2009年6月27日
残念だったのは。
もうあまり使わなくなったかもしれないのですが、「リア充」というネットの隠語がぼくは嫌いです。ネットやゲーム以外の現実生活が充実していること、あるいはコイビトがいたり仕事にやりがいがあったり、リアルライフが充実しているひとのことを指すことばのようです。
はてなの匿名ダイアリーを使っているひとが特に好むことばかもしれません。最近多いモテ/非モテみたいな思考にも抵抗があります。いつの時代にもありがちですが、勝ち組/負け組みのような、二項式の枠組みで世界をラベル分けするような暴力的な姿勢を感じとります。さらに価値観の根底に他者の評価を気にする自己愛が感じられて気持ち悪い。
ぼくにしてみれば、ネットもリアルです。ネットはリアルの二次的な場所ではない。引き篭もるための逃げ場でもない。生活の一部に溶け込んでいて、それだけを抽出したり境界線を引くことができません。
だから、リアル/バーチャル(ネット)という対比の構図は存在しない。残念ながらぼくはゲームはやらないけれど、息子たちがゲームを楽しんでいるところを眺めていると、ゲームの世界も彼等にとってリアルの一部なんだと痛感します。
ネット廃人、ゲーム廃人のようなことばもあります。しかし、それはネットというリアルに中毒的に関わっているひとのことだとおもう。アルコール中毒やセックス依存症とあまり変わりません。
身体をぼろぼろに壊すほどのめり込むのは問題があるとしても、それだけ嵌まったひとには足を突っ込んだひとにしかみられない世界をみることができるのではないか。決して推奨するわけではないのですけどね。苦しかったとしても、斜に構えて傍観者を気取るひとよりも豊かな(というより壮絶な)人生を生きているのではないだろうか、と。
さて。ほとぼりが冷めた頃に、ITmediaに掲載された梅田望夫さんの記事について考えてみました。既にさまざまな方が議論されている話題です。
■日本のWebは「残念」 梅田望夫さんに聞く
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0906/01/news045.html
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0906/02/news062.html
まず個人的に引っかかったのは、前編に出てきた次のような発言の瑣末な部分でした。揚げ足を取るようですが。
良いインターネットと悪いインターネットというと善悪の基準が1つあるみたいで良くないけれど。それは僕の好みだと言ってもらってもかまわないけど。
良いインターネット/悪いインターネットだけでなく、梅田望夫さんの思考全体には、ウェブ/リアル、シリコンバレー/日本のような二項による思考の傾向を感じてしまうのはぼくだけなのかな。だからこそ外国のWebに対して日本のWebは「残念」という評価も生まれるのだと考えます。常に相対的なものとして語られる価値観がある気がする。
しかし、そろそろ、ネットはリアルと対比される特別な場所ではないということを認識し、シリコンバレーのような諸外国を聖地として崇めることもやめたほうがいいんじゃないのでしょうか。過度に期待することもないし、過度に劣等感を抱くこともない。日本は「残念」かもしれないが、いまのままで十分。
国民性といえるかもしれませんが、社会的な傾向から日本を考えてみます。
湿度が高く、長い歴史のなかで鎖国のような閉鎖的な国策や、士農工商といった格差を制度化してきたこの国では、諸外国のようなからっとした平等なコミュニティや議論が発生することは難しい。
カラオケという文化を生んで、新橋で愚痴をサカナに酒を呑んで溜飲を下げる大人が多いこの国では、はてなブックマークのような陰湿な「ただの憂さ晴らし、揚げ足取り」の文化が生まれるのは当然であり、匿名で身を守って、卑怯な手段で陰口をたたくひとが後を絶たないのは仕方ない。
グローバル化を標榜しながら、意見を戦わせようとすると感情論になってしまったり、かというと出る杭を恐れて「和」が大事などと言い訳をして、にやにや薄ら笑いで誤魔化そうとする関係性がデフォルトでは、ネットであろうがリアルであろうが議論が発展しないのは当然だ。
日本はそういう国なのだ、とおもいます。
夢や理想も大切だけれど、安易に楽観主義をとなえるよりダメな現実を直視したい。傍観者として批判するのではありません。ぼく自身も日本人であり、ブログを書いているひとりなのだから。
ただ、ITmediaの記事を読んで直感的に感じたことは、梅田望夫さんにはそうした世界、あるいは社会全体を広く見渡す視点、高邁な志(こころざし)に欠けているのではないか、ということでした。
ブログ黎明期に、たしか茂木健一郎さんだったとおもうのだけれど、時代の変化を明治維新になぞらえて、梅田望夫さんを維新を担う人物のように高く評価したことがありました。しかし、ぼくは途中からちょっと違うんじゃないかな、という違和感をもつようになりました。梅田望夫さんの人間像が変わってきた。
ウェブにしても、はてなにしても、ちょっとした物議をかもし出した水村美苗にしても、将棋にしても、感じていることをストレートに書きます。
梅田望夫さんは、俯瞰的な視点や日本の文化を考える姿勢から、それらの話題を取り上げているのではない。そのとき「自分」にとって有用な何か、あるいは「趣味」に飛びつき、利用しているだけである。ネットに対して、日本語に対して、日本の文化の何かを担っているかのようにみえて、実は自分のことしか考えていない。自己防衛のための道具を次々と探しているだけではないか。
はてなブックマークの悪質な書き込みへの対応については、警告を発したり、削除すべきだという声もありました。ところが、はてなは対策をする、と公言しつつ何もしていない。そのことに対して彼は次のように語っています。
強権的に何かを削除するとしても、ほかのブログなら何も考えずに消すけれども、うちはむしろ、もうちょっと違うところを目指したりするじゃない。そこが原点になって何か問題が起きたときに、直接的に利用者に対して「君たちがこういう使い方をしているのは良くない」と主観でものを言うのは、はてなの取締役を辞めるまでしないということを、あの事件の時に思ったんですよ。そしたらさ、新聞記者が、「辞めてくださいよ。辞めて、その発言を日本のためにしてください」と言ったんだよ。僕は「ふざけるな」と。「どうしてそんな失礼なことを君は言うの?」と僕は言ったわけですけどね。
