2008年12月20日
引越しの顛末と来年の展望。
思えば学生時代から、歩いて移動できる半径数キロの距離でちょこちょこ引っ越してきました。そして、このたび11年間ばかり暮らした住処を引き払って、新しい家に移ることになりました。これもまた歩いて移動できる場所なのですが、よほどこの街に縁があるのでしょうか。気分的には都心を離れて海辺のほうへ引っ越したいのですが。
というわけで引越し準備のために、てんてこまいな毎日です。いろんなものを捨てましたが、こんなものも捨てました。
高校時代に友人からもらった通信販売のストラトキャスターです。これがまた柔軟なギターで、弾いているとペグ(糸まき)が緩んで、どんどん音程が低くなるのでした。ちなみに隣りにあるのは、社会人バンドで録音したテープを食ったまま吐き出せなくなって、壊れて放置していたカセットデッキです。カセットテープはいま、ほとんど使わなくなりましたね(遠い目)。
■書物を所有する意義、楔的体験のすすめ。
とにかく溜まりに溜まった本を処分しまくりました。資源ゴミの日に廃棄したり、デイバックに詰めて売りに行ったり。かつての3分の1の量にスリム化したと思うのですが、2000年どころか1980年代の雑誌までご丁寧に持っていて、まるでタイムカプセルをひっくり返したようなありさまです。本と書類関連だけで全部で29梱包のダンボールが完成しています。まだ少しばかり増える予定です。どうしたものか(困惑)。
ぼくは書店のブックカバーをかけるタイプなので、余計に面倒ですね。一冊ずつカバー剥きに時間を費やし、ああこんな本買っていたっけと驚き、ちょっと読んでみたり。剥いたカバーのゴミだけで大きなポリ袋が3つばかりできました。地球にやさしくありません。しかし、このカバーのおかげで書籍が最良の状態に保たれていて、かなり高い値段で古本屋に売ることができました。
つらつらと考えてみるに、本を所有している意味は何でしょうか。大量の印刷物のオーナーになっている意義はあるのか、と。
情報だけあれば紙媒体である必要はなく、テキストデータで読めばいい。お金を節約するのであれば、図書館で借りてくればいい。場所は取るし、お金もかかる書籍をなぜ購入するのか。
私的な要因に思いを馳せると、育った環境の影響が大きいと思います。ぼくの父は国語の教師だったのですが、自分の書斎ならびに廊下に文学全集をずらりと並べていました。なので、その光景を当たり前に眺めながらぼくは育ったわけです。無意識のうちに、そんな父と書斎をかっこいいなあ、と憧れていたのかもしれません。全集の壁があることが父親の部屋の一般的な風景だと思っていたのですが、そうではないことを知ったのは、かなり成長した後のことでした。世のなかのおとーさんには書斎を持っていないひともたくさんいるのだ、と。
場所を取るし、お金もかかるし、本を所有することはとんでもない無駄です。でも、ぼくはその無駄がいとおしい。
すぐれた装丁のデザインにも惹かれるし、本を開いたときの紙とインクのにおい(知人に借りた本の場合は、そのひとの部屋のにおいがすることもある)、ページをめくるときの音。そして何よりも書店を徘徊しながら気になった本をぱらぱらとめくって選ぶときの気持ち。そういうものを全部含めて、本に対価を支払っている気がします。CDも同様です。ダウンロード販売は確かに便利だけれど、ショップで試聴して、ジャケットを手にとって眺めて購入を決めて、レジでビニールの袋に入れてもらって・・・という「無駄」な時間が結構大事だったりする。
しかしばっさばっさと処分して思ったのは、本はなくてもぜんぜん問題ないということでした(笑)。捨てると惜しいな、と感じているものであっても、潔くえいっと捨ててしまうと結構すっきりする。
そこで少しばかりテツガク的な思考に入ってしまったのだけれど、ぼくらは死んでしまえば何も残らないですよね。親父は大量の文学全集を残してくれたけれど、田舎にそのまま残されてカビていくだけで、息子であるところのぼくは、ほとんどめくったこともありません。書物ではなくネットの情報であっても、いくら大量の情報に目を通して、たくさんのひとたちとリンクでつながったとしても、人生をスルーしていくだけの通過物として関係していたならば何も残らない。
