコンテンツにも満足は重要な観点になるし、子育てにも満足できるかできないかということはあるし、趣味であっても満足をどこまで追求するか、ということがある。
そんなわけで今日は、満足について考えてみます。
満足の反対は不満だろうか、と思うのですが、何かの本で読んだのですが、不満を取り除いたとしても満足を向上させることにはならないようです。不満を取り除いたときには、マイナスをゼロに戻すようなもので、そこからプラスに転じるのは、まったく考え方が異なる。
ということをつらつら考えつつ、ぼくのなかにひとつの法則というか言葉が浮かんできたので、書いてみます。検証していないので、既に誰かが述べていることかもしれません。そもそもの発想は、最近よく考えている「全体」と「部分」の考え方にあり、その思考を下敷きにしたものです。つまり、
「満足は全体思考からもたらされて、不満は部分思考に起因する」
ということです。どういうことか、例を挙げて説明してみます。
いまここに定年を迎える夫婦がいて、仮に女性の方をペケ子さんとするのですが、彼女が定年を迎えた夫に言うわけです。「あなた離婚してください」と。ええっそりゃまたどういうことだい?と晴天の霹靂のように驚く旦那さんなのですが、彼女がつづけていうことには、
「あなたの鼻をかむ音が嫌なんです」
と。がーん、そんなぁ(へなへな)と力が抜けてしまう旦那さんは悪人かというとそんなこともなく、結婚記念日には花束とケーキを買って家に帰ってきていたし、息子と休日にはキャッチボールもしていた。彼の特長的な10の傾向のなかで1つだけ、鼻をかむ音がひどい、という短所があった。けれどもペケ子さんには、それが許せなかったわけです。その鼻の音はなんなんだ、と。
一方で、ここにもうひとりの夫婦がいて、仮に女性の方をマル子さんとするのですが、彼女の夫はとんでもない男で、ギャンブルはするは浮気はするは顔のバランスは崩れていて足はミニチュアダックスなみだったりして、傍からみていると、どうして夫婦になっちゃったかな、という印象がある。けれどもマル子さんは言うわけです。
「いいひとなのよ」
と。ええっ、いったいどこがいいひとなんですか挙げてみてください列挙してください、と追求したくなるのですが「どこと言われると困るけど、いいのよ彼」などと言って笑ったりする。
と、書きながらこの理論には問題がある、ということに気付いてしまったのですが、ある部分の不満が全体に影響を及ぼすこともあれば、同様に、ある満足が全体をフォローすることもある、ということもあります。10のうち9はひどいことばかりなんだけど、笑顔がステキ、というようなパターンです。
うーむ・・・。この理論、使えませんね。とほほ。
とはいえ、多くの場合、ひとつでも不満が生じると、あらゆるよいことを駆逐してしまうような現象があるのではないか、と思いました。熱烈なファンがクレーマーに転じるのもそういうときで、だからこそ不満(クレーム)というのは留意する必要があります。企業ブログが炎上する場合はもちろん、リスクマネジメントでも重要になる。部分の問題が、全体に波及することがあるわけです。それが怖い。
だからといって、ぼくはペケ子さんよりマル子さんの方が偉くて、みんなマル子さんのようによいところだけみよう、美点凝視だ(新人時代に習った言葉です。みんなのよいところだけをみましょう、という考え方)という風には思いません。ペケ子さんにとっては、鼻をかむ音こそが世界を図るモノサシであり、「鼻をかむ音がひどくないこと」が世界を正常に保つために重要なことであって、代替的にほかのどのような美点があったとしても、それは使いものにならない。
ぼくは、そういうひともいてよいと思います。そんなひとに「もっと世界のほかの部分をみようよ」ということほど、おせっかいなこともないと思う。つまりそれがペケ子さんの価値観であり、その価値観をありのままに容認することが重要な気がしています。国際化の基本も、異なる価値観を押し付けるのではなく、理解できない文化を理解しようとするところ(ありのままにみようとするところ)に、あるのではないか。
ぼくからみると変だけどさ、その考え方もありだよね、という許容力。それが成熟した社会には重要ではないか、と思います。異端な考え方を排除し、集中的に批判したり吊るし上げることこそが稚拙であり、もっと多様性を許容できる社会になると日本の未来も面白くなりそうな気がしているのですが、いかがでしょう。
ぼくの考え方も変わりつつあるようですが、こんな風にも思います。
たとえば満足の閾値(threshold)を下げてあげると、どんなことにも満足するようになるかもしれません。空が青い=満足、風が吹いた=満足、みんな仲良し=満足、ランチが美味しい=満足、のように。
それはそれでしあわせなのかもしれないのですが、高い満足を求めなくなるような気がしました。理想と現状の距離が課題である、ということをビジネス書で読んだ覚えもあるのですが、ときには身の程知らずの高みに挑戦するのも大事です。その跳躍が高ければ高いほど、影響があるのは個人だけではなくて、社会も変わる。そして、達成したときの満足度は桁はずれなものなのです。もちろん手の届かない理想ばかり追いすぎると、満足できない=不満になってしまいますが、閾値を下げすぎると向上心がなくなってしまう。そのあたりの匙加減はものすごく重要です。
足というのは、青天井のようなものかもしれません。一度満足してしまうと、もっと満足できる刺激を求める。満足には際限がない。
えーと。まとまりがつかなくなったので、断片的にいろんな考えを書きとめることにしますが、不満を不満で消去することはできないか、ということも考えました。というのは先日、何のテレビだったか忘れたのですが、騒音を騒音でやわらげるというシステムが紹介されていたからです。位相を反転させた音をぶつけると、音は消える。そんな風にして、騒音を減少させていたようでした。
その映像をみてぼくが思い出したのは、遠い昔まだぼくが少年だった頃、カセットテープの音をカラオケにする機械があった、ということでした。たいていボーカルはステレオの場合、中央(センター)に定位しているもので、そのセンターの音の位相を反転すると、センターの音だけ消えて、L(左)とR(右)が残る。つまりボーカルの消えたカラオケになる。この機械を使ったとき、少年のぼくは、ほんとうにびっくりしました。センターの音を消すと同時に、左右の音をくっきりと際立たせるので、カッティングギターの音などが明瞭になる。え?こんな音が鳴っていたの?という驚きでした。
位相の反転という考え方を応用すると、不満を満足で解消するのではなく、不満には(位相を反転した)不満をもって打ち消すという方法もあるのではないか、と。具体的にどうなのか、というと困ってしまうのですが、子供の教育のためにあえて反面教師になる、というようなことでしょうか。破綻してしまったのですが、「満足は全体思考からもたらされて、不満は部分思考に起因する」論を用いると、不満である状態は思考にブラインドが落ちて、全体思考ができない状態ともいえます。そこで、あえてさらに細部を追求することによって、ああ、そんなことやってちゃダメだ、全体をみなければ、と思わせるようにするショック療法もあるかもしれません。ネガのネガはポジである、という発想に近いかも。
というわけで、満足って何だろう?、という問いに対して、わからんっ!、という答えだけが残りました。わからないので、もっと考えてみようと思います。
投稿者 birdwing : 2006年9月14日 00:00
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