これを読んで素直に抱いた印象は、ちっちゃいやつだなー梅田望夫さんは、ということでした(自分のことは棚にあげます)。
こうした無責任な姿勢を「開き直り」として痛烈な批判をされていたのが、池田信夫さんのエントリーでした。これは気持ちよかった。
■梅田望夫氏の開き直り
http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/54f043773c73f9c44acde62c00573094
ぼくは国民性を諸外国のようにネットが発展しない原因として感じたのだけれど、池田信夫さんは雇用システムが原因である、とされています。
私は、この原因は「日本人の国民性」だとは思わない。それは戦後の日本企業システムの鏡像である。長期雇用のもとでは、絶えず他人の噂話による「360度評価」にさらされるので、ちょっとした失敗やトラブルがあると、そのreputationが数十年にわたって社内で積み重なり、出世に大きく影響する。このシステムはモラルハザードを抑制する上では強力な効果を発揮するが、上司を批判できず転職という逃げ場もないため、そのストレスが匿名による悪罵にはけ口を求めているのだ。
雇用に関する考察がされたあとで、梅田望夫さん(と、はてな)をばっさりと斬る。その鋭さは見事です。
日本をだめにしているのは、このような日本企業の家父長的な構造と、それにチャレンジしないでストレスを飲み屋やウェブで発散するサラリーマンだ。はてなは結果的には、こうした卑怯者に「ガス抜き」のプラットフォームを提供することによって、この救いのない(梅田氏も嫌悪する)システムを延命する役割を果たしている。このアーキテクチャを個人が変えることはできないが、はてなの取締役である梅田氏には現状を改善する意思決定は可能だ。それをしないで他人事のように「残念」というのは、加害者の開き直りにしか見えない。
共感ですね。広告塔のようにしかみえなかったのだけれど、梅田望夫さんは、はてなでどんな仕事をしたのだろう。
コンサルトと経営者の違いについても考えました。一概にコンサルトのすべてがそうだとはいえませんが、コンサルタントは助言をするだけであって、経営全般にきちんと責任をもつわけではない。ある意味、「無責任」です。
コンサルタントの技術・手法として「こういう考え方がありますね、でもこうも考えられます」とオプション(選択肢)を多数提示して助言したり、あるいは「これがよくないですね、ここを変えましょう」と課題点など否定的な見解を述べることがあります。けれどもそれらは、コンサルタントの思考力の幅広さをみせるかのようで、実は「だから言ったのに」とあとで言い訳するための布石、保険のようにさえみえる。ダイレクトに業績に関わっている経営者のような視点からみると、「逃げ」に感じられるのではないでしょうか。
議論の内容ではなく個人に関していえば、期待していなかったひとに対しては失望もしません。だからあらためてインタビューから梅田望夫さんの「やっぱり自分が大事」という小市民的な姿勢を確認して、そんな無責任なコンサルタントっていそうだなあ、あれだけ立派なウェブの未来を描いておいてこれは責任がないよなあ(苦笑)と侘しくおもうだけでした。
ある意味、身近に感じたともいえます。梅田望夫さん日本のブログ界やハイブロウな世界を担う人物ではなく、いずれはロングテールのしっぽに埋もれてしまう隣人なのだと。
残念なのは日本のWebではなく、梅田望夫さん、そのひとだったのではないか。だとすると、この話はやっきになって議論するような話題ではなく、とても瑣末な個人の狭量に関する「残念」な話だったのかもしれません。
投稿者 birdwing 日時: 23:34 | パーマリンク | トラックバック
2009年6月25日
香り、ほのかに。
5月の終わりごろでしたが、夜中に帰宅するときに草いきれのむっとした匂いに包まれて、おお、季節が変わりつつあるのだな、と感じたことを覚えています。雨には雨の、夏には夏の匂いがあります。
季節のうつろうこの時期。思考力を鍛えるだけでなく感覚も研ぎ澄ましていたい。慌しい毎日のなかではこころが磨耗することも多いのだけれど、感性を豊かに、五感を大事にすることによって、目にみえるものだけでなく、みえないものの変化を感じていたいとおもいます。
嗅覚をテーマにした作品としては、「パフューム」という映画をおもい浮かべました。匂いに関するこだわりはどこか官能的なイメージにつながります。フェロモンなどの動物的な嗅覚の要素があるからかもしれません。
パフューム スタンダード・エディション [DVD] ベン・ウィショー.レイチェル・ハード=ウッド.アラン・リックマン.ダスティン・ホフマン, トム・ティクヴァ ギャガ・コミュニケーションズ 2007-09-07 by G-Tools |
ちょっと変わったところでは、原田宗典さんに「スメル男」という小説があったかな。ものすごーく臭い人間になってしまう主人公の話でした。
スメル男 (講談社文庫) 原田 宗典 講談社 1992-06 by G-Tools |
その臭さといえば数キロ先からでも嗅げるという。テーマとしてはSFっぽいのですが、彼の書く小説はどこかあたたかい(まあ、ちょっと軽すぎたりお調子ものっぽいところもある)。「優しくって少し ばか」という処女作品が一時期とても好きで、影響を受けました。ぼくの文体の数パーセントには原田宗典さんの成分が含まれているような気がします。
ところで、暑くなってくると気になるのが汗の臭いです。今週のR25が面白かった。制汗剤の「AXE(アックス)」とタイアップの企画になっていました。
中綴じの真ん中のページに、ビニールで綴じこまれた7種類のフレグランスのサンプルが付いています。
ひとつひとつを取り出すと、スプレーの部分に香りの粒子が印刷されていて、こすると匂いが出る。エッセンスからアンリミテッドまで7種類の香りを体験できます。なんだか昔にこんな雑誌の付録があったような気がする。
クイズ形式になっていて、この匂いが好きな女の子はこの子、という写真もついています。オトコの子はこういうのが好きなんだよね(笑)。
