« 2009年4月 | メイン | 2009年6月 »

このページは2009年5月に書いたすべてのエントリーです。

2009年5月24日

屋根裏の休日。

雨が降ったり曇りがちな日曜日でした。最近、長男くんが中学でテニス部に入ったので、空き地でテニスボールをぽんぽんやって休日を過ごすこともあるのですが、天気が悪い日ので今日は断念。とはいえ、インドアだからこそのんびり羽を休めることもできます。

昨年の暮れに引越しをして、屋根裏部屋のある家に住んでいます。自室でパソコンを使ってネットを愉しむ時間もよいのだけれど、休日のお気に入りは、屋根裏に篭って昼寝をしたり本を読んだりすることです。書斎や隠れ家、あるいは秘密基地のようなものは男のロマンという気がしています。そんな場所があるのは贅沢極まりない。でも、あるからには積極的に活用したい。なんといっても、もったいないですからね。

自宅の2階から屋根裏には、はしごで登ります。

090524_yaneura1.JPG

写していない左側にはダンボールで荷物が積まれていたりするのですが、それでもわずかばかりのスペースはあります。右上に空に向けて窓が開けていて(いまはカーテンっぽいもので覆われている)、天気のいい日は青空がみえる。けれども、夏は直接日が入り込むので温室状態になりそうです。したがって、もうすぐここへは登れなくなる。秋が来るまで入室禁止でしょうか。

090524_yaneura2.JPG

ここで音楽が聴けるといいなあ、と思って、先日リサイクルショップでラジカセを購入しました。ソニーのCFD-E500TV。2000年頃の製品のようです。けれども新品のようにきれいで4,800円でした。満足して気に入っています。音はそんなにはよくありませんが。

090524_yaneura3.jpg

ラジカセの下にちょこっと見えますが、読んでいるのは柴田元幸さんの責任編集による「モンキービジネスVol.5」。村上春樹さんの対談や川上弘美さん×小川洋子さんの対談がある。しかし他の本といっしょに読んでいるので、なかなか読み終わりません。数ページずつ、ゆっくりと読んでいます。

090524_yaneura4.JPG

今日のオンガクは、グールドのピアノ。ブラームスです。金曜日の会社の帰りにCDショップで購入しました。輸入版ですが5月末まで1,230円なり。とてもやさしいロマンティックなバラードが多く、何度も聴き直しています。

090524_yaneura5.JPG

ところが、グールド効果なのか屋根裏効果なのか、CDを2曲も聴かないうちにぐがーっと寝てしまった。はっと気付けば夕方でした。でも、気持ちよかった。

フォト日記風に書いてみました。さて、ビールでもいただきましょうか。今日はあいにくの曇り空ですが、もうすこしでビールがうまい季節になります。

投稿者 birdwing 日時: 17:01 | | トラックバック

2009年5月23日

Hector Zazou / Lights in the Dark

▼music09-04:ヒーリング効果がありそうな無国籍の響き。

ライツ・イン・ザ・ダーク
エクトル・ザズー
ライツ・イン・ザ・ダーク
曲名リスト
1. 星
2. 聖母マリアの7つの喜び
3. 死者の詩
4. 3人のマリアの哀哭の叫び
5. 聖母マリアの7つの喜び
6. 3人のマリアの哀歌
7. 受難の詩
8. 我等が父の御名のもとに勝利せんことを
9. 聖母マリアの7つの悲しみ
10. 主の御心に捧げる小さな歌
11. マリアの哀歌
12. 愛の求め
13. すべての希望の墓

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

週末、どこかエレクトロニカな気分にはなれずに、かといってジャズでもない。最近は図書館から借りてきたバッハ(「音楽のささげもの」、「フルートソナタ集」)を聴いていることが多いのですが、それではクラシックのコーナーに行ってみよう、ということで試聴しながらセンサーに引っかかってきたのがこの一枚でした。聴いてみた感覚としては、クラシックといえないような気がするのだけど。

暗闇のなかの光というタイトルの通り、このアルバムに収録されているのは敬虔な祈りを込めたケルト民族の聖歌です。アイリッシュ・ミュージックというような感じでしょうか。全体的には静かな闇が覆っているのだけれど、きらびやかな音の粒子がときどきその暗闇から現われては消える。そして、やさしい歌声が空気のように暗闇を包み込む。

試聴したときの第一印象は、スティングの「The Soul Cage」というアルバムみたいだな、という感じでした。母親の死から半年後に父親も亡くしたスティングが、かなしみの淵から立ち上がりつつ製作した一枚です。冒頭の「Island Of Solls」という曲から、どこかアイルランド風のさびれた風景が音像として拡がりました。あるいは、「グレゴリアン・チャント」でしょうか。まさに聖歌なのですが、こうした聖歌に影響を受けたエンヤの音楽にも近いものがあります。

このアルバムを手にするまで、エクトル・ザズーというミュージシャンには、まったく知識を持ちませんでした。ライナーノーツを読んでみると、フランスの実験音楽家らしい。ポップな作品を発表するかと思うと、音響系の音楽を展開したり、多彩だったらしい。2008年に急逝されたとか。坂本龍一さんもピアノとして参加されているのですが、なんだか非常に納得しました。そうして、ピーター・ゲイブリエルも参加している。

