2006年12月31日
素晴らしい年でありますように。
現在12月30日の深夜、1:48なんですが
未来の日記を書いています。未来といっても大晦日の明日だけれど、
まあちょっとした未来かな、と。
そうか、日付をいじると未来の日記が書けるのかー。
2007年3月の日記をいま予想して書いて、
3ヵ月後に加筆修正するなんてことも
楽しそうですね。ぼくはやりませんけど・・・(苦笑)。
+++
さて、今年一年、どっぷりとブログにはまってみました。
ぼくはブロガーである、と宣言したかったのですが、
まだまだかな、という気もしています。
よいこともありました。あまりよくないことも
あったような気もするのですが、すっかり忘れました(笑)
都合のいいことだけ覚えていようと思います。
だから、2006年は
素晴らしいことばかりでした。
+++
ネットを通じて、アート・映画・音楽・書籍などの情報を
教えていただいたり、ちょっとした日常生活の断片を記された日記で
考えさせられたり、癒されたり、思わず微笑まされたり
ほんとうに楽しい時間をすごすことができました。
ありがとうございます。
ネットを通じて知り合えたみなさんに、
感謝しています。
+++
1年間、稚拙なブログにお付き合いいただき、
ほんとうにありがとうございました。
さて、年末年始はお休みをいただいて1週間ほど充電して
1月7日頃からまた書き始めたいと思います。
+++
2007年が、みなさんにとって
素晴らしい年でありますように。
+++
来年もよろしくお願いいたします。
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2006年12月30日
2006総括2:映画100本プロジェクト。
2006年の総括第2弾です。本100冊とともに進行していたのが、映画を100本鑑賞するという自己プロジェクトなのですが、さすがにこれは難しかった。ほんとうは劇場で観賞したいところですが、学生ならともかく働いていて家族もいると、そうもいきません。そんなわけで、DVDを週末に借りて深夜、みんなが寝静まった頃(あるいは早朝)に観ているわけですが、そのゴールデンタイムには自分でやりたいこともたくさんあり(DTMとか、ネットでうろうろとか)、なかなか時間が思うようになりません。
もちろん借りてきた映画のなかには、こりゃー失敗だーというものもあるのですが、それでも多くの映画は、いやー映画ってほんとうにいいですねーと言えるものばかりでした。アメリカの洋画だけでなく日本の映画、韓国の映画、フランスの映画など、バランスよく観るように心がけたつもりです。やはり感想をブログで書かなきゃという脅迫観念が働くからか、真剣に観る。真剣に観るのだけれど、やっぱりいい映画は理屈はともかく、感動して泣けたり、腹を抱えて笑えるものです。そんな映画に出会えることは、ほんとうにしあわせです。
来年はできれば、月に1本は劇場で観たいと思っています。目標値については、見直しが必要かもしれません。今年の最後の方では、レンタルビデオ屋に延滞ばかりしていて小遣い的にもピンチだったので、うまい楽しみ方を考えなきゃ、と反省。
というわけで年間100本プロジェクトの総括でした。やはり本と同じように、観た映画の“壁”を作ってみます。
■Cinema Wall 2006年に観賞した映画
目標:100本 → 実績:81本(81%達成)
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2006年12月29日
2006総括1:本100冊プロジェクト。
今年、ぼくは年間本100冊を読み、映画100本を観るということを自分の課題として、自己プロジェクトとして進行してきました。実は、3年ぐらい前にもやったことがあり、本100冊は達成しました(映画はそのときも未達成でした)。が、当時はレビューは書いてなかったので、ただ読み散らかすだけでした。
今年は読んだ本すべてにレビューをブログで書く、という形で進行したのですが、残念ながら100冊は達成できずに92冊でした。いいところまでいったんですが、惜しいですね。それでも達成できなかった、という結果がひとつの大切な経験だと思います。頑張ったね、自分。
100冊では足りなくて「オレは150冊読むぞ」という批判もあるし、逆に「量じゃなくて質でしょ」という言葉を聞くこともあるのですが、ぼくは別に誰かと数を競うつもりでこの課題をこなしているわけではありません。また、最終的な到達点は質の追求であると考えています。けれども質に到達するためには、ある程度の数が必要であると考えました。
かつて10代の頃のぼくは非常に斜に構えた少年で、一冊の本を読んでその作家のすべてを理解したような口調で、ふんと鼻であしらうような、そんないい加減なところがありました。学校の読書感想文の宿題で、大胆不敵にも作品を読まずに書いたこともあったぐらいです。ある程度は文章が書けたので、先生に褒められたりもする。ああ、そんなもんでいいんだ、と思って、ますますつけあがる。努力を怠る。とんでもないやつですよね。
そんな生き方、というか世のなかに対するいい加減な関わり方を変えたいと思っています。もう一度やり直したい。だいぶ年も取ってしまったので(苦笑)、もう間に合わないのかもしれませんが、読書も映画鑑賞も音楽鑑賞も、誠実にきちんと関わり、数をこなし、関わったものすべてから自分なりに考えをまとめていきたいと思っています。
