« 見える、という幸福。 | メイン | 好き/嫌い、感情というアナログ。 »

2007年6月21日

詩人、哲学者、ジョニー・デップ。

少年の頃、谷川俊太郎さんのような詩を書きたいと真剣に考えていた時期がありました。あまり大きな声ではいえないのだけれど、彼のような詩人になりたいと思っていた。けれども詩人にはなりたいと思ってなれるものではありません。詩人であるひとは、生まれながらにして詩人である気がします。

一度、御茶ノ水の丸善のサイン会で「にじいろのさかな」という絵本に谷川俊太郎さんのサインをいただいたことがありました。この絵本はMarcus Pfisterの作品を翻訳したもので、シリーズになっています。

4062619512にじいろのさかな 世界の絵本
Marcus Pfister
講談社 1995-11

by G-Tools

生・俊太郎さんは、とにかく異星人のようだった。彼の存在はそこにいるだけでもう詩人で、詩人のオーラというか一種のかぐわしい匂いのようなものに包まれていました。近寄りがたいというか、神々しい何かがあった。いやーこれは詩人にはぜったいになれないなあ、とそのとき思い、そんなわけで以後ぼくは詩を書くことを断念しました。ときどき谷川俊太郎さんの詩を読みながら、会社員やってればいいや、と。

先日、谷川俊太郎さんの詩と、その詩に関連した長谷川宏さんの哲学的な散文で構成された文庫を書店でみつけて読んでいます。もう少しで読み終わるところ。

4022615346魂のみなもとへ―詩と哲学のデュオ (朝日文庫 た 46-1)
朝日新聞社 2007-05-08

by G-Tools

そもそも谷川さんのお父さんは哲学者である谷川徹三さんであり、「はじめに」で「生まれ落ちたときから、うちには哲学者がひとりいた。だから哲学者がどういう人間かはよく知っている」からはじまる文章を書かれています。これがものすごくほのぼのとしていて、いい。息子さんである谷川俊太郎さんの詩に、欄外に寸評をメモしてくれたらしい。けれどもやはり哲学者であったから、「ことばあそびうた」のような語呂合わせで論理的でないものは認めなかったとか。

後半の部分がまたいいですね。引用します。

ところで、私はうちの哲学者の書いた文章が気に入っている。難しい哲学用語を使っていないからだ。哲学者も詩人も、書くもので読者に評価されるが、読者であると同時に身内でもある人間は、書くものだけで評価しない。哲学者も詩人も、身内には毎日の暮らしの中でのその人となり、行動によって評価されるのは致しかたのないことだろう。

ふむ。哲学者も詩人も、家庭のなかにおいては父である。難解なことを言っていても「おならもするしげっぷもする」ひとりの人間であり、日常性と乖離していないほうが人間として信用がおける。

哲学者も詩人も、その考えや表現の根っこを毎日の生活に下ろしているのである。プラトンの言うイデアという考え方だって、いきなり空中に出現したのではないだろう。日常のうちに生きながら、日常を超えた何ものかに向かおうとするところに、哲学者と詩人の接点がある。それを他者に伝えるのに、難解な哲学用語や詩語は必ずしも必要ではないと私は思う。

いいですね。すごくいい。ぼくはこの"哲学"が根底にあるからこそ、一連の谷川俊太郎さんの詩が生まれたのだな、と思いました。谷川さんの詩もまた、難しい言葉はあまり使われていない。けれども心のなかにしっくりと馴染んで、深く染みわたる。それはたぶん、神々しい何かを掴みながら、やはりその両足は日常という地面に接しているからだと思う。

ところで、いきなり話が飛ぶのですが、「日常のうちに生きながら、日常を超えた何ものかに向かおうとする」という言葉で思い出したのは、AERA No.29の特集「子育てで大化けジョニー・デップ」でした。

こちらも好きな俳優さんです。かっこいいもんね、ジョニー・デップ。シリーズ第3作の「パイレーツ・オブ・カリビアン」は公開後17日間で興行収入60億円を突破だそうで、ものすごく人気があるらしい。彼がこれだけ大きな俳優に変わったきっかけについて、次のように書かれています。

一体、何が彼を変えたのか。
「子どもがすべてを変えた」
ジョニーはさまざまなインタビューでそう答えている。確かに彼が子供たちについて語るとき、彼のまなざしはとりわけ柔らかい。
「娘を抱いたとき、僕を覆っていた霧がすっかり晴れて、すべてがクリアに見えたよ。今、僕には立つべきしっかりとした土台がある。ヴァネッサと子供たちは僕に居場所を与えてくれたんだ」

くー、かっこいい。ヴァネッサ・パラディに対する愛妻家ぶりもよく言われることですが、この姿勢がとにかくいいですね。そして彼は、子供たちのために仕事、つまり作品を選ぶようになった。「ネバーランド」「チャーリーとチョコレート工場」「パイレーツ」シリーズなど、出演作を子供たちの視点から選別するようになったとのこと。

