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2007年6月18日

強さが目指すものは。

言葉はときにひとり歩きします。たいていぼくらは書かれたものの全文をじっくり読まない。キャッチーなフレーズだけに焦点を当てて読むことが多い。だから、書き手の意図に反して、ブログに書かれた文章やコメントも一部分だけがクローズアップされてしまう。しかし、書かれたものである以上、どのように解釈されようと仕方ないものかもしれませんね。解釈は自由であり、だからこそ解釈することが創造的な活動にもなる。

ブログ内の言葉に言及しない、社会批判的なことは書かないようにしている、ということを以前に書いたのだけれど、梅田望夫さんのブログの「サバイバルのための人体実験を公開すること」というエントリーについて考えることがあったので、今日はそのことについて書いてみます。

ここでも「サバイバル」「人体実験」が過剰にクローズアップされすぎている感じがしました。というぼくもその言葉について書こうと思っているのですが(苦笑)。

まず最初に梅田さんのブログで何を問題にされているかというと、最近、はてなブックマークをはじめとしたコメントで柄の悪い表現が増えていること、あるいはネットイナゴについても触れて、ネットにおけるサバイバル、強靭さについて言及されています。

一回性の人生を生きる、ということ。

まず「人体実験」という言葉が気にかかったのですが、ぼくもまたブログを通じて人体実験のようにいろいろなことを試みています。梅田さんの「総表現社会」というキーワードに影響を受けて、そのコンセプトを実現すべく、ネットで自作曲を日記のように作っては公開しています。最近はそればっかりになってしまいましたが。

とはいえ「人体実験」に関しては、若干、梅田さんの言葉が与える影響に危惧を感じました。たとえばまだネット初心者の若いひとたちのなかに

「なんか梅田さんの言っていることって新しそう、失敗してもリセットできるからなんでもやればいい、面白いからいいじゃん、どんどん人体実験やれば」

というひとも出てくるような気がします。しかしながら、ぼくはそうした姿勢に疑問を感じます。なぜならば、

人生はリセットできない(ブログはリセットできたとしても)

と、考えるからです。

SFでもなければ、あのときに遡ってもう一度生きる、なんてことはできない。当たり前のことだけれど、やり直すことのできない一回性の人生をぼくらは生きています。

あなたの人生は実験なのか。観察されてデータを収集されるモルモットなのか。梅田さんはあえてご自身の身体で実験しているのだけれど、その実験を面白半分で安易にとらえるべきではないのではないか。

ハードディスクのOSを消して再インストールするように、自己をすべて入れ替えることはできません。やり直すとしてもトラウマや後遺症は必ず残るし、(ぼくが弱いのかもしれませんが)過去のあれこれはそう簡単に忘れられないものです。それほど大きくひとは変われるものではない。過去の想いが自分を縛り、清算されない想いをじっと抱えながら生きていかなければならないこともある。実験が取り戻せない失敗をすれば・・・・・・人生もまた取り戻せなくなる。

ぼくもかつては、「人生は何度もリセットできる!」というオプティミスト的な理想を掲げていたことがありました。だからこそ奔放にブログを書いたこともあった。

けれどもホンネを言ってしまうと、実験なんかしていないで自分の人生をきちんと生きるべきだと思うし(実験ではなく挑戦は必要です)、時間はどんどん過ぎていくからリセットしようにも若さは取り戻せない(苦笑)。リセットしなければならないような状況は、できれば回避したい。辛い思いをするのはしんどい人体実験で学んだ自分だけで十分であって、誰かに実験は勧めたくはない。できればこれから実験を考えているひとには、くだらない実験なんてやめたほうがいい、と進言したい。

もちろん雑草のように踏み潰されても立ち上がる強いひともいるでしょう。何度も何度も人生をやり直して、結果として成功をつかむひともいる。どんなに叩かれても信念を貫くひともいる。しかしながら、世のなかは強者ばかりではない。強者にならなくちゃとわかっていても、なれないひともいるだろうし、弱者であることをあえて選択した生き方もあるような気がします。

かつて格差社会を批判したある雑誌の記事を読んで疑問を感じたのですが、その記事では「下流であるひとたちは努力が足りない、強くなれば変わることができる」というような提言が書かれていました。ぼくはなんとなくその考え方に違和感があった。それはそうだけどさ、なんか違うんじゃないのかな、そんなに簡単なものじゃないんじゃないのでは、と。

そこで深く考えてしまうのは、強さっていったいなんだろう、ということです。

弱者を守ってこそ強者ではないのか。

たとえば、こんな場合はどうでしょう。梅田さんに続けとばかりに人体実験をやるぞと奮起して、過激な発言によって実験を遂行した若いはてな日記のユーザーがいたとします。あまりにも過激なことを書き過ぎてエントリーが炎上してブックマークでも辛辣なコメントが続き、悪質なコメントで収拾が取れなくなり、さらに実名だったので特定の個人を突き止められ、精神的に追い込まれたとする。彼は疲れ果てて、最終的に自分を殺めてしまう。