ダークテンプテーションのちょっと甘い匂いもいいかな、でも、アンリミテッドのハーブっぽいものも捨てがたい・・・などと嗅いでいたらよくわからなくなりました。おまけに好みの女の子が好きな香りがいいなと思いこもうとしたり。ハイセンスな青文字系(?)の彼女が好きな香りが、どうやらぼくの好みの香りらしい。まあ、広告なので仕込みという雰囲気もしないではないですけれども。
この制汗剤は、先日ドラッグストアで気まぐれにテスターを試したことがあったなあ。しかし、個人的には一度失敗して懲りたのですが、制汗剤やアフターシェービングローションのようなものは無香料がいい。ホストっぽい、というとホストのお仕事の方に失礼ですが、無駄に香るひとになってしまうので。汗臭さは消えたとしても、別の意味で臭くなってしまう。無香料がいちばん。
そもそも家人によると、ぼくは「なんとなくトロピカルな匂い」がするらしいのです。どういう匂いだそれは?と疑問なのですが、自分の体臭は自分ではわからないのでなんともいえません。ちなみに、あまり香水の話などをするのは女々しい印象で気が引けるのですが、ぼくはジバンシイのウルトラマリンというコロンを使っています。青い色が好きです。ウルトラマリン ブルースカイという商品もあるらしく、空好きな自分としては気になります。
ジバンシイ ウルトラマリン オーデトワレスプレー 30ml H33 ジバンシイ by G-Tools |
ジバンシイ ウルトラマリン ブルースカイ オーデトワレスプレー 50ml-J33 ジバンシイ by G-Tools |
この香水を使いはじめたのは実は偶然のなりゆきがあり、息子に「どの匂いがいい?」と訊いたところ、これを指差した。しかし、どうやら彼は「ウルトラマン」に似ているので、ついこれを選んでしまった気がします。そんな長男くんは匂いや味に敏感で、「小田急線の新宿駅の匂いが好き」とか「エビアンは他の天然水よりだんぜん美味しい」などと言う繊細な少年です。
匂いは、どちらかというとほのかに香るほうがよい。
身体だけでなく文体にも香りがあります。ぼくの文章は、自分らしい匂いを醸し出しているのかな。できることならば子供っぽい雰囲気は卒業して、セクシーな大人の男性らしい文章を書きたいのだけれど、なかなか難しいものです。ついでにいうと、加齢臭を漂わせないようにも気を付けつつ(苦笑)。
たまに周囲に悪臭をふりまく歩く公害のようなひとがいますが、ほのかによい香りを漂わせるような(実際に何か香水をつけているわけではなくてもね)、人間味のあるひとになりたいものです。
投稿者 birdwing 日時: 22:22 | パーマリンク | トラックバック
2009年6月24日
垂直に読む。
読書に没頭したくなるときが周期的に訪れるようで、いま小遣いのありったけを投入して本を購入して読んでいます。といっても、読みやすい本ばかりで、読む気が失せた本は途中でうっちゃっている。熱しやすく醒めやすいのかもしれません。あるいは飽きっぽいのか。
本は読者にとって"読みごろ"の時期がある、というのが自論です。
啐啄同機ということばもあるように(卵が孵化するとき、雛と親鳥の両方が殻を突くこと)、ぼくの求めている本があると同時に、本がぼくを求めていることがある。もちろん絶対的に評価されている名著はありますが、ある時期の自分にとって、とんでもない駄作がめちゃめちゃこころを打つこともあります。そのことを恥じることはないとおもう。逆に数十万部の売上げのあるベストセラーがすこしもぴんとこないこともある。読者あっての書物です。本の価値は本のなかにあるのではなく、読んだひとのなかに生まれる。
池田信夫さんがブログで姜尚中さんの「悩む力」を批判されていました。ウェーバーに関する事実から「陳腐なお伽話」と表現されていて、まさにその通りかもしれないな、と感じたのだけれど、その「お伽話」的な部分も含めて、「悩む力」を読んでいたとき、ある種のうっとりとした印象がぼくにはありました。個人的にはしなやかな文体によるところが大きかったと感じているのですが。
いま振り返ると「悩む力」はタレント本であり、内容は浅いのかもしれません。しかし、ごりごりとした歯ごたえのある本がすべてではない。映画に難解な文芸作品だけでなくエンターテイメント作品もあるように、さまざまな本があってよいと思うし、個々人が多様に(というか勝手に)感想や評価を抱いてよいのではないでしょうか。ただし、事実の誤りに惑わされない知力あるいは教養は必要ですね。本に書かれていたことだからと鵜呑みにすると、間違っていることもある。
松岡正剛さんの「多読術」にも同じような表現があった気がしますが、読書というのは、本と読者のあいだでつくられていくものです。世界を認識する人間の数だけ多様な現実の世界があるように、読者の数だけ多様に本は読まれる。あなたの読む「悩む力」と、ぼくが読む「悩む力」は違っていて当然かもしれません。けれども共感できる部分がひとつでもみつけられたら、しあわせなことです。
自分の整理のために現状の読書状況をメモしておきます。手付かずのまま積まれた状態になってしまったのはこの本たちでした。
大洪水 (河出文庫) 望月 芳郎 河出書房新社 2009-02-04 by G-Tools |
P.237まで読んだのに。
東京大学のアルバート・アイラー―東大ジャズ講義録・歴史編 (文春文庫) 菊地 成孔 文藝春秋 2009-03-10 by G-Tools |
まったく手付かず。
思考する言語〈上〉―「ことばの意味」から人間性に迫る (NHKブックス) Steven Pinker 幾島 幸子 桜内 篤子 日本放送出版協会 2009-03 by G-Tools |
すっごく面白いんだけれど3冊あるんですよね。一方で、ゆっくりと読み進めているのはこの本です。
1Q84 BOOK 1 村上春樹 新潮社 2009-05-29 by G-Tools |
1Q84 BOOK 2 村上春樹 新潮社 2009-05-29 by G-Tools |
いまだにBOOK1のP.334まで。とほほ
男たちへ―フツウの男をフツウでない男にするための54章 (文春文庫) 塩野 七生 文藝春秋 1993-02 by G-Tools |
P.90まで。なかなかためになります。