むしろ、辛かったとしても楽しかったとしても、こころに楔を打ち込むようなたったひとつの体験にこそ、人生の価値が集約されているのではないか。頻繁に会える恋人よりも、簡単に会えない遠距離の恋人のほうが想いが募るものです。そして、だからこそ会うことのできる逢瀬の短い時間が何よりも濃厚で尊い(のではないかな。どうでしょう。苦笑)。
これはぼくのちっぽけな生活に根ざしている所感ですが、その所感というインサイト(洞察)に、経済や社会やビジネスの機会につながる"しっぽ"が隠されているかもしれません。そんなしっぽをずるずると引っ張ること。ぼくはブログでそんな試行錯誤を繰り返していきたいと考えています。そんなしっぽ探しから、新しい生活のためのヒントを探っていけるといいですね。
■ソライロの人生、そして。
ところで、あわただしい毎日に忙殺されて公開できずに下書きにしたままの原稿がいくつかあるのですが、そのうちのひとつで、ソライロの人生を歩んでみたい・・・という、ポエムな一文がありました。こりゃ恥ずかしいなーと思って、公開を踏みとどまっていたのですが、自分で自分の未公開エントリの冒頭を引用してみます。
自称・空の風景写真家であり、鳥の羽(BirdWing)というハンドルを使っていて、さらに空をテーマとした曲を趣味のDTMで作ることが多いせいか、最近、空に関係するあれこれに注目するようになりました。
いっそのことソライロの人生を歩んでみたい。薔薇色ではなくてソライロの人生です。どういう人生かというと、地上の生活を包み込んではてしなく広がり、ときには雨を降らしたりしながらも、ずっとそこにある。見上げなければ存在感はないのだけれど、ときどき夕焼けで赤く染まって、明日は晴れだと未来への希望を提示したりもする。そんなイメージでしょうか。
このあと、空に関連するものとして紙飛行機をあげ、かつて息子の夏休みの自由研究で紙飛行機を取り上げたこと、宇宙に紙飛行機をとばす計画があったのですが、飛ばしそこねると人工衛星を破壊したり宇宙のゴミになるので断念した、という記事を取り上げたりしていました。
そんなことを考えつつ空を眺めていたら、すーっと二本の飛行機雲が青空にレールのような線を引いていました。ケータイで撮影した写真を掲載してみます。
飛行機雲といって思い出す音楽は、荒井由実(松任谷由実)さんの曲でしょうか。化粧が濃すぎるせいか顔が怖いのですが(苦笑)、YouTubeから映像を引用してみます。かなしい歌なのだけれど、明るく透明なメロディがせつない。1982年のライブのようです。
今度の新しい家は、家を建てたひとのこだわりなのか、首を傾げるような造りの箇所が多いのですが(無駄に広い納戸とか、逆に上半分は壁になっていて狭すぎる中途半端な押入れとか)、2階以上の建築ができない住居地区で可能な限り広く使おうとしたため、地下室と屋根裏部屋があります。屋根裏部屋なのですが、空に向かって、はめ殺しの窓があるんですよね。
実は夏に下見をしたときには、この部屋はむんむん暑くなっていて、温室か!ここは!という感じだったのですが、リフォームが終わって入ってみると、この時期には快適でした。何よりも青空を眺めることができます。休日にはこの狭い隠れ家のような場所で、ひとりで空を眺めながらビールを飲んでいる自分が容易に想像できます。
家全体は屋根が斜めになっているせいか、どこか教会のような趣きがあります。これもまた建てたひとのこだわりかもしれません。玄関にはステンドグラス風の窓ガラスがあって、おおきな3つの照明が下がっています。こんな感じ(写真はリフォーム前なので、ひとつ電球が壊れていますが)。
というわけで、新しい家で来年からはまたブログを書いていきたいと思うのですが、書く環境が変わると文体やテーマも変わってしまうかもしれません(あるいは、そのままかも)。インターネットの回線も本日外してしまうので、しばらくは更新できないかと思います。うーむ、ネットができないと禁断症状になりそうで怖い(苦笑)。
クリスマス、大晦日、お正月と、イベントと節目の時期にブログが書けないのは心苦しいのですが、落ち着いたところで書きはじめますので、拙い文章ですがまた読んでくださいね。検索エンジンから新しく訪問いただいている方も多いようですが、気が向いたらコメントなどいただけるとうれしいです。ひょっとしたらネットカフェからコメントの返信をするかもしれません。
では、一年間ありがとうございました!
