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2012年12月31日

2012年の終わりに。

2012年が暮れようとしています。今年の10大ニュースは・・・と考えてみたのですが、あまりにも芒洋としすぎていて、まとまりませんでした(苦笑)。しかし年の後半、政治への関心が高まったことだけは言えそうな気がします。とはいえその期待も、どちらかというと脱力感のなかで萎えた印象がありますが。

個人的には、今年の後半から朝もしくは夜にツイッターで140文字×5ツイートの連投ツイートをするという課題を継続していましたが、年末には滞りがちでした。とはいえツイートしたままにしておくのも年を持ち越すのもどうかとおもいますので、12月の連投ツイートを以下にまとめます。

それではみなさん、よいお年をお迎えくださいね!


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■主体的に進化すること。2012.12.10

406253312Xダーウィン論・主体性の進化論 (今西錦司全集)
今西 錦司
講談社 1993-07

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読後の興奮が静かにつづいているのだが、今西錦司氏の『主体性の進化論』は久し振りに感動した本だった。全体の80%ある前半部分では、ダーウィンとラマルクの進化論を引き合いにしながら、ウスバカゲロウの棲み分けについてフィールドワークで得た結果などを解説していて、のどかな雰囲気である。

今西錦司氏の『主体性の進化論』が凄いのは、最終章の「人類の進化――応用問題として」の思考の突き抜け方だ。ここで四足歩行から二足歩行に至る人類の進化は、長時間かけて途中段階を経た進化ではなく、ある日突然に同種の人類の祖先に起きた大進化(レ・オリエンテーション)だという。

人類の直立二足歩行がどのようにして達せられたかについて今西氏は「赤ん坊は立つべくして立った」という。人類は「変わるべくして変わる」のだ。この視点が衝撃的だった。確かにぼくらの一生を進化に喩えると、赤ん坊から立ち上がるということは大きな進化のようにおもう。が、当然の進化なのだ。

人類を取り巻く環境の変化が人類を進化させたのではなければ、徐々に二足歩行に移行していったのでもない。今西氏は、人類は「変わるべくして変わる」進化の道筋が定められていたのだということを語っている。つまり環境や他の要因が進化させたのではなく「主体的」に進化したのだと考察する。

ぼくらは自分が変われない(進化できない)要因を、得てして政治とか社会とか、あるいは会社や学校など「環境」に責任転嫁したがる。しかし、人類を含めた生物には「主体的」に進化できるチカラを秘めていたと仮定すると希望も生まれる。いつかその進化の種が芽を出すときがくると考えると楽しい。


■選挙が終わって。2012.12.17

選挙が終わった。結果はともかく(といって済まされることではないが)、朝日新聞によると今回は衆院選投票率59.32%と戦後最低の記録を更新したようだ。政治に対する関心が低かったというわけではなかったという気がする。政治に対する諦め感というか不信感が強かったのではないかとおもわれる。

実際に投票場へ行って感じたことだが、体感的には過去と比較してそれほど投票者が少ないとは感じられなかった。それでも最終的に蓋を開けてみれば、投票率は低下していた。いったい投票者のどの層が投票率を下げていたのか。世代なのか地域なのか。分析する視点はいろいろとあるだろう。

若年層の投票にも期待が集まったが、どうだったのだろう。ぼくは自宅の近くに投票場があったので、およそ30分で投票を済ませることができたが、投票場所が遠いと足が重いかもしれない。だからといってネット投票は早急すぎる気がしている。日本においてネット投票はまだ先ではないか。

投票を促進するアイディアでは、ガ島通信などに挙げられていたが「投票済証」をいただいて、ネットにアップするというアイディアが秀逸だとおもった。AKB48のカードにするとまでは言わないが、各地の投票済証の写真をネットにアップロードして収集するような、ゲーミフィケーション的なアイディアは必要だ。

個人的には、政治的知識に自信をもって臨むことができなかった選挙だった。やさしい解説による津田大介氏や荻上チキ氏の本を読んで、政治について意識的に考えるようにはなったのだが、まだまだ政治を語るには道のりは遠い。しかしながら、選挙は終わりではなく政治を考えることのスタートでもあるといえる。これからの政治を考えたい。


■ゼゼヒヒで二者択一。2112.12.23

津田大介氏が作った国民投票サイト「ゼゼヒヒ」が面白い。似たようなサービスはWiiにもブログパーツにもあったのだけれど、リサーチ会社ではなく津田氏のようなジャーナリストが作ったところに意義がある。「ヒヒ」というネーミングがTwetterの「tt」に似せている部分にもセンスを感じる。

