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2007年6月 1日

インプット×アウトプット。

ここ2週間、プレッシャー満載の仕事がつづいていたのですが、アウトプットの連続で脳内の泉が枯渇してきたので、今日はお休みをいただいちゃいました。充電期間です。長男くんも39度の熱が出てお休み中。まったりと静養するお休み親子な金曜日でした。

ぼーっと過ごしていたら、天気がよかったので本日の青空&雲をスナップ。

疲れた目が癒されますね。

ところで、“目”という器官は人間の部位のなかで非常に重要な気がします。画竜点睛という言葉があることを挙げるまでもなく、心の窓といわれるせいか、世界を認識する情報の多くが視覚に拠るところが大きいからか、目は重要な部位として扱われているのではないでしょうか。

アイコンタクトなどという言葉もあるように、コミュニケーションの手段としても使われます。よく報道などでは目の部分を隠したりしますが、目が人間のなかで個性を特定するためのいちばん重要な要素となっているのかもしれません。このあたり、なぜ目を隠すようになったのかなどの文化的背景が気になるところですが、どんな文献を紐解けばよいのやら。

目隠しされていた人物の目の部分が明確になったりすると、どきーっとすることもある。それこそ画竜点睛を欠いていたプロファイルが、目を公開した途端にはっきりとする。そのひとのリアルが立ちのぼる。ばらばらになった世界のピースが完成する感じ? たぶん口を隠しておいて、ぱっと見せときよりもインパクトがあるのではないでしょうか。目は口ほどにものを言うものです(違うか)。

ところで目と口が出てきたところで、耳はどうかというと、村上春樹さんの小説「羊をめぐる冒険」には、「完璧な耳」を持った女性が登場します。

羊をめぐる冒険羊をめぐる冒険
村上 春樹


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ちょっとフェチっぽいテイストのあるエピソードなのですが、彼女が耳を開放すると、物語の主人公である「僕」は世界が変わってしまったかと思うほどに衝撃を受ける。ただこれは比喩としてではなく、実際にわからないこともないですね。普段は耳が隠れている長い髪の女性の耳がふとした瞬間にみえたりすると、どきどきすることがある。それを文学的にデフォルメすると、そんなエピソードにもなるのかな、と。


それにしても、かなり大袈裟な表現なので引用してみます。「耳の開放について」という部分から彼女が耳を「開放」すると次のように「僕」は感じます。



彼女は非現実的なまでに美しかった。その美しさは僕がそれまで目にしたこともなく、想像したこともない種類の美しさだった。全てが宇宙のように膨張し、そして同時に全てが厚い氷河の中に凝縮されていた。全てが傲慢なまでに誇張され、そして同時に全てが削ぎ落とされていた。それは僕の知る限りのあらゆる観念を超えていた。彼女と彼女の耳は一体となり、古い一筋の光のように時の斜面を滑り落ちていった。

「君はすごいよ」とやっと一息ついてから僕は言った。

「知ってるわ」と彼女は言った。「これが耳を開放した状態なの」


耳を開放した彼女を前にして、ウェイターは動揺してうまくコーヒーを注げなかったりもします。どういう耳だそれは(苦笑)。


とはいえ、なんとなくここで考えたのは、目と耳に共通するのは、どちらもインプットする部位=情報を外界から取り入れる部位じゃないのかな、ということです。一方で、口はといえば(味覚というインプットもありますが)主として話す行為によるアウトプットする部位=情報を外界に発信する部位です。通常はアウトプットする部位のほうが、そのひとの個性を特長づけるような気がします。けれども、インプットの部位が実は重要なのかもしれない。


乱暴ですが、他者と対峙しているとき、伝えることはもちろん、きちんと見てくれること、聞いてくれることが重要です。双方向のコミュニケーションを考えるとき、話すというアウトプットよりも、インプットとしての見る、聞くという行為を相手に求めることが多い。インプットとしての器官である目と耳を隠蔽するとコミュニケーションが断絶する。だから距離ができるのでしょう。


逆に目と耳を開放すると、ぐっと距離が近くなる。身振り手振りの仕草や笑顔、話している言葉が届いていると感じるときに、その関係性は生きるものであって、見ざる・聴かざるの器官を閉鎖した状態では、情報が流通しない。情報が流通する状態というのは、まさに目と耳を開放したときに生まれるもので、村上春樹さんの小説において、耳を開放した彼女が世界を変えてしまうのは、フェチだけの視点ではなく)インプットの経路を開放し研ぎ澄ませることによって世界を変えてしまうこともできるという、美の成り立ちを暗に比喩にしているのではないか、と考えました。うまく言及できていませんが。


見ること、聞くことは、話すこと以上にわれわれにとっては重要な意味を持つのかもしれません。たとえばネットのコミュニティでは、誰かのブログやコメントを読むだけで発言しない人間をROM(リード・オンリー・メンバー)などと呼んでいたりしましたが、実は書いたものを読んでもらえるだけでも意味がある。


ネットにはリアルな耳や目は存在しませんが、例えばコメント欄を封鎖したブログなどは「耳」のないブログといえるかもしれません。あるいはログ解析は訪問者を見る(監視するという意味も含めて)「目」なのかもしれない。


最近、アウトプットばかりでインプットのほうがいまひとつ疎かになり、読書も滞りがちだったのですが、書物に関わらずさまざまなものを摂取していきたいと思いました。6月になったということで、気持ちも新たに。

投稿者 birdwing : 2007年6月 1日 00:00

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