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2012年9月 9日

『草枕』を読みなおす。

夏目漱石という文豪の作品のひとつに『草枕』があります。漱石の作品は『こころ』『吾輩は猫である』『坊っちゃん』あたりが有名ですが、『草枕』はあまり有名ではないかもしれません。

ぼくは大学の卒論に『草枕』を選びました。卒論のタイトルは、「漂泊のエクリチュール : 『草枕』論」。エクリチュールとは要するに「書き言葉」なのですが、『草枕』という作品に書かれた文体と主人公である画工の身体との関係を論じたものでした。

ところで、久し振りに大学時代のゼミの恩師である小森陽一先生に会い、『草枕』という作品に対する関心が高まりました。自宅には、以前買った岩波書店の漱石全集(第二次刊行)全28巻+別巻1がどーんと並んでいて老後のために取っておいてあります。とはいえ、老後に読まずに終わる可能性も高いわけで、まずは『草枕』から読んでみることにしました。

この1週間ばかり、朝の連投ツイッターで『草枕』を読んで考えたことをまとめてきました。論文ではなく、あくまでも感想なのですが、その内容をあらためて見直し、日付順だった構成を入れ替えて全体を読めるものに加筆修正しました。以下にエントリします。

なお、見出しの横にある日付は実際にツイートした日であり、元の原稿が気になる方はぼくのツイログをご覧ください。引用した文章とページ数は、岩波書店の漱石全集第三巻によるものです。

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『草枕』を読みなおす。

soseki120908.JPGのサムネール画像


■漂泊する文体と身体。(9月8日)

夏目漱石の『草枕』は、小説とも、哲学的なエッセイとも、漢詩や俳句を散りばめて絵画について言及した芸術論とも読み取れる風変わりな作品である。冒頭の次の文章は有名だ。

山路を登りながら、かう考へた。
智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。(P.1)
この文章を読むと、主人公である画工は「山路を登りながら」「考へた」ことがわかる。つまり山路という傾斜を重力に逆らって登りながら考えた文体なのである。一歩一歩踏みしめる身体は短いリズムを作る。身体と文体は密接に関わっている。身体論×文体論が展開できる。

いったい画工はどこへ登ろうとしているのか。山路を登る視界の先にあるのは「非人情」の世界である。「人情」という住みにくい俗世間を離れて、画工は上昇する身体の姿勢によって「非人情」の世界を目指している。ところが路の途中で彼は「突然座りの悪い角石の端を踏み損なつた」。

余の考がこゝ迄漂流して来た時に、余の右足は突然坐りのわるい角石の端を踏み損くなつた。平衡を保つ為めに、すはやと前に飛び出した左足が、仕損じの埋め合せをすると共に、余の腰は具合よく方三尺程な岩の上に卸りた。肩にかけた絵の具箱が脇の下から踊り出した丈で、幸ひと何の事もなかった。(P.5)

路の上にある石に躓いた画工は、視線の先に「バケツを伏せた様な峰が聳えて居る」ことをみる。非人情の世界は峰の向こうにあるのではないか。人情の世界から非人情の世界へ「路はすこぶる難儀だ」と画工は語る。ゴシップ的な俗にまみれた「人の世」から俗世を超越した詩や画の非人情の世界には、なかなか到達できない。

『草枕』の物語全体を貫いているテーマは、画工の「人情」の世界から「非人情」の世界に漂泊する彼の試みである。ところが非人情の世界に達したかとおもうと、那古井の里にまつわる逸話に興味を抱いたり、那美さんという女性が湯に入る裸に惑わされたり、非人情の世界に至ることができない。

那古井の湯に仰向けに浸かって画工の視点がどこへ向かうかといえば、天井を通り越した天上の世界だ。山路を登る傾斜した身体の向かう先が非人情の世界であったことと同様、彼は湯のなかに横たわっても漂泊を続けている。画工は非人情の世界に辿り着けるのか。その関心が読者を漂泊にいざなう。


■波動する身体。(09月04日)

湯に浮かんで画工が見る波(=那美さん)は画工のこころに波紋を描く。

音も「波」である。音波が鼓膜を震えさせる。心拍数も波形であらわされる。「歩く」ときの身体の揺れもまた波といえるかもしれない。バイオリズムも長期的な身体の波であり、吐いて吸う深呼吸も身体を波打たせる。月経も波。人間の身体にはさまざまな波がある。身体を波動させることで生きている。