民族楽器に詳しくないので判断できないのですが、楽器もケルト的なものだけではないような気がします。どうも日本の琴のような音も聴こえる。ギターもギターではないような気がする。だからこそ音像として際立って聴こえます。あるいは何か音響的な処理がされているのかな。また、6曲目のイントロで聴こえる音は、うわーディストーションギターか、と思ったらチェロの弦による音でした。この攻撃的な音は、どちらかというと暗めの癒し系音楽のなかでは、際立っているような気がします。坂本龍一さんが参加されているのはこの曲です。不安な感じのするピアノの分散和音が効果的です。

好きな曲は1曲目「星(Ralt (The Star) )」。この曲ではシーケンサーのようなピコピコ音も若干ですが聴こえます。これはエレクトロニカといっても差し支えないような気がします。3曲目の「死者の詩(Dn Nar Marbh (Song of the Dead) )」。オカリナのような音は、「シルク」という映画で雪に埋め尽くされた峠を越えるようなシーンを思い浮かべました。4曲目「 3人のマリアの哀哭の叫びCaoineadh Na Dtr Muire (Keening Joys of Three Marys))。男性のコーラスが素敵です。音響系ですね、この音づくりは。7曲目、「受難の詩(Amhrn Na Pise (Song of the Passion) )」は癒されます。眠れない夜に聴きたい。9曲目「聖母マリアの7つの悲しみ(Seacht Ndlas Na Maighdine Muire (Seven Sorrows of The Virgin Mary)のハイトーンのヴォーカルと合唱も美しい。

よーく聴いてみると、国籍不詳というか、むしろ日本風な音階を発見したりします。かと思うと、急に南の島に飛ばされるような音が奏でられる。この個性は、エクトル・ザズーそのものなのでしょう。

自宅の近くにどこか民族系の喫茶店(なんでしょうか、この表現は)があって、夜になるとアコースティックギターや笛などのミニライブをやっています。気になるのだけれど、なかなか入ることができない。しかし、エクトル・ザズーの音楽を聴いていたら、そういうところにふらりと立ち寄ってみたくなりました。5月23日観賞。

+++++

■映像がすこし気持ち悪いのですが、YouTubeから。これは5曲目の「聖母マリアの7つの喜び(Seacht Sauilcena Maighdine Muire )」ですね。

Lights In The Dark... Hector Zazou...

投稿者 birdwing 日時: 23:59 | | トラックバック

2009年5月22日

ピアノチューナー・オブ・アースクエイク

▼cinema09-20:自動装置を調律する男、囚われの恋。

ピアノチューナー・オブ・アースクエイク [DVD]
ピアノチューナー・オブ・アースクエイク [DVD]アミラ・カサール, ゴットフリート・ジョン, アサンプタ・セルナ, セザール・サラシュ, ブラザーズ・クエイ

東北新社 2009-03-27
売り上げランキング : 3970


Amazonで詳しく見る
by G-Tools

フランツ・カフカの「流刑地にて」を連想したのですが、この映画でも機械/人間という構図がいつの間にか機械に侵食されて不条理に現実を歪めていきます。部品として全体のなかに嵌め込まれ、歯車のひとつとして使われるはずの人間が、感情という働きによって別の方向へ全体を動かしてしまう。ひとりの人間のほとばしる愛情が、狂気の計画を破壊する。そんなストーリーです。

謎のドロス博士(ゴットフリード・ジョン)によって不思議な孤島に迎え入れられたピアノ調律師フェリスベルト・フェルナンデス(セザール・サラシュ)が任された仕事は、ピアノの調律ではなく、博士が作った6つの自動装置のチューニングでした。その装置は水力で動いて、音を出すとともにさまざまなカラクリを動かします。非常に繊細な機械です。

自動装置といって思い出したのは、オルゴールですね。オルゴールというと現在はちいさな箱を思い浮かべますが、かつては部屋全体が自動演奏のための機械といえるような、大掛かりのものもあったようです。円筒型ではなく円盤型のものもあったらしい。人形を同期させて演奏させているかのようにみせる仕組みもあり、客を呼んで披露するなど、高貴なひとたちの愉しみのひとつだったようです。この映画に出てくる自動装置は、そんな古めかしい時代のオルゴールに近い仕様かもしれません。

腑に落ちない役目に戸惑いながら、特殊な調律の道具を渡された調律師は、その機械の調律にのめり込んでいきます。そうした作業の合間に島を散策していると、美しいオペラ歌手マルヴィーナ(アミラ・カサール)に出会うのですが・・・。

なんとも形容しがたい映像でした。とても幻想的です。影絵というか、洋書のおとぎばなしの黴くさい絵本の挿絵というか、古い怪奇映画というか、前衛的な演劇というか。コントラストが効いていて、それでいて周辺は、ぼんやりとソフトフォーカスのように霞んでいる。主としてセピア色、もしくはブルーの色調で、油絵のようでもある。

ひたすら木を切り続けるのっぺらぼうのようなカラクリ人形。7つの自動機械。屋敷を取り巻く森と海に打ち寄せる波。どこか詩的な風景とモノローグ。登場するオペラを歌う囚われの身の女性や、もとは娼婦という家政婦アサンプタの台詞や仕草は官能的でもあります。特に「森の匂いはどちら?」といって、アサンプタが樹木のかけらと自分の腋を嗅がせて比べさせるシーンはフェティシズムを感じました。ちょっときついというか戸惑ったけれども。

