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2007年6月 7日

リアルのほうへ、光のほうへ。

どんなに鋭い社会批判のブログを書けるブロガーよりも、ネットの外の世界で行動し、いま自分が直面している生活を少しでもよい方へ変化させ、わずかでも現実生活を変革できるひとのほうが優れているのではないか――仕事が一段落して、なんとなく空いた時間でブログを読んでいたのですが、そんなことをふと考えました。

ぼくが読んでいたブログでは、たまたま社会批判的な文章を書いているブロガーどうしが、どっちが偉い?のような論争をしていて、またそれをブックマークしてコメントしているひとがいて・・・というネットらしい批判の入れ子状況になっていたのですが、そんなものに接していたら、なんだか不快な感覚が募って気持ち悪くなった(苦笑)。ブログもブックマークもどうでもよくなってしまった。これは不毛だ、と。それをまたゆるく批判している自分も不毛ではあるのですが、あえてまず前提としてそのことに触れておきます。

要するにぼくは、いわゆるネット特有の何か(閉ざされた世界のようなもの?)が好きではない、ということにあらためて気付きました。そのことを確認したからといって何にもならないのですが、たとえば瑣末な部分では、ネット内だけで通用する顔文字をあまり使いたくありません。匿名ブログを「増田」と呼んでしまう隠語のようなものも好きではない(というか嫌いだ)し、それを使っているようなひとにはできれば近寄りたくない。使うのは本人の自由だけれど、なんだか生理的な嫌悪感があるんですよね、そういう場所でストレス解消しているひとたちに。生理的な嫌悪感なので、理由はありません。ただ個人的に嫌いである、関わりたくない、という。

だからブックマークで批判的なコメントを付けて溜飲を下げているひとたちも、率直に言って嫌悪感があります。梅田望夫さんの言葉を借りれば、そんな場所でこそこそ批判しているくらいであれば、誰かを褒めたり、自分で何かを創造的なことをした方がずっといい。あるいはその時間に仕事に集中すれば、もっといい仕事ができるはずではないか。そんなところで批判しているのは現実から逃げているだろう、と。

けれども、逆に痛々しいぐらいにリアルな自分をさらけ出しているブログには好感を持ちます。社会批判があったとしても(あらゆる批判があったとしても)、文章にそのひとなりの生きざまがある。そういうブログはいいですね。どんなに不器用で不恰好だったとしても、そんな風に生きているひとは応援したいし、継続してブログを読みたい。少なくとも社会批判ブログでどっちが上だ?どっちが物事をよく知っている?という背比べをしている論争や知識をひけらかすだけの文章よりも、読みごたえがある。というのは、どんなに暗いことを書いていても、このひとは生きてるなあ、という眩しさを感じるからです。他者とは比較できない圧倒的な力を感じる。お前と俺とどっちが上?というようなくだらないことにこだわっている老人のような暇がない。密度の高い「いま」を生きている。

かつて別のブログを書いていたときにトラックバックをいただいた方があり、女性の方だったのですが、ものすごく辛辣な社会批判などを展開されていました。ただ、ぼくとしては彼女に好感を持っていた。個人批判をしないという自分なりのルールを定めている姿勢とか、歯に衣を着せない鋭い文章だとか、それでいて時折みせるちょっとおちゃめな部分とか、そんなところが気に入っていました。さすがに陰湿すぎる文章のときは引きましたが、その文章だけが、そのひとのすべてではない。人間そういうときもあるじゃないですか。多様性のなかで生きているものです。だから、世のなかをすべて負の力で解釈してしまうときがある。でも、ピンポイントで判断できない。 それがそのひとのすべてではない。

ところが久し振りにアクセスしてみると、その方は、ブログで一切の発言をしないことにしたと声明を書いたまま更新が途絶えてしまっていました。どうやら、「おまえは何様だ?」というコメントの書き込みが連続して、精神的に消耗し、別に自分が書かなくてもいいだろう、という結論に達したとのこと。なんだか非常に残念です。書きたいことを書けばいいのに。 というか、おまえは何様だ、とダイレクトにコメントを付ける配慮に欠ける暴力的な通りすがりの訪問者こそ、おまえが何様だよ、と思う。

余談ですが、こんな風に曖昧に引用すると「どうして実名を挙げないんだ?」のようなコメントをいただくことがありますが、なんでも明らかにしなくてもいいんじゃないでしょうか。実名を出してリンクやトラックバックをすることによって、誰かを批判することだけに喜びを見出す病んでいるひとたちをそのページへ誘導してしまう場合もあります。だから、手当たり次第リンクしたり、ダイレクトにコメントすることが正しいとはいえない。ときには抽象化することも必要だし、沈黙する必要もある。成熟した大人の思考の方であれば、わかっていただけると思うのですが。

今回は別としますが、最近ぼくがこのブログで心がけていることがあります。ブロゴスフィア内の誰かが書いたことをネタとして引用してブログに書かない、ということです(SNSのような場所では別ですが)。

茂木健一郎さんや梅田望夫さんのブログは別格として、その他のブログに書かれたことを仲間内だけで相互引用する馴れ合いは気持ち悪いと思うし、何か新しいものが生まれるかというと、とてもそうは思えない。もちろんぼくだって、どこかのブログに影響を受けるときもあるのだけれど、内容のないブログを書いてただリンクやトラックバックするだけが感謝の伝え方ではない。影響を受けたことをきちんと感謝しつつ、さらに自分の解釈や言葉を加える表現をした方がいいのではないか。

あるいは、ネットのなかで完結するのではなく、リアルに開いていくこと。そちらのほうが重要でしょう。ここでいうリアルは日記的な現実の生活である必要はなくて、映画や本や音楽であるとか、自分の五感を通じて得たものであってよいと思います。思考や妄想であってもいい。楽しいことだけを選んで書かなくてもよくて、かなしみやつらさがあってもいいのだけれど、その向こう側に光を見出せること。

そんなブログを書けたらいいですね。いや、書きたいと思っています。 リアルのほうへ、光の当たるほうへと意識を向けながら。ネットの闇に背を向けつつ。

投稿者 birdwing : 2007年6月 7日 00:00

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