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2009年6月 7日
1Q84、読中ライブ。
村上春樹さんの新しい長編小説「1Q84」。いきなり前触れもなく5月28日、書店にどーんと平積みされていてびっくりしました。
1Q84 BOOK 1 村上春樹 新潮社 2009-05-29 by G-Tools |
1Q84 BOOK 2 村上春樹 新潮社 2009-05-29 by G-Tools |
アイキューかとおもったらイチキューハチヨンだった、ということに気付いてにやり。どうしようかなあと迷ったのですが、翌日、買ってしまえーということで2冊まとめて購入。まさにミーハーですが、やはり彼の作品はまとめて読みたい。現在では品切れの書店も多いらしいとのこと。よかった。
柴田元幸さん責任編集の「モンキービジネス」には、忘れかけていた頃に小説を発表すると買ってくれる読者がいる、そのタイミングが大事、という策略的な村上春樹さんのインタビューも掲載されていて、うーむ、彼の思惑にやられたか?とも感じました。とはいえ、ほぼ全作品を読破した自分としては、やっぱり春樹さんの作品に触れられるのがうれしい。
モンキービジネス 2009 Spring vol.5 対話号 柴田 元幸 ヴィレッジブックス 2009-04-20 by G-Tools |
ほんとうは読み終えてから読後感を総括して書きたいところですが、読んでいる途中に忘れてしまいそうです。そこで読中ライブとして、感じたことなどをつれづれに書き綴ってみたいと思います。現在は1冊目の第12章、P.278まで読み進めています。もし、まっさらな気持ちでこの作品を読みたいひとがいれば、以下は読まないようにしてくださいね。
「1Q84」は、青豆(アオマメ)と天吾というふたりの主人公の物語を、交互にチャプターとして展開されていきます。という構成でよみがえったのは、ひと晩で読破した「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」でした。
世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド 村上 春樹 新潮社 2005-09-15 by G-Tools |
映画にも(たとえば「バベル」など)複数の物語が平行して絡み合いながら進行するものもありますが、今後どのように重なっていくのでしょう。楽しみです。
映画のことに触れましたが、読み始めた第一印象は映画的であるということでした。流れるようなストーリー展開のなかで、場面がいきいきと描かれています。流暢な文章もさることながら、視覚的にぐいぐいと引きこまれる。青豆(アオマメ)は女性の殺し屋で、冒頭では渋滞の高速道路でタクシーを乗り捨てて地上に降りる。このシーンがとてもビジュアルとして鮮明でした。
青豆のイメージとしては、なぜかスティーブン・ソダーバーグ監督の「エリン・ブロコビッチ」のジュリア・ロバーツを思い浮かべたのですが、どちらかというと殺し屋のシチュエーションとしてアンジェリーナ・ジョリーあるいはミラ・ジョヴォヴィッチといったところでしょうか。ただし、青豆のスタイルは短い黒髪に貧乳なので、ちょっと違うかも。
青豆と天吾というタイトルから、ぼくはジャックと豆の木を連想しました。いままで村上春樹さんの作品では井戸に降りるという表現が暗喩的に使われてきたのだけれど、高速道路から地上に降りた青豆もそんな他の春樹作品のシーンに重ね合わせることが可能かもしれません。
一方、天吾は予備校教師で小説を書いています。とある新人賞の下読みをしているときに「空気さなぎ」という作品に出会い、編集者である小松にプッシュする。「空気さなぎ」は、ふかえりという十七歳の少女が書いた小説です。小松はこの作品を天吾にリライトさせて、芥川賞を狙おうと画策する。
ふかえりは疑問符なしに平坦に喋るような不思議な少女なのですが、その会話はひらがなとカタカナを中心に表記されます。ぼくは以下の場面を読んでいて不覚にも涙が出てしまいました。どーでもいいようなシーンなのですが(P.87)。
「君は数学は好き?」
ふかえりは短く首を振った。数学は好きではない。
「でも積分の話は面白かったんだ」と天吾は尋ねた。
ふかえりはまた小さく肩をすぼめた。「だいじそうにセキブンのことをはなしていた」
「そうかな」と天吾は言った。そんなことを誰かに言われたのは初めてだ。
「だいじなひとのはなしをするみたいだった」
「数列の講義をするときには、もっと情熱的になれるかもしれない」と天吾は言った。「高校の数学教科の中では、数列が個人的に好きだ」
「スウレツがすき」とふかえりはまた疑問符抜きで尋ねた。
「僕にとってのバッハの平均律みたいなものなんだ。飽きるということがない。常に新しい発見がある」
「ヘイキンリツはしっている」
「バッハは好き?」
ふかえりは肯いた。「センセイがいつもきいている」
「先生?」と天吾は言った。「それは君の学校の先生?」
ふかえりは答えなかった。それについて話をするのはまだ早すぎる、という表情を顔に浮かべて天吾を見ていた。
バッハの平均律、いいですよね。癒されます。
■J.S.バッハ / 平均律クラビーア曲集第1巻第1番
この音楽の美しさは数学的といえるかもしれない。
ところで、編集者が作家の作品にリライトをかけて別の作品といえるまで精度をあげていく、という設定から思い出したのは、レイモンド・カーヴァーと編集者ゴードン・リッシュのエピソードでした。村上春樹さん編訳の「月曜日は最悪だとみんなは言うけれど」に収録された「誰がレイモンド・カーヴァーの小説を書いたのか?」というD・T・マックスによる文章です。
月曜日は最悪だとみんなは言うけれど (村上春樹翻訳ライブラリー) 村上 春樹 中央公論新社 2006-03 by G-Tools |