そして、ここ一ヶ月ばかりひとりの作者にターゲットを定めて、突き進むように読み進めてきました。並行して異なるジャンルの本を読むのではなく、ある意味、垂直に読む感じでしょうか。実際にオブジェクト指向の開発用語には垂直読み(vertical reading)という用語があるようですが、これは異なる開発フェーズにおけるドキュメントを串刺しにして読むことのようです。ぼくの場合には、ある作家をコンプリートして読もうと考えていました。それが中島義道さんでした。
まず、中島義道さんは変人だとおもった(笑)。狂っているのかもしれないと感じました。彼の講演を受けたひとのうち数名は気分が悪くなった、というエピソードもありましたが、あながち嘘ではないでしょう。「どうせみんな死んでしまう」という考え方を軸に独自の哲学を展開されていて、意識を逆撫でする感覚があり、最初は居心地が悪かった。にもかかわらず、なぜか読み進めるうちに引き込まれて妙に安心してしまう。なんだろう、この感覚は?ということで次から次へと買い求めてしまいました。
読了した順に並べてみます。
■5月26日読了
私の嫌いな10の人びと (新潮文庫) 中島 義道 新潮社 2008-08-28 by G-Tools |
■5月28日読了
ひとを"嫌う"ということ (角川文庫) 中島 義道 角川書店 2003-08 by G-Tools |
■5月31日読了
悪について (岩波新書) 中島 義道 岩波書店 2005-02 by G-Tools |
■6月3日読了
私の嫌いな10の言葉 (新潮文庫) 中島 義道 新潮社 2003-02 by G-Tools |
■6月6日読了
狂人三歩手前 (新潮文庫) 中島 義道 新潮社 2009-01-28 by G-Tools |
■6月11日読了
哲学の道場 (ちくま新書) 中島 義道 筑摩書房 1998-06 by G-Tools |
■6月18日読了
不幸論 (PHP新書) 中島 義道 PHP研究所 2002-10 by G-Tools |
■6月20日読了
孤独について―生きるのが困難な人々へ (文春文庫) 中島 義道 文藝春秋 2008-11-07 by G-Tools |
■6月20日読了
働くことがイヤな人のための本 (新潮文庫) 中島 義道 新潮社 2004-04 by G-Tools |
ひとつひとつの内容に触れたい気もするのだけれど、さておき。一見するとネガティブな不快な思考としかおもえない膨大な文章からわかったことは、
哲学する、とは、思考を停止しないこと
ではないかと感じました。なぜ?を問いつづけること。「しあわせだから、まあいっか」と片付けてしまうような瑣末なことであったとしても、すっと振りほどく手をぎゅっと捕まえて、さらに仔細に拡大鏡をあてて、「ほんとうにしあわせなのかっ?!」と自責もしくは自省すること。しかも問いを継続した結果もたらされるものは何もありません。世のなかをよくするとか、自分や他者を救うということが到達点ではない。問いつづける状態そのものが(彼のいうところの)「哲学する」ことのようなのです。
中島義道さんの限度を知らない自責(ネガティブループといえないこともない)については、ついつい笑っちゃうほど厳密なのですが、誤魔化したり騙したり嘘を吐いたり妥協したりして生きているぼくには、眩しいほど純粋で感受性が鋭くて誠実にみえました。ただ、彼のようになりたいとはおもわないですけどね。
あらためておもったのは、彼はノイズという映画に出てきたティム・ロビンスに似ている(映画の感想はこちら)。うるさくてもちょっと我慢すればいいじゃん、というところを嫌だ!という意識に忠実になるのでしょう。感情論や極論が嫌いではないぼくには、非常に面白かった。
現在は時間論の本を読んでいるのですが、さすがにこれだけ読めばかなりのものだろう、と考えてWikipediaで著作を調べて驚いた。ものすごい量の本を出していました。どひゃー。以下引用して、読了したものは■を付けてみます。
カントの時間構成の理論 理想社 1987年 (「カントの時間論」岩波現代文庫)
ウィーン愛憎 ヨーロッパ精神との格闘 中公新書 1990年 (のち角川文庫「戦う哲学者のウィーン愛憎」))
モラリストとしてのカント1 北樹出版 1992年(「カントの人間学」講談社現代新書)
時間と自由 カント解釈の冒険 晃洋書房 1994年(のち講談社学術文庫)
哲学の教科書 思索のダンディズムを磨く 講談社 1995年(のち講談社学術文庫)
「時間」を哲学する―過去はどこへ行ったのか 講談社現代新書 1996年
うるさい日本の私―「音漬け社会」との果てしなき戦い 洋泉社 1996年(のち新潮文庫)
人生を<半分>降りる―哲学的生き方のすすめ ナカニシヤ出版 1997年(のち新潮OH!文庫)
哲学者のいない国 洋泉社 1997年 (のちちくま文庫「哲学者とは何か」)
<対話>のない社会―思いやりと優しさが圧殺するもの PHP新書 1997年
■哲学の道場 ちくま新書 1998年
■孤独について―生きるのが困難な人々へ 文春新書 1998年 (のち文庫)
うるさい日本の私 それから 洋泉社 1998年 (のち「騒音文化論 なぜ日本の街はこんなにうるさいのか」講談社+α文庫、「日本人を〈半分〉降りる」ちくま文庫)
空間と身体 続カント解釈の冒険 晃洋書房 2000年
■ひとを<嫌う>ということ 角川書店 2000年 (のち角川文庫)
■私の嫌いな10の言葉 新潮社 2000年 (のち新潮文庫)
「哲学実技」のすすめ そして誰もいなくなった...... 角川oneテーマ21 2000年
■働くことがイヤな人のための本 仕事とは何だろうか 日本経済新聞社 2001年 (のち新潮文庫)
生きにくい...... 私は哲学病。 角川書店 2001年 (のち角川文庫)
ぼくは偏食人間 新潮社・ラッコブックス 2001年(「偏食的生き方のすすめ」新潮文庫)
時間論 筑摩書房・ちくま学芸文庫 2002年
たまたま地上にぼくは生まれた 講談社 2002年 (のちちくま文庫)
カイン 「自分」の弱さに悩むきみへ 講談社 2002年 (のち新潮文庫)
■不幸論 PHP新書 2002年
「私」の秘密 哲学的自我論への誘い 講談社選書メチエ 2002年