とはいえ、ぼくが彼の出演した作品で妙に印象に残っているのは(おすすめはしないけど)、ジム・ジャームッシュ監督の「デッドマン」であり、運命に翻弄されてどこまでも流されていくモノクロの映像のなかの彼もなかなか魅力的でした。挑戦的に出演したという「リバティーン」のような退廃的かつアダルトなものはどうかとも思うのだけれど、子供向け以外のものにも挑戦してほしい気持ちはあります。子供の成長に合わせて、いろんな作品にも挑戦していくのかもしれませんね。

AERAには、彼が出演した全42作品のリストもあって、これが参考になりました。観ていない映画が結構あります。ジョニー・デップつながりで観ようかと思ったりして。9月には、「LONDON CALLING/ザ・ライフ・オブ・ジョー・ストラマー」というドキュメンタリーにも出ているとのこと。彼がクラッシュについてどう語るのか、気になるところです。

B002HMLE0Oデッドマン スペシャル・エディション [DVD]
パラマウント ホーム エンタテインメント ジャパン 2009-09-25

by G-Tools
B000IB11UYリバティーン [DVD]
スティーヴン・ジェフリーズ
アミューズソフトエンタテインメント 2006-11-24

by G-Tools

AERAの記事のなかにも触れられていたのですが、シャルロット・ゲンズブールが主演の「フレンチなしあわせのみつけ方」にもジョニー・デップがちょこっと出ているようです。ずーっと観たいと思っていたのですが、まだ観ていません。特に、CDショップのなかで出会うシーンはいいですね。YouTubeからそのシーンを引用しましょう。

■Johnny Depp in a french film

うーむ。いま気付いてしまったのですが、以前にこの映像を観たときに、いいなあと思ってこのシチュエーションに憧れたことがありました。

自己分析してみると、ダウンロード販売の隆盛期にぼくはわざわざCDショップに立ち寄って試聴して音楽を購入しているのですが、ひょっとすると、いつかこんなことがないか?という淡い期待が潜在的にあるからかもしれません。残念だけれど、まあ・・・ないな(きっぱり。苦笑)。というか、ぼくの場合、音楽にほんとうに集中すると外界にブラインドが下りちゃうので、素敵なひとが通ったとしてもわからないかもしれない。機会を損失しまくっている。

ふたりがヘッドホンをかけながら聴いているときに流れている音楽が、またいい。あえて曲のタイトルは書きませんが、歌詞を読んでいくと、主人公である「僕」は美しい世界に漂う「羽」のような特別なひとに出会います。そして彼女と同じ世界に存在しつつ、自分だけは彼女にとって特別なひとでありたいと願う。けれども特別にはなれない。特別になるどころか、つまらない自分がいる。どうしようもないほど特別な彼女に対して、比較しようもないぐらいダメな自分がいる。

この曲を書いたソングライターは、やはり彼の人生のなかで特別な女性に出会い、彼女を想い、うまくいかなかった経緯があるようです。リアルな日常において一途に想いつつも破局した経験があったからこそ、ガラス細工のような名曲が生まれたのでしょう・・・・。あらためて、この曲は泣ける(涙)。ぼくはDTMを趣味としていて曲を作っているのですが、インストが多い。けれども、こんな曲を作りたいものだ、と思いました。

ちなみにこの歌詞の最後「I don't belong here. (ここは僕の居場所じゃない)」は、ジョニー・デップ自身がインタビューで語った「ヴァネッサと子供たちは僕に居場所を与えてくれたんだ」に対比するとも思いました。

さて、ちょっと感傷的になってしまいましたが、もし朝起きたら彼氏あるいは旦那さんがジョニー・デップだったらどうでしょう。

ぼくはもう、どきどきしちゃいますね(ぼくがどきどきしても仕方ないのだが。苦笑)。外見的なものは仕方ないとして、考え方だけでもジョニー・デップになれないでしょうか。まあ、いきなりジョニー・デップの言葉だけ借りちゃったりすると、あんた悪いもんでも食べたんじゃないの?と冷たく批判されることになります(苦笑)。やはり言葉だけ拝借していてはだめで、根っこの部分、思考を変えないとダメですね。

ぼくの私見だけれども、かつてパブリック(仕事など)とプライベートをきちんと分けること、けじめをつけることが良識であると考えられていた時代があったように思います。けれども、ブログなどで個人を表現できるようになった現在、パブリック×プライベートという混合により、ライフスタイルを多様化あるいは立体化するスタイルがかっこいい(かっこよければいいのか、という視点もありますが・・・)気がしています。

もう少し難しい言葉で言ってしまうと、日常という瑣末に立脚しつつ高邁な理想を夢見る、ということでしょうか。犬のように日常という泥にまみれながら歩きつつ、鳥のように青空から俯瞰した世界を眺めることができること・・・・・・そんな表現をかつて使ったこともありました。部分思考と全体思考をバランスよく統合していくことかもしれません。

これが結構難しいんですよね。けれども難しいからこそ、挑戦のしがいがある。そして、この生き方のポイントは「しなやかさ」ではないか、と睨んでいます。

投稿者 birdwing : 2007年6月21日 00:00

« 見える、という幸福。 | メイン | 好き/嫌い、感情というアナログ。 »


トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://birdwing.sakura.ne.jp/mt/mt-tb.cgi/214