物語は、オペラ歌手のマルヴィーナがステージを終えて、舞台の袖で婚約者と抱き合うシーンからはじまります。そこに怪しい花束が届く。彼等の結婚式を目前にした演奏会で、彼女はドロス博士(ゴットフリード・ジョン)に連れ去られてしまいます。つまり博士は、自分の自動装置を完成させるための部品として、彼女をさらった。一度死なせて生き返らせて、放心状態の彼女を演奏会、つまり自動装置のお披露目のために練習を繰り返させています。

自動装置の調律のために博士のもとを訪れた調律師は、マルヴィーナに恋をしてしまう。しかし、マルヴィーナはそこにはいない婚約者のことを想っている。そうして、調律師と歌姫の関係にドロス博士は嫉妬する。さらに嫉妬した博士を、もとは娼婦でいまは家政婦のアサンプタが煽る。そんな歪んだ愛情の交錯から、次第に何かが狂い始めていきます。

家政婦アサンプタは調律師に、「ここは診療所なの。博士の専門は、こころを治すこと」ということを告げます。使用人と思っていた男達は患者だという。マルヴィーナは特に重い患者であり、治療が必要であると言われて調律師は面会することを拒まれる。しかし、狂っているのは彼等なのか博士なのか、それとも家政婦なのか自分なのか。壁のフレスコ画には既に博士と調律師と家政婦が描かれていて、運命は既に仕組まれていたものかもしれない、というシーンも謎めいています。

テリー・ギリアム監督といえば「未来世紀ブラジル」が有名であり、個人的には想像上のグリム兄弟の冒険を描いた「ブラザーズ・グリム」を観たことがありました。この映画では彼が製作総指揮としてプロデュースして、ティモシー/スティーヴン・クエイ兄弟(Wikipediaではこちら)が監督・脚本・アニメーション監督・デザインを担当しています。ぼくは知らなかったのですが、この兄弟、双子でカルト的な人気があるそうですね。強烈な偉才を放っている。

とはいえ映像はインパクトがあるのだけれど、ストーリー的にはどこか破滅に向かう展開が直線的な印象を受けました。もちろんそのあいだには、アリに寄生するキノコの話であるとか、それぞれの抑圧された愛情であるとか、数々のエピソードが豊かに幅を拡げているのですが。

筋を追うことだけが映画の愉しみではないでしょう。幻想的な映像美を愉しむという意味では、美術館で絵画を鑑賞するような充実感のあった映画でした。5月17日観賞。

■PIANO TUNER OF EARTQUAKES trailer

■公式サイト
http://www.quay-piano.jp/
090522_pianotuner.jpg

投稿者 birdwing 日時: 23:59 | | トラックバック

2009年5月21日

「武士道」新渡戸稲造

▼book09-15:世界に誇ることができる強靭な日本の精神力。

4837917003武士道―サムライはなぜ、これほど強い精神力をもてたのか?
奈良本 辰也
三笠書房 1997-07

by G-Tools

先日、カイシャの同僚が北海道に出張に行きました。その彼から「新渡戸稲造のファンなんですよ。武士道を読んで感動しました。だから、北大に行って銅像をみて帰ります」という話を聞いて、かっちょいいなあ、その「武士道」って本を読んでみるか、と思い購入した本です。

偶然ですが、読み進めていて半分を過ぎたところで食傷気味になっていた村上陽一郎さんの「あらためて教養とは」という文庫にも、次のように「武士道」が引用されていました(P.21)。

明治期に新渡戸稲造が『武士道』という本を書きました。あの『武士道』という本はなぜ書かれたか。最初英語で書かれ、いま日本語版として岩波文庫で流通しているのは矢内原忠雄の翻訳だと思いますが(改版、岩波書店、2007年)、この本は、若い人たちにも、成人にも、読んでない方にはぜひ読んでほしいと思って、数年前に大学の授業でもテクストとして取り上げたことがあるのですが、このところ大変なブームになったのだそうですね。先だっても、書店のレジのそばに平積みになっていました。映画『ラスト サムライ』の影響だという説もあるようですが。

なんだ、ブームだったのか。でも、世のなかの大きな流れの契機となるものには、すくなからず何かひとのこころを打つものがあるはず。乗れるブームなら乗ってしまいましょう(過去だけれど)ということで岩波書店の本を探したのですが、なかなかみつかりませんでした。諦めかけていたところ、近所の書店でぽーんと置かれていたのが三笠書房版のこの本です。いずれ文庫になるのかもしれませんね。でも読みたかったので衝動で買ってしまった。

村上陽一郎さんも書かれていますが、新渡戸稲造さん(さんってなんだかくすぐったい)がこの本を書こうとした動機は、ベルギーの法学者ラブレー氏の家で歓待を受けたとき、散策をしながら会話が宗教をめぐる話題に及んで、次のような会話がされたそうです。それが武士道について考える契機になったそうです。

「あなたがたの学校では宗教教育というものがない、とおっしゃるのですか」とこの高名な学者がたずねられた。私が、「ありません」という返事をすると、氏は驚きのあまり突然歩みをとめられた。そして容易に忘れがたい声で、「宗教がないとは。いったいあなたがたはどのようにして子孫に道徳教育を授けるのですか」と繰り返された。
そのとき、私はその質問にがく然とした。そして即答できなかった。なぜなら私が幼いころ学んだ人の倫たる教訓は、学校でうけたものではなかったからだ。そこで私に善悪の観念をつくりださせたさまざまな要素を分析してみると、そのような観念を吹きこんだものは武士道であったことにようやく思いあたった。
この小著の直接の発端は、私の妻がどうしてこれこれの考え方が日本でいきわたっているのか、という質問をひんぱんにあびせたからである。