たとえば、読書が趣味です、というときに、ほんとうに感動した一冊があって、その本が大好きであるというのも読書好きといえるでしょう。でも、もし読書の趣味をプロフェッショナルとして究めるのであれば、何冊ぐらい読んでいるんですか、という問いに、年に3冊ぐらいでしょうかね、とも言えない。あんたそれでプロって言っちゃっていいの?という気がする。
ブログや音楽も同様かもしれません。ブロガーです、と自分を表現したときに、「どれだけ書いていますか?」と訊かれて、「1ヶ月に3回ほど。3行ぐらいですが」というのはどうかと思う。音楽やっていますというときに、ギターの弦が錆び付いちゃっていたら、やってないじゃんということになる(ああ、やってないなあ。涙)。もちろん、ライターであろうがデザイナーであろうが「自称」と頭に付ければなんとでもいえるわけで、自己満足も間違いではない。それはそれで自由なんだけど、ぼくが目標とするものはちょっと違うのではないかな、と。
楽しむことは自由だと思うのですが、もう一歩先に行こうと考えたとき、努力や勉強なしには先には進めないと思うんです。よほど才能に恵まれた天才であれば別ですが。
この自己プロジェクトを進行しながら、一度やってみたかったのは、読んだ本をすべて“壁”のように並べるということでした。そこで本を並べてみたいと思います。まあ実際には物理的に、ぼくの書斎の後ろで壁を形成していて、がらがらと壁が崩壊したりするのですが。
並べてみて思ったのは、新書が多いということ。そして茂木健一郎さんに傾倒すれば茂木健一郎さんの本を、デザインに傾倒すればデザイン関連の書籍を、という傾向がわかりやすい。こうして一年間を俯瞰してみるのも、いいものです。あっ、こんな本も読んでいたのか、という発見もある。
というわけで年間100冊プロジェクトの総括です。
■Book Wall 2006年に読んだ本
目標:100冊 → 実績:92冊(92%達成)
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2006年12月28日
「ドラッカーの遺言」P.F.ドラッカー
▼book06-092:人間の大きさを感じさせる、あたたかい言葉に感謝。
ドラッカーの遺言 (講談社BIZ) 窪田 恭子 講談社 2006-01-20 by G-Tools |
なんてあたたかい言葉なんだろう。この本を読んで、ぼくが感じたのはまずドラッカーの人間的な大きさでした。20世紀最高の知性といわれていて、どこか近寄りがたい雰囲気や、難しい理屈を想像していたのですが(もちろん他の本ではそんな専門的な深い知が展開されていると思うのですが)、この本のなかに書かれている彼の言葉は、ひとつひとつがまず心に染みる。頭脳ではなくて、です。
90歳を超えているのに(というのは失礼な言葉ですが)、インターネットの可能性について説き、これからの経済は情報の経済であるということが述べられています。新しい世のなかの動きを、先見的にとらえている。そして常に自らを革新していくことが重要であると諭されています。つまり個人のイノベーションが重要である、ということです。生まれついての才能やカリスマ性ではなく、リーダーとしての習慣がひとをリーダーに磨き上げていくという指摘もありました。
成果を挙げるためには、弱みをカイゼンする「問題重視型」ではなく、強みを徹底的に伸ばして機会をつかむ思考が重要である、という視点も大いに共感します。日本が直面しているのは危機ではなく変化である、という言葉も泣ける。そこには日本をあたたかくみつめる視線があります。この本に書かれている言葉のひとつひとつが心に響き、何度も読み直しつつ、自分はイノベーティブに生きているのだろうか、自分を磨くことを怠っていないだろうかと見つめ直したいような気持ちになりました。
ドラッカーの言葉もさることながら、巻末でジャック・ビーティがドラッカーを追悼し、回想を語る文章にも感銘を受けました。なんというか、クレアモント大学の春のキャンパスの風景が思わず再現されるような文章です。もちろんぼくはクレアモント大学なんて行ったことがないのですが、芝生の美しさとか木々の緑とか、そんな風景のなかを歩いていくふたりの姿が目に浮かんでしまった。
ジャック・ビーティの文章から引用ですが、ぼくは次の表現に考えるところが多くありました(P.184)。
ドラッカーは従来のやり方やプログラム、製品をあえて"捨てる"ことを提唱しましたが、当時その行為は大きな物議を醸しました。いまや彼が破棄を主張したものはことごとく存在意義を失い、ドラッカーの先見の明を表す証左となっています。 ドラッカーは確信していたのです――技術を革新していく環境のなかで育った若者は、変化が直線的でも予測できる形でもなく、連鎖反応的に起きる時代に力を発揮することができる、と。
まさにブログが登場したネットの社会は、連鎖反応的に進展していく社会であり、その社会を生き抜くためには執着や直線的な思考ではなく、多様かつフレキシブルにチャンスを掴む思考が求められると思います。
ドラッカーのように考え、そしてドラッカーのように生きたいと思いました。12月27日読了。
*年間本100冊/映画100本プロジェクト進行中(92/100冊+81/100本)
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「ウェブ人間論」 梅田望夫
▼book06-091:技術と人間の進化、けれども言葉に踊らされないこと。
ウェブ人間論 (新潮新書) 新潮社 2006-12-14 by G-Tools |
