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2010年1月 7日

「醜い日本の私」中島義道

▼book10-01:日本文化のきれいごと、醜さを見抜く。

4101467285醜い日本の私 (新潮文庫)
新潮社 2009-11-28

by G-Tools

けばけばしい商店街の装飾。エンドレステープによる店頭の呼び込み。まったく役に立っていない「放置自転車はやめましょう」の貼紙。マニュアルにしたがって機械的な挨拶を繰り返すファーストフードやコンビ二の店員。騒がしい防災放送・・・などなど。

一般人としてはスルーしてしまいそうな、生活に根ざした日本文化の「醜さ」について、闘う哲学者である中島義道さんが独自の感性で糾弾していきます。「うるさい日本の私」の続編的な本です。

以前は新潮選書でした。文庫化されたので購入したのだけれど、原色の造花の写真をコラージュとして掲載した表紙は、中島義道さんの本らしくない。というのも彼の本の大半は、どちらかといえばシンプルであったり、絵画調の装丁だったからです。内容に合わせて派手にしたのでしょうが、中島さんが嫌う原色の装飾のコラージュにしなくてもいいのでは。装丁としてはいまひとつ。

内容を読み進めて、なるほど、とおもったのは、日本の祭りにおける夜店のけばけばしさが、渋谷や新宿などのイルミネーションにつながり、べたべたと飾られた垂れ幕などにも継承されている、ということです。

そうか、繁華街というのは毎日がお祭り(ハレ)なのだな、と納得しました。

とはいえ、お祭り好きな自分としては、ごたごた感も悪くない、とおもいます。中島義道さんが独自の美的感性によってお祭り的な装飾を嫌うのもわかるのだけれど、しーんと静まって垂れ幕のひとつもない商店街は、どこか活気に欠けるのではないか。ハレの場だからお金もぱあっと使っちゃおう、と販売促進にも寄与するのではないでしょうか。

ごてごて感を下町文化と考え、あったかいものとして受け入れる感性もあります。人間と人間のふれあいを大切にした、懐かしい感覚が残っている気がする。

一方で現在の商店街の装飾について個人的な印象を述べると、品のない過剰な客寄せの垂れ幕(またはPOP)は、消費者に「媚び」た感じが気持ち悪い。

最近のDVDショップなどでは、カリスマバイヤーのおすすめ、だとか、消費者の感動の声、などを表示することも多くなりました。これらは媚び感が薄れている気もするのだけれど、戦略的(意図的)に媚び感を薄れさせているのだとすれば、もっと気持ち悪い悪質さを感じます。

洋画の映画で日本のシーンになると、なぜか繁華街のごちゃごちゃした風景ばかりが映し出されて苦笑します。外国人がイメージする日本は、依然としてアジアの片隅の雑然とした国なのでしょうね。その雑然さのなかに感じるのは、構ってちょうだい、みていってちょうだい、というストリートガールのような猥雑な「媚び」です。その媚びが谷崎潤一郎文学的な官能と陰翳に表現されている場所もあります。うまく言い分けられないのですが、そういう文化的な澱みのような場所には、ぼくはあまり嫌悪感を抱かない。いいとおもいます。

視覚的なものから聴覚的なものに論点を移すと、肉声による客寄せの言葉とテープなど機械によるオートリピートの宣伝は、コミュニケーションの観点から考えると、まったくの別物と考えられます。

肉声であれば、「おばちゃん今日は白菜が安いよ」「あらどうしようかしら」などの双方向的なコミュニケーションが成立する。しかし機械的な宣伝は一方的であり、やりすぎると騒がしいだけです。ノイズとして、脳のなかでフィルタリングされてしまう。聞こえているのだけれど、聞こえない。

そういえば、うちの近くのスーパーで一時期、景気のいいオリジナルソングらしきものを店頭のラジカセで大音量で流していたことがありました。しかし、いつの間にか消えてしまった。道を歩いていて何気なく耳に入ってくるのだけれど、それだけでも気恥ずかしい。なんだこりゃ的な苦笑ものの歌詞だったので、消滅して当然でしょう。制作費は無駄に消えたに違いありません。もったいない。

中島義道さんは、電信柱と電線も嫌っています。

100107_densen.jpg空好きなぼくとしては、障害物のない場所で、だだっぴろい空を眺めることができるのはうれしい。しかし同時に、電信柱と電線のある風景も嫌いではありません。むしろ趣きがあると感じるときもあります。