余談ですが、引用していてあらためて重要だと感じたのは、「私が幼いころ学んだ人の倫たる教訓は、学校でうけたものではなかったからだ」という部分でした。

つまり、むかしは家庭の親たちも、しっかりと教育の一端を担っていた。というよりも、家庭の道徳教育が基盤となって、人間として恥ずかしくないように襟を正すようにして生きていくことができた。あるいは社会全体に、そうした規範が行き渡っていた。

いまはどうでしょう。ぼくもまた親のひとりとして反省することが多いのだけれど、教育は学校にまかせっきりのような気がします。そして家では、甘えたい子供たちに甘い菓子を与え、思う存分ゲームをやらせ、食事作法の基本さえ楽しく食べられればいいか・・・ということで手を抜いてしまいがちです。何度言ってもうちの息子たちはテーブルに肘をついて食べる。ぼくはものすごく怒られた気がするのだけれど。いかんなあ。

かつては両親はもちろん、じーちゃん、ばーちゃんも厳しく孫たちを教育しました。ごはん粒を残しただけで張り倒されることもあったはずです。いまは、じーちゃん、ばーちゃんが自分の楽しみのために、孫を玩具にしていることさえある。パンの耳は固いからイヤ、と言われたら、いいよいいよ残しなさい、と相好を崩して許してあげる。これはうちだけかもしれませんね。

ぼくが子供の頃には、近所のパン工場からサンドイッチを作るために切り落とした不要なパンの耳の部分だけ安く売ってもらって、揚げてもらったりして、おやつに食べたものだけれどなあ。

もちろんすべての大人たちがそうではないでしょう。また、ひたすら厳しく締め上げればいいものではない。けれども、どこか締めるべきところが緩みがちなことも多い。子供が親に依存するとともに、親も子離れできないのかもしれません。共依存関係にある甘えた絆が、長期的な視点からは子供たちにとっていいことなのかどうなのか。疑問ですね。

と、話は大きく逸れましたが、新渡戸稲造さんのすごいところは、27歳つまり十年前に質問されたラブレー氏の疑問を考え続け、教育「制度」として確立していなかった武士道に名をつけたことにあります。

そして、なぜなぜどーしてどーいうことなのっ!?という妻の問いに、あーうざいんだよお前は、どうでもいいじゃん、寝ろ!などと足蹴にせずに延々と対話を続けたのちに、37歳にして答えを用意したことです。しかも英文で書き上げ、世界に問うた。その結果、日本に武士道あり、という日本の評価を高めることになりました。おそるべし、その執念。

英語圏の文化を日本語に翻訳して伝えることも大事ですが、日本の伝統としてカタチになっていないものを文章化して世界に伝えた。その功績はすばらしい。できれば英語で読んでみたいですね、この書物は。

すこし難しいことを書いてしまうと、「暗黙知」を「形式知」に変えた、といえるかもしれません。もやもやーっとした知恵を文章化することによって、異文化の誰かも納得できるようにナレッジを体系化した。ひとむかし前に流行ったビジネス用語でいえば、日本の倫理観を「みえる化」したわけです。

しかも彼はニーチェやソクラテスなどの西洋の哲学者、孔子や孟子などの東洋の思想家、政治家、作家、詩人などあらゆるひとたちの言葉を織って、この本を構成していきます。この一冊から派生して知をひもとくことができるインデックスにもなっている。

日本は偉い、あるいは、西欧は凄い、という単眼的な思考であれば、この本はそれほど評価されなかったでしょう。西洋という「他者」の思考をきちんと理解したうえで、日本という「自己」の独自性を確立していく姿勢の公正さに打たれます。そして、英語で書かれたせいか、翻訳された日本語の文章を読んでいてもロジックの確かさに信頼感があります。曖昧に思考を誤魔化していない。

その武士道とは・・・うわー、余計なことを書きすぎて触れる余力がなくなってしまった(泣)。

ひとつ感じたことは、実際はともかく、武士は高飛車に存在していたわけではなかったということです。商人や農民などの支えがあり、金儲けや地を這うような生活から切り離された独自の特権階級であったからこそ、高貴な意識や文化を形成できた。しかし、その特権に甘んじていたわけではありません。いざとなれば「切腹」というカタチで責任を取る覚悟もありました。5歳の弟に切腹の作法を教えて腹を掻っ切ったふたりの兄の話には、涙が出ました。

かつての日本人は、たとえ世界に知られていなかったとしても、崇高な品格を保ち、世界に誇ることができる「武士道」という文化を有していました。それがいま・・・どうなのだろう。英語という言語の勢力にゆらゆら揺らいでマイノリティを恥じたり、失言に突っ込みを入れることだけにやっきになったり。ネットの界隈では、感情を垂れ流す無責任な匿名の文章に甘んじていて、凛とした姿勢の正しささえ失っているかのようにみえることもあります。

いいのかな。それが時代なのかな。時代は変わってしまったのかな。グローバル化の名のもとに日本は変わってしまうのかな。

この書物に書かれていたことは、いつかまた触れることがあるかもしれません。けれども触れるときには過去の遺物として、まったく時代にそぐわないものになっているような気がしてならないのです。5月17日読了。