日常の生活のなかで忘れてしまっているのですが、2006年は21世紀です。空を飛ぶクルマもなければ、ウェットスーツに身を包むようなファッションもないけれど、現在は紛れもなく21世紀であり、日々の繰り返しで生きているぼくらにはゆるやかに変化しつつある現実に馴染んでしまっているけれど、もし過去の人間がタイムスリップして現在に訪れたら、結構、驚くことが満載ではないでしょうか。当たり前のように使っている携帯電話も、インターネットも、ここ数年間で一気に普及した新しい技術といえます。
その技術の変化は、ぼくらの生活や思考形式を変えていくだろうということは間違いなく、ではどのように変わるのか、あるいはどのように変わっていけばよいのか、と考えることは非常に意義のあることだと思います。意義があるし、だいいち楽しい。たいていそうした新しい変化には抵抗を示すひとがいるもので、また批判的な意見も多くなる。テレビが登場したときにも、ゲームが登場したときにも、そうだったと思います。ただ、「ダメなものは、タメになる テレビやゲームは頭を良くしている」という本にも書かれていたように、悪しきものが人間の知的な思考を高めるものになっていることもある(かもしれない)。
何度かブログのほうで「ウェブ人間論」について考察を重ねたので多くは書きませんが、この「ウェブ人間論」は技術者ではなく、コンサルタントである梅田望夫さん×作家である平野啓一郎さんという異色の取り合わせでネット社会の在り方を語る本として、非常に興味深く読みました。そして、本に書かれたことを超えて、ブログでさまざまな議論であったり解釈が展開していくことが、21世紀的な(まあWeb2.0的といってもいいのかもしれませんが)知の在り方のように思います。
ただ、あまりにも全面的に共感するのはどうかと思いました。ブログで成長できる、という言葉は魅力的ですが、一方でブログでダークサイドに陥ることもある。成長という気持ちのいい言葉を妄信して、成長しなければ、成長しなければ、成長しなければ・・・と脅迫されたかのように自己啓発に励むのもどうかと思う。ドラッカー風にいうと、持続的な成長、絶えざる革新は重要であり、これからさらに変化していく情報化社会ではその資質がないと厳しいとは思うのですが、梅田さんや平野さんはこう言っているけれど、ぼくはこう考える、という自分で思考することが第一に重要なのではないか。それが大量の情報の海を泳ぎきるためには必要不可欠な体力(知力)、あるいは条件かもしれません。12月19日読了。
*年間本100冊/映画100本プロジェクト進行中(91/100冊+81/100本)
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そんな年末の風景。
納まっていないような気がするのですが、昨日は仕事納めでした。年を越えて急ピッチで仕上げなければならない仕事も残しています。が、とりあえず、納めてみることにしましょう。ほっとしたせいか風邪をひいてしまったようで、今日は家でのんびり過ごしました。のんびりといっても家族の年賀状を仕上げなければならないので、クライアント(奥さんですが)の催促が厳しく、そうそうぼーっとしていられなかったのですが。
年賀状のために撮影した息子の写真をいろいろといじっているのですが、うまくいかなかったので気分転換に生ギターをぽろぽろと弾いたりしていると、うまく弾けなくて指が痛くなるばかりなのだけれど、しあわせな気持ちになります。楽器っていいなあ、音って美しいなあと思う(うまく弾けてませんが)。けれども突然にうっとり状態な空気を破って「住所録にこれ加えてっ」と、クライアント(奥さん)からの催促が入るので音楽に浸ってばかりもいられません。
部屋の片隅で眠っていたVS-880というハードディスクレコーダーにエレアコをつないで弾いてみました。VS-880はこれです。ばかでかいです。
先日、楽器屋で驚いたのですが、現在はSDカードを使って多重録音できる手のひらに乗るぐらいの機材がありました。しかも価格も数万円です。なんてことだ。
こうやって楽器を弾くのは何年ぶりだろうと思いました。パソコンで曲を作るDTMに熱中していたのでずっと長いあいだ楽器を弾く気分にならなかったのですが、同じ音楽でもまったく生の楽器を使った音楽は別物ですね。けれどもどっちが優れているとか、どっちが楽しいという問題でなく、どちらも音楽の楽しみ方のひとつであり、どちらも楽しい。
それにしても、ちょっとリバーブの設定を変えてみますか、と思ってエレアコをぐるりと横に動かすと、ワイパーのようにエレアコのネックでなぎ倒されて、積まれてあった本がどどどーっと崩れたり、積まれていたCDがガラガラと崩れたり、大変です。部屋が大変、と奥さんに言ってみたら、聞こえてるからわかってる、とふつうに返答されてしまった。片づけなきゃなあ。片づくのかなあ。
さて、私的ウェブ人間論を展開してみましたが、3回で終わりにしておきます。とはいえ、このテーマはこれからもブログのなかで時折思い出したように書いていくのではないでしょうか。終わりからはじまるものもあって、一日の終わりは次の日のはじまりであり(「きょうのできごと スペシャル・エディション」という映画にそんな言葉があったような)、年の終わりは新しい未来のはじまりでもあります。そろそろ新しい年のはじまりのために、準備をしておかなければと考えました。
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2006年12月26日
私的ウェブ人間論-2:自分を探さない。