ゼゼヒヒ
http://zzhh.jp/
ZZHH_2012-12-31.jpg


「ゼゼヒヒ」への登録は簡単だ。ログインはツイッターアカウントで認証される。いくつかのお題が画面に表示されているので(現在は35個)、賛成か反対かのどちらかをクリックすると円グラフが連動してリアルタイムで結果を表示する。リサーチの仕事をしているとき、こういうサイトが大好きだった。

ツイッターと連動し、なぜ選択肢のうちのひとつを選んだのか自由回答(FA)で理由がわかるところが「ゼゼヒヒ」のよいところである。定量的だけでなく定性的な分析が可能になる。メルマガの記事やPR記事にも活用できる。UGC(User Generated Contents)のひとつになる。

しかしながらチキンなぼくは、まだ「ゼゼヒヒ」に参加していない。優柔不断なのだ。二項対立の狭間にあるグレイな部分が大事であって・・・・・・などと言い訳してみるが、要するに選べない男なのである。選べない男は嫌われる。ここはひとつ「ゼゼヒヒ」に参加して、ずばっと世論を斬ってみようではないか。

AかBかどちらかを選ぶこと。二者択一を生活の習慣化して理由を考えるクセをつけることは、選挙で候補者を選ぶよい練習になるかもしれない。津田氏がそこまで構想して「ゼゼヒヒ」を作ったのであれば凄い。いや津田氏は、記事・PR化、政治選択の下地作りを考えてこのサイトを作ったと睨んでいる。


■信じること、覚悟を決めること。2012.12.16

「永遠に愛してる」というコトバは、それが嘘であったとしても歴史を越えて多くの人々に支持されてきた。ラヴソングにも多用されている。なぜだろう。逆説的に、ぼくらは永遠に誰かを愛することなどできないからではないだろうか。不可能かつ虚言だが、ゆえにそのコトバは「必要」であり支持される。

「大丈夫だよ」「安心しろ」という言葉も、どう考えても大丈夫じゃない場合に使われることがある。だからといって「おまえもう無理だ。観念しろ」とはいえない。その「大丈夫だよ」という言葉が延命に役立つこともあるからだ。ひとはいつでも真実をいえばよいものではない。必要な「嘘」がある。

しかしながら、行動の伴わない言葉だけの約束には、ぼくらは耐えられなくなってきている。実行できない自覚なしに繰り返される「日本を変える」という建前の政治の公約などがそうである。どう動いても日本は変わらないのではないか。積み重なった諦観がある。麻痺してしまった感覚がある。

池田信夫氏はアゴラで、民意をウェブで反映するのをやめ「専門家が合理的な政策を独裁的に実行」する「独裁制による都市国家が21世紀の国家モデル」と述べている。いささか過激にもおもわれるが、変わらない日本を変えるには、それぐらいの構造的な変化が必要とされるのかもしれない。

窮地に置かれても、ぼくらはまだお花畑のようなスローガンを信じて、安穏に生活している。変わらない日本から一抜けた!で降りてしまうのではなく、変わるよ、日本は永遠だよ、という虚妄な言葉を信じている。だか愚かであっても日本で生きていく覚悟をしてしまったのだ。かなしいことではある。


■憧れというビタミン。2012.12.12

いきなり辛辣なことを書く。書店で平積みされていた伊藤春香(はあちゅう)氏の『自分の強みをつくる "なりたい自分"を"自分"にしちゃえ。』の表紙をみて、幼稚園児の落書き本か?とおもった。家入一真氏の『もっと自由に働きたい とことん自分に正直に生きろ。』はアイドル本だな、とおもった。


4799312057自分の強みをつくる (U25サバイバル・マニュアル) (U25 SURVIVAL MANUAL SERIES)
伊藤春香(はあちゅう)
ディスカヴァー・トゥエンティワン 2012-08-26

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B009SKNUOQもっと自由に働きたい とことん自分に正直に生きろ。 (U25 Survival Manual Series)
家入一真
ディスカヴァー・トゥエンティワン 2012-08-25

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余計なお世話だが、はあちゅう氏や家入氏の本を信者のように読み耽っている若者たちの脳は大丈夫か?というのが、おじさんの率直な危惧である。ディスカヴァー21から出版されている「U25 Survival Manual Series」という25歳以下の読者に向けた一連のシリーズのようだ。

店頭で内容をさらっただけだが「U25 Survival Manual Series」は自己啓発の本としては内容が浅いと感じた。だからこそ若者に理解されるのだろう。だが人生の苦渋を舐めてきたおじさんは、責任感のない薄っぺらなこと言いやがって、のような冷ややかな目で眺めている。