投稿者 birdwing 日時: 23:55 | | トラックバック

2009年5月18日

「それは、「うつ病」ではありません!」林公一

▼book09-14:甘えと病気を区別する。当事者だからわかる事実。

4796669086それは、うつ病ではありません! (宝島社新書)
林公一
宝島社 2009-02-09

by G-Tools

病気に関する本は、こころして読まなければなりません。というのは、情報を鵜呑みにしてもいけないし、かといって軽視するわけにもいかないからです。病気に対するブログなどの記載も同様です。したがって、これから書くエントリの内容は安易に判断せずに、もし疑わしきところがあれば、しっかり医師の診察を受けて判断してくださいね。

この本では20の事例から、うつ病か、擬似うつ病か、その判断と根拠を解説されています。わかりやすかった。そして、わかりにくい病気であることもわかりやすかった。解答として「現代の診断基準では、うつ病ということになります」というびみょうなものもあるのですが、その曖昧さもわかる。本物のうつ病が増加しているとともに、ブームに乗じてちゃっかり怠けるために利用しているひともなかにはいることでしょう。その事実についてあえてことばを濁すのではなく、ばっさりと考察をのべる著者の視点がすがすがしい。

ブログを休んでいたあいだ、しばらくぼくは精神を病んでいたようでした。「ようでした」というのもびみょうですが、というのも医師に診察してもらったけれど、診断結果は教えてくれなかった。ちらっと盗みみたカルテに、うつ病と書いてあったので、ああ、ぼくはうつ病だったか、と思っただけです。けれどもひょっとすると、もっと別の病気だったかもしれない、と思うこともあります。統合失調症とか、境界性人格障害とか。

メンタルクリニックに通ってわかったことは、ものすごい人数のひとがその場所を訪れているということです。ぼくの通った病院は、それほど待合室が広くないのだけれど、通勤ラッシュか?と思うぐらいに患者さんで溢れていました。みんな大変な時代なんだな、と感じたことを覚えています。

正確には、ぼくぐらいの程度では「うつ病」とは言えなかったかもしれません。重度のひとは、ほんとうに待合室で頭を床に押し付けたまま動けなくなっている。そんな患者さんと比べると甘っちょろい感じです。けれども、次のような日々を送ったときには、さすがに平常ではありませんでした。ほんとうに自分が怖くなり、意を決して「どうもぼくはおかしい。病院に行ってくる」と家族に言わざるを得ませんでした。こんな感じでした。

  • 眠っても1時間で目覚めてしまう。断片的な睡眠を積み重ねる。
  • 平日はともかく休日の朝は起きられない。眠れずにうずくまったまま。
  • 音楽を聴きたいという気持ちがまったくなくなってしまった。
  • ひたすら自分を責める言葉ばかりが浮かんで、こころから消えない。
  • 仕事に貢献できない自分が不甲斐なくて仕方ない。
  • 駅で電車の入ってくる方向を見られない(吸い寄せられてしまうので)。
  • 死ぬタイミングを考えることが多い。ゾロメの時間に死のうとか。

誰にも言えなかった。家族にさえ、最後の最後まで言えませんでした。おっかしいなあ、なんでこんなに落ち込んでいるんだろうなあと思いながら、とにかく日々を過ごしていた。しかし、どうもやばい、これはふつーではないと思いはじめて、病院のドアを叩きました。

最悪な時期に病院に通い、クスリを処方されてわかったのは、クスリを飲むだけでぜんぜん違う!ということでした。つまり、すくなくとも眠ることができる。これだけでも、当時のぼくには画期的でした。

だから、あらためてぼくもこの本の著者、林広一さんが書いている「うつ病はこころの風邪ではない」という意味を理解できます。そして、「うつ病は治る」ということばにも、おおきく頷きます。その通り。

うつ病という診断書を書いてもらって会社を休み、休みにもかかわらずパチンコなどをして過ごす人間が擬似うつ病であることもよくわかります。それは単なる甘えですね。あるいは仕事のできない人間の誤魔化しに過ぎない。

また、ホンモノのうつ病は、この本にも書いてあるとおり、他責的ではありません。自責の念が強まる。だから、会社に対して「会社の理解がないから、わたしはこうなった。あなたたちの責任だ!」と憤る"元気のいい"ひとがうつ病ではないことにも深く頷きました。それはむしろ人格障害ではないか、という疑問についても、なるほどね、と思った。

しかし、そういうひとも、病気であることには変わりがない。そこで著者は、うつ病と区別して「気分障害」という言葉を最後に提示します。次のような定義です(P.218)。

うつ病=本物のうつ病。つまり脳の病気
気分障害=うつ病に似ているがうつ病ではないもののすべて

脳の病気というのは、ほんとうに実感しました。病気になってみてよくわかった。脳関連の書籍に出てくる図解ですが、この本でも「シナプスと神経伝達物質」という次の図解が紹介されます。

090518_nounai.JPG

通常であればスムースに伝達されている物質の伝達がうまくいかなくなる。だから、落ち込むような気分になったり自殺を考えたりするようになるわけで、物質の伝達をクスリで改善すれば治る。次の部分を引用します(P.53)。