また、いまから日本の電線をすべて地下に、といったところで、移行費にかかるコストを算出すると、とんでもない予算が必要になる。これだけ電線が張り巡らされてしまうと、身動きが取れません。日本の都市部は、縦横無尽に走る電線によって景観が縛り付けられている。こうなる前に計画的に日本の景観を考えるべきだったのではないでしょうか。

日本における自然という言葉の意義を次のように解説しています(P.69)。

私も以前、日本人にとって「自然」とは固有の領域ではなく「副詞的自然」つまり自然にという意味しかもたない、と論じたことがある(『日本人を<半分>降りる』ちくま文庫)。すなわち、わが国では自然は人工や人為の対極にある概念ではなく、むしろそれは微妙な仕方で人為と融合している。

商店街のけばけばしい装飾や電信柱の林立する風景は、「自然に」そうなっちゃった。そして、中島義道のようなひとではない限り、それを自然に容認する。異議をとなえない。「自然に」自分たち日本の景観として受け入れてしまう。

言葉の問題が出てきたので話題をかえて、言葉について論じている部分で注目した箇所をいくつか抜粋します。まずは、すこし長いのだけれど、彼が嫌悪する日本の言語観、コンテクスト(文脈)の機能について言及しているところ(P.131)。

日本人の言葉の使い方一般に対して、私は大いなる違和感と嫌悪感をもっている。それは、おいおい述べていくが、ひとことで言えば、言葉の文字通りの意味を尊重しないこと、よって(書かれたあるいは言われた)言葉に反することをしても平然としていること・・・・・・つまり言葉を「信じない」ことである。
この背景として、社会学者は「ハイ・コンテクスチュアル・カルチャー(high contextual culture)」という概念を提示している。言葉自体を状況=コンテクストから独立に尊重する文化は「ロウ・コンテクスチュアル・カルチャー(low contextual culture)」と呼ばれ、これを代表する文化は欧米文化(とくに来たヨーロッパやアメリカ文化)である。これとは異なり、言葉を常に状況との関連で理解しようとする態度が濃厚な文化を「ハイ・コンテクスチュアル・カルチャー」というわけだ。日本はこの典型であり、人々は言葉の文字通りの意味よりその「裏」を読もうとする。そう語った「真意」を探ろうとする。

確かに日々実感していることですが日本語は曖昧であり、どういう場面で語られているか文脈を理解しないと、まったく逆の意味に解釈してしまうことさえあります。また、曖昧だからこそ「裏」を読もうとする。

ぜったいに謝らない西欧人に比べて、日本人は簡単に謝ってしまうのだけれど、ほんとうに悪いと「言葉通りに」自省しているかというとそんなことはない場合もあります。形式的な謝罪も多い。言葉を重視していながら反面、言葉を信じていない、という二律背反の状況もよくわかります。したがって、形式的な謝辞や注意の喚起は「祝詞」である、という皮肉な指摘にも頷くことができます(P.140)。

言語哲学者の加賀野井秀一は、こういう日本人の言語観を「言霊思想」と呼んでいる(『日本語は進化する』NHKブックス、『日本語を叱る!』ちくま新書)。日本人の言語使用にあたっては、言葉はその意味伝達機能を無限に希薄化され、ただ「語っていること」が異様に前景に出てくる。加賀野井が言っているように、その典型例は「祝詞」であって、「交通安全」も、「駅前放置自転車クリーンキャンペーン」も祝詞なのである。

実際のコミュニケーション機能から表層の言葉だけが剥がれて形骸化すると、「嘘」になります。眼前の現実を無視した「きれいごと」にもなるわけです。オリンピック選手が「みなさんのおかげです」とコメントすることを、中島義道は自分の絶え間ない努力と能力によって勝ち得たという胸のうちを表明しない「悪質な嘘」といっています(P.156)。

ここには、自分の本心を徹底的に探ろうとしない怠惰さが世間から排斥されたくないという計算高さと融合している。だからこそ、じつは人を害する嘘より数段悪質な嘘なのである。

「みなさんのおかげです」は公共の場におけるステレオタイプの文句であり、選手個人が感じていることは他にもいくつかあるでしょう。しかし、一位の選手がドーピングしたおかげで、とか、すべて自分の努力と実力で、などとは言いにくいものです(P.156)。

