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2009年5月21日
「武士道」新渡戸稲造
▼book09-15:世界に誇ることができる強靭な日本の精神力。
武士道―サムライはなぜ、これほど強い精神力をもてたのか? 奈良本 辰也 三笠書房 1997-07 by G-Tools |
先日、カイシャの同僚が北海道に出張に行きました。その彼から「新渡戸稲造のファンなんですよ。武士道を読んで感動しました。だから、北大に行って銅像をみて帰ります」という話を聞いて、かっちょいいなあ、その「武士道」って本を読んでみるか、と思い購入した本です。
偶然ですが、読み進めていて半分を過ぎたところで食傷気味になっていた村上陽一郎さんの「あらためて教養とは」という文庫にも、次のように「武士道」が引用されていました(P.21)。
明治期に新渡戸稲造が『武士道』という本を書きました。あの『武士道』という本はなぜ書かれたか。最初英語で書かれ、いま日本語版として岩波文庫で流通しているのは矢内原忠雄の翻訳だと思いますが(改版、岩波書店、2007年)、この本は、若い人たちにも、成人にも、読んでない方にはぜひ読んでほしいと思って、数年前に大学の授業でもテクストとして取り上げたことがあるのですが、このところ大変なブームになったのだそうですね。先だっても、書店のレジのそばに平積みになっていました。映画『ラスト サムライ』の影響だという説もあるようですが。
なんだ、ブームだったのか。でも、世のなかの大きな流れの契機となるものには、すくなからず何かひとのこころを打つものがあるはず。乗れるブームなら乗ってしまいましょう(過去だけれど)ということで岩波書店の本を探したのですが、なかなかみつかりませんでした。諦めかけていたところ、近所の書店でぽーんと置かれていたのが三笠書房版のこの本です。いずれ文庫になるのかもしれませんね。でも読みたかったので衝動で買ってしまった。
村上陽一郎さんも書かれていますが、新渡戸稲造さん(さんってなんだかくすぐったい)がこの本を書こうとした動機は、ベルギーの法学者ラブレー氏の家で歓待を受けたとき、散策をしながら会話が宗教をめぐる話題に及んで、次のような会話がされたそうです。それが武士道について考える契機になったそうです。
「あなたがたの学校では宗教教育というものがない、とおっしゃるのですか」とこの高名な学者がたずねられた。私が、「ありません」という返事をすると、氏は驚きのあまり突然歩みをとめられた。そして容易に忘れがたい声で、「宗教がないとは。いったいあなたがたはどのようにして子孫に道徳教育を授けるのですか」と繰り返された。
そのとき、私はその質問にがく然とした。そして即答できなかった。なぜなら私が幼いころ学んだ人の倫たる教訓は、学校でうけたものではなかったからだ。そこで私に善悪の観念をつくりださせたさまざまな要素を分析してみると、そのような観念を吹きこんだものは武士道であったことにようやく思いあたった。
この小著の直接の発端は、私の妻がどうしてこれこれの考え方が日本でいきわたっているのか、という質問をひんぱんにあびせたからである。
余談ですが、引用していてあらためて重要だと感じたのは、「私が幼いころ学んだ人の倫たる教訓は、学校でうけたものではなかったからだ」という部分でした。
つまり、むかしは家庭の親たちも、しっかりと教育の一端を担っていた。というよりも、家庭の道徳教育が基盤となって、人間として恥ずかしくないように襟を正すようにして生きていくことができた。あるいは社会全体に、そうした規範が行き渡っていた。
いまはどうでしょう。ぼくもまた親のひとりとして反省することが多いのだけれど、教育は学校にまかせっきりのような気がします。そして家では、甘えたい子供たちに甘い菓子を与え、思う存分ゲームをやらせ、食事作法の基本さえ楽しく食べられればいいか・・・ということで手を抜いてしまいがちです。何度言ってもうちの息子たちはテーブルに肘をついて食べる。ぼくはものすごく怒られた気がするのだけれど。いかんなあ。