怒る技術 PHP研究所 2002年
ぐれる! 新潮新書 2003年
愛という試練 マイナスのナルシスの告白 紀伊國屋書店 2003年 (「ひとを愛することができない」角川文庫)
カントの自我論 日本評論社 2004年 (のち岩波現代文庫)
どうせ死んでしまう...... 私は哲学病。 角川書店 2004年
英語コンプレックス脱出 NTT出版 2004年
続・ウィーン愛憎 ヨーロッパ 家族 そして私 中公新書 2004年
■悪について 岩波新書 2005年
生きることも死ぬこともイヤな人のための本 日本経済新聞社 2005年
■私の嫌いな10の人びと 新潮社 2006年(のち新潮文庫)
後悔と自責の哲学 河出書房新社 2006年
■狂人三歩手前 新潮社 2006年
カントの法論 ちくま学芸文庫 2006年
醜い日本の私 新潮選書 2006年
哲学者というならず者がいる 新潮社 2007 年
「人間嫌い」のルール PHP新書 2007年
「死」を哲学する (双書哲学塾) 岩波書店 2007年
観念的生活 文藝春秋 2007年
孤独な少年の部屋 角川書店 2008年
カントの読み方 ちくま新書 2008年
人生に生きる価値はない 新潮社 2009年
全部は読まないかもしれないなあ。けれども、ひとりの作者を一貫して読むことで、自分とは違った思考を辿ることができ、思考力を鍛錬できました。ただ、万人にはおすすめしません。このひとの本は毒も多い。強靭な精神力をもって読まないと、揺さぶられることもあります。精神を病んでしまう。たぶん、精神を病んでいた自分だからこそ、すんなりと受けとめられたのでしょう(苦笑)。
いま、この本を読んでいます。もうすぐ読み終わりそう。
時間を哲学する―過去はどこへ行ったのか (講談社現代新書) 中島 義道 講談社 1996-03 by G-Tools |
すげー!!面白い。カイシャの帰りに電車のなかで読みながら、ちょっとどきどきしました。自分なりの時間論を考えはじめて止まらなくなった。いずれ書くかもしれません(書かないかも)。
いやー。深彫りする読書もいいですね。
投稿者 birdwing 日時: 22:38 | パーマリンク | トラックバック
2009年6月 9日
地球が静止する日
▼cinema09-21:危機感も緊張感もなくて困惑。
地球が静止する日 <2枚組特別編>〔初回生産限定〕 [DVD] キアヌ・リーブス, ジェニファー・コネリー, ジェイデン・スミス, キャシー・ベイツ, スコット・デリクソン 20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン 2009-05-02 by G-Tools |
宇宙からとつぜん侵略者が地球にやってきて・・・というパニック系の映画です。しかし、いまひとつ。設定が薄っぺらでわかりやすい。細部が詰めていないので、ご都合主義すぎる。なんとなく古めかしいな、とおもったらリメイク作品なんですね。もとの作品が気になります。
ああ、これって○○のことだよね、と途中でわかってしまった。人類滅亡の危機だけれど最後は救われるんでしょ?と見透かしてしまっていたので、どんなに侵略者が建物や兵器を破壊しても、凝った映像を展開してもダメでした。そんなもので、だまされるかーという感じ。
物語は過去にインドの山中で登山者が光輝く球体に出会うところからはじまります。しかし、もはやその段階で、ああこのひとが後になって現われるのだね、ということがバレバレなのです。だって、キアヌ・リーブス(主役)なんだもん。これはないでしょ。しかし、キアヌ・リーブスって影薄くなっちゃったなあ(髭の剃りあとは濃いけれど)。いい男だけれど「マトリックス」のときのような存在感がない。
宇宙微生物学の研究者ヘレン(ジェニファー・コネリー)は再婚した未亡人で、息子とふたり暮らし。息子は生意気で、母親のことを名前で呼び捨てにする。ある日帰宅すると、国家の機密組織からの使者に家の周りを包囲され、どこかへ連行される。連行される途中のヘリコプターには、さまざまな分野の研究者が押し込まれている。彼らが連れて行かれたのは、ニューヨークのセントラルパークに飛来した巨大な球体。余談だけれど、球体は雲のような光がぐるぐる回転しながら輝いていて、きれいだなーと思いました。こんなオブジェがほしい。
戦車や武装した兵隊たちがその球体を取り囲んでいて見守っていると、なかからクラトゥ(キアヌ・リーブス)が出てくる。しかし、ヘレンと握手を交わそうとした瞬間に、兵隊の発射した弾丸によって撃たれてしまう。と、でかいひとつ目のロボット・ゴートが出てきて反撃をする。このロボット、無敵です。ジェット機を自在に操って破壊してしまう。
クラトゥは地球の環境を破壊しようとしている人類に警告を発するために、地球にやってきたのでした。しかし、攻撃的な地球人たちを見限って最後の手段を行使しようとします。話し合いたいという意志を伝えるクラトゥに対して、捕獲して力技で自白させようとしたり、勝ち目がないのにゴートに攻撃したり。防衛庁の長官は大統領の指示がなければ動けない。
アメリカの問題を浮き彫りにしている気がしました。ストーリーはつまらないのだけれど、そうしたアイロニーとして観ると、楽しめる部分もある。人類は変われない、というクラトゥに対して、変われる!を連呼するヘレンには、どこかオバマ大統領の選挙のイメージが重なりました。しかし、その後、どうみてもくさい親子の感動(?)シーンにこころ動かされて、人類は変わることができるとあっさり方向転換してしまうクラトゥには、あれっ??という感じで拍子が抜けた。安易すぎるのではないでしょうか。
クラトゥをノーベル賞の科学者が説得する場面で、彼の家の書斎にバッハが流れている。バッハの流れている書斎で、宇宙人と地球を代表する科学者は黒板に無言で数式を書き合って、問題を解こうとしている。バッハと数式という組み合わせのそのシーンは印象的でした。あとは・・・あまり印象に残らなかったなあ。6月6日観賞。
■「地球が静止する日」本予告
■公式サイト
http://movies.foxjapan.com/chikyu/
+++++
ところで公式サイトのところにリンクがあった「ナリキル?」というサイトでは、自分の写真を合成して自分仕様のジャケットをWeb上で作成できます。面白そうなので、むかし撮影した証明写真を使ってやってみました。これが最後の完成ページ。印刷もできるようです。