ウェブ人間とは何か?ということを考えているわけですが、ウェブ人間は大量の情報を摂取する生き物ではないでしょうか。梅田望夫さんのように300〜400のブログを閲覧するというところまではいきませんが、それでもぼくもRSSリーダーに登録するブログは増えていくばかりです。調べ物があってGoogleなどで検索すれば、ヒットした下位のサイトもリンクを辿って読みたくなるし、ブログにリンクされている情報からさらに別のサイトを読んでしまったりする。なろうと思わなくても、自然と訪問するサイトが増えていってしまうものです。
その情報をひとつひとつアーカイブしていたら自分がパンクするので、ブックマークする、インデックス化する、そして読んで忘れる。情報化社会の大量な情報に立ち向かいながらフットワークを軽くするためには、情報を抱え込まないことが大事かもしれません。当たり前といえば当たり前のことですが、まずはそこからスタートしてみます。
▼情報を切り替える、横断する、つながる。
かつてザッピングというテレビを視聴するスタイルがありました。これはリモコンでがちゃがちゃとチャンネルを変えながら、複数の番組を視聴するスタイルだったかと思います。たいていCMになると切り替えるのかもしれませんが、多様な番組を選択する楽しさがあります。インターネットも同様に、大量の情報を並行して切り替えながら、あるときには深く、あるときには広く浅く、チャンネルを切り替えていく。
そんなネットのスタイルがリアルライフにも影響を与えつつあるのではないかと思うのですが、というのも最近ぼくは鞄のなかに最低3冊の本が入っていて、それらを切り替えながら読んでいます。すると引用されている別の本が気になったりして、途中で本屋に立ち寄ってまた買ってしまったりする。関連性がないと思って購入した本が、実は同じようなテーマだったりすることもあります。
昨日、渡辺千賀さんの「ヒューマン2.0―web新時代の働き方(かもしれない)」を読み始めたのですが、同時に読み始めた本に「ドラッカーの遺言」があります。
ヒューマン2.0―web新時代の働き方(かもしれない) (朝日新書) 朝日新聞社 2006-12-08 by G-Tools |
ドラッカーの遺言 (講談社BIZ) 窪田 恭子 講談社 2006-01-20 by G-Tools |
ドラッカーの本は、先日ブログにもコメントをいただいたCacaoさんのブログで知りました。ドラッカーについてはきちんと読んでおきたいと思っていたので、タイムリーでした。読み始めたところ、とてもやさしい言葉で語られながら、ものすごく先見性に溢れている。時折挿入される個人的なエピソードがあたたかい。よい本です(ドラッカーの言葉とは関係のないイメージ写真もたくさん挿入されているのですが、これは要らないんじゃないのかなとも思いますが)。
で、この「ヒューマン2.0」と「ドラッカーの遺言」がどういうわけか自分のなかでつながっていってしまうんですよ。というのも「ドラッカーの遺言」でインド人の優秀さについて書かれているのですが、これはプログラマーの面からも「ヒューマン2.0」につながっていく。変化の時代の新しい働き方について渡辺さんは現場から伝えようとしているのですが、その現実はドラッカーの先見に裏付けられているような気がします。
ドラッカーは、いま日本は苦しい時代にある、というようなことを書いています。なぜ苦しいかというと、変化の時代だからです。変化の時代だからこそ、みんな迷う。迷って自分を見失う。
そんなわけで自分を探すためにブログを、という発想も生まれますが・・・。
▼自分を探さない。
自分探しのためのブログってどうでしょう。ぼくもそう考えていた時期があるのですが、最近はどうかな?と思っています。そもそも探さなくても自分はここにいるものであり、またどこかにまったく別の自分(分身?)がいるのではないかと探してみたところ、しょうもない自分しかみつからなかったら失望しませんか?
書くことがない、書けないということもよく言われるのですが(というか作文の宿題をしている息子によく言われるんですけど)、それはたぶん肩に力が入っているからではないでしょうか。さあ美文を綴ろうかと意気込むのではなく、好きなことって何?という、ほんとうにありふれた生活の感情的なことからはじめればいいと思うんですよね。
3歳の息子に「好きなものって何?」と訊いてみると、「カレーがすき。でも、なっとうはきらい」という言葉が返ってきました(納豆も美味しくいただきましよう。栄養だってあるし)。
ぼくはブログは基本的にこれでいいと思っています。自分が何が好きなのか、そのことをまず書く。次にどうして好きなのか、その理由を考える。さらに好きなものについて検索して、その背景などの知識を深めていく。カレーが好きであれば、起源とか種類とかおいしい店とか、ネットで調べてわかったことを公開してみる。次に自分でもお店に行ってみる。作ってみるのも楽しそうです。作ったらブログに書く。それでいいんじゃないの、と。
ただし、ここでちょっと留意点なのですが、好きなものを追求するのであればともかく、嫌いなもののほうを追求するのはおすすめしません。加速的にダークな世界に落ちていってしまうので(さらにダークなコメントを誘発することにもなります)、ぼくは気をつけたほうがよいと思います。さらに、ネガティブな発想は自分のなかにネガティブループを生むことにもなる。だからできれば、好きなことを追求するのがいい。
自分を探すことを人生の目的にするのはどこか寂しい気がします。なんだかそれは勉強するために、勉強のノウハウの本を読むようなところがある。好きなものを追いかけているうちに結果として自分がみつかる、ということがいいと思います。興味のあることを追求していった結果、ああ、自分ってこういう人間だったのか、と自分がみえてくる。それがいいのでは?