峰の連なりもまた「波」のようだ。峰から遠ざかったり近づいたりするとき、峰の連なりはさまざまな波にかたちを変える。峰という波が動く。『アフォーダンス-新しい認知の理論 (岩波科学ライブラリー (12))』では自分が動くと世界が動くというような理論が書かれている。風景を波立たせるのは自分の歩みだ。


4000065122アフォーダンス-新しい認知の理論 (岩波科学ライブラリー (12))
佐々木 正人
岩波書店 1994-05-23

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波動にはリズムがある。人間の身体を波立たせるとリズムが生まれる。呼吸という波もリズムをつくる。「自分の呼吸のリズムが他の人と共有されると、受け入れられているという自己肯定感が生まれてきます。」と齋藤孝氏は「呼吸入門 (角川文庫)」で書いた。このリズムを踏み外してはいけない。


4043786034呼吸入門 (角川文庫)
齋藤 孝
角川グループパブリッシング 2008-04-25

by G-Tools


対話もまた、相手と呼吸を合わせることが大事になる。相手の心拍に耳を澄ます。相手の呼吸をはかる。うまく相手のリズムと同期させることができると対話は弾む。同期できないと対話は波形の乱れた噛み合わないものになる。相手の呼吸と心拍数に合った対話は共感を生み、言葉をうつくしく波立たせる。

うつくしい波は連続体であるけれど、時間軸にしたがって切り出せば「刹那」の「美」になる。つまり静止した刹那の「画」を連続すると動きが生じ、ぼくらの世界は「生きる」。生きるということは刹那を波立たせることであり、波立つ身体の動きが世界をあざやかに変える。世界は刹那の連続体である。


■動くもの、動かぬもの。(09月06日)

人生は立ち止まらない。巻き戻すこともできない。感「情」は移ろいながら次々と変わっていく。「発話(parole)」は時間という線上に並び、最初に発話されたものから空間に消えていく。ところが消えていく言葉を書き留めた「書かれた言葉(écriture)」は情報として永遠に残る。

動画に対して写真は瞬間を切り取る。カメラは一瞬の風景を写す。インターネットの動画やデジタルビデオでは、一秒間に切り出すコマ数を「fps(Frames Per Second)」という単位で示している。1秒間に60回の静止画を記録した60fpsあれば、滑らかな動画になるという。

詩などの書かれた言葉あるいは「画」「写真」は、風景を切り取る。同様にこころというカメラも、視界のファインダーを通して瞬間を切り取る。カメラで切り取られた人物の表情は「情」を写しているようだが、移ろいゆく情は失われていて、どちらかといえば風景に近い。記録された写真や言葉は人情を超越した「非人情」の世界だ。

丹青は画架に向かつて塗沫せんでも五彩の絢爛は自から心眼に映る。只おのが住む世を、かく観じ得て、霊台方寸のカメラに澆季溷濁の俗界を清くうらゝかに収め得れば足る。(P.4 )

詩あるいは絵画は静止している。静止しているものは「死」である。だからこそ「永遠」である。一方で、感情や物語は時間軸の上で動いている。変化するものは「生」といえるだろう。書かれた物語は何度も読み直すことができそうだが、物語を読む行為、つまり登場人物の「生」を辿る物語は基本的に一回性のものである。

動いている感情や人生は描きにくい。過去という静止画になったときに、はじめて描くことができる。しかし、もはや動かない過去の世界は「死」んでいる。ぼくらの動いている「生」は過去という動かない「死」を内包しながら、各々がそれぞれの主人公として動き続ける。生死の連続体として世界は成立しているのである。


■詩人という生き方。(9月3日)

「死」について考察した。では、「詩」とはなんだろう。音楽の歌詞を作る「詞」とは違うようだ。「小説」とも違っている。幼少の頃、改行された作文が詩であると考えていた。ところが「散文詩」というものに出会って混乱した。散文詩は改行されていない。だが詩なのである。

日本の詩である短歌や俳句は文字数が決まっている。短歌であれば五・七・五・七・七の五句体であり、俳句であれば五・七・五である。音韻として一定の時間的長さを持った音の文節単位を「モーラ」というそうだが、短歌は31モーラ、俳句は17モーラ。しかし形式だけが詩ではない。内容が求められる。

詩人とは自分の死骸を、自分で解剖して、其病状を天下に発表する義務を有して居る。其方便は色々あるが一番手近なのは何でも蚊でも手当たり次第十七字にまとめて見るのが一番いゝ。十七字は詩形として尤も軽便であるから。顔を洗ふ時にも、厠に上った時にも電車に乗つた時にも、容易にできる。十七字が容易に出来ると云ふ意味は安直に詩人になれると云ふ意味であって、詩人になると云ふのは一種の悟りであるから軽便だと云つて侮辱する必要はない。 (P.35 )