彼は強靭ではなかった、強くなれなかった、と傍観者の立場で言ってしまうことは容易いでしょう。でも、その批判には生命の重さを感じ取る共感力に欠けているのではないか。そう言い切れるあんたは確かに強いかもしれない、けれども人間についてほんとうにわかってんのか、と憤りを感じる。そしてさらにぼくは次のように考えます。

このとき、システムを提供しているはてなは、企業として、自殺したブロガーのために社会的責任を負えるのだろうか?、と。

「いや、システムは提供しましたが、書くのは個人の責任においてであって、われわれの責任ではありません」と逃げないだろうか。「50%ルールで進めていますが、システムもリテラシーも不完全な維新的な状態だからこういうことも起きる。いずれは改善していくつもりです」といい訳しないだろうか。梅田さんは「彼は弱かったんだ。強靭になればそんなことにはならなくて済んだはずだ」とコメントするのでしょうか(そんなコメントをしないことを祈りつつ)。

言い過ぎかもしれないけれども、彼はブログによって、あるいはブログ社会によって殺されたのであり、はてなのシステムが(ここで、はてなはあくまでも例であり、どんなブログやSNSも同様だと考えます)彼を追い込むのに加担していないとは言い切れない。あるいは彼に影響を与えた(煽った)人間に罪はないのか。

梅田望夫さんは人体実験というけれども、そこまで覚悟があるのなら、企業としても技術やサービスの進化だけでなく、誤った方向に進まないような努力であるとか、抑止するための仕組み、社会的なインフラについて(強靭さについて言及しているよりも)もっと積極的に着手すべきではないでしょうか。もちろん、システム面においては、はてなでは伊藤直也さんがその実現を進めているわけですが、その動きと重ねてみると、梅田さんの「強靭になればいい」という言葉は無責任な気がするし、どうしてもぼくには強者の理論に思えてしまう。

そう。個人の人生論としては、シリコンバレー主義を持ち込んでネット社会で強靭であれ、というのは充分に納得できます。けれども、そこにブックマークの柄の悪いコメントなど、はてなの問題が絡んでくると、どうしてもそちらの文脈の影響を受ける。悪質なコメントに負けない強靭な精神を持て(システムの改善に依存するのではなくて)と勝手に文脈をつないで解釈を進めてしまう。だから不快感を煽るのであって、はてなに関係している人間であればそのふたつを連関させることは問題だと思うし、もう少し慎重な発言が必要なのではないか。

書物を書かれたり、啓蒙されていることは意義があると思うのだけれど、それだけでは(あえて厳しいことを書かせていただけば)不十分のように感じます。梅田さんは具体的なサービスを担うのではなく、はてな自体のソースコードを書いている=企業としてのはてなのビジョンを担っているという考え方もわかる。けれども高邁な理想も具体的なサービスに落とし込まなければ意味がない、とも考えます。

伊藤直也さんがリテラシーの回復とシステム面からの改善を述べていて、ぼくは非常に好感を持ちました。まずはそのことを断っておきます。けれどもここにおいても、一方でぼくは、集合知を利用するのも大切ですが、集合知に依存するのではなく、はてなの企業としての姿勢を示すべきことが重要ではないかと思いました。外部に耳を傾けることも大事だけれど、じっと自らの企業のあり方に耳を澄ますことも大切です。

梅田さんのサバイバル発言は個人の人生論としては十分に意義があり、そういう生き方もあるのだけれど、はてなのシステムを改善する上では構想として何も機能しない気がするのが残念です。つまり、強靭であれ、という言葉自体が思考停止を招く。強靭ではないものにとっては途方に暮れるだけです。

これはあらゆる企業においても言及できることかもしれません。理想を掲げるのは容易いものです。さらに「そのことはずいぶん前に言った」という発言をよく聞くのだけれども、言ったと言及するのもまた容易い。しかしながらリーダーやマネージャーであれば、言ったことを計画や行動に変え、組織を指揮して発言を実現に向けて動かさなければ意味がない。言うだけなら誰にでもできるわけで。

たとえば、交通事故を起こすのはドライバーの責任だ、と言うこともできますよね。でも、自動車メーカーは被害を最小限にとどめるべく企業努力をしています。最近、倫理のねじが緩みがちなところもあるかもしれないのですが、それでもより安全な社会を実現するために努力している。それが企業の信頼につながり、本質的なブランド価値にもなる。だから安心してそのメーカーのクルマを選ぶ。

情報化社会を生き抜くためには、個々が強くなり、自衛の力を付けること(簡単に言ってしまうとスルーする力かもしれないのですが)も大切だと思います。けれども、社会において強者である企業は弱者である個を守るための活動を重視すべきではないか、と思う。それは集合知であるみなさんからアイディアを募集しましょう、という問題ではないのではないか。サービスを提供している企業の倫理として、企業が頭を悩ませて、決定しなければならないことではないでしょうか。