好きなものがないのであれば、仮にいまから5秒以内に出会ったもの(ひと)を好きになってみればいいのではないでしょうか。ぼくは映画をほとんど観なかったのですが、ぼくの父は映画が好きだったようです。父が亡くなったときに、彼が好きだった映画とはどういうものだろうと観はじめたのが映画に興味を抱いたはじまりであって、とはいえ、ぼくは怠惰な人間なので、放っておくと観なくてもいいや、と安易な方向に流れてしまう。そこで年間100本観てみようかと目標を立ててみました。その目標は8割ぐらいしか達成できていないのですが、量が質に転じるときがあるもので、最近では映画を観るのがほんとうに楽しみです。楽しみなんだけどやっぱり観る時間がなくて延滞料金まで払ってレンタル屋に返しに行くこともあるのですが。きっかけは何でもいいと思います。ぼくの場合には父の死が映画を観始めるきっかけだったのですが、そんなに大きなものでなくてもいい。ぴんときたものを追求してみればいい。ダメだったらやめればいいだけの話です。
自分を探すよりも、自分の外側にある何か好きなものを探したほうがいいと思います。
▼参照と選択とリンクが自己である、という考え方。
自分で曲を作る、文章を書く、絵を描くなど、そんな特別なことをしなくても、自分は表現できます。たとえば服を着るときに、その服は自分で作ったわけじゃないですよね(もちろん自分で作る器用な方もいるかとは思うのですが)。これから着ようとする服は自分で作ったものではないけれど、どんな服を着るのか、そのチョイスによって自分を表現できます。つまり選択することによって、間接的に自分を表現しているわけです。
ウェブ人間は、選択と参照によって自己を表現します。参照について考えてみると、自分でビデオを用意してエンコードしなくても、YouTubeに掲載された誰かのビデオを引用することで自分のコンテンツの一部に加えることができます。ぼくは昨日、押尾コータローさんのビデオを引用したのですが、ブログのテキストを書きながらYouTubeのアドレスと「watch?v=O9V7Q2a9FPI」というパラメーターと「movie」というはてな記法を記述するだけで、ブログに表示することができる。その手軽さ、コンテンツを所有するのではなく借りてくるというスタイルが、ウェブ人間的であるような気がしています。
音楽もそうだと思います。いくつかのエントリーで書いたのですが、たとえばモータウンっぽいとか(先日ブログで引用したAztec Cameraの「Somewhere In My Heart」は、かなりモータウンなどを意識していると思います)、過去の何かとリンクしている音楽、過去を基盤としてその上に積み上げられた音楽がぼくは好きだし、かっこいいと思う。自分のルーツ(根源)ときちんとつながっているという感じでしょうか。それは真似ではないと思うし、借り物でもないと思う。憧れみたいなものかもしれません。参照やリンクは、憧れの一形態だったりして。
自分という個体は、さまざまな関係性の全体のなかの一部として存在しています。親戚関係もそうだろうし、会社や学校という組織も同様です。地域社会というコミュニティにおける個人もあるだろうし、ネットというバーチャルな社会のなかの一員でもある。自分のなかにあるものだけが自分ではなくて、自分の外にある関係性もまた自分である、ということを忘れずにいたいものです
++++++
会社から帰宅する時間には、東京は土砂降りの雨でした。凄かったですね。けれども傘を叩く雨の音を聴いていて思い出したのは、alva noto+ ryuichi sakamotoの音楽でした。alva notoが多用するぶつぶつというノイズは、傘を叩く雨の音に似ていると思う。で、先日、そのDVDが出ていたので買っちゃっいました。限定版ということで売り切れてしまいそうだったので。
Insen Live [DVD] [Import] Raster Music 2008-12-29 by G-Tools |
よかった。いいですこれ。アコースティックな坂本龍一さんの音楽に電子的なカールステン・ニコライさんの音が重なっていって、背後には幾何学的な光が映し出される。このビジュアル、音楽的な視覚だと思いました。視覚の音楽だと思う。じーっと光に集中しているうちにひき込まれて、なんだかものすごく癒されてしまった。ぼーっと意識が遠のいていった。
なんとなくその幾何学的な世界は観終わったあとにも持続していて、仕事でレーダーチャートのグラフをみながら、alva notoのステージでMacが置かれていたテーブルを思い出してしまった。とても実験的な音楽であり、こういう音楽は自分にはできないな、と思うのだけれど、その音楽が創り出す時間というものが、途方もなく尊いものに思えたりする。
あ、いま外で雷が鳴っているのですが(0:16)、そんな自然の音の尊さにも通じるものがあるのではないでしょうか。雷の音もいい感じのノイズです。自然にはかなわないな。
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なんと、これもまたYouTubeにあった。Trioon Iもいいです。