「物語」は構成要素を時間軸で並べることができる。一方で「詩」には時間軸という観点がない。時間的な視点から考えると詩は「映画」より「絵画」「写真」に似ている。物語や映画は、ばらばらに場面を構成していたとしても並べ替えて時間の流れを把握できる。詩や写真や絵画は瞬間を切り取っている。物語が有限の「生」であるのに対して、詩は「死」であり、ゆえに永遠なのだ。

人生は「時間軸」上に線的(リニア)な順序で並べられた物語である。ところが詩は時間軸という文法を超越している。時間軸でつながれた世界は「情」の世界である。詩に「人情」はあるが詩ごころは別の世界に超越している。「詩」から人情的な俗念を放棄した「非人情」が「刹那」の「画」となるのではないか。

苦しんだり、怒つたり、騒いだり、泣いたりは人の世につきものだ。余も三十年の間それを仕通して、飽々した。飽き々々した上に芝居や小説で同じ刺激を繰り返しては大変だ。余が欲する詩はそんな世間的の人情を鼓舞する様なものではない。俗念を放棄して、しばらくでも塵界を離れた心持になれる詩である。(P9)

小説を書くのは小説-家、詩を書くのは詩-人。作家も脚本家も「家」だ。家とは職業を意味するものだろうか。文章を書いてお金を儲けるひとびとかもしれない。特に詩人は別格の人種のようだ。詩人は「人」でありながら金儲けの俗世を超越している。「非人情」の世界でしか生きられない。それが詩人のようだ。


■絵画と色について。(09月07日)

鉛筆によるデッサンはモノクロームである。白い画用紙の上に幾重もの黒い輪郭で描かれる。風景や静物だけでなく人物も描かれる。精緻に描かれることもあるが、たいていその存在の情に踏み込むことはない。一方、水墨画はさらに抽象的で、風景のなかにあっても人物の存在はひとつの「点景」になる。

画中の人物は動かない。想像のなかで動いたとしても、静止画の連続した風景にすぎない。遠くから眺めているのであればなおさらだ。こころの動き、すなわち「情」まで画にできない。移ろう人間のこころを画で描写することは難しい。人間の姿かたちを「点景」として描くことだけが可能である。

余も是から逢ふ人物を――百姓も、町人も、村役場の書記も、爺さんも婆さんも――悉く大自然の点景として描き出されたものと仮定して取こなして見様。尤も画中の人物と違つて、彼等はおのがじゝ勝手な真似をするだらう。然し普通の小説家の様に其勝手な真似の根本を探ぐつて、心理作用に立ち入つたり、人事葛藤の詮議立てをしては俗になる。(P.12)

西洋画の油絵や水彩画は彩色されている。画に「色」が着く。色は写実的である場合もあるし、点描画のように色彩の要素の集まりにこだわったものや、フェルメールのように光に忠実なものもある。とはいえ、やはり画のなかに「情」はない。刹那で切り取られた「情」の断片は、画のなかに閉じ込められた瞬間に死んでしまう。

たくさんの料理が並ぶ食卓は彩りが豊かである。ほんらい食「欲」を促すための色であるが、画家が綺麗だと色にこだわるのであれば人間の欲と情から距離を置いている。食べる人間の食欲を無視して一枚の画として視界に取り込んだことになる。あたたかい料理は冷めるが画は冷めない。画のなかで料理は永遠に新鮮さを保っている。

ターナーが或る晩餐の席で、皿に盛るサラドを見つめながら、涼しい色だ、是がわしの用ゐた色だと傍の人に話したと云ふ逸事をある書物で読んだ事があるが、此海老と蕨の色を一寸ターナーに見せてやりたい。一体西洋の食物で色のいゝものは一つもない。あればサラドとと赤大根位なものだ(P.45)

漱石は『草枕』のなかで赤にこだわっているようだ。赤は血痕の色であり、生命の色として喩えられているのかもしれない。しかし対比的に死の上に浮遊する色でもある。椿の花が水面に落ちるシーン。

見てゐると、ぽたり赤い奴が水の上に落ちた。静かな春に動いたものは只此一輪である。しばらくすると又ぽたり落ちた。あの花は決して散らない。崩れるよりも、かたまつた儘枝を離れる。離れるときは一度に離れるから、未練のない様に見えるが、落ちてもかたまつて居る所は、何となく毒々しい。又ぽたり落ちる。あゝやつて落ちてゐるうちに、池の水が赤くなるだらうと考へた。花が静かに浮いて居る辺は今でも少々赤い様な気がする。(P.122)

