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2007年6月29日

頭のいいひと、ストッパーを外すこと。

関心というサーチライトを灯しながら、昨日は書店を歩き回って三冊の本を購入しました。これがすごい。三冊ともに外れなしでした。よかった。すべての本が、ぼくの好奇心に刺激を与えてくれます。

久し振りに読書の醍醐味を感じているというか、あまりの嬉しさに脳内カーニバル状態で、どんどこしゃかしゃか脳内でアップテンポのパーカッションが高らかに鳴り響いているのですが、ちょっと落ち着こう(苦笑)。ラテン系のリズムのボリュームを絞って、書かれていることを冷静に記述しながら考えてみたいと思います。

というのも、いま同時並行的に三冊を読んでいて(+さらに並行して読んでいる他の本が三冊、計6冊)超・パラレルな読書状態になっているのだけれど、感動のメーターを振り切ることが多すぎて次々と忘れてしまうのです(苦笑)。こちらの本で、おおーっと感動したかと思うと、今度は別の本で、へぇーっと感嘆したりする。そんなわけで、えーとさっきのおおーっは何だっけ?と思い出せなくなってしまう。これではいけない、と。

いつもはきちんと読み終わってからレビューするのですが、感動が薄れないうちに気付いたことを書き留めておくことにします。ほんとうは佐々木正人さんの「アフォーダンス 新しい認知の理論」に書かれていた「情報は光の中に」という視点や、レオナルド・ダ・ヴィンチが鏡面文字でメモを取っていたことなどについても書きたいのですが、収集がつかなくなりそうなので、まずは脳科学者の池谷裕二さんと糸井重里さんの「海馬 脳は疲れない」(現在、P.72を読書中)から気付いた部分を抜粋してみます。これ、文庫になっていることに気付かずに、ハードカバーで購入しちゃったんですよね(泣)。

海馬/脳は疲れない ほぼ日ブックス (ほぼ日ブックス)海馬/脳は疲れない ほぼ日ブックス (ほぼ日ブックス)
池谷 裕二 糸井 重里


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頭がいいということはどういうことか、という命題から入っているのですが、この部分がまず面白かった。糸井さんの次の言葉がストレートに響きます。ここでは「百貨事典がわり」に物識りであることがアタマがいいのか、ということに対して次のように言及されています。引用します(P.23)。


ぼくにとっての「頭がいい」って何だろうと考えると、そういうことではありません。自分が「これは好きだ」と思ったことを十分に汲み取ってくれる人がいますよね?たぶんそれが、ぼくにとっての「頭がいい」という人なのかなぁと思います。

そして、芸術作品を例に挙げながら、次のようにつづけます。

つくり手が「通じなくてもいいや」と考えながら発表している芸術作品というのを、ぼくはとても苦手なんだけど、そういうものの何が嫌かと言うと、きっと「情報の送り手と受け手のコミュニケーションがあまりないから」なんですよ。

よくわかるなあ。ぼくも同感です。たとえばぼくがポップスを好きなのは、万人に受け入れられる音楽だからです。その背景にジャズがあったとしてもエレクトロニカがあったとしても、ポップス的なものはそんな予備知識なしに受け止められる。一見さんお断りのような排他主義がない。ところが理解を拒むような言葉や芸術は、どんなに高尚なものであったとしても、ひとりよがりになる。他者との共感など、心の流通が生まれないんですよね。どんなに高邁な思想であったとしても、理解されないものに価値はない。

この考え方の延長線上として、糸井さんは、頭のいい=好きなひと、頭の悪い=嫌いなひと、という考え方を提示します。好き嫌いで頭のよさを考えている。これが糸井さんらしくてよかった(笑)。まいりました。

言うことがわかる/言いたいことを理解してくれる、そんな他者が「頭のいいひと」である、というわけです。IQとか知識の量というモノサシではなくて、自分と誰かのコミュニケーションつまり関係性で頭のよさを判断しているわけです。だから誰かにとっては頭がいいひとも、別の誰かにとっては頭が悪くなることもあるでしょう。でも、ものすごくわかりますね。

ところで、池谷さんというよりも糸井さんの話からの抜粋になるのですが、「ストッパーを外せる」ひとという考え方も面白かった。若干長い部分ですが引用してみます(P.42)。


