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2006年11月 1日
「薬指の標本」小川洋子
▼book06-074:水の思考、女性の身体感覚。
薬指の標本 (新潮文庫) 新潮社 1997-12 by G-Tools |
女性作家の小説にはときどき眩暈のようなものを感じるのですが、男性のぼくには絶対に書けない匂いのようなものを感じることがあります。女性特有の思考パターンといってもいい。川上弘美さんの作品にも通じることですが、ぼくはこの匂い、あるいは文章に流れる思考の傾向を「水の思考」としてとらえてみました。女性の身体感覚で書かれている小説群に共通する液体のような思考の流れであり、あるいは強い波動であって、文体の瑞々しさを含めて流動的なもので、一方で息が詰まるような閉塞感もある。それはちょうど溺れて酸素を奪われたような息苦しさともいえる。しかしながら、この閉塞感が官能的でもある。オルガスムスの悦びと苦しさが一体化したものといえるのかな。男性のぼくにはわからないけれど。
水の思考の特長は、割り切れない、ということにあるのかもしれません。水の中に手を浸すと、水は手に沿ってまとわりついてきます。官能的に身体にまとわりつく。そうして、しなやかに形を変える。でも、手を水から引き出してしまうと、水は揺らぎながらも静かな水面に戻る。固体はどうでしょう。しっかりとした手ごたえがあって、手の中に重みを残します。ばきっと割ると割ったままになる。つまり固体的な思考は分解(=分析)できるのですが、水の思考は論理化して分解できない。何度すくっても指の隙間から零れて、水滴は、ぽちゃんともとの水面へと戻っていってしまう。つかみどころがない。水は月の満ち欠けにしたがって、満ちたり干いたりするものです。合理的ではない、みえない力に操られていたりもする。
この小説の危険なところは、固形的ともいえる正常な論理感覚が通用しないところにあります。液体的な論理で流れていく。
物語の冒頭には、主人公の二十一歳の女性がサイダー工場で薬指の一部を切り落としてしまうシーンがあります。けれどもそこには叫びや痛みはなくて、ただ切り落とされた肉片がサイダーの泡(液体)のなかに沈んでいく鮮やかなイメージだけがある。悲しみや怒りの感情すらなくて、彼女は静かに流れる液体のように職場を去る。ぼくはもうこのシーンだけで気持ちがざわざわしてしまった。ここで深読みをすると、切り取られてサイダーのなかに沈む薬指の肉片は、彼女が孕んだ子供のメタファ(羊水のなかに浮かぶ赤子)といえなくもない。つまりほんとうは彼女の指は欠けてなんかいなくて、ただ死産した(もしくは子供をおろした)経験が指を欠いたという現実にすりかえられているわけです。という思いつきだけをここに記しておきますが。
次に標本室というわけの分からない職場に勤めたかと思うと、標本技師である弟子丸氏から靴を送られ、その靴だけ履いた姿で彼と抱き合う。かと思うと、活字を床にばらまいてしまって、弟子丸氏が一晩中見守っている部屋で(彼はなにも手伝わない)、床に這いつくばって一晩中活字を拾い集める。濃厚な表現に、なにかとてもいけない気持ちになります。
基本的にこの小説に、物語の筋のようなものはありません。耽美なめくるめく視覚的イメージが延々と展開されます。
弟子丸氏が送った靴を履き、ふたりが愛しあう場所は、かつての浴場(水のあった場所)なのですが現在は使われていません。その水のない場所で履く靴は、どこか液体的に主人公の足を包み込む。やわらかくフィットするわけです。この表現が、妙になまめかしい。やがて靴は彼女と一体化していく。それは液体と液体の融合を感じさせました。
こういう表現を受け付けない男性もいるのではないでしょうか。たぶんそんな男性はものすごく健全で、冒険小説のような筋がびしっと通ったストーリーを好むのではないかと思います。しかしながら、こういう割り切れないものにセンサーを働かせてしまうような男性もいて、そういうやつはあぶないかもしれない(えーと、ぼくもそうなのですが)。ぼくは男性ではあるのですが、どうも自分のなかに、この水の思考があるような気がします。論理的に書いているようで実はぼくの論理は破綻していることも多く、感覚的に書いたもののほうがいきいきとしていることもある。
要するに、男性/女性というのはステレオタイプな分類に過ぎなくて、男性のなかに内包されている女性もいる。女性のなかに内包されている男性もいる。そんな複雑なものがぼくらの性なのかもしれません。問題は、そうした自己のなかの異性が覚醒しているかどうか、です。しなやかでありたいと考えるぼくは、内包された異性的な何かの封印を解いてしまっているらしく、そのセンサーが作品のなかにある水の波紋を同期させるので、だからぼくは、小川洋子さんのこの小説を読んで、ものすごく揺らぐのかもしれません。
身体の80%以上は水である、ということもどこかで読んだ記憶があります(正確ではありません)。もちろん脳のなかにも水が溢れている。女性の身体感覚で物語を(読むのではなくて)感じるということは、この身体という水を共振させる行為なのかもしれません。その水は決して澄んだ青い水ばかりではない。汚れて澱んだ水もある。
本のなかに収録されているもうひとつの短編「六角形の小部屋」もかなりアブナイ。その危険な感じは川上弘美さんの「夜の公園」に通じると思うのですが、いまぼくがそのことを詳細に分析しようとすると壊れそうなので、やめておきます。
「薬指の標本」はフランス映画(ディアーヌ・ベルトラン監督)として映画化されているようで、ひとりで観に行こうと思っているのですが、壊れそうでとても不安です。小説を読んだだけで、かなり危うかった。危うさのために文章が決まらずに、このレビューは何度も書き直していますが、これもまた水のように流れてとどまることを知りません。困った。11月1日読了。
*年間本100冊/映画100本プロジェクト進行中(74/100冊+68/100本
投稿者 birdwing : 2006年11月 1日 01:00
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