■Berlin
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2006年12月25日
私的ウェブ人間論-1:情報の参照
梅田望夫さんと平野啓一郎さんの対談による「ウェブ人間論 (新潮新書)」は非常に興味深い本でした。もっと読みたい、と久し振りに感じた本です。
しかしながら、もっと読みたい、という気持ちを突き詰めていくと、自分はこう考える、という表現に結びつくのではないでしょうか。つまり、Web2.0と同様に書籍2.0というものがあるとすれば、印刷された本は変更不可能だけれど、そこにブログなどで付加情報を加えていくことが可能なはずで、多様な解釈を試みる、読者として書かれた議論に参加する、本に書かれたことを刷新していく、という可能性がひろがります。
それがブログ時代における新しい書籍の在り方のような気もしています。本を読む、ブログで感想を書く、誰かと話し合うというように、本とネットが連携した楽しみがもっと増えていけば、活字嫌いな子供たちも本を読み始めるのではないでしょうか*1。
そんなわけで、一年の締めくくり(まとめ)として、また2007年というすぐそこにある未来の自分を考えるために、今日から数回に分けて、「ウェブ人間論」に書かれていることから考えを深く掘り下げてみたいと思います。
▼ウェブ人間という進化
梅田さんは、あとがきで本のタイトルについて次のように書かれています。引用します(P.202)。
ところで『ウェブ人間論』というタイトルの本書は、「ウェブ・人間論」と「ウェブ人間・論」との間を往来していると言える。
ウェブが広く人間にどう影響を及ぼしていくのか、人間はウェブ進化によってどう変容していくのだろうかという意味での「ウェブ・人間論」。
グーグル創業者や世界中に散らばるオープンソース・プログラマーのようなウェブ新世界を創造する最先端の人々、ウェブ進化とシンクロするように新しい生き方を模索する若い世代、そんな「ウェブ人間」を論ずる「ウェブ人間・論」。
この二つの「論」が「クモの巣」の放射状に走る縦糸と同心円を描く横糸になって、本書は織り成されている。
検索によってまだ誰も使っていない本のタイトルを付けるという梅田さんらしい考え方なのですが、ぼくはといえば、後者の「ウェブ人間・論」のほうが面白いと思いました。というのも、前者においてはウェブと人間はまだ融合していない印象があるのですが、「ウェブ人間」というのはそれこそスパイダーマンのように、突然変異(ミュータント)のような感じがする。
ちなみにシリコンバレーで働くひとたちの新しいスタイルを紹介した本に、渡辺千賀さんの「ヒューマン2.0 web新時代の働き方(かもしれない)」という本もあります。
ヒューマン2.0―web新時代の働き方(かもしれない) (朝日新書) 渡辺 千賀 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
ちょうど本日購入して読み始めたのですが(現在、P.52を読書中)、この本、いいです。ブログそのままの文章で、ものすごく歯切れがよくて爽快な感じ。脚注も楽しくて、ついつい読んでしまいます。実は、まだブログがよくわからない頃に、渡辺千賀さんのブログ「On Off and Beyond」に無謀にもトラックバックしたことがあり、コメントまでいただいちゃったのですが、実はひええなほど凄いひとだということにその後に気付き、無知って怖いな、恐れを知らないことって無謀だよな、でもしあわせかも、と思ったものでした。そんなことが起きるのもブログのよさだったりします。トラックバックという参照による恩恵です。
▼参照するひと、収集するのではなくて
ウェブは集合知(Wisdom of Crowds)である、といわれます。既に2005年に梅田望夫さんはブログで複数の方の見解を踏まえつつ集合知について書かれているのですが(上記の渡辺千賀さんの記事も引用されています)、多様性・独立性・分散化・集約性という4つの観点から、インターネットが知を集約するシステムとして優れているという視点は、ぼくには疑いようのない事実であるように思いました。
この視点から導き出される「ウェブ人間」の特長は、「所有」するのではなく「参照」するというスタイルが特長的ではないでしょうか。多くの議論で既に述べられていることだと思いますが、自分で持っている知識ではなくても、あそこに行けばあるよ、あのひとが知っているよ、という情報があるだけでいい。ナビゲーターや標識のようなものかもしれませんが、情報の方角を示すことも、有意義な情報に成り得る。
つまり、「ウェブ人間」はコレクター(収集するひと)ではなくて、参照するひとかもしれませんね。というのは、これだけ情報が膨大になると、個々がアーカイブしようとすると、莫大な容量の個人のストレージがなければ追いつかない。ハードディクスなら増設すれば済む話かもしれませんが、ぼくらの脳を増設することはできない。だから他人の脳を借りる、他人の脳を参照するわけです。