しかしながら前言を覆すが、はあちゅう氏や家入氏は、その存在が若者たちに必要であるから本も支持されていると、ぼくは擁護したい。安藤美冬氏やイケダハヤト氏のようなカリスマもいらっしゃるが、よしあしはともかく若い世代を元気付ける「ビタミン」性が共感を生み、人気があるのではないか。

カリスマ的なひとの存在は若者たちにとっては「憧れというビタミン剤」なのだろう。もちろん成長するためにはビタミンだけでなく多様な栄養が必要になる。しかしビタミン以外は他から摂取すればいい。元気のない社会において、元気を出すためのビタミン摂取が取りあえず急務なのかもしれない。


■突っつく挨拶。2012.12.19

POKE_2012-12-31.jpgフェイスブックに「POKE」という機能がある。すこし前までは「あいさつする」だった。POKE(ポーク)ってなんだろうな、とおもって調べると「指で突っつく」という意味のようだ。「つんつん」という感じである。あるサイトに「小学生の授業中の消しゴム爆弾」と解説されていて納得した。

個人のウォールに「最近どう?」と書くのも大袈裟だし、だからといってメッセージするほどでもない。そんなときに「つんつん(どうしてる?)」というフェイスブックのPOKEは手頃だ。ちょっとあったかい。もちろん突っつきすぎには注意だが、言葉にする以上に相手の気持ちが伝わることもある。

多くのソーシャルメディアはテキストによるメッセージが主体である。しかしフェイスブックの「POKE」は、非言語的な独特のコミュニケーションといえるかもしれない。「つんつん」という名称自体が身体に訴えるものであり、突っつく相手との距離も配慮すべきだが、上手く使うと親近感が沸く。

「いいね!」ボタンは、コメントを書くほどでもないが、読んだよという気持ちを伝えたいときには使いやすい。カジュアルである。「POKE」と同様、言葉以上の感情を相手に伝えることができる場合がある。当然、ボタンを押してはいけないときにはボタンを押さないリテラシーも大事である。

とかく考え込んで「あっち(どっち?)」の世界に行ってしまいがちなぼくは、心友の「POKE」に救われることが多い。ボタンの向こうから「おーい、そっち行っちゃダメだよー、戻っておいでよ」という声が聞こえてきて目覚める。ひとりじゃないんだと気付かせてくれる。ありがたいことである。

投稿者 birdwing 日時: 18:57 | | トラックバック

2012年12月23日

オリジナル・クリスマスソング集。

091212_tree_re.jpgDTM(Desk Top Music : パソコンを使った音楽制作)が趣味のぼくは「今年のクリスマスソングを創る!」という目標を、毎年のように自分に課していた時期がありました。イヴにクリスマスケーキを焼き上げるようにクリスマスソングを創っていたわけです。

崇拝するジョン・レノンには「Happy Xmas (War Is Over)」という名曲があります。あの曲は親父のカセットに入っていて、ジョンの声を聴きながら、ムギ球がぴかぴか点滅する縮小もみの木を眺めて眠るイヴは最高に幸福だったなあ。そんな「記憶」を音楽で創りたい。ジョンには至らないけれど、自分なりのベストクリスマスソングをいつか創りたいと考えていました。

残念なことに最近はあまり自分で曲を創らなくなってしまったのですが、過去に創ったクリスマスソングをまとめて公開してみたいとおもいます。

クリスマスの夜に奇遇にもぼくのブログに訪れた方に聴いていただいて、クリスマス的な雰囲気を共有できればしあわせです。とはいえ、あまり季節にこだわらずに聴ける曲を心がけています。

曲はすべてぼくの手作り(パソコン作り)です。インストゥルメンタルで(ぼくの生の)歌は入っていません。最初の3曲はFlashの再生プレイヤーの右側再生ボタンを押していただければ、曲が再生されます。音量は左側の+-のコントロール、もしくはPCのボリュームで調節してくださいね。


■We wish...
(4分00秒 5.49MB 192kbps)2009-12-12

作曲・プログラミング:BirdWing


■ひかりの花束
(4分1秒 5.53MB 192kbps)2008-12-24

曲・プログラミング:BirdWing


■リエゾン
(2分19秒 3.19MB 192kbps)2007-11-11

作曲・プログラミング:BirdWing


091212_genkan_re.jpgさて、ここから先はFlashの音楽再生ツールが少し違います。

まず、これまで3曲とは音量調節の方法が違いますので、スピーカー/ヘッドホンの音量にご注意ください。ボリュームはPC本体の音量調整でお願いいたします。白い棒のようなものが表示されていますが、その棒の左端をクリックすると音楽が再生されます。再度押すと、止まります。