イジメについての問題に通じるところもあるかもしれません。イジメられている人間に強く生きろ、ということは簡単です。けれども、強さこそがすべて、というのはなんとなく湾岸戦争などにおけるアメリカ的な力の理論であって、ものごとはそれほど単純なものではなく、強さですべてを片づけるのはあまりにも無責任な気がする。確かにエグゼクティブである梅田さんや一部の特権的なブロガーだからこそ、強靭な力によって勝ち残れ、という言葉も重みがあるのかもしれない。けれども特権的であるからこそ見えないこともあるのではないか。

強者だからこそ弱者を守る論理がなければいけないと思います。

ぼくも強くなりたいと思うのだけれど、ぼくが強くなれるなら、弱いものを守るために強くなりたいですね。青臭い理想論かもしれないのですが、ヒーローがなぜ存在するかというと、弱いものを守るためにある。とかなんとか書きつつ、そもそも体調不調ばかりのぼくは強くなれませんが(苦笑)。

実験を受け止められる社会でなければ。

人体実験的にブログを利用して過激な発言をしてみたり、ぎりぎりのプライベートをパブリックに公開してみることによって、ぼくも痛い目をみたり、凹んだりもしました(苦笑)。確かに強靭であることは重要で、ブログを続けていると強くなれることも確かです。いや、ほんとうに打たれ強くなりますね、これは。1年前と比べるとずいぶん強くなりました。

ただ、すべてのひとがネットのネガティブな部分を受け止められるかというと、疑問を感じます。冒頭にも書きましたが、ぼくらの人生は実験用のモルモットではない。失敗したら替えがあるわけではない。テキストだけの情報は簡単に削除できたとしても、その背景にリアルな命という価値があり、テキストと身体はまるっきり別々ではない。テキストの文体のなかに、生々しい身体性が息吹いていることもある。

ぼくがなぜ人体実験的な危険を冒すかといえば、アタマが悪いので経験してみなければわからないということもあるのだけれど、幼いふたりの息子のため、ということもおぼろげに考えていました。これから情報化社会を生きていく子供たちのために、どんな恩恵があり、どんな闇があるのか、また危機に直面したときどのような回避ができるのか、父親として知っておいたほうがいいかな、という気がした。まあ、それほど強く意識していたわけではありませんが。

ぼくは決して梅田望夫さんの姿勢を否定しているのではなく、つまり覚悟ができているからこそ、ご自身を人体実験的に使って身をはってネット社会を体験されているのだと思う。シニアの人間、つまり大人たちは次世代のための実験をどんどんすべきだと思うし、ネットのなかの「親」として弱者である「子(=個?)」を守る必要がある。

しかしながら、実験しても失敗を取り戻せるインフラがなければ、実験することが致命的になることもありますよね。シリコンバレーのような場所では何度もやり直しができる文化であっても、現実の日本においてはまだまだ困難かもしれない。かつて明治維新の頃には、欧米に倣え!ということがあったかもしれないけれど、いますべてをシリコンバレー風あるいは欧米のようにすれば解決できるかと言うと、そうでもないんじゃないか。

逆に日本だからこそ意義のある文化もあるのではないか。

システムを育てるのではなく、個を育てるために。

集合知という言葉は好きだけれど、ぼくは、人間ひとりひとりが全体のシステムの構成要素である、という考え方はあまり好きじゃないですね。人間はシステムのコンポーネントではないし、プログラミングの一部でもない。全体の関係性、もしくは社会的な文脈のなかに生きているけれども、個々はやっぱり個であると思う。

「個」は「孤」なのかもしれないけれど、だからこそ数百万分の一ではなく、一分の一の尊さがある。一分の一の尊さを記述できるのがブログのすばらしさであって、もちろん全体のためにやっているひともいるかもしれないけれど、すばらしい多様性である個=弧は、それぞれ勝手がいい。個=孤の自律なくして、全体に対する協調もないと思う。

そんな個をインキュベーションする場所がネットではないかと思うのですが、インキュベーションするのはシステムではなくて個という人間です。そして、そのためには全員が実験をする必要はなくて、実験を受け止められる成熟した大人=親となれる人々が必要だと思う。

ここで言う大人は年齢的なものではなく、アスキーアートで遊んでいるだけの大人ははたして大人なのだろうか?と首を傾げたくもなるし、逆に20代であっても世界に目を向けてたくさんの本を読み、新しい技術を貪欲に吸収して新たな何かを構築しようとしている人物は立派な大人ではないかとぼくは思います。年齢や職業に関わらず、実験に許容力があるひともいるし、実験すべきでないひともいる。それを見極める必要があり、誰でも実験すればいいというものではない。

と、いつになく超・長文で語りまくりましたが、ぼくもDTMで遊んでばかりではなく、精神のほうを少しばかり大人にしていきたい(苦笑)。というわけで久し振りに少し真面目に考えてみました。

投稿者 birdwing : 2007年6月18日 00:00

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