脳内には神経物質が何十億とあります。そして、互いにシナプスで結合しています。そこにはセロトニン、ノルアドレナリンなどの神経伝達物質が動いています。それによって神経細胞同士は情報を伝達し、それが人間の精神活動を生んでいます。
うつ病は、このシナプスの神経伝達物質の変調による症状です。
つまり、うつ病は脳の病気なのです。
怠けでもなければ、甘えでもありません。病気です。そして、病気である限り、治療が必要なのは当然です。その意味ではインフルエンザやガンと同じです。
うつ病の治療は十分な休養と薬。そして、叱咤激励しないこと。ケース2でそう説明しました。 けれども最も重要なことは、「うつ病は脳の病気」ということを理解していただくことかもしれません。それが理解されれば、薬を飲んで休むのが第一であること、そして叱咤激励してもなにもならないことは、自然にわかっていただけるでしょう。

ぼくの場合には次の薬を処方していただきました。

・デパス(商品名):エチゾラム。抗不安薬兼睡眠薬 Wikipediaはこちら
・ドグマチール(商品名):スルピリド。定型抗精神病薬 Wikipediaはこちら 
・ジェイゾロフト(商品名):セルトラリン。選択的セロトニン再取り込み阻害 (SSRI) タイプの経口抗うつ薬 Wikipediaはこちら

最初は眠気がひどかったけれど、二週間ぐらいすると気持ちが安定するようで、さらに経過すると、あらゆる食べ物がおいしく感じるようになりました。ジャンクフードや580円の定食を食べてもうまい。どうしたことだー、ごはんがうますぎるーと思った。

しかし副作用もあるようです。確かに・・・いくつかの副作用はありました。とはいえ、こころを立て直すと同時に、カラダも立て直す必要があるのが、うつ病ではないでしょうか。こころの面でいうと、依存心を断ち切ることが大事かもしれません。依存心があると、最悪の場合、クスリに依存してしまうことにもなる。どんなにクスリが効いたとしても、こころの問題も解決する必要があります。焦ることはありません。ゆっくり治していけばいい。

いまの時代、ふつーに生きていても辛いことがたくさんあります。だから精神科の扉を開けるのも容易くなってきている。けれども逆にそのことによって、弱者のふりをして甘えたり権利を要求するひとも増えているのかもしれません。そうであってはいけない。

老人に席を譲るように、妊婦さんを電車のなかで労わるように、軽症であるぼくのような人間は、はやく病気を治して健康になって、もっと重度のひとのために病院のベンチをあけてあげることが大事ではないでしょうか。こころとカラダの両方に気をつけながら。5月17日読了。

投稿者 birdwing 日時: 23:05 | | トラックバック

2009年5月17日

遠くの空に消えた

▼cinema09-19:信じること、行動することで実現する奇跡。

B000ZLPT3C遠くの空に消えた [DVD]
神木隆之介, 大後寿々花, ささの友間, 大竹しのぶ, 行定勲
ギャガ・コミュニケーションズ 2008-03-07

by G-Tools

"ハチは航空力学的にいえば、飛ぶことはできない。けれども飛べた。なぜか。飛ぼうと思ったからだ"。冒頭で語られた、そんな台詞が印象的でした。

いい映画でした!すばらしかった!

大いに笑ったり泣いたりしたわけではないけれど(1箇所だけ号泣)、じんとこころに染みる映像と物語です。ノスタルジックであり、またジュブナイル(児童文学)の雰囲気もあり。行定勲監督ご自身が脚本も書かれたようですが、彼の映画のなかではいちばんじゃないかな。すくなくとも、今年ぼくが観た映画のなかではいちばんよかった。観てよかった。

物語の舞台は馬酔(まよい)村という日本のどこかにある田舎。この村の風景がそもそも日本であって日本らしくない。遠い日のふるさとのようでもあり、中南米のどこかのような印象もあったりして、懐かしくも美しい。

この村に、空港が建設されようとしています。村民は反対している。空港を建設するために村民を説得させる任務で、ひとりの役人とその息子がやってきます。地元の空港建設反対のひとびとは抵抗する。大人たちの問題にとどまらず、学校においても土地を売ることで寝返った子供をいじめるなど、暗い影を落とすようになる。けれども、そんな状況のなかでファンタジーのような、すばらしい出来事がいくつも起こります。生涯忘れられないような。

物語は重層的です。行定勲さんの脚本はうまい。ひとびとの関係が織り成す物語が複数、交差されて展開していきます。けれども、「信じていれば奇跡は起きる。飛べる」というテーマで貫かれている。

まずは、かつては同じ村に住んでいた大人たち、空港建設の役人である楠木雄一郎(三浦友和さん)、生物学者の土田信平(小日向文世さん)、バーのママ(大竹しのぶさん)の物語。

幼馴染なのだけれど、遠い昔の子供の頃、ふとした諍いがあって雄一郎はこころを閉ざしてしまう。そのまま大人になります。一方で、信平は子供のころの夢を追いつづけていて、こころは子供のままです。三浦友和さんは結構好きな俳優さんなのですが、ここでは小日向文世さんがいい味出していました。空港建設を推進する立場=雄一郎、地元の自然をまもる立場=信平という立場で対立しながらも、ふたりは親しく語り合える親友です。この親友の関係のなかで、頑なな雄一郎のこころはすこしやわらぐ。

そして、UFOを信じることでつながった3人の子供たち。父が役人でありハンティング帽にサスペンダーの服装がかっこいい楠木亮介(少年の頃は神木隆之介さん、成人して以後は柏原崇さん)、お父さんを異星人に連れ去られたというエキセントリックな少女柏手ヒハル(大後寿々花さん)、ちょっと抜けているけれどあったかい土田公平(ささの友間さん)の物語。