2006年以前の曲になるのですが、このときに音楽制作で嵌っていたツールはVOCALOIDでした。VOCALOIDというのは、ヤマハの音声合成ソフトウェアで、2007年には「初音ミク」として大きなブームを巻き起こすことになります。ブーム爆発のやや前に、ぼくもこの音声合成ソフトウェアに注目していました。その当時はVOCALOID MEIKOという機種でした。

B000FCUU08Vocaloid Meiko
クリプトン・フューチャー・メディア 2006-04-07

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といっても当時のVOCALOIDは表現力に乏しいどころか処理速度も遅く、パソコンにとても負荷をかけるソフトでした。そこでぼくは楽曲の一部分にしか使いませんでした。制作順序としては正式な曲を作って、その後、VOCALOIDのみ抜き出してアカペラ的な曲を作ったのですが、アカペラ的な曲を先に紹介します。


■Inori(December VOCALOID ver.)
(Inori.mp3 2分60秒 1.53MB 192kbps)2006





■December
(December.mp3 4分00秒 5.50MB 192kbps)2006




[歌詞]

しあわせであるように 笑顔が零れるように
冷たい雨の夜も 降りしきる雪の日にも

祈りを捧げよう 凍えた指を合わせて
願いを叶えよう 想いを強く信じて

詞・曲・プログラミング:BirdWing


■やさしいきもち(Remix Ver.)
(yasashii_kimochi_remix_V02.mp3 2分14秒 3.07MB 192kbps)





■やさしいきもち
(yasashii_kimochi.mp3 4分21秒 5.99MB 192kbps)




[歌詞]

やさしいきもちになれたのは きみがいたから
この思い出を忘れない ずっといつまでも

詞・曲・プログラミング:BirdWing


DSCF2800_R2.jpgところで、街が装飾されカップルなどで賑わうこの時期、「クリスマスに浮かれるのはバカばかり」とか「クリスマス粉砕」とか、しあわせそうな街にケチを付けたり暴言を吐くひとが必ずいるものです。要するに、他人のしあわせに嫉妬しているだけのことであり、人間的な未熟さを露呈していることをわかっていないのかな、とおもうのですが、放置しておきましょう。

最近ぼくは、

しあわせ「である」ことがしあわせだ

と考えています。禅問答のようですが言い換えるならば、

しあわせは「態度」である

とおもうわけです。手の掴めない遥か遠くにある不確かなしあわせはしあわせではなく、しあわせは「いまここ」にあるものだ、と。したがって「自分はしあわせである」と態度表明した者は、誰から毀損されることなくしあわせなのです。うむ。誰かも同じようなこと言っていたかも(苦笑)

しかしながら、世の中には、しあわせ「でない」態度表明をするひとが多いような気がします。しあわせだというと、誰かから足を引っ張られるからでしょうか。やっかみを受けるからでしょうか。だからといって「不しあわせ」になりたいかというと、大半のひとが首を横に振るに違いありません。ぼくはしあわせだ!と胸を張って言ってしまってもいいんじゃないかな。びっくりマークを付けるとニーチェみたいですけれども!

しあわせは、しあわせ「になる」ものではなく、しあわせ「である」ものと考えます。「しあわせになろうね」ではなく「しあわせだね」と言っていたい。そんなひとがひとりでも増えれば、未来の子供たちに託すこともなく、いま日本はしあわせになれるとおもうのです。


■地上の星空
(chijo_no_hosizora.mp3 1分25秒 1.97MB 192kbps)2007-11-18




曲・プログラミング:BirdWing


選挙演説みたいになってしまいましたが(苦笑)、トナカイにひかれてサンタクロース(あるいはサンタクロース的な何か)がみなさんの家にやってきますように。

投稿者 birdwing 日時: 14:57 | | トラックバック

2012年12月 8日

陽のあたる場所で。

121208_icho.jpg寒いですね。指先を擦ってあたためながらブログを書いています。カフェオレは必須です。あたたかい飲みものは、身体はもちろん、こころまであたためてくれますから。

先日、都内某所の駅に降り立ったところ、駅前をぱあっと明るくするような銀杏の木が立っていました。その先には銀杏並木がつづいている。青空に映える黄色が印象的でした。寒い日でしたが、陽射しを浴びながら立つ銀杏は、なんとなくぼくをあったかい気持ちにさせてくれました。足元には黄色い葉っぱが、ぽとっと落ちてきた。銀杏の木は夜になると電飾で光るそうです。

さて。毎朝、ツイッターを使って140文字×5ツイートでエッセイらしきものを発信しているのですが、11月の下旬から12月初旬にかけての連投ツイートから10本セレクトして以下にまとめました。タイトルの横にある日付は実際に書いた日付です。あったかいカフェオレでも飲みつつ、読んでいただければ。