こうして、われわれ日本人は、公共空間で発話しようとするやいなや、自分が「ほんとうに思っていること」と「思うべきこと」とが渾然一体になってしまい、いわば"will(語りたいこと)"と"should(語るべきこと)"との境界が消えてしまう。「語りたいこと」は「語るべきこと」に隅々まで管理され、チェックされ、こうして徹底的に濾過された無難な言葉だけが、公共空間に飛び散る。

自由な発言が許されるようにみえるインターネットも、公共空間である以上、語りたいことが語るべきことに管理されることがあります。ペルソナ(仮面)を被った書き手による演技といえなくもないでしょう(P.157)。

社会学の専門用語を使えば、演技には「表層演技(surface acting)」と「深層演技(deep acting)」がある。前者はいわゆる演技として見透かされるような演技であるが、後者は、まったく面識のない人の葬式に言っても自然に涙が流れるとか、どんなつまらないものを贈られても、飛び上がらんばかりに喜んでしまう・・・・・・というように、その人の性格にまで、あるいは体質にまでなっているほどの演技である。つまり、社会的に期待されていることを、ごく自然にできてしまう演技である。

この深層演技の達人に対して、中島義道は不愉快をあらわにします。

なぜなら、演技するということは、自ら考えることを放棄して自分の内面を隠して、他者に「期待されている自分」をあたかも自分自身の考えのように振る舞うからです。

ここまで考えを進めて、商店街の垂れ幕や電信柱や防災放送の騒音など、中島義道が嫌悪するものを振り返ってみると、彼が批判している醜さとは、

「思考停止した日本の文化」

であることがわかりました。「お年寄りを大事にしましょう」「放置自転車を追放しましょう」など、とりえあえずカタチを整えました、言っておけばいいか、という姿勢によるスローガン(=祝詞)。一方的にがなりたてて注意を促せばよしとする防災放送。いつしかこんな景観に「自然に」なってしまった絡み合うような電線の空。公共空間の設計は無計画であり、その場所を飛び交う言葉は徹底的に濾過され、きれいに磨かれた表現です。けれどもだからこそ嘘っぽい。きれいごとに聞こえる。

社交辞令や定型的なスローガンは社会を円滑にするために必要な言葉だったとしても、無意識のように「演技」できるようになってしまうと、本心と言葉が乖離します。自分が何を言っているのか認識し、それは現実と違う、あるいは自分はそうは考えない、という感性は錆びさせるべきではありません。

中島義道さんのように意固地にならなくても、ああ、自分はいまお決まりの演技をしているな、期待されている言葉や行動をしている、しかし本心は別のところにある、という自省は大切です。言葉と本心のギャップに後悔したとしても、罪悪感なしにスルーするより、後悔できる繊細な感性をもっているほうがいい。

しかしながら、ここで著者である中島義道さんについて冷静に考えてみます。

文庫に挟みこまれていた新刊案内に彼の写真があったのですが、かっこよかったなあ。それはともかく(笑)。

100107_nakajima.JPG

哲学者としての問題提議は興味深いのだけれど、現実的かつ合理的に考えると、問題提議の「その後」が重要になる。

改善策を考えずに感性として醜い醜いだけ言及しているだけなら、クレームだけを騒いでいる偏屈じいさんでしかあり得ません。言いたいことを言ってのける面白いひとですが、騒音問題や商店街の美化、電線の醜さを訴える彼は、どこかただの「困ったじいさん」にもみえる。だから哲学者は困りものだ、という気持ちも率直なところあります。

クレームだけでは何の解決にもなりません。じゃあどうする、ということをビジネスあるいは行政による改革の施策として考えなければ。

問題提議をするひとは大切で、ああ、そういう感性もあるのだな、という新たな視点を提示してもらえる点では興味深いのだけれど、いつまでたっても「祝詞」で終わってしまうのであれば、彼の発言もまた、形骸化された演技のひとつではないでしょうか(騒がしい店外放送をやめさせるなど、行動によっていくつかの成果はあったようですけれどね)。

とはいえ、あえて問題提議する「醜い」自分を曝け出す中島義道さんの強さには、毎度のことながら、彼の著作を読むたびに、がつんと打たれます。

何かがおかしいとおもっていたとしても、ぼくらには行政にクレームをぶつける勇気や気力さえない。腑抜けて、まあいいか、と黙り込む。さわらぬ神に祟りなしと問題から目を背けることが多い。余計な波風を立てない。

空気を乱さない沈黙を善とする日本の社会において、中島義道的な強靭な存在は特異です。だからこそ魅力的なのだなあ、ぼくにとっては。

投稿者 birdwing : 2010年1月 7日 19:45

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