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2007年6月22日

好き/嫌い、感情というアナログ。

ブログの影響からか、最近は雑誌やフリーペーパーの記事でも、ライターである個人を全面に出した記事をみかけるようになりました。署名原稿であれば昔からそんな記事はあったのかもしれませんが、それでも個人的な感情はある程度抑制して書かれていた気がします。ところが最近では、感情をあからさまに表現した文章が増えた気がする。しかも「好き/嫌い」で判断していることもある。

昨日、AERA No.29のジョニー・デップの特集を引用しましたが、この記事を書いているフリーランス記者である坂口さゆりさんは、ジョニー・デップに「会いたい一心」からライター稼業についたと冒頭で宣言している通り、彼の熱烈なファンのようです。文章から愛情が滲み出ています。例えば次のような部分。

静かで深い声。初期の、孤独感漂う感じが好きだったんだけど、なんて温かなオーラで包まれているの。あぁ、ジョニー。あなたの慈愛(憐憫?)に満ちた黒い瞳を忘れません。

なんだかくすぐったくなっちゃいますね(笑)。古いジャーナリストの方であれば、なんだこれは!と眉をひそめるかもしれないのですが、ぼくはいいと思うな。たぶん、この記事を書いているとき、坂口さんは幸福感に満ちていたことでしょう。ジョニー・デップのことを思い出して、瞳は潤んできらきらしていたりして。そんな文章の裏側というかライターである彼女の書いている姿まで想像して、にこにこしながら記事を読んでしまった。悪い感じはしませんでした。むしろ好感触でしょうか。

感情も情報である、とぼくは考えています。技術的には、コールセンターなどの補助的な機能として音声情報から感情を解析する技術というのはありましたが、最近は、テキストマイニングの応用として文章のなかの感情的な要素を分析する取り組みもあるようです。

もちろん、共感したり感情を判断する部分を機械に任せてどうかという疑問もありますが、研究の過程で人間の感情に関連するさまざまな発見があるのはうれしいことですよね。とはいえ、ブログで自己表現をするひとが増えてきている現在、人間のほうの能力を向上させることも大事ではないか。書くひとは増えたけれど、書き方などの問題はまだまだ未整理な印象があります。

関係性を変えてしまう言葉

ところで、ジョニー・デップが好き、青空が好き、エレクトロニカが好き、という言葉と、特定の誰かに向かって、あなたが好き、という言葉は同じ「好き」であっても異なります。

谷川俊太郎さんと長谷川宏さんの共著である「魂のみなもとへ」を今日読み終わったのですが、そのなかに「好きと嫌いと」という長谷川宏さんの散文があり、これが、がつんと殴られるぐらいぼくにとっては考えさせられた文章でした。引用します(P.32)。

好き、といわれた相手は、その言葉に応答しなければならない。山が好き、川が嫌い、とちがって、あなたが好き、あなたが嫌い、は、あなたの応答を予想することばとして発せられている。相手は、受けいれるにせよ、いれないにせよ、なんらかの応答をしないではすまない。態度をきめかねて黙りこくるのも、それはそれで、無視する、という応答の形なのだ。空がただ頭上にあり、川が変わらず流れているのとは、わけがちがう。

特定の誰かに、好き/嫌いが発せられたとき、その言葉はコミュニケーション機能の側面が強まります。文字面(記号)は同じであっても、一般的な好き/嫌いという表現と働きが異なる。

長谷川さんは次のようにつづけます。これは、恋愛過渡期にあるような方には、ぜひ読んでおいてほしい気がする考え方です。恋愛はどうも・・・と思うひとでも、誰かに何か声をかけるとき、ほんの少しだけ気に留めておきたい。この視点は大切だと思います。

あなたが好きの「好き」は、たんなる自己表現ではない、と、そういってもよい。相手を巻き込もうとする「好き」なのだ。相手は身がまえざるをえない。身がまえたところから出てくるのが応答であり、そこをくぐった二人の関係は、くぐる前と同じだとはもういえない。人間関係を大きく変えるものとして、あなたが好き、ということばはあり、だからこそ、それにまつわる話は、近代小説の好個の題材となってきたのだ。