画のテーマには裸婦もある。衣服に包まれた何かを剥ぎ取るのはなぜか。肉感を強調するのはなぜか。裸体が「うつくしきもの」であるという考えからだ。ところが裸体をありのままに描くと低俗になる。性つまり「色」の欲にまみれるからだ。裸体の美は抽象を纏っていたほうがいい。抽象化された裸体は美しい。

湯のなかから眺める那美さんの裸体を画工は、一枚の画として観ている。だから俗を超越した芸術のような評論が生まれる。

しかも此姿は普通の裸体のごとく露骨に、余が目の前に突きつけられては居らぬ。凡てのものを幽玄に化する一種の霊氛のなかに髣髴として、十分の美を奥床しくもほのめかして居るに過ぎぬ。片鱗を潑墨寂漓の間に点じて、虬龍の快を、楮毫の他にも想像せしむるが如く、芸術的に観じて申し分のない、空気と、あたゝかみと、冥邈なる調子とを具へて居る。六々三十六鱗を丁寧に描きたる龍の、滑稽に落つるが事実ならば、赤裸々の肉を浄洒々に眺めぬうちに神住の余韻はある。余は此輪廓の目に落ちた時、桂の都を逃れた月界の嫦娥が、彩虹の追手に取り囲まれて、しばらく躊躇する姿と眺めた。(P.92)


sosekizensyu.JPG


■三角形の恋。(09月05日)

「恋」は物語のテーマになる。ゴシップにもなる。しかしながら成就する恋は面白みがない。成就しない恋、許されない恋こそが物語の主題にもなり、読者が好むものである。許されない恋とは、不倫、三角関係、友人の恋人を奪うこと、既婚者に恋焦がれることなど。夏目漱石が好むテーマでもあった。

許されない恋は失う恋、つまり結果として失恋することになる。失恋を当事者がさなかに情にまかせて書き殴っても文章としての面白みはないだろう。失恋はすっかり終わってしまってから客観的に振り返り、ふたりの恋の歴史を第三者として記録するからこそ意義がある。詩や画として眺めることができる。

怖いものも只怖いもの其儘の姿と見れば詩になる。凄い事も、己を離れて、只単独に凄いのだと思へば画になる。失恋が芸術の題目となるのも全くその通りである。失恋の苦しいを忘れて、其やさしい所やら、同情の宿るところやら、憂のこもる所やら、一歩進めて云へば失恋の苦しみ其物の溢るゝ所やらを、単に客観的に眼前に思ひ浮かべるから文学美術の材料になる。(P.33)

三角の関係について考える。四角形のそれぞれの頂点は、つながれないひとつの頂点をもつ。しかしながら三角形は、それぞれの頂点が他のふたつと関係している。男女という関係を頂点に割り振ると男男女と女女男の三角関係がある。よく描かれるのは一般的に前者ではないだろうか。ひとりの女を奪い合う。

「那古井の嬢様にも二人の男が祟りました。一人は嬢様が京都へ修行に出て御出での頃御逢ひなさつたので、一人はこゝの城下で随一の物持ちで御座んす」(P.25)

四角な人間関係は利害のない他者がひとり介入するため「常識」が維持される。しかし、その第三者の常識を失った三角関係は、それぞれが当事者であり客観性を失いがちになる。情に流されやすくなる。だからこそ、このとき三角のうちのひとりが当事者でありながら客観性を失わなければ、芸術に昇華されるだろう。

旅行をする間は常人の心持で、曾遊を語るときは既に詩人の態度にあるから、こんな矛盾が起こる。して見ると四角な世界から常識と名のつく、一角を磨滅して、三角のうちに住むのを芸術家と呼んでもよかろう。(P.33)

恋は楽しい。それよりもずっと苦しい。苦しさを「三本の松」のように風景として眺め、「三味の音」つまり三味線の音の像のように臨場感のある「パノラマ」として展開できるようになれば、芸術になる。みずからの恋を芸術として観賞したり聴く人間はいないかもしれない。しかし、客観性のある恋は芸術である。