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■ビジョたちに癒される。2012.12.08

あえて公言したくないが何度も見にいってしまうウェブサイトがある。ささくれだった毎日を癒してくれるようなコンテンツが誰にでもひとつぐらいはあるのではないだろうか。ぼくは健康な男性だから、当然、美しい女性にはとても興味がある。だから美しい女性のページを見にいって癒されている。

たとえば「日本ツインテール協会公式サイト( http://twintail-japan.com/ )」。ヘアスタイルがツインテールの女性たちを集めたサイトで、放課後ツインテールや週末ツインテールなどと、さまざまな場面のかわいい写真が掲載されている。写真集も発行されたようだ。


121208_twin.jpg


「美女世界地図( http://bijin-world.com/ )」。今朝相互フォローさせていただいた Kei Akatsu さんのプロジェクトサイトだが「【旅×美女】のコンセプトで北中南米を旅しながら美女の写真を撮影」されているそうだ。ちょっと羨ましい。世界の美女が素敵だ。


121208_bijo.jpg


カメラをみつめて笑う女性たちは美しい。かわいらしい。撮影するカメラマンの力量にもよるかもしれない。カメラマンがモテる職業である(と勝手に信じているのだが)というのもわかる気がする。彼女たちの最も美しい瞬間を永遠に残せるのだから。写真には動画とは違った空間の緊張感がある。

クリスマスやバレンタインが近くなっていつも感じることは、女性たちが急に美しくなるということだ。イベント自体で街全体の空気が変わるせいかもしれないが、はなやいだ気持ちが彼女たち自身を美しく変えるのだろう。そんな美しい街を見るのが、ぼくは好きである。いい季節になってきた。


■電飾の未来。2012.11.28

電飾好きである。イルミネーションが大好きだ。したがってクリスマスに至るこの時期は、賑やかな街を歩くのが楽しい。とはいえ電飾に目をきらきらさせているおじさんはやや気持ち悪いかなあとおもうので、わくわく感はこころのなかに潜めておいて、見ためはクールにしばしばと目蓋を瞬いたりしている。

クリスマスのちかちか光る電飾が好きになったルーツは、幼少の頃、ちいさなもみの木に飾った点滅するムギ球だった。また、奥さんとの初デートで行ったディズニーランドのエレクトリカルパレードの感動もある。あの日パレードに感動して彼女のお尻を触ったら、1メートルぐらい飛びのかれたものだった。

遠くの街に住む恋人に東京の電飾の美しさを伝えたくて、クリスマス間近の数日間、会社の帰りにデジタルカメラで街の風景を取り溜めておいて、クリスマス・イヴの日に集めた写真を「ひかりの花束」としてウェブを通じて公開したことがあった。同時に写真のBGMとしてひかりの花束という曲も作った。


ブログ「ひかりの花束」
http://birdwing.sakura.ne.jp/blog/2007/12/post-83.html

DSCF2833_R.jpg DSCF2774_R.jpg DSCF2777_R.jpg

DSCF2804_R.jpg DSCF2826_R.jpg DSCF2830_R.jpg

DSCF2882_R.jpg DSCF2829_R.jpg DSCF2852_R.jpg

DTM「ひかりの花束」(4分1秒 5.53MB 192kbps)

曲・プログラミング:BirdWing


まばゆいほどに光る電飾は、星のみえない東京では「地上の星空」といえそうだ。消費電力の問題や発熱が樹木に影響を及ぼすことから、最近は発光ダイオード(LED)がよく使われるようになったという。LEDのテクノロジーを使った照明は、今後さまざまなかたちで日常に浸透していくことだろう。

ひかりを照らすためには電力が必要になる。電力の自由化と「発送電分離」については政治問題として大きく扱われている。再生可能エネルギーの供給なども含めて、今後も討議が重ねられていくことだろう。21世紀の日本を明るく照らしてくれる施策に期待したい。ひとりの電飾好きとして期待を込めて。


■教養について。2012.12.07

教養のあるひとになりたい。教養のあるひととは「知識+人格」にすぐれたひとのことだろう。知識が豊富なだけではない。常に人格の研鑽に努めていて、芸術から政治社会の動向まで深い洞察があり、良識に基づいた行動をして自分の品位を貶めないひと。ああ、ぼくには教養が足りないなと恥じるばかりだ。

知識が豊富なひとはたくさんいる。たいてい胸をはって知識をひけらかすとともに「そんなことも知らないのか」と威圧的に、無知な人間を蔑んだりする。しかし、インターネットの登場とともに知識はアーカイヴされているネットのクラウドに頼ればよくなった。誰でも知識は簡単に入手できるようになった。