よいクリスマス&大晦日&お正月を。来年もよろしくお願いいたします。
投稿者 birdwing 日時: 01:06 | パーマリンク | トラックバック
2008年12月 3日
ネットの質問箱。
難問にてきぱきと即答できるひとは賢いと思います。けれども、答えがわからない問いに見栄をはらないで「わからない」と答えられるひとは誠実です。そして、うーんと腕を組んで考え込んでしまうひとは人間らしい。
そんな風にぼくらの質問に対する姿勢はいろいろありますが、正解を答えることで人生が優位に展開できると約束されているわけではありません。だから不正解であってもまったく恥じる必要はない。不正解を選択したことで、逆に世界が開けることもあります。答えたくない質問から逃げるのもまた正解。
雑誌やラジオやテレビなどで人生相談というコーナーがよくありますが、谷川俊太郎さんの「谷川俊太郎 質問箱」を読んで、あらためて詩人の含蓄のある回答に感服しました。
どんな難問にも、すっとぼけたようで深い洞察のあるコメントをされています。なんとなくこころがほんわかする。そもそもBRUTUSに掲載されていた記事を読んで、あらためて糸井重里さんの「ほぼ日刊イトイ新聞」を訪問して知ったのですが、絵本風なので本として読むとビジュアルも楽しめます。
谷川俊太郎質問箱 江田ななえ 東京糸井重里事務所 2007-08-08 by G-Tools |
学校の試験はユウウツでしたが、学生時代を遠く離れてあらためて振り返ってみると、人生は難問の連続といえそうです。
正解がない、あるいは正解が複数あって不正解のない世界のなかで、ぼくらは自分の正解を選んでいかなければなりません。さらに大人になると世間体を繕うこともあって、子供のように、なぜ?どうして?と素直に訊くことができなくなります。あとだしジャンケンではありませんが、答えず黙り込んでいて、正解がわかったところで「やっぱりそうだと思ったんだよねー」などと、したり顔で言うこともある。人生を重ねると少しばかり狡賢くもなります。
ネットの世界では、いまさら恥ずかしくて訊けないような質問を匿名で投稿すると、親切なひとがやはり匿名で答えてくれる、いわゆるQ&Aサイト(コミュニティ)が重宝されているようです。それほど新しい動きではないし、実はぼくはほとんど利用したことがないのだけれど、今年のはじめ頃にはアクセス数が増えているというニュースも聞きました。そこでQ&Aサイトをまとめてみます。
■OKWave
http://okwave.jp/
まず、最大のサイトといえばOKWave(オウケイウェイヴ)でしょうか。11月19日に動画、音声、画像を使った「マルチメディアQ&Aサービス」を開始したばかりです。CNETの記事によると月間ユニークユーザー数4100万人、質問数類型1700万件だとか。
■教えて!goo
http://oshiete.goo.ne.jp/
OKWaveはいくつものサイトにOEMとして提供されていて、「教えて!goo」もそのひとつ。質問と回答のデータベースが連携しているらしい。登場したばかりのときは、地下鉄の駅など屋外広告で大きく告知されていて、目を引いた記憶があります。
■発言小町
http://komachi.yomiuri.co.jp/
読売新聞の「発言小町」はなかなか楽しい。小町という名称のせいか、どこか女性向けの印象もあるのですが、朝日新聞が広告費の減少により100億円の赤字に転落した現在、新聞が生き残っていくとすれば、速報性を重視したニュースよりも世論を発展させたコミュニティのようなものではないか、と考えました。インターネットのほうが速報性に優れるわけで、いまや速報性を新聞には求めません。「発言小町」はQ&Aというより読み物として楽しめます。
■Yahoo!知恵袋
http://chiebukuro.yahoo.co.jp/
ポータル系としてはYahoo!を挙げておきます。知恵袋といえば昔は、おじいさん、おばあさんでしたが、いまはネットによる集合的な知ということになりそうです。さびしい感じもしますが、ある意味強力です。進路や結婚など人生の転機で悩むとき、親や先生に相談せずに、ネットで人生を相談するようなことにもなりそうな気がしました。バイアスがかかってしまう親しい間柄よりも、少し距離があったほうが冷静に客観的にコメントできることもあります。専門家による回答もチェックしておきたいところ。
そのほかには、以下のようなサイトがあります。と、いうことも実はQ&Aサイトが教えてくれました。
■livedoor ナレッジ http://knowledge.livedoor.com/
■答えてネット http://www.kotaete-net.net/
■知識plus http://plus.hangame.co.jp/