かつては両親はもちろん、じーちゃん、ばーちゃんも厳しく孫たちを教育しました。ごはん粒を残しただけで張り倒されることもあったはずです。いまは、じーちゃん、ばーちゃんが自分の楽しみのために、孫を玩具にしていることさえある。パンの耳は固いからイヤ、と言われたら、いいよいいよ残しなさい、と相好を崩して許してあげる。これはうちだけかもしれませんね。
ぼくが子供の頃には、近所のパン工場からサンドイッチを作るために切り落とした不要なパンの耳の部分だけ安く売ってもらって、揚げてもらったりして、おやつに食べたものだけれどなあ。
もちろんすべての大人たちがそうではないでしょう。また、ひたすら厳しく締め上げればいいものではない。けれども、どこか締めるべきところが緩みがちなことも多い。子供が親に依存するとともに、親も子離れできないのかもしれません。共依存関係にある甘えた絆が、長期的な視点からは子供たちにとっていいことなのかどうなのか。疑問ですね。
と、話は大きく逸れましたが、新渡戸稲造さんのすごいところは、27歳つまり十年前に質問されたラブレー氏の疑問を考え続け、教育「制度」として確立していなかった武士道に名をつけたことにあります。
そして、なぜなぜどーしてどーいうことなのっ!?という妻の問いに、あーうざいんだよお前は、どうでもいいじゃん、寝ろ!などと足蹴にせずに延々と対話を続けたのちに、37歳にして答えを用意したことです。しかも英文で書き上げ、世界に問うた。その結果、日本に武士道あり、という日本の評価を高めることになりました。おそるべし、その執念。
英語圏の文化を日本語に翻訳して伝えることも大事ですが、日本の伝統としてカタチになっていないものを文章化して世界に伝えた。その功績はすばらしい。できれば英語で読んでみたいですね、この書物は。
すこし難しいことを書いてしまうと、「暗黙知」を「形式知」に変えた、といえるかもしれません。もやもやーっとした知恵を文章化することによって、異文化の誰かも納得できるようにナレッジを体系化した。ひとむかし前に流行ったビジネス用語でいえば、日本の倫理観を「みえる化」したわけです。
しかも彼はニーチェやソクラテスなどの西洋の哲学者、孔子や孟子などの東洋の思想家、政治家、作家、詩人などあらゆるひとたちの言葉を織って、この本を構成していきます。この一冊から派生して知をひもとくことができるインデックスにもなっている。
日本は偉い、あるいは、西欧は凄い、という単眼的な思考であれば、この本はそれほど評価されなかったでしょう。西洋という「他者」の思考をきちんと理解したうえで、日本という「自己」の独自性を確立していく姿勢の公正さに打たれます。そして、英語で書かれたせいか、翻訳された日本語の文章を読んでいてもロジックの確かさに信頼感があります。曖昧に思考を誤魔化していない。
その武士道とは・・・うわー、余計なことを書きすぎて触れる余力がなくなってしまった(泣)。
ひとつ感じたことは、実際はともかく、武士は高飛車に存在していたわけではなかったということです。商人や農民などの支えがあり、金儲けや地を這うような生活から切り離された独自の特権階級であったからこそ、高貴な意識や文化を形成できた。しかし、その特権に甘んじていたわけではありません。いざとなれば「切腹」というカタチで責任を取る覚悟もありました。5歳の弟に切腹の作法を教えて腹を掻っ切ったふたりの兄の話には、涙が出ました。
かつての日本人は、たとえ世界に知られていなかったとしても、崇高な品格を保ち、世界に誇ることができる「武士道」という文化を有していました。それがいま・・・どうなのだろう。英語という言語の勢力にゆらゆら揺らいでマイノリティを恥じたり、失言に突っ込みを入れることだけにやっきになったり。ネットの界隈では、感情を垂れ流す無責任な匿名の文章に甘んじていて、凛とした姿勢の正しささえ失っているかのようにみえることもあります。
いいのかな。それが時代なのかな。時代は変わってしまったのかな。グローバル化の名のもとに日本は変わってしまうのかな。
この書物に書かれていたことは、いつかまた触れることがあるかもしれません。けれども触れるときには過去の遺物として、まったく時代にそぐわないものになっているような気がしてならないのです。5月17日読了。
投稿者 birdwing : 2009年5月21日 23:55
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