投稿者 birdwing 日時: 23:59 | パーマリンク | トラックバック
2009年6月 7日
1Q84、読中ライブ。
村上春樹さんの新しい長編小説「1Q84」。いきなり前触れもなく5月28日、書店にどーんと平積みされていてびっくりしました。
1Q84 BOOK 1 村上春樹 新潮社 2009-05-29 by G-Tools |
1Q84 BOOK 2 村上春樹 新潮社 2009-05-29 by G-Tools |
アイキューかとおもったらイチキューハチヨンだった、ということに気付いてにやり。どうしようかなあと迷ったのですが、翌日、買ってしまえーということで2冊まとめて購入。まさにミーハーですが、やはり彼の作品はまとめて読みたい。現在では品切れの書店も多いらしいとのこと。よかった。
柴田元幸さん責任編集の「モンキービジネス」には、忘れかけていた頃に小説を発表すると買ってくれる読者がいる、そのタイミングが大事、という策略的な村上春樹さんのインタビューも掲載されていて、うーむ、彼の思惑にやられたか?とも感じました。とはいえ、ほぼ全作品を読破した自分としては、やっぱり春樹さんの作品に触れられるのがうれしい。
モンキービジネス 2009 Spring vol.5 対話号 柴田 元幸 ヴィレッジブックス 2009-04-20 by G-Tools |
ほんとうは読み終えてから読後感を総括して書きたいところですが、読んでいる途中に忘れてしまいそうです。そこで読中ライブとして、感じたことなどをつれづれに書き綴ってみたいと思います。現在は1冊目の第12章、P.278まで読み進めています。もし、まっさらな気持ちでこの作品を読みたいひとがいれば、以下は読まないようにしてくださいね。
「1Q84」は、青豆(アオマメ)と天吾というふたりの主人公の物語を、交互にチャプターとして展開されていきます。という構成でよみがえったのは、ひと晩で読破した「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」でした。
世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド 村上 春樹 新潮社 2005-09-15 by G-Tools |
映画にも(たとえば「バベル」など)複数の物語が平行して絡み合いながら進行するものもありますが、今後どのように重なっていくのでしょう。楽しみです。
映画のことに触れましたが、読み始めた第一印象は映画的であるということでした。流れるようなストーリー展開のなかで、場面がいきいきと描かれています。流暢な文章もさることながら、視覚的にぐいぐいと引きこまれる。青豆(アオマメ)は女性の殺し屋で、冒頭では渋滞の高速道路でタクシーを乗り捨てて地上に降りる。このシーンがとてもビジュアルとして鮮明でした。
青豆のイメージとしては、なぜかスティーブン・ソダーバーグ監督の「エリン・ブロコビッチ」のジュリア・ロバーツを思い浮かべたのですが、どちらかというと殺し屋のシチュエーションとしてアンジェリーナ・ジョリーあるいはミラ・ジョヴォヴィッチといったところでしょうか。ただし、青豆のスタイルは短い黒髪に貧乳なので、ちょっと違うかも。
青豆と天吾というタイトルから、ぼくはジャックと豆の木を連想しました。いままで村上春樹さんの作品では井戸に降りるという表現が暗喩的に使われてきたのだけれど、高速道路から地上に降りた青豆もそんな他の春樹作品のシーンに重ね合わせることが可能かもしれません。
一方、天吾は予備校教師で小説を書いています。とある新人賞の下読みをしているときに「空気さなぎ」という作品に出会い、編集者である小松にプッシュする。「空気さなぎ」は、ふかえりという十七歳の少女が書いた小説です。小松はこの作品を天吾にリライトさせて、芥川賞を狙おうと画策する。
ふかえりは疑問符なしに平坦に喋るような不思議な少女なのですが、その会話はひらがなとカタカナを中心に表記されます。ぼくは以下の場面を読んでいて不覚にも涙が出てしまいました。どーでもいいようなシーンなのですが(P.87)。
「君は数学は好き?」
ふかえりは短く首を振った。数学は好きではない。
「でも積分の話は面白かったんだ」と天吾は尋ねた。
ふかえりはまた小さく肩をすぼめた。「だいじそうにセキブンのことをはなしていた」
「そうかな」と天吾は言った。そんなことを誰かに言われたのは初めてだ。
「だいじなひとのはなしをするみたいだった」
「数列の講義をするときには、もっと情熱的になれるかもしれない」と天吾は言った。「高校の数学教科の中では、数列が個人的に好きだ」
「スウレツがすき」とふかえりはまた疑問符抜きで尋ねた。
「僕にとってのバッハの平均律みたいなものなんだ。飽きるということがない。常に新しい発見がある」
「ヘイキンリツはしっている」
「バッハは好き?」
ふかえりは肯いた。「センセイがいつもきいている」
「先生?」と天吾は言った。「それは君の学校の先生?」
ふかえりは答えなかった。それについて話をするのはまだ早すぎる、という表情を顔に浮かべて天吾を見ていた。
バッハの平均律、いいですよね。癒されます。
■J.S.バッハ / 平均律クラビーア曲集第1巻第1番
この音楽の美しさは数学的といえるかもしれない。
ところで、編集者が作家の作品にリライトをかけて別の作品といえるまで精度をあげていく、という設定から思い出したのは、レイモンド・カーヴァーと編集者ゴードン・リッシュのエピソードでした。村上春樹さん編訳の「月曜日は最悪だとみんなは言うけれど」に収録された「誰がレイモンド・カーヴァーの小説を書いたのか?」というD・T・マックスによる文章です。
月曜日は最悪だとみんなは言うけれど (村上春樹翻訳ライブラリー) 村上 春樹 中央公論新社 2006-03 by G-Tools |