■ひとびと・net http://www.hitobito.net/
■楽天 みんなで解決!Q&A http://qanda.rakuten.co.jp/
■調べ学習のポータルサイト ナビポ http://navipo.jp/index.php
ああ、忘れてはいけないですね、こちらもQ&Aサイトとしては老舗といえます。ブックマークにつけたコメントのお行儀の悪さから、ぼくはあまりはてな村のひとたちに質問したい気持ちにはなれないのだけれど、それでもコメントしたがるひとが多いから質問によっては親切に教えてくれることでしょう。
■人力検索はてな http://q.hatena.ne.jp/
あらためてQ&Aを読んでみると、知っているひとはいるものだな、と思いました。特にPCの使い方などについては、詳細に答えてくれるひとが多い。
Q&Aサイトではないのですが、ぼくもネットに救われた経験があります。サーバーのデータベースエラーでブログが表示されなくなってしまって、そのときにネットで検索したところ、同じようなトラブルを解決したブログを発見。わずか数時間で自力で復旧できました。ヘルプデスクにメールを投げていたのですが、土曜日だったこともあって返答は月曜日でした。
どうしてよいのかわからずに立ち往生して、ネットの海を彷徨ったところ、どこの誰だかわからないひとから懇切丁寧に教えていただいた。そのひとは別に教えようと思ったわけではなく、トラブルを解決してほっとして、なんとなくブログに顛末を綴っただけだと思います。けれども、その何気ない記録がぼくを救ってくれた。ありがたいことです。
ネットはなんでも教えてくれます。でも、甘えてばかりではいけない。バトンを渡すように、学んだことをネットの海に返してあげることが大切ではないでしょうか。さらに、ほんとうに大事なことは、面倒でも試行錯誤や失敗を繰り返して、自分で学ぶことなのかもしれません。
投稿者 birdwing 日時: 23:55 | パーマリンク | トラックバック
2008年12月 2日
聴き上手を進化させる。
仕事力を向上させるためにいろいろな本を読み漁っていますが、営業力やコミュニケーション力は特に強化したい分野です。書物に書かれた智恵だけでなく現場で痛感するのは、聴くことがいかに難しいかということでしょうか。ひとの話を聴くのは難しいですよね。
企画提案や営業、セールスでは、もちろん押しも重要ですが、相手の話を"傾聴する力"が重要です。あえて自分の売りたい製品やサービスをいったん忘れて、お客様の話をきちんと聴く。お客様が置かれている状況や期待している解決策をわからずに、自社のサービスや製品を押し売りしても成果はあがりません。まずはヒアリングに徹すること。すると、その後の商談もスムーズになります。
忘れっぽいので、ぼくは聴きながらよくメモを取ります。A5判の無印のノートを使っていて、そこにブルーブラックのuniball Signo(極細0.38mm)というボールペンでメモを取る。きれいに書く必要はないと思っているので、ノートに書かれた文字はひどい。ぐちゃぐちゃですね。途中まで書いたキーワードや書きなぐった図形ばかりです。落ち着いて話を聴くことのできるセミナーであれば、まだ少しまともなノートになります。こんな風に。
あとで断片から全体像を引き出せるようなメモを取るように心がけています。とはいえ、メモから完全に話の内容を再生する必要はありません(というか無理です)。メモは記憶を呼び出すためのインデックスで構わない。曲解や誤解は困りますが、自分なりの解釈で要点を押さえることができれば、それで十分ではないでしょうか。
最初から聴き上手のひともいるかもしれませんが、ヒアリングの上達は訓練で可能だと思います。要点ではないところばかり聞いて、たいせつなポイントがアタマを素通りしてしまうのは問題ですが、聴くことに意識を集中しているうちに自然と聴くツボもわかるようになります。要は場数です。きちんと聞く姿勢を繰り返せば、習慣として聴けるようになる。
ちなみに「聞く」は一般的に聞こえてくる音を拾う意味ですが、「聴く」は耳を澄まして身を入れて音に集中する意味として使うようです(鳥の声は聞くで、音楽は聴く)。だから聴けるようになりたい。傾聴することは、仕事だけではなく、家族や仲間とのコミュニケーションについても重要なことかもしれません。
ここ数日、自分を突き詰めていろいろと考えました。ほんとうに誰かの話をきちんと聴けているのか。聴いたつもりになっていないか、と。