人格が何であるかという定義は難しい。すぐれた人格にはさまざまな解釈が生まれる。個人的には、自律的であり、自分の言動に自信があるとともに、他者を尊重する人間は人格的にすぐれていると考えている。暴言を吐かないモラルや節操であるとか、規律的な生き方も人格に関わることかもしれない。

ソーシャルメディアにおける「教養人」は誰だろう。そんなことを考えた。文化人や著名人ではない。あくまでも教養人だ。知識が豊富で人格的にも優れているひと。なかなかおもいつかない。プロブロガーやインフルエンサー、カリスマなんとかのなかには、そんなひとが居てもいいとおもうのだけれど。

ネットではどんな発言も自由だという誤解が教養を育む機会を失ったのかもしれない。しかし、ネットを使った選挙の是非が問われるような時代。政治家のステマやネガキャンでせっかくのソーシャルメディアの可能性を潰してしまわないように、教養あるネットの活用を考えるべきではないかとおもう。


■パクリと模倣。2012.12.01

ツイートを眺めていたらイケダハヤト氏の「クリエイターよ、パクりまくれ!」という強引なブログタイトルに遭遇した。以前にも読んだ覚えがあるのだけれど、ちょっと何か勘違いしていないかなあと考えたのでひとこと。パクリ、盗用はいけない。歴史上の著名人が「盗め」といっているのは「模倣」だ。

アリストテレスは、芸術創作活動の基本的原理は「模倣( ミメーシス)」であると述べた。なるほど確かに彫像などは現実の人間の模倣であり、文学は言語による模倣であるということもわかる。しかし、どんなに模倣しても創作者の視点や個性が反映される。だから創造は新たなものを生むのだとおもう。

初期のビートルズは、黒人音楽、リズム&ブルースの影響を色濃く受けていた。バディ・ホリーの「ワーズ・オブ・ラヴ」などを演奏している。しかしながら彼等の演奏はカヴァー(コピー)であって「パクリ(盗用)」ではない。ビートルズの4人の「憧れ」がそのなかにはある。金や名誉のためではない。


The Beatles - Words Of Love (2009 Stereo Remaster)


自分の持っていない才能に対する崇拝、憧れ。これが存在するかしないかで「模倣」という行為はまったく意義が異なる。創造的な模倣には必ず憧れという熱意がある。すべてにおいていえるのだが、イケダハヤト氏の言説は「クリエイターよ、パクりまくれ!」といっちゃうように思考が浅すぎて失笑する。

多くの文学評論家は他人の作品を引用することだけで飯を食っているわけではない。小林秀雄などを読むと評論する対象に向かう熱情を感じる。その熱情によって批評空間というあらたなステージを創造している。とはいえ、創造はパクリだというのは下品なアフィリエイターならではの言葉かもしれない。


■メディアの棲み分け。2012.11.26

津田大介氏の『ウェブで政治を動かす!』を読んでおもったこと。ソーシャルメディアが絶賛され、テレビや新聞は廃れると予測されていた時期と変わり、最近ではそれぞれのメディアの特性もみえてきた。使い分けされるようになってきた。メディアの特性が明らかになり棲み分けができてきたようだ。


B00A47EMP8ウェブで政治を動かす!
津田 大介
朝日新聞出版 2012-11-13

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ツイッターなどのソーシャルメディアは、速報性に強く感情などを含んだ一次情報のメディアだ。フローであるがストックされる。対して従来は速報的なメディアとされていた新聞は、プロの記者の目による検証・編集のメディアになった。さらにテレビでは図解化や識者の討論の場を作って分析する場となる。

ソーシャルメディア VS テレビ・新聞のような視点からでは判断できない。あくまでも報道に関してだが、これらのメディアは個々の領域の強いところを活かしながら連携することによって、尖がったメディア(ソーシャルメディア)から安定したメディア(テレビ・新聞)までのメディア共同体になってきている。

信憑性も異なるだろう。ツイッターなどの情報は信憑性が低いだろうが、日本ではテレビや新聞の信憑性は高い。未確認情報が多いアルジャージラのようなメディアも日本にも生まれるかもしれない。ただ、情報のインプット回路が複数生まれることは、情報を吟味する上でよいのではないだろうか。

津田氏が語られているように、ウェブで政治を動かす時代は既にここにある。日本は世界と比較してネット政治が遅れているという声や、この勢いで一気にネット政治の浸透を、という考え方もあるかもしれないが、逆に焦らず、構想をきちんと描いてネットの動きを拡大化していくべきではないかと感じた。