公平の父親は、ボーボー鳥を復活させるためにずーっと家にいなかったのに、ふらりと帰国します。父親と家族のそんな場面もこころがあったかくなる。さらに、鳩だけを愛して狂人とおもわれて生きている孤独な青年、赤星(長塚圭史) 。彼は村人から、からかわれたりいじめられたりするのですが、狂ってしまった理由として、いとしいがゆえに抱きしめすぎて弟トーマを殺してしまった、その日からおかしくなった、という話を聞いて、ぼくは不覚にも号泣でした。これ、ぜんぜん物語の本筋とは関係のない部分なんですけどね。この赤星も彼等三人の仲間に加わります。

さらに、好きでもない男性と結婚させられる運命にありながら、とつぜん出会った空から落ちてきたひとに憧れる先生(伊藤歩さん)の物語。このセンセイも美しいひとですが、彼女が恋慕う謎の男性(チャン・チェン)は渋い。レオナルド・ダ・ヴィンチの設計した飛行機のような翼をつけてふたりで飛ぶ練習をしたり、寄り添って月を眺めているシーンは美しかった。ジャックと豆の木のような蔓をたどって雲の上から月を眺めるシーンは、すこしだけ「未来世紀ブラジル」のような趣きを感じました。

両手を広げてUFOを呼び寄せる呪文をとなえていたヒハルに「UFOって信じる?」と言われて、半信半疑のまま彼女に付き合い、星を眺めたりUFOを探すのを手伝う亮介と公平たちがいいなあ。隕石をゲットできる望遠鏡もよかった。そんなものはあり得ないのだけれど、三人は信じている。流れ星をみるたびに、機械の歯車を回して隕石を取ろうとしている。そうして、星を眺めてUFOを呼ぶための小高い丘に秘密基地のようなものをつくります。木を結びつけてアンテナのようなものをつくるわけです。ちょっとわくわくしました。子供のころに、そんなことを田舎の裏山でやった経験があるので。

東京では星はみえません。かろうじて金星がみえるぐらいでしょうか。月だけは明るくて、仕事で遅くなった夜、ぼくは月を眺めて帰ることが多い。しかし、ぼくの住んでいる田舎では、昔もいまも満点の星空を眺めることができます。最近、住宅が多くなってしまったのでいまひとつ鮮明にみえない気もするのですが、冬になると落ちてくるような星空です。プラネタリウムどころではなかった。東京で育った子供たちは星空を眺めても感動がありません。むしろ「どうぶつの森」というゲームの星空のほうがよかったりする。いいのかなあ、とは思うのだけれど。

ところで、ヒハルという女の子、つまり大後寿々花さん。12歳のぼくだったらぜったいに初恋に落ちた気がする(照)。彼女が登場するたびに、なんかぽーっとしてしまった。DVDのジャケットをちょっと拡大して掲載してみます。

090516_toku1.jpg

たぶん少年の頃のぼくは、こういうタイプに弱かった。おでこが出ていて、ヘアピンで髪をとめていて、髪の先端が外側に跳ねていて、ワンピースから細い二の腕とかふくらはぎとか・・・。入院の見舞いに来た亮介によろめいてもたれかかって泣くシーンがあるのですが、オトナのラブシーンよりどきどきしました。

ちなみにハンティング帽にサスペンダーの神木隆之介さんもかっこいい。いかにも・・・な感じはありますが、都会から出てきた洗練された少年という感じです。

そんな風にキャラクターのひとりひとりが立っている。バーのママはけばけばしいし、チンピラはチンピラらしい。田舎の子供の代表として公平はランニングシャツまるだしだし、マドンナである先生は美しく、そのフィアンセは気持ち悪い(笑)。こうした設定もまた、完璧です。

不甲斐ない大人たちを見捨てて、公平の指揮のもとに、子供たちで空港建設に反対するための奇跡を起こそうとする。途中で、ああなるほどね、と何をしたいかわかったのですが、実際にその結末をみて感動しました。いいなあ、こういうのって。馬鹿なんだけれど、行動することで奇跡も現実になる。であれば、ぼくは馬鹿でありたいですね。奇跡を実現するために。

ロケ地は帯広を中心とした北海道とのことですが、そこで思い出したのは、「神の子どもたちはみな踊る」「海辺のカフカ」など、村上春樹さんのUFOが登場する作品でした。けれども、おとぎ話でありながら現実的な「遠くの空に消えた」のほうが、ぼくは物語として好きかな。村上春樹さんの話は、すこばかりオカルト風味が強すぎるので。

映画に挿入された音楽も好きでした。ちょっとジュゼッペ・トルナトーレ監督の作品を思い出させます。勝手にぼくの好きなものを結びつけた感じはしますが。

トレイラーの最後の行定勲監督のことばが印象的でした。

何かを信じられなくなったとき、
信じ続けるパワーをくれる映画を撮りたかった。

信じることで奇跡を起こしたい。現実を変えたいものです。5月10日観賞。

■トレイラー

■公式サイト
http://to-ku.gyao.jp/
090516_toku2.jpg

投稿者 birdwing 日時: 10:12 | | トラックバック

2009年5月 9日

翼を休めて、飛ぶのをやめて。

鳥にちなんだハンドル(BirdWing)を使っていますが、鳥たちだって長いあいだ飛んでいると疲れることもあり、傷を負って翼が折れてしまうこともあります。グライダーや飛行機であってもメンテナンスが必要になる。

ブログもまた同じでしょう。システムだけでなくブロガー個人も定期的に休む必要があるだろうし、更新頻度をあげるよりじっくり書いたほうがよい場合もある。エントリの品質にこだわるのであれば、時間をかけて書いたほうがぜったいにいい。好きではじめたことだから、切迫したように書かなくても構わない。

長い人生、走りつづけると息切れします。燃え尽きたりもする。ちょっと待て、何のためにオレ走っていたっけ?とわからなくなることもある。そんなときはむやみに暴走せずに、立ち止まって行く末の地図を確認したほうが賢明です。

そんなわけでブログの更新を止めていました。

ほぼ1ヶ月ぶりの更新になります。
お久し振りです。みなさん、いかがお過ごしでしたか?