うーむ、深い。哲学者おそるべし。何も難しい言葉は使っていないのですが、真理をぎゅうっと掴んでいる気がする。そして、さらに次のように書かれています。好き、という言葉によって追い込まれるのは他者だけではない。自分も追い込まれる。

相手に応答をせまり、相手との関係に変化をもたらすことばは、発言者のほうにはねかえり、発言者の心を波立たせずにはおかない。あなたが好き、とはいったが、本当に好きなのか、なにが好きなのか、どう好きなのか、・・・・・・。疑問が疑問を呼んで、心は落ち着かない。

ここでは、好きだ、という言葉をめぐるコミュニケーションについて考察されていますが、なんとなく思い巡らせたのは、ブックマークにおけるネガティブなコメントの問題についても、この考え方から考察できる気がしました。

実はブックマークに付ける短いコメントを、コミュニケーションと考えているひとはあまりいないのではないでしょうか。そもそも能動的に見にいかなければ見られないものだし、記入画面でも書いた内容は意識していても、書いたひとを意識することは少ない気がします。天気がひどい、世の中がひどい、映画がひどい、と同じレベルでコメントをつけているのではないか。

けれども、つけられた個人にとっては、自分に突きつけられたコミュニケーションの言葉となります。つまり、その言葉は相手に「変容」もしくは「応対」を迫る一種の刃になってしまう。発信者の意図があろうとなかろうと、コミュニケーションという文脈に絡め取られてしまうわけです。だから問題になる。

コメントを付ける人間にリテラシーが欠けていると、相手の実体というものは希薄です。相手はただのテキスト情報としか捉えられません。つまり無機質なニュースにひとりごとを言うのと同じ感覚で個人のブログを批判してしまう。共感力に鈍感なひとたちは、何気なくつけた言葉が相手を追い込んでいることを理解しません。というぼくもそうでした。幸いなことに、ぼくはそのことに気付くことができたのだけれど。

それでも、言葉を発するとき

好きである、嫌いである、という言葉は、告げたときに関係性を大きく変えてしまう破壊力を秘めた言葉かもしれません。最終兵器的なものもあり、できればその言葉は回避して、曖昧な状態のまま、ずっと仲のよいお友達でいたい。

けれども、告げなければならないとき、告げなければならないひとがいるのではないでしょうか。発せられた言葉によってどんなに悪い状況に変わり、最悪の場合は関係性に終止符が打たれることになっても、思い切って言葉にしなければならないときがある。

「魂のみなもとへ」を読み進めていって、谷川俊太郎さんの「しぬまえにおじいさんのいったこと」(P.170)の詩にじーんとしました。

全体がひらがなで書かれているのですが、「わたしは かじりかけのりんごをのこして/しんでゆく/いいのこすことは なにもない/よいことは つづくだろうし/わるいことは なくならぬだろうから」という静かな諦めにも似た呟きのあとで、最後には次のように語られます。

わたしの いちばんすきなひとに
つたえておくれ
わたしは むかしあなたをすきになって
いまも すきだと
あのよで つむことのできる
いちばんきれいな はなを
あなたに ささげると

泣けた(涙)。ぼくがいちばん大切なひとに捧げるのは花でしょうか。あるいは言葉かもしれないし、自作の音楽かもしれません。できる限り生涯を通じて「すきだ」を連発しないつもりでいるのですが、だからこそ告げた言葉はできれば永遠に保持していたい。そういう重みのある言葉を使いたいものです。

でも、一方で言葉によっては言わない選択というものもある。その言葉をコメント欄に書き込むことで、誰かを追い込んでしまわないか。変わることを余儀なくさせないか。傷つけないか、力づけられるのか、ほのぼのと癒すことができるのか、生かすことができるのか・・・難しいですね。理屈ではわかっていても、ぼくにはまだまだできない。反省することが多い。

たかがコメントであったとしても、言葉の重みを感じることが重要ではないでしょうか。それはリテラシーとかシステムとか、冷めた思考でくくることができない何かのような気がします。というよりも、温かいものであってほしいという個人的な希望なのですが。

投稿者 birdwing : 2007年6月22日 00:00

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