そんなことを自問した結果、ぼくは聴き上手になろうと思いました。さらに、聴き上手を究めた上で、明晰な思考のもとにアドバイスができるようになりたい。コンサルティング、もしくはカウンセリングの技術を身につけたいと思っています。そのためには、聴くことができるだけでは足りないものがあり、聴き出す力、聴いたことをフィードバックして相手の内部にある何かを引き出す、あるいは相手を内側から動かすスキルが重要になります。
ということで注目したのが、NLP(Neuro Linguistic Programming:神経言語プログラミング)でした。
以前から気になっていたのだけれど、少しばかりアヤシイというか胡散臭いものも感じていたので、きちんと学んだことはありませんでした。けれどもネットで情報を集めてみると、考え方自体はとても面白い。盲目的に信じるつもりはありませんが、カウンセラーもしくはセラピストの技術のひとつとして参考にしたいと思います。
NLPは、1970年代に言語学博士のリチャード・バンドラーと心理学・数学のジョン・グリンダーというふたりによって、過去の偉大なセラピスト3人の考え方を体系化した学問のようです。当時、アメリカにはベトナム戦争によって、身体だけでなくこころに傷を負った兵士たちがたくさんいました。彼等をこころの病から救う技術として効果があったとか。
潜在意識もしくは五感に訴えかける言葉を重視しているようです。ちょうどぼくは、五感と言葉のつながりや、あるいは身体感覚と言葉のつながり(=文体と身体)についてブログで追究しようとしていただけに、ものすごく興味深い。
ただ、ちょっと怖いと感じたのは、NLPは人間のこころに存在している"プログラム"を書き換えることで、感情や行動を制御するということでした。これは行き過ぎると洗脳になると思います。しかし、善意で用いればそれこそ他者を救済するための力となる。
先日視線についてのエントリを書いたのですが、NLPにはVAKという考え方があるようです。人間は五感を使って世界を認識していて、どの感覚を優位的に使うかということから、以下の3つのタイプに分けています。
V:視覚(Visual)
A:聴覚(Audiotory)
K:嗅覚・味覚・触覚などの体感覚(Kinesthetic)
この応用だと思うのですが「アイ・アクセシング・キュー」という技術のことを知りました。これは非言語的なコミュニケーションである眼球の動きを意味づけます。眼球の動きを言語化して、以下のように読み解いています。眼球の動きによって、潜在的にこころが視覚や聴覚や体感覚の何を感じているのかがわかるようになり、また催眠のように示唆できるようになるらしい。
- 眼球右上→未来の映像:Visual
- 眼球右横→未来の聴覚:Audiotory
- 眼球右下→未来の体感覚:Kinesthetic
- 眼球左上→過去の映像:Visual
- 眼球左横→過去の聴覚:Audiotory
- 眼球左下→過去の体感覚:Kinesthetic
思えば、うちの次男くんは絵が好きなのですが、話しながら眼球をやや右上に動かすことが多い。これはまだ見ぬ未来のイメージを自分のなかで言語化しているといえそうです。今度、昔書いた絵のことを話してみよう。左上を見るかどうか楽しみです。
つまり、ボディランゲージのようなものから話者の意図を「聴き取る」こともできるわけです。あるいは、話し手が左横に視線を向けながら「あなたは昔こういうことを言いましたね」と語ることにより、聞き手の過去の潜在意識を掘り起こすような誘導もできるのかもしれません。うーむ、やっぱりなんだか怖いのですが。
ほんの入り口を浅く考察しただけですが、言語学や心理学を学ぶことによって、言葉と五感や潜在意識の新しい関係も見出せそうです。
でも、ぼくの正直な印象としては、こういう裏の手口がわかってしまうと白けますね。NLPの技術を鵜呑みにしてひとを操ろうというリーダーやコピーライターあるいは個人事業主もいそうですが、そんなひとをみつけたら、その手口を暴いてしまいたくなる。彼の手口に騙されるな!洗脳されるな!と言いたくなります。手品の仕掛けがわかってしまったような白々しさがあるのは、ぼくだけでしょうか。
ここまでの考察を無にするようですが、人間を説得するのは「術」ではないと思いました。ぼくはやっぱり人を動かすのは、知識や技術を超えた人間性ではないかと信じていたい。ただ、どうしようもない状況に陥っているひとを救うためには、こうした手段を学んでおくことも重要かもしれません。
説得力のある言葉は才能によって作られる・・・と言ってしまうとそれでおしまいですが、説得力のある言葉には、それなりのパターンや技術がある。そのノウハウを科学的に分析することは、決して無駄ではないと考えています。そこにブンガクと心理学、言語学、認知科学などが融合する余地があるのではないか思うですが、さていかがなものか。
投稿者 birdwing 日時: 23:24 | パーマリンク | トラックバック