三本の松は未だに好い格好で残つて居るかしらん。鉄燈籠はもう壊れたに相違ない。春の草は昔し、しやがんだ人を覚えて居るだらうか。その時ですら、口もきかずに過ぎたものを、今に見知らう筈がない。御倉さんの旅の衣は鈴懸のと云ふ、日ごとの声もよも聞き覚えがあるとは云ふまい。
三味の音が思はぬパノラマを余が眼前に展開するにつけ、余は床しい過去の面のあたりに立つて、二十年の昔に住む、頑是なき小僧と、成り済ましたとき、突然風呂場の戸がさらりと開いた。(P.88)

画工が風呂のなかに浮きながら、三味線の音を聴き、三本の松があった昔の風景について古い恋のように思いを巡らせているとき、風呂に入ってきたのは那美さんだった。


■画が生まれるとき、物語のはじまるとき。(9月9日)

『草枕』は十一章から急展開を迎える。春の夜に散歩をして和尚の棲家に辿り着いた主人公「余」は、みずからのことを「画工(ゑかき)」と名乗るのである。そして謎の女性の正体は「那美さん」という名前が使われる。個々の人生を動きはじめる。

画工(ゑかき)は自称かもしれない。「画工の博士はありませんよ(P.138)」と和尚に告げている。それだけでなく「道具丈は持ってあるきますが、画はかゝないでも構わないんです(P.140)」と話している。確かに画工は画を完成させないで、漢詩や短歌などの詩ばかり作っている。理屈に拘泥して画を描く行動を起こさない。

余は此温泉場に来てから、未だ一枚の画もかゝない。絵の具箱は酔狂に、担いできたかの感さへある。人はあれでも画家かと嗤うかもしれぬ。いくら嗤われても、今の余は真の画家である。立派な画家である。かう云ふ境を得たものが、名画をかくとは限らん。然し、名画をかき得る人は必ず此境を知らねばならん。(P.144 )

画工は「探偵」のように那古井に住む人物のゴシップに耳を傾けていた。しかしみずから画工と名乗ったとき、今度は探偵に付きまとわれる存在になる。「余の如き探偵に屁の勘定をされる間は、到底画家になれない。画架に向かうことはできる。小手板を握ることは出来る。然し画工になれない。(P.144)」という。

画を描かない画工という矛盾を抱えた主人公は、短刀をちらつかせた那美さんを目撃する。そして那美さんがある男と邂逅するところを見る。「芝居」のような光景に、いつ短刀を出すのかと画工はひやひやするのだが、短刀は使われず差し出されたのは財布だった。男は那美さんが離縁された亭主だった。

那美さんの元亭主は貧乏で日本にいられないから満州へ行く。旅費として那美さんから金を貰ったのだ。彼は那美さんとの息子であると思われる久一さんに「そら御伯父さんの餞別だよ」と短刀を託す。久一さんは戦争に行こうとしている。那美さんの元亭主も久一さんも生きて帰ることができるかわからない。

非人情を求めていた那古井の里にはさまざまなドラマがあった。画工は非人情に徹することができなかった。その画工は戦争に向かう久一さんを見送りに「汽車」の見える「現実世界」に行く。現実世界は人情の世界である。ところが、久一さんを送る那美さんの顔に「憐れ」を見出したときすべてが変わる。

那美さんは茫然として、行く汽車を見送る。其茫然のうちには不思議にも今迄かつて見た事のない「憐れ」が一面に浮いている。
「それだ!それだ!それが出れば画になりますよ」
と余は那美さんの肩を叩きながら小声に云つた。余が胸中の画面は此咄嗟の際に成就したのである。(P.171)

人情の世界は「動く」物語である。非人情の世界は刹那を切り取って「静止した」詩である。那古井という非人情で詩的な世界に人情を見出した画工は、詩を書きとめたとしても画にできなかった。ところが那古井の里を出て人情の世界で「胸中」の画は成就したという。ただし、移ろいやすく脆いこころのなかに「場面」つまりシーンとして。

「憐れ」とはなんだろう。憐れは同情せずにはいられないが行動できない状態ではないだろうか。精神は「人情」で動かされながら、身体は「非人情」に縛られている。人情と非人情を二項対立で考えていたとき画工は画が描けなかったが、人情の世界の時間を非人情が静止したとき画工の画は胸中で完成した。

画工の胸中に「画面」が生まれた瞬間、つまり『草枕』の最後で画が成就したときから、画工の物語は、はじまる。画工は胸中の画を紙の上に描くのか。元亭主を満州に送り出して、画工と那美さんの関係はどう変わっていくのか。画がうまれたとき。そのときから画工の真の物語がはじまる。

投稿者 birdwing : 2012年9月 9日 10:54

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