リッシュはオリジナル原稿の半分まで削除することもあったらしい。しかし、その結果としてカーヴァーのセンチメンタリティーは刈り取られて、洗練された作品になった。どこまでが作家のオリジナルなのか、という問題にも関わるのかもしれません。メイキングのように、村上春樹さんはこの表現で小説作法の舞台裏を解説している。あるいはゴーストライターなどが暗躍して売れる小説をプロデュースする商業的なシステムに対する批判かもしれません。柴田元幸さん責任編集の「モンキービジネス」の対談に、やんわりと文壇批判が書かれていたことも思い出しました。
天吾が「空気さなぎ」を書き直す過程は、まさに村上春樹さんが小説を推敲する過程にかさなるのでしょう。部屋のリフォームのメタファで描写しているのですが、以下は非常によくわかる(P.127)。
内容そのものには手を加えず、文章だけを徹底的に整えていく。マンションの部屋の改装と同じだ。基本的なストラクチャーはそのままにする。構造自体に問題はないのだから。水まわりの位置も変更しない。それ以外の交換可能なもの――床板や天井や壁や仕切り――を引きはがし、新しいものに置き替えていく。俺はすべてを一任された腕のいい大工なのだ、と天吾は自分に言い聞かせた。決まった設計図みたいなものはない。その場その場で、直感と経験を駆使して工夫していくしかない。
一読して理解しにくい部分に説明を加え、文章の流れを見えやすくした。余計な部分や重複した表現は削り、言い足りないところを補った。ところどころで文章や分節の順番を入れ替える。形容詞や副詞はもともと極端に少ないから、少ないという特徴を尊重するにしても、それにしても何らかの形容的表現が必要だと感じれば、適切な言葉を選んで書き足す。
と、そんな風に久し振りの村上春樹さんの小説を楽しんでいるのですが、1冊目の200ページほど読み進めたときに、漠然とぼくのなかに浮かんでくる感情がありました。
村上ファンなら黙殺して絶賛するかもしれません。熱烈なファンは盲目的であり、ブームやトレンドに流されるひとにとっては、品切れになるような作品には自覚なしに無償健で褒め称えて傾倒する場合もありますから。しかし、ぼくはあえて感じたことをストレートに批判してしまおうと思います。こういうことです。
リアリティが、なさすぎる。
「1Q84」には、ブンガク的な深みがないのでは?
村上春樹さんの小説の問題ではなく、読者であるぼくの問題かもしれません。いろいろなことを深く考え詰めている状態の自分には、なんだか希薄なさらさらとした物語に読めてしまって、つかみどころがない。おとぎ話の世界、ファンタジーのようです。
エンターテイメントや概念的な引っかかりとしては面白い。しかし、なんだか出来の悪いハリウッド映画を観ているような印象がしてきました。VFXやCGは手が込んでいる、脚本はテンポがよくてスリリングなのだけれど、はぁ楽しかったーで終わってしまうような。村上春樹さん的なウィットの効いた表現も、どこか白けてしまう。大袈裟な気がします。殺し屋という設定などは、石田衣良さんの小説だったらよかったのに、などと思いました。
もちろん「海辺のカフカ」で取り上げられていたトラウマのような、深いこころの闇が語られようとしているということは感じられます。けれどもそれですら表層的に感じる。ほんとは苦しんでないでしょ、ポーズでしょ、のような醒めた感覚が否めません。
エルサレム賞の授賞式に出席したときに、ぼくらは卵であるというような表現をされていましたが、卵を割ってみたら何も出てこないような印象を感じました。殻は立派なのだけれど中身がない。失礼ですが。
この失望感がどのように変わっていくのか。まだ、全作品の4分の1を読み進めた段階であり、決定的な感想は言えません。けれどもいま感じたことを、正直に書きとめておくことにします。
投稿者 birdwing 日時: 09:24 | パーマリンク | トラックバック
2009年6月 6日
「多読術」松岡正剛
▼book09-16:読書について多角的に考えたくなる知の織物。
多読術 (ちくまプリマー新書) 松岡正剛 筑摩書房 2009-04-08 by G-Tools |
「千夜千冊」という膨大な読書のアーカイヴに触れたときから松岡正剛さんは凄いひとだな、と感じていたのですが、そんな多読家であるセイゴウさんが彼の読書術についてインタビュー形式で語っていく本です。さすが編集のプロ。メタファ(暗喩)や、あらゆるジャンルから引用した書物を俯瞰して、読むことを多角的に再構成していくチカラには圧倒されました。ひとつひとつの視点が切れ味よくて、はっとさせられる。見事です。
読書は量か質か問われることがあります。しかし、どちらを取るかというものではなく、量と質が相乗的に関わってくることもある。
たくさんの本を読むことによって良書(自分にとっての)にめぐり合う可能性も高まるし、本どうしがつながり合って面としての知識、そして空間としての知識のようなものを構成することもあります。モノ的にいうと陽だまりにほこりがスローモーションのように浮遊する静かな図書館なのだけれど、実は置かれた本たちのあいだは無数の網目でつながっていて、活発に情報をやりとりしているイメージ。静と動が同居するような印象です。
情報はひとりではいられない、というようなことばに頷いたのは、遠いむかしに読んだ松岡正剛さんの編集工学の本だった気がするのですが、つまり、一冊ごとは別々の本だったとしても、本は時間と空間を超えてさまざまな別の本とつながっている。書架は静まりかえっていたとしても、本と本のあいだを飛び交いつながりあう情報の激しい運動がみえるような気がします。
ふと手にした本が、まったく違うジャンルの本を"呼び寄せる"こと。ぼくも何度かそんな体験があります。かなりスリリングな体験です。ひとりの作家に興味を抱いて、彼または彼女が書いた著作にもっとたくさん触れたくて、書店の棚をめぐり歩くことも多い。ぼくが読書を愉しいと感じるのはそんなときかな。
ちなみに余談だけれど、最近、どういうわけか中島義道さんの本に嵌まってしまって、2週間あまりで5冊を読了してしまいました(まだ読んでいないけれど購入した本が2冊あり)。
彼はラディカルな、というか偏屈で厭世的なじいさんですが、感受性が研ぎ澄まされて、その文章はひりひりするほどエッジが効いている。どこか坂口安吾的な無頼なイメージと突き抜けた表現のきらめきがあり、気になるひとです。ただ、正常なおとなの感受性を持たれた方は読まないほうがいいかもしれませんね。精神に異常をきたします(苦笑)。