ぼくはストッパーを外すことで伸びてきた人間かもしれないです。もとの力を増やすのはものすごくたいへんだけど、ストッパーは意識ではずせますから。

事件にまきこまれたりすると、ストッパーをはずしたり、事件をこっちから飲み込んでしまうぐらいのことをしないと、問題に対処できないじゃないですか。

昔の芸人さんが、事件を起こしたり、たくさん恋愛をしなさいとか言われたのは、ストッパーを外すということに、ちょっと似ているような気がします。

社会と適合しないことをすることで、不慮の事故の処理能力や適応能力が増すんですよね。だから芸人さんは、生活が荒れるようなことを、あえてしたりもする。

ちょうどぼくもこのことを考えていたのですが、ストッパーを外せるということはピュア(純粋)であるともいえます。一方で、きちんとストッパーを機能させることは大人といえるかもしれません。


ストッパーを外すと、過剰な刺激が入り込んでくる。これはまさにぼくが眼科で瞳孔を開く目薬を差していただいた状態で、瞳孔が開ききると過剰な光が飛び込んでくる。目を傷めることになりかねません。けれどもこのときに見えた光は、通常のストッパー状態では考えられもしない感動をもたらすこともあります。


バランスの取れた大人は、ストッパーが完全に機能しています。それは常識や良識かもしれません。しかしながら、外界からの刺激をシャットアウトして強力に機能しているストッパーが外れたとき、逆に非常に打たれ弱くなってしまう。


と、ここで別の文章を思い出してしまったのですが、今週号のR25の巻末コラムで石田衣良さんが書いていた「心のタフネス」でした。


要約すると、最近の話で、新聞社にある優秀な若い記者がいて、当直だったので仕事を終えてジャージに着替えて寝転がって本を読んでいたところ、酔っ払った上司が帰ってきて怒鳴った。おまえ先輩記者が仕事してるのに、何をやってるんだ、と。で、その優秀な記者はどうなったかというと、会社に来られなくなってしまった、とのこと。クリニックに通い、1ヶ月間の長期休職。新聞記者といえばバンカラな印象があるから、なんとなく信じられません。ものすごい競争率を勝ち抜いて入社したエリートばかりでもあります。そんな若者たちが非常に脆い。


コラムを通じて、石田衣良さんは「もろくて壊れやすい」若者たちが増えてしまったのはなぜだろうと疑問を提示すると同時に、「心のタフネス」が必要ではないかということを語ります。


それはひょっとするとストッパーを外しても耐久できるエクササイズができていないから、かもしれない。昔の親たちは、平気で子供をぶん殴りました。ぼくも親父に張り倒された経験があるし、叱られて外に締め出された経験もある。いまそんなことやったら、児童虐待で奥さんから訴えられますよね(苦笑)。親父の権威は失墜している。


当然、ぶん殴ればいいのかというとそうではないのですが、まず親たちが勝手にストッパーを作っています。ストッパーの加減を知らなくなった、といえるかもしれません。過剰に叱り過ぎたり、過剰に何もしなかったりする。適正に叱るということがわからない。叱らないことが誠実である、と思ったりもしている。


ぼくは過剰にストッパーの効いた社会=抑圧された社会は、どこか歪みを生むような気もしています。かといって、抑圧を緩めてそれぞれが強く生きること、強靭であればすべて大丈夫、という短絡思考もどうかと思う。精神の耐久性ではなく他者を蹴落とすようなサバイバルの力でもなく、外部からの力を吸収してしまうようなしなやかな精神を持てないか、ということをずっと考えていて、そのための方策を探りたいのですが、これは信頼という前提があってこそ可能になるものかもしれません。


かつて日本はコミュニティ(ここでは地域社会のことを指します)が非常に機能していて、他人の子供であろうとダメなやつは叱る、という責任を親が引き受けていました。叱るということは他者に対する制裁だけでなく、自分に対しても戒めになるのではないでしょうか。ところがいま、個々は個々のことしか考えないし、地域全体のこと、ましてや日本全体がどうなろうが知ったことではない。個々の利益を追い求めることにせいいっぱいで、他者に何かを与えようとは考えない。むしろ奪うことを考えている。


盲目的なのかもしれませんね。ノイズキャンセラーつきのヘッドホンをかけて、外界のノイズをシャットアウトするような社会です。パブリックな場においても、プライベートな空間が確保できればそれでいいと考える。逆に、そのプライベートを侵害するようなものに対しては過剰に攻撃的になるし、排他的にもなる。


不信感にあふれた社会では、過剰な防衛が崩れたときに、自己は脆くなる。言っても大丈夫、言われても大丈夫、という相互補完的な大丈夫な社会って何だろうと思ったのですが、考えてみるとかつての昭和初期の日本だったのかもしれません。そんな社会であれば失敗しても大丈夫、挑戦すれば大丈夫、という気持ちにもなる。懐古主義に逃避するつもりはありませんが、現在の社会では失敗が命取りになるようなところもあります。寛容ではない。


