« 屋根裏の休日。 | メイン | 1Q84、読中ライブ。 »
2009年6月 6日
「多読術」松岡正剛
▼book09-16:読書について多角的に考えたくなる知の織物。
多読術 (ちくまプリマー新書) 松岡正剛 筑摩書房 2009-04-08 by G-Tools |
「千夜千冊」という膨大な読書のアーカイヴに触れたときから松岡正剛さんは凄いひとだな、と感じていたのですが、そんな多読家であるセイゴウさんが彼の読書術についてインタビュー形式で語っていく本です。さすが編集のプロ。メタファ(暗喩)や、あらゆるジャンルから引用した書物を俯瞰して、読むことを多角的に再構成していくチカラには圧倒されました。ひとつひとつの視点が切れ味よくて、はっとさせられる。見事です。
読書は量か質か問われることがあります。しかし、どちらを取るかというものではなく、量と質が相乗的に関わってくることもある。
たくさんの本を読むことによって良書(自分にとっての)にめぐり合う可能性も高まるし、本どうしがつながり合って面としての知識、そして空間としての知識のようなものを構成することもあります。モノ的にいうと陽だまりにほこりがスローモーションのように浮遊する静かな図書館なのだけれど、実は置かれた本たちのあいだは無数の網目でつながっていて、活発に情報をやりとりしているイメージ。静と動が同居するような印象です。
情報はひとりではいられない、というようなことばに頷いたのは、遠いむかしに読んだ松岡正剛さんの編集工学の本だった気がするのですが、つまり、一冊ごとは別々の本だったとしても、本は時間と空間を超えてさまざまな別の本とつながっている。書架は静まりかえっていたとしても、本と本のあいだを飛び交いつながりあう情報の激しい運動がみえるような気がします。
ふと手にした本が、まったく違うジャンルの本を"呼び寄せる"こと。ぼくも何度かそんな体験があります。かなりスリリングな体験です。ひとりの作家に興味を抱いて、彼または彼女が書いた著作にもっとたくさん触れたくて、書店の棚をめぐり歩くことも多い。ぼくが読書を愉しいと感じるのはそんなときかな。
ちなみに余談だけれど、最近、どういうわけか中島義道さんの本に嵌まってしまって、2週間あまりで5冊を読了してしまいました(まだ読んでいないけれど購入した本が2冊あり)。
彼はラディカルな、というか偏屈で厭世的なじいさんですが、感受性が研ぎ澄まされて、その文章はひりひりするほどエッジが効いている。どこか坂口安吾的な無頼なイメージと突き抜けた表現のきらめきがあり、気になるひとです。ただ、正常なおとなの感受性を持たれた方は読まないほうがいいかもしれませんね。精神に異常をきたします(苦笑)。
中島義道さんの本といっしょに真面目なビジネス書も読んでいます。この落差が凄い。ギャップにくらくらする。ぼくは同時進行的に複数の本を読むことにしていますが、まったくジャンルが違う本に向き合うと差異が浮き彫りにされる。けれども、意外な本が意外な本とつながったりもしていきます。
松岡正剛さんも、ロラン・バルトの弟子であるジュリア・クリステヴァによる「インターテクスチュアリティ」つまり「間テキスト性」という考え方をとらえて「複合読書法」について解説されています(P. 151)。
本来、書物や知は人類が書物をつくったときから、ずっとつながっている。書物やテキストは別々に書かれているけれど、それらはさまざまな連結と間断と関係性をもって、つながっている。つまりテキストは完全には自立していないんじゃないか、それらの光景をうんと上から見れば、網目のようにいろんなテキストが互いに入り交じって網目や模様をつくっているんじゃないかというんです。
本がつないでいく情報の網目は巨大なものです。セイゴウさんは仕事場に5、6万冊、自宅にも2万冊の本があるそうです。書架の写真をみて圧倒されました。でも、こんな書斎は理想だなあ。
読んだ本の冊数を競うのは馬鹿らしい行為ですが、引越しに際してぼくは家にある書物の3分の2をブックオフに売り払い、あるいは捨てて処分したのですが、いまだに床にまで積まれています。でも、誰から何を言われようと、本に囲まれているとしあわせです。学生時代には週6日、本屋でアルバイトをしていて毎日本に囲まれていたし、いまでも1日に1度は書店に足を運ばないとなんだか落ち着かない。しかし、上には上がいるな、と思いました。敗北感あり。セイゴウさんの書架には憧れます。
そんなセイゴウさんも、多読に関してはっとさせられた体験を綴っていて、印象的です(P.141)。