リッシュはオリジナル原稿の半分まで削除することもあったらしい。しかし、その結果としてカーヴァーのセンチメンタリティーは刈り取られて、洗練された作品になった。どこまでが作家のオリジナルなのか、という問題にも関わるのかもしれません。メイキングのように、村上春樹さんはこの表現で小説作法の舞台裏を解説している。あるいはゴーストライターなどが暗躍して売れる小説をプロデュースする商業的なシステムに対する批判かもしれません。柴田元幸さん責任編集の「モンキービジネス」の対談に、やんわりと文壇批判が書かれていたことも思い出しました。
天吾が「空気さなぎ」を書き直す過程は、まさに村上春樹さんが小説を推敲する過程にかさなるのでしょう。部屋のリフォームのメタファで描写しているのですが、以下は非常によくわかる(P.127)。
内容そのものには手を加えず、文章だけを徹底的に整えていく。マンションの部屋の改装と同じだ。基本的なストラクチャーはそのままにする。構造自体に問題はないのだから。水まわりの位置も変更しない。それ以外の交換可能なもの――床板や天井や壁や仕切り――を引きはがし、新しいものに置き替えていく。俺はすべてを一任された腕のいい大工なのだ、と天吾は自分に言い聞かせた。決まった設計図みたいなものはない。その場その場で、直感と経験を駆使して工夫していくしかない。
一読して理解しにくい部分に説明を加え、文章の流れを見えやすくした。余計な部分や重複した表現は削り、言い足りないところを補った。ところどころで文章や分節の順番を入れ替える。形容詞や副詞はもともと極端に少ないから、少ないという特徴を尊重するにしても、それにしても何らかの形容的表現が必要だと感じれば、適切な言葉を選んで書き足す。
と、そんな風に久し振りの村上春樹さんの小説を楽しんでいるのですが、1冊目の200ページほど読み進めたときに、漠然とぼくのなかに浮かんでくる感情がありました。
村上ファンなら黙殺して絶賛するかもしれません。熱烈なファンは盲目的であり、ブームやトレンドに流されるひとにとっては、品切れになるような作品には自覚なしに無償健で褒め称えて傾倒する場合もありますから。しかし、ぼくはあえて感じたことをストレートに批判してしまおうと思います。こういうことです。
リアリティが、なさすぎる。
「1Q84」には、ブンガク的な深みがないのでは?
村上春樹さんの小説の問題ではなく、読者であるぼくの問題かもしれません。いろいろなことを深く考え詰めている状態の自分には、なんだか希薄なさらさらとした物語に読めてしまって、つかみどころがない。おとぎ話の世界、ファンタジーのようです。
エンターテイメントや概念的な引っかかりとしては面白い。しかし、なんだか出来の悪いハリウッド映画を観ているような印象がしてきました。VFXやCGは手が込んでいる、脚本はテンポがよくてスリリングなのだけれど、はぁ楽しかったーで終わってしまうような。村上春樹さん的なウィットの効いた表現も、どこか白けてしまう。大袈裟な気がします。殺し屋という設定などは、石田衣良さんの小説だったらよかったのに、などと思いました。
もちろん「海辺のカフカ」で取り上げられていたトラウマのような、深いこころの闇が語られようとしているということは感じられます。けれどもそれですら表層的に感じる。ほんとは苦しんでないでしょ、ポーズでしょ、のような醒めた感覚が否めません。
エルサレム賞の授賞式に出席したときに、ぼくらは卵であるというような表現をされていましたが、卵を割ってみたら何も出てこないような印象を感じました。殻は立派なのだけれど中身がない。失礼ですが。
この失望感がどのように変わっていくのか。まだ、全作品の4分の1を読み進めた段階であり、決定的な感想は言えません。けれどもいま感じたことを、正直に書きとめておくことにします。
投稿者 birdwing : 2009年6月 7日 09:24
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2 Comments
- かおるん 2009-06-08T20:34
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読みすすめる途中でもこんなふうに
つい何か話したくなってしまう小説です。
私も心の中に今いろいろなものを溜めこみながら
下巻の半ばすぎまで読んできました。
途中で似たようなことを感じたし
また全然別の思いを持ったりも。
本を読む過程で自分の中に生まれ移りゆくもの、
物語の結末より、それをみつめることが
大事なんだと思います。
- BirtdWing 2009-06-30T23:52
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かおるんさん、失礼しました!コメントを承認制にしたところ、すっかりスパムに紛れて公開していませんでした。コメントいただいたのは1ヶ月も前になるじゃないですか。うわー、申し訳ないです。
ぼくはいまだに1巻目の後半で読書が止まっています。ただ、春樹効果のせいか、バッハばかりを聴くようになってしまいました(しかも平均律)。ヤナーチェクもCDショップで試聴しましたが、どうもぴんとこなかった気がします。
実は『海辺のカフカ』は、しばらく放置したあとで一気に最後まで読み終えてしまったので、この小説も、やがてそんなときがくるのかもしれません。
読み終えたところで考えをまとめたいとおもうのだけれど、まとまるかどうか。それから、『ノルウェイの森』の映画化というのも気になります。うーむという戸惑いがあってびみょうなのですが。
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