希望的な観測かもしれないのですが、日本の文化は決して西洋にひけをとるものではなかったのではないか。全面的に諸外国の真似をしなくても、希望を持てるような気がしました。そして自分の国に希望を持たなければ、ぼくらに生きている価値というのはあるのだろうか、とも思う。


隣人を指をくわえてみていてもきりがないし、ないものねだりをしてもまたきりがないので。とはいえ、一方で海外を見渡す視線はかなり重要です。鎖国的に自国を思うのではなく、外部へ開かれたパースペクティブがあってこそ、日本を再発見できるのかもしれません。

投稿者 birdwing : 2007年6月29日 00:00

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8 Comments

koro1837 2007-06-30T22:24

脳内カーニバルいいですね。わたしもよくそういう状態になります。読書やめれないです。

birdwing_tn 2007-07-01T00:14

Koroさんもたくさん本を読まれていますよね。ぼくはといえば、ここしばらく読書に集中できませんでした。やっと読書モードに入ってきたというか。
読書に没頭したあとは、散歩に出かけたくなります。散歩しながら公園や図書館、喫茶店で読書すれば一石二鳥か、とか思ったりして(笑)。

koro1837 2007-07-01T07:54

とってもわかる。わたしもいままでより集中できません。
眼のしょうてんあいません。なんなんでしょうね。一石二鳥いいですね。

birdwing_tn 2007-07-01T11:07

焦点が合わないときは無理をしないでいいと思いますよ。別に読書感想文を書かなきゃいけない宿題ではないので(笑)。

そういえば少年の頃、読書感想文が嫌だったなー。ひねくれた少年だったので、きちんと読みもせずに書いて、そこそこ文章が書けるので、それが褒められたりして。ひねくれ少年は、さらに感想文が嫌になりました。でも、そんな自分の斜に構えた姿勢を見抜いた先生がいて、その先生は信頼できました。ヘッセなどの本をいただいたっけ。感想文抜きで必死で読んだなあ。きりりとした美しい女性の先生だったのですが、まあ気に入られたかったりもしたので(笑)。えーと、これは余談ですけど。

そもそもネットで大量の文章を読んでいるので、身体が活字を拒否しているのかもしれないですね。だから眼の焦点があわないときは、PCやネットを含めて活字から離れて、自然とか、花とか、空とか、海とか、あるいはひととか、そんなものを見つめていれば、自然と焦点も戻ってくるものかもしれません。きっと身体や無意識が拒んでいるのかもしれない。意地をはって身体や無意識をねじふせるのではなく、身体や無意識が発している主張に負けちゃいましょう、潔く。

そうして少しだけ離れたら、またうまく付き合うことができそうな気がします。人間関係もいっしょかもしれないですね。ときには距離を置くことも大切です。

koro1837 2007-07-01T14:29

ありがとう。花や自然などにめをむけてみます。
音楽とかね。

読まなくても感想文かけるなんてすごい。頭いいんですよ。

birdwing_tn 2007-07-01T17:41

いえいえ、そういう頭のよさは誠実ではないと思います(苦笑)。若気の至りだったのですが、作者を馬鹿にしていますね。ぼくが親だったら、昔の自分を張り倒してやりたい(笑)。本ときちんとコミュニケーションしていない、という意味で、昔のぼくは非常に頭悪いと思います。

無知は恥ずかしくないと思うのですが、読んでもいないのにわかったようなことを書くのは恥ずかしいです。ただ、糸井重里さんも書いていましたが、そういう見栄がひとを成長させることもあります。若い頃には大切かもしれません。

多読や速読の必要はないとぼくは感じていて(もちろん必要だと思うひとは多読や速読をすればいいでしょう)、また他人から強制される必要もないので、読みたい本を読みたいときに楽しんで丁寧に読むのがいいのではないでしょうか。

当然ですが、読書以外にも楽しいことはたくさんあって、そういうことを経由しているうちに、また本も読みたくなるものです。koroさんも、無理せず楽しい読書をしてくださいね。

koro1837 2007-07-01T23:26

なんか梅田さんにコメントらんでこころないコメントされました。でも梅田さんがコメントくれたので、安心しました。
暖かいコメントって勇気づけられますね。

あなたのやさしいことばも届いています。むりせずかんばります。

birdwing_tn 2007-07-02T00:05

ふむふむ。あまり頑張らなくてもいいと思うのですが、無理はしないようにしてください。

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