個人的かつアナログな話でお恥ずかしいのですが、年に100冊読むと決めてから、ぼくの書棚は莫大に膨れあがりつつあります。いま背中の1メートル手前まで本が押し寄せてきている。しかしながら、例えばハードカバーであれば2000円近いものをわざわざ購入して所有する必要があるのか、というと疑問を感じる。これもまた個人的にロングテールな状況になっていて、ほんとうに大切な本は、膨大な書棚の一部分でしかない。あとは内容すら忘れているものも多い。けれども、とんでもないときに、ああそういえばあの本のアレが読みたい、あれどこにあったっけ?と思うこともある。
古くは図書館というシステムがあり、またビデオレンタル、古本屋というビジネスも生まれてきましたが、メディア(記録媒体)というものがなくなると、コンテンツ自体を貸し出す形に進化していく。YouTubeも引用されることに意義があり、もちろんコンテンツが消されてしまうこともあるのですが、いつでもそこで観ることができる、という手軽さがよい。
▼インデックス情報の価値
位置情報(あの情報があそこにある)という情報だけをアーカイブしておけば、個々の情報の負担はものすごく楽になります。情報をインデックスする、ということかもしれません。
と考えていて、どこかで読んだ記憶があるな、と思ったら、朝日新聞の東京本社の編集局長である外岡秀俊さんが書かれた「情報のさばき方―新聞記者の実戦ヒント」という本にあった言葉でした。
情報のさばき方―新聞記者の実戦ヒント (朝日新書) 外岡 秀俊 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
5つの基本原則を挙げられているのですが、その第一が「情報力の基本はインデックス情報である。」ということでした。学生時代に本好きだった外岡さんは数千冊の蔵書があったそうですが、田舎に送ろうとダンボールに詰められた本をトラックの荷台に放置しておいたところ、それらが全部消えてしまった。けれどもそのときに、かえってすっきりした気分になったとのこと。それから物としての情報を捨て、インデックス情報を重視するようになったと書かれています(P.26)。
偶然にも、渡辺千賀さんの本にも、読んだ本は処分するという話もありました。大量の情報を楽しみ、執着することなくその情報の波を泳ぎきる逞しさというか気軽さも、「ウェブ人間」の特長かもしれません。そんな軽さ、フットワークのよさを見習いたいものです。
そのためには、ぼくの場合、まず背中に壁のように迫ってきている本棚の本をなんとかしなくちゃ、という感じでしょうか。一年もあとわずかで終わろうとしていますが、なかなか忙しくて片づけている時間も気力もないのですが。
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さて。ここからは余談です。クリスマスだというのに、どういうわけか自分の知的強化をはかりたい気分が高まってしまい、本日も書店で7冊もの本を購入。ついでに、音楽CD(DVD含む)も3枚購入。あまりにも軽量化した財布にはっと気付いて青ざめましたが、気持ちはなんとなく豊かな感じです。年末の楽しみがたくさん増えました。
Takamineのギターを中古で購入したのですが、Takamineのサイトで押尾コータローモデルのギターがあることを知り、このひとはどういう音楽を演奏するのかな、なんか名前からするとあやしそうだ、と思っていたのですが、本日某CDショップで試聴して、一曲目の「Big Blue Ocean」を聴いて思わず涙出ました(いやほんとうに)。ハーモニクス響きまくっているし。5曲目の「クリスタル」もいい。ぼくのツボかも。明るい。明るいんだけど切ない。衝動的に購入してしまいました。某ショップでCDを試聴しながら泣いていた冴えないスーツ姿をみかけたひとがあれば、それはぼくです。
COLOR of LIFE (初回限定盤)(DVD付) 押尾コータロー Amazonで詳しく見る by G-Tools |
DVD付きなのですが、DVD観ている暇がありません。そういえばBECKの「The Information」のDVDもまだ観てません。
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YouTubeでみつけました。
■押尾コータロー - Big Blue Ocean
*1:ということを書いて、渡辺千賀さんのブログを読みにいったら、まさに「Book Club」というエントリーでした。アメリカでは定期的に集まってわいわい本について語り合うことが盛んなようです。なんだか楽しそう。
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2006年12月20日
へなむちでんでん。
体調最悪で真剣にやばいと思いました。この具合の悪さはなんでしょう。というわけで本日はブログ休業にしようと思ったのですが、ゆっくり回復してきたようなので、気分転換として、うちの次男・3歳児ギャラリーでも掲載しておくことにします。これです。
「へなむちでんでん」だそうです。彼の創作らしい。なんだかおしりにアンパンマンがくっついていますが?