中島義道さんの本といっしょに真面目なビジネス書も読んでいます。この落差が凄い。ギャップにくらくらする。ぼくは同時進行的に複数の本を読むことにしていますが、まったくジャンルが違う本に向き合うと差異が浮き彫りにされる。けれども、意外な本が意外な本とつながったりもしていきます。
松岡正剛さんも、ロラン・バルトの弟子であるジュリア・クリステヴァによる「インターテクスチュアリティ」つまり「間テキスト性」という考え方をとらえて「複合読書法」について解説されています(P. 151)。
本来、書物や知は人類が書物をつくったときから、ずっとつながっている。書物やテキストは別々に書かれているけれど、それらはさまざまな連結と間断と関係性をもって、つながっている。つまりテキストは完全には自立していないんじゃないか、それらの光景をうんと上から見れば、網目のようにいろんなテキストが互いに入り交じって網目や模様をつくっているんじゃないかというんです。
本がつないでいく情報の網目は巨大なものです。セイゴウさんは仕事場に5、6万冊、自宅にも2万冊の本があるそうです。書架の写真をみて圧倒されました。でも、こんな書斎は理想だなあ。
読んだ本の冊数を競うのは馬鹿らしい行為ですが、引越しに際してぼくは家にある書物の3分の2をブックオフに売り払い、あるいは捨てて処分したのですが、いまだに床にまで積まれています。でも、誰から何を言われようと、本に囲まれているとしあわせです。学生時代には週6日、本屋でアルバイトをしていて毎日本に囲まれていたし、いまでも1日に1度は書店に足を運ばないとなんだか落ち着かない。しかし、上には上がいるな、と思いました。敗北感あり。セイゴウさんの書架には憧れます。
そんなセイゴウさんも、多読に関してはっとさせられた体験を綴っていて、印象的です(P.141)。
あるとき、逗子の下村寅太郎さんのところに伺ったことがありました。日本を代表する科学哲学者です。そのとき七十歳をこえておられて、ぼくはレオナルド・ダ・ヴィンチについての原稿を依頼しに行ったのですが、自宅の書斎や応接間にあまりに本が多いので、「いつ、これだけ本を読まれるんですか」とうっかり尋ねたんですね。そうしたら、下村さんはちょっと間をおいて、「君はいつ食事をしているかね」と言われた。これでハッとした。いえ、しまったと思った。もう、その先を尋ねる必要はないと思いましたね。
ファッションをするように本を読む、というような読書法も提示されていますが、ほんとうに本が好きなひとは、読書をするぞと身構えるのではなく、食事をするように生活の一部としてページをめくるのかもしれませんね。
生活と読書の融合という意味を延長してみると、面白いと感じたのは、第4章における「言葉と文字とカラダの連動」という部分でした。
人類の読書の歴史は、「音読」から「黙読」に変わってきたとのこと。人間が黙読できるようになったのは「おそらく十四世紀か十六世紀以降」だそうです。音読をしていたときには声に出すことによって、読書は身体性と関連していました。しかし、黙読によって読書は身体性と切り離され、かわりに「意識」が生まれた。マーシャル・マクルーハンの仮説を紹介されているのですが興味深い箇所でした。
それは、人類の歴史は音読を忘れて黙読するようになってから、脳のなかに「無意識」を発生させてしまったのではないかというんです。言葉と意識はそれまでは身体的につながっていたのに、それが分かれた。それは黙読するようになったからで、そのため言葉と身体のあいだのどこかに、今日の用語でいう無意識のような「変な意識」が介在するようになったというんです。かなり特異な仮説ですね。
特異とはいえ、ぼくには魅力的でした。同時に思い浮かべたのは、黒川伊保子さんの「日本語はなぜ美しいのか」という本に書かれていたことでした。ことばの発音体感というものは確かにあり、身体性とは切り離せません。「あさ」ということばのア行による爽やかさは、理屈なしに感じ取れる。科学者の視点から感覚を切り分けようとするけれど、本来、読むことも書くことも話すことも見ることも考えることも、ひとつのカタマリのような感覚として存在しているのではないか。
松岡正剛さんは、ひとは書くと同時に読んでいる、作家は自分のなかに読者を内包しているというような複合的なコミュニケーションについても解説されていますが、まさに村上春樹さんが柴田元幸さん責任編集の「モンキービジネス」の対談で同様のことを語っていました。「ゲームのプログラマーとプレイヤーを自分で同時にできる」ということからお話されています。以下、引用してみます(モンキービジネス P.65)。
自分が一人で将棋を指すのと同じで、こっち指しているときは向こうのことがわからないし、向こうを指してると、こっちのことを忘れちゃうんですよ。普通は忘れられないものじゃないですか、でも小説だと、それを意図的に忘れることができるんですよね。だから右の手でプログラムしながら、左手でそれを攻略するということが、小説をやっているときにはある程度できている気がします。日常生活ではまったくないんですけど、机に向かってものを書いているときにはそれができている。そうなると、自分で書いてて、自分で面白がっているという――ぼく自身が面白い小説を、ページ繰るのが待ちきれないような感じでぼくが書くという形ができあがるんですよね。
村上春樹さんの新刊「1Q84」は売り切れの書店が多いですね。ぼくは発売翌日に購入して、いま大事にゆっくりと読み進めています。
読書論からすこし離れてしまうかもしれないのですが、作家は自分の作品の第一の読者でもあるわけです。自分を省みると、ブログを書いているときにもぼくが読みたい記事を書いている。読むことと書くことは分離できないことなのかもしれません。
あれ読めこれ読め、そんなもん読んでちゃダメだろ、その読み方はいけない邪道だと、自分の価値観を押し付ける読書論もあるかもしれませんが、ホンモノの多読家であるセイゴウさんは、どんな読み方をしてもいいんだよ、と寛容です。けれども、こんな読み方もある、とさらりとまったく新鮮な読書法を言ってのける。さりげなく教えてくれた読書法に深い洞察と驚きがある。あらためて凄いひとだ・・・とおもいました。と、同時に何か安心できる本でもあります。5月24日読了。
投稿者 birdwing 日時: 11:06 | パーマリンク | トラックバック