■ブロガーの楽しみ。2012.11.24

いまさらブロガーって何?と考えたのだが、ぼくはテクノロジー系ブロガーではない。ITについて少しばかりわかっているつもりだけれど、基本的に文系ブロガーである。だからエッセイのようなものを長文あるいは短文で書く。ブロガーといえばテック系が多かった時代には、かなり肩身が狭かったものだ。

かつて自分のブログに「ブロガーはどこへ行くのか。」というエントリーを書いた。大胆にもブロガーは「ライターであり、デザイナーであり、エンジニアであり。」と標榜した。そこでレンタルサーバーを借り、MovableTypeでブログを構築した。デザインも自前だが、もう一度同じ事をやれと言われたら絶対にできない。

最初はFlashのブログパーツを組み込んで、自分のブログに写真をスライドショーで掲載したり自作曲を聴けるようにしたり、いろいろといじっていたのだけれど最近は、全く放置している。しかし、先日ソーシャル機能を追加したくて、Zenbackというブログパーツを加えてみた。楽しかった。

BASE(ベイス)という簡単にECサイトを構築するツールにも登録してみた。デザインがいい。自作曲のダウンロード販売をしたかったのだけれどできないので運営側に質問すると、現在はBASE上にその機能はないらしい。とはいえ、メールによる問い合わせに迅速に対応いただいた。すばらしい。

文系ブロガーはテクノロジーの世界から離れるとあっという間に取り残される。ホンモノのエンジニアのように技術的に詳しくなくても構わないのだが、ブログをめぐる技術の動向に好奇心のアンテナを張り巡らせていたほうがいい。ブログには書く以外にも、さまざまな楽しみ方がある。


■ロマンスグレイのおじさまになりたい。2012.12.05

土曜日と日曜日に髭を剃らなかったところ無精髭が伸びた。最近感じるのは、無精髭のなかに白髪の占有率が増えたということである。頭髪にも増えているのだが、鏡をみた限りではそれほど目立たない。年をとっちゃったなあと感じる。しかしながら、白髪が混じる状態は案外悪くはない。気に入っている。

音楽家の坂本龍一氏の白髪がかっこいい。枯れた印象がある。それでいてどこかエロい。川上弘美さんに『センセイの鞄』という小説がある。年齢差のある老人との恋愛小説である。坂本龍一氏がセンセイを演じたドラマを観てみたい。丸縁の眼鏡をかけて、ちょっとお洒落な帽子をかぶったら似合いそう。

RyuichiSakamotoJI4.jpg
*Photo:Joi Ito

4167631032センセイの鞄 (文春文庫)
川上 弘美
文藝春秋 2004-09-03

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坂本龍一氏のようなロマンスグレイのおじいさんになりたい。センスのないぼくには難しい望みかもしれないが、白髪の知的なおじいさんに対する憧れがある。とはいえ頭髪の動向は気まぐれであり、3年後にはどさっと抜けて禿げアタマになっているかもしれない。それはそれで仕方ない。悔しいけれども。

中年の禿げアタマもかっこいい。ジャン・レノとかブルース・ウィリスとか外国の俳優には頭髪が薄くてもオトコを感じさせるひとがいる。詩人の谷川俊太郎さんもいい。村上春樹氏の『1Q84』で殺人のプロである青豆はバーで頭蓋骨の形で選んだ男を口説くが、頭蓋骨のかっこいいオトコは禿げが似合う。


41035342221Q84 BOOK 1
村上 春樹
新潮社 2009-05-29

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残念ながらぼくの頭蓋骨はかっこわるいのだ。だからあんまり禿げてほしくないし、10代の頃に一生懸命になって養毛剤でケアしたせいか、いまだに頭髪は残ってくれている。だから白髪の、ロマンスグレイのおじさんになりたい。それで若い女性の気を惹いて恋に落ちようとかおもわないけどね。


■名前を変えられたら。2012.12.03

最近、年齢を経るにしたがって、過去の自分は自分ではなかったような気持ちになっている。幼少の自分などはもう別人のようだ。そんなことを考えていたら、年齢の節目で「名前」を変えることができるといいなあとおもい付いた。武士や貴族は幼少時に「竹千代」などと呼ばれていたが、幼名の復活である。

生物でも幼生は学術的に違う名前がつけられているようだ。ウナギの幼生がマリンスノーを食べているという学説が支持されたニュースを最近読んだことがあった。ウナギの幼生は「レプトセファルス」と呼ばれるそうである。これは個人名の変化ではないが、ウナギも稚魚から成長し、名称が変わる。

ポケットモンスター、いわゆるポケモンも進化すると見た目や能力はもちろん名前も変わる。あんなにかわいかったポケモンがこんなにごついキャラに・・・・・・と驚いたり嘆いたりしてしまうことがあるが、それが進化というものかもしれない。声変わりした息子に対して同様のことを感じたことがあった。