更新を止めていた期間、当然ですが何もしていなかったわけではありませんでした。仕事はあり、4月生まれのぼくは誕生日を迎えてひとつ歳をとり、新型インフルエンザのパンデミックに怯えながら大型連休もあった。

そうして別の場所で、むしろこのブログよりも大量の文章を毎日書きつづけていました。全然違う形態「だ、である」調の文章です。

書きつづけてみると、「だ、である」調のほうが自分に合っていました。自由に思いを語ることができます。なかなか出来のよい文章もあるのですが、そのときに書きつづけた膨大な文章は、公開するつもりはありません。ものすごくプライベートなことであり、自分の内面について考察した深い内容なので。さらにまた別の場所でも書いていました。膨大な自分に関する考察から得たことを箴言的に表現すると・・・という、まとめ的なものとして活用していました。

本も読みました。1ヶ月のあいだ11冊読んだかな。そのなかでもいちばん衝撃的に読み終えたのは次の本です。

4622039702夜と霧 新版
池田 香代子
みすず書房 2002-11-06

by G-Tools

アウシュビッツの支所に収容された心理学者の記録です。名著といわれていますが、ほんとうに戦慄するぐらいよかった。

これも、まあまあ参考になるところは多くありました。

4903908127文章は写経のように書くのがいい
香山 リカ
ミシマ社 2009-03-02

by G-Tools

この2冊については感想を書くことがあるかと思いますが、他の本についてはさすがにもういいかな、という気がしています。ああ、黒川伊保子さんのこの本は書くかもしれない。黒川ファンのわたくしとしては、外せません。

4087203743日本語はなぜ美しいのか (集英社新書)
黒川 伊保子
集英社 2007-01

by G-Tools

映画も観ました。こちらは5本。アクションが多かったのですが、一風変わったものとしては次の2本が印象的だったでしょうか。

B001P953IEその男は、静かな隣人 [DVD]
フランク・A・カペロ
アット エンタテインメント 2009-04-03

by G-Tools

どこか「ファイトクラブ」的でもあり、自宅で飼っている金魚が話をする演出は「アメり」のようでもあります。パワハラを受けている惨めな社員が、カイシャをぶっ壊そうと夢見ているのだけれど、その夢と現実が錯綜するようなストーリー。

B000R3AL5O毛皮のエロス~ダイアン・アーバス 幻想のポートレイト~ [DVD]
ニコール・キッドマン.ロバート・ダウニーJr, スティーヴン・シャインバーグ
ギャガ・コミュニケーションズ 2007-08-03

by G-Tools

こちらは男の脱毛が流行る時代ですが、ぼーぼーな多毛症の人間が隣りに引っ越してきて、その謎めいた人物に惹かれていく主人公(ニコール・キッドマン)のお話です。

ところで、あえて告白してしまいます。

実は、空白の期間、メンタルクリニックに通っていました。いまも薬は飲んでいます。精神を病んでしまったようです。

とにかく不眠がひどかった。たぶんそれほど重度ではないと診断されたかと思うのですが、うつ病だったのだと思います。デパス、ドクマチール、ジェイゾロフトという薬を処方していただき毎日飲んで、カウンセリングも受けていました。それだけ精神が追い込まれていたんじゃないかな。

最初に医師に診察を受けたときは、「辛かったね」ということばをひとこと聞いただけで涙が止まらなくなり、1時間のカウンセリングでもぼろぼろでした。仕事にはきちんと通っていたし、家族ともふつーに話していたのですが、内面はひどく壊れちゃっていたんだなあ・・・とおもいました。

ただ、連休には劇的にすばらしいことがありました。それで一気にうつも吹き飛んでしまった。というか、やっとブログが書けるようになった。

人生はドラマじゃないと思うのですが、実はドラマを超えているようなできごともある。つくりものの映画や小説なんかよりも、現実に起きたことのほうがスリリングであり、すばらしいことがあります。しかもそれは、自分がシナリオを起こすことができるし、さらにそのシナリオが運命によって、予測もつなかい方向に展開されることも考えられます。

ひょっとしたら現実の人生は、映画なんかよりずっとドラマチックかもしれない。そんなことを感じた連休でした。ここであったことを生涯忘れることはないでしょう。

という経験を経由して、ゆるゆるとブログを再開したいと考えています。

ほんとうは、まったく違うスタイルでブログを立ち上げようとも思ったのですが、長期的な意味からライフワークとしてこのブログは必要だと考えています。なので、更新頻度は低くなるかもしれませんが、ぼちぼちとつづけていきたい。

あんまりたいしたことは書けないのだけれど・・・よろしくお願いします。

投稿者 birdwing 日時: 07:16 | | トラックバック

with Ajax Amazon