あるとき、逗子の下村寅太郎さんのところに伺ったことがありました。日本を代表する科学哲学者です。そのとき七十歳をこえておられて、ぼくはレオナルド・ダ・ヴィンチについての原稿を依頼しに行ったのですが、自宅の書斎や応接間にあまりに本が多いので、「いつ、これだけ本を読まれるんですか」とうっかり尋ねたんですね。そうしたら、下村さんはちょっと間をおいて、「君はいつ食事をしているかね」と言われた。これでハッとした。いえ、しまったと思った。もう、その先を尋ねる必要はないと思いましたね。
ファッションをするように本を読む、というような読書法も提示されていますが、ほんとうに本が好きなひとは、読書をするぞと身構えるのではなく、食事をするように生活の一部としてページをめくるのかもしれませんね。
生活と読書の融合という意味を延長してみると、面白いと感じたのは、第4章における「言葉と文字とカラダの連動」という部分でした。
人類の読書の歴史は、「音読」から「黙読」に変わってきたとのこと。人間が黙読できるようになったのは「おそらく十四世紀か十六世紀以降」だそうです。音読をしていたときには声に出すことによって、読書は身体性と関連していました。しかし、黙読によって読書は身体性と切り離され、かわりに「意識」が生まれた。マーシャル・マクルーハンの仮説を紹介されているのですが興味深い箇所でした。
それは、人類の歴史は音読を忘れて黙読するようになってから、脳のなかに「無意識」を発生させてしまったのではないかというんです。言葉と意識はそれまでは身体的につながっていたのに、それが分かれた。それは黙読するようになったからで、そのため言葉と身体のあいだのどこかに、今日の用語でいう無意識のような「変な意識」が介在するようになったというんです。かなり特異な仮説ですね。
特異とはいえ、ぼくには魅力的でした。同時に思い浮かべたのは、黒川伊保子さんの「日本語はなぜ美しいのか」という本に書かれていたことでした。ことばの発音体感というものは確かにあり、身体性とは切り離せません。「あさ」ということばのア行による爽やかさは、理屈なしに感じ取れる。科学者の視点から感覚を切り分けようとするけれど、本来、読むことも書くことも話すことも見ることも考えることも、ひとつのカタマリのような感覚として存在しているのではないか。
松岡正剛さんは、ひとは書くと同時に読んでいる、作家は自分のなかに読者を内包しているというような複合的なコミュニケーションについても解説されていますが、まさに村上春樹さんが柴田元幸さん責任編集の「モンキービジネス」の対談で同様のことを語っていました。「ゲームのプログラマーとプレイヤーを自分で同時にできる」ということからお話されています。以下、引用してみます(モンキービジネス P.65)。
自分が一人で将棋を指すのと同じで、こっち指しているときは向こうのことがわからないし、向こうを指してると、こっちのことを忘れちゃうんですよ。普通は忘れられないものじゃないですか、でも小説だと、それを意図的に忘れることができるんですよね。だから右の手でプログラムしながら、左手でそれを攻略するということが、小説をやっているときにはある程度できている気がします。日常生活ではまったくないんですけど、机に向かってものを書いているときにはそれができている。そうなると、自分で書いてて、自分で面白がっているという――ぼく自身が面白い小説を、ページ繰るのが待ちきれないような感じでぼくが書くという形ができあがるんですよね。
村上春樹さんの新刊「1Q84」は売り切れの書店が多いですね。ぼくは発売翌日に購入して、いま大事にゆっくりと読み進めています。
読書論からすこし離れてしまうかもしれないのですが、作家は自分の作品の第一の読者でもあるわけです。自分を省みると、ブログを書いているときにもぼくが読みたい記事を書いている。読むことと書くことは分離できないことなのかもしれません。
あれ読めこれ読め、そんなもん読んでちゃダメだろ、その読み方はいけない邪道だと、自分の価値観を押し付ける読書論もあるかもしれませんが、ホンモノの多読家であるセイゴウさんは、どんな読み方をしてもいいんだよ、と寛容です。けれども、こんな読み方もある、とさらりとまったく新鮮な読書法を言ってのける。さりげなく教えてくれた読書法に深い洞察と驚きがある。あらためて凄いひとだ・・・とおもいました。と、同時に何か安心できる本でもあります。5月24日読了。
投稿者 birdwing : 2009年6月 6日 11:06
« 屋根裏の休日。 | メイン | 1Q84、読中ライブ。 »
トラックバック
このエントリーのトラックバックURL:
http://birdwing.sakura.ne.jp/mt/mt-tb.cgi/1088