成長にしたがって名前を変えられるとすれば、3回ぐらい機会があってもいいかもしれない。第一は15~25歳、幼名から青年の名へ。第二は35~45歳、働き盛りの名へ。第三は55歳~60歳、シニアの名へ。社会環境と成熟度にあわせて、個人のブランドともいえる「名前」を変えられると面白い。

親父によると、ぼくの名前は孟子の一節から取ったそうである。名前のなかでは比較的多いありふれた名前であるが、長男に込められた願いがある。とはいえ、名前負けといえなくもない。シニアの世代を生きるにあたって、セルフブランディングのひとつとして、名前を改めることがあってもいいかなとおもう。


■陽のあたる場所で。2012.12.06

昨日、朝の電車に揺られながらドア側の場所にいたら、まるで温室のように陽射しでぽかぽかあたたかくてうれしかった。「天気いいけど寒さは相変わらずですね!」というツイートをいただいたが、確かに外はきりきりと寒かった。とはいえ電車のなかはあたたかい。しばし夢心地である。

太陽の光を浴びることは体内時計をリセットするので有効だといわれる。また、冬期うつにも効き目があるそうだ。冬の陽だまりが好きだ。寒くて空気はぱりっとしているのだけれど、陽射しはやわらかくて身体をあたためてくれる。くつろげる椅子とカフェオレやほっとレモンなど飲み物があればさらにいい。


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幼少の頃の陽だまりの記憶がある。いつだったか、ぼくは縁側でぽつんと座って毛糸の毛玉ができた靴下を眺めていた。赤っぽい靴下だった。風はなく、陽射しはとてもやわらかい。枯れた木が空に向かって伸びていた。寒い日にはその記憶がぼくをあたためてくれる。あったかい記憶だけがぼくのなかにある。

「チェット・ベイカー・シングス」はヘビーローテーションで聴くジャズのアルバムのひとつだが、「ルック・フォー・ザ・シルヴァー・ライニング」という曲では「暗い雲の裏側には陽がさしているものだ。銀色のふちを持つ雲を探して、いつも人生の明るい面をみることにしよう」と歌っている。


B001CRGTO6チェット・ベイカー・シングス
チェット・ベイカー
EMI MUSIC JAPAN(TO)(M) 2008-09-26

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Chet Baker "Look For The Silver Lining"


チェット・ベイカーの歌う「And try to find the sunny side of life」という言葉が気に入っている。その言葉でアルバムが終わるのも素敵だ。さんさんと陽のあたる場所で生きていきたい。陽だまりに感謝しつつ、穏やかな微笑みを忘れないようにしたい。


■思考をザッピングする。2012.11.30

あまり新しい言葉ではないが、ザッピング(zapping)という言葉がある。テレビのリモコンで番組を次々と切り替えながら視聴することである。ぼくは読書においても常に数冊の本を同時に平行して読むようにしているのだが、ザッピング的な読書といえるかもしれない。これが楽しい。発見もある。

たとえば津田大介氏の『ウェブで政治を動かす!』を読みながら、今西錦司氏の『主体性の進化論』を読む。最先端の政治から生物学の進化論についてのエッセイはギャップがあり、文章のトーンもがらりと変わる。「政治の進化論ってあるのかな」と、2冊を横断した新しい発想が生まれることもある。


406253312Xダーウィン論・主体性の進化論 (今西錦司全集)
今西 錦司
講談社 1993-07

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ぼくらは社会のなかでさまざまな役割をザッピングしている。会社員であり、おとーさんであり、ブロガーだったりする。役割と役割の落差が大きいほど刺激的だ。スキルも必要になる。家庭人と仕事人をさっと切り替えたり、おとーさんの役割のなかで仕事のメソッドを活かしたり、複数の自分を統合する。

懐かしい言葉を使うと、偏執症(パラノイア)から分裂症(スキゾフレニー)へと現代人の傾向は変わってきたという浅田彰氏の指摘があった。範列的な事象と事象の溝を飛び越えながら、ぼくらは平行した役割をこなして生きていく。思考のスイッチングとともに、統合するアイデンティティも必要になる。

情報が氾濫する時代において大事なスキルは、平行したいくつもの情報の領域をぴょんぴょん飛び越えながら前進する軽やかなフットワークかもしれない。ぼくはブロガーはネットの世界のジョングルール(大道芸人)ではないかと考えている。危なっかしい綱渡りを軽やかに演じてみせることは魅力的である。

投稿者 birdwing 日時: 07:03 | | トラックバック

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