絵と同時にひらがなで命名がされているのですが、「でんでん」というのは「電車」らしく、彼はいつもそう呼んでいます(あるいは「でんちゃ」)。で、「へなむち」が何かということなのですが、ぼくは「変な虫」だと思っていたのですが、どうやら「フナムシ」らしい。海に行くと岩場にいっぱいいる、あのムシです。ママが嫌いらしいので、あえて書いたようだ。まあ、フナムシと「へなむち」は似ているかもしれません。変な虫という意味から、フナムシを解釈しているのかもしれない。
「へなむちはやめて」というママの言葉に、「じゃあ、かえるは?かえるでんでんは?」と切りかえしていました。こいつはきっと好きな女の子をいじめるタイプだ。まあ、たいてい3歳児というのはそんなものですけどね。
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2006年12月 2日
シャイン
▽cinema06-075:繊細なピアニストと、父子の物語。
シャイン [DVD] ジェネオン エンタテインメント 2004-06-25 by G-Tools |
泣けた。ピアニストを主人公とした映画には残酷で切ない物語が多いのですが、この映画もやりきれない感情を抱いてしまう作品でした。デヴィッド・ヘルフゴットという天才ピアニストの実話をもとにした作品で、それが現実の物語であることがさらに痛切です。
デヴィッドは、厳しい父親から虐待まがいの英才教育を受けます。なぜ父親がそんなにスパルタなのかというと、幼い頃にお金を貯めて購入したバイオリンを父に壊されたトラウマがあり、音楽に対する屈折した感情を息子にぶつけている。コンテストで優勝すること、おまえは運がいい、という言葉を何度も息子に繰り返し言わせる。その教育のおかげで彼は才能を発揮しはじめるのですが、世間から注目されて奨学金など上級の教育を受けることができるチャンスが得られるようになると、今度は父親は息子を束縛して圧力をかけて潰そうとする。父のエゴに押し潰されそうになりながら、彼は音楽的な才能を磨き上げていくのですが、その精神的な歪みから精神病を発症してしまう。子供を破壊する親のエゴに憤りを感じるとともに、子供もやはりひとつの人格である、ということをあらためて考えました。
ロンドンの王立音楽学校で学ぶときに、楽譜を解釈して感情をのせなさい、という指導を受けて、でも楽譜に感情は書かれていないですよね、という風に応えたデヴィッドが印象的でした。彼は父親の権力下におかれていたので、自分の感情を表現することさえおどおどと頼りない。結局のところ、その気持ちがオーヴァーヒートして精神を蝕んでしまうのですが、精神病で饒舌になった彼の方がむしろ純粋に生き生きとしていて、演奏はもちろん人間的にも親しまれる感じです。
恥ずかしながらクラシック音楽はほとんど無知で、ラフマニノフなんて聴いたことがなかったのですが、この映画でピアノ協奏曲第3番を聴いて泣けました。演奏中に、あまりに集中するあまりに頭が空白になる映像は迫力があります。ピアノの演奏がすべて素晴らしい。と思ったら、ヘルフゴット自身の演奏とのこと。純粋であることは弱さも露呈するものですが、そんな弱さにも心に滲みるものがあります。強くなれなくても、いいと思う。12月2日鑑賞。
*年間本100冊/映画100本プロジェクト進行中(86/100冊+75/100本)
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「ブランドらしさのつくり方―五感ブランディングの実践」博報堂ブランドデザイン
▼Books086:感性の時代に向けて、五感の情報化に期待。
ブランドらしさのつくり方―五感ブランディングの実践 博報堂ブランドデザイン ダイヤモンド社 2006-09-29 by G-Tools |
情報化社会が進展すると、専門的な知識やデータ処理はPCやITなどのテクノロジーがこなすことになってしまい、さらにプログラミングなどの仕事はコストが安くてクオリティの高いインドなどのエンジニアがこなしてしまう。ではどんなことに価値が生まれるかというと、感性や発想を重視した右脳思考型の新しいナレッジワーカーである、というようなことが書かれていたのが「ハイコンセプト」という本でした。そうした感性重視の流れをマーケティングに実践したのが、五感マーケティングだと思います。この動きは日本でも重視されつつあるようで、経済産業省は「人間生活技術戦略―五感で納得できる暮らしを目指して―」を、2006年4月18日に策定した、ということも「ブランドらしさのつくり方」のなかで触れられていました。
五感を定量的に把握する試みも進展しているようで、嗅覚の研究がいちばんホットらしい。嗅覚ディスプレイという装置も開発がはじまっているようで、ぼくも何気なくアロマジュール(香り発生装置)についてブログで取り上げたことがあったのですが、そのことも記載されていました。「チャーリーとチョコレート工場」では、上映中に香りを発散させた映画館があったとのこと。これは行っておけばよかったと思いました。さらに「味覚センサー」というものも出てきているらしく、触感、立体映像なども含めるとバーチャルリアリティー(仮想現実)の世界は知らないところで着々と研究が進んでいるようです。
これがインターネット上で展開されると、セカンドライフのような仮想コミュニティは、より五感に訴えるそれこそ「もうひとつの現実」に近づいていくのではないでしょうか。そうするとサンプリングやトライアルのキャンペーンは、よりリアルになっていく。仮想現実のなかにおける流通も活発になりそうです。そうして、ミュージシャンや映像クリエイターと同じレベルで、アロマクリエイターとか触感アーティストなどというものが登場しそうな気もするし、それらを組み合わせたマルチ五感アートなどというものが登場するかもしれない。
なんとなく21世紀的だなあと思ったら、いまは21世紀なのでした。未来は、いまここにあるようです。11月30日読了。
*年間本100冊/映画100本プロジェクト進行中(86/100冊+74/100本)
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五感のクリエイティブ。
髪を切りに行きました。ついでに染めてもらったのですが「がつんと明るくしてください」と言ったら、がつんと明るくされてしまいました。そりゃそうだ。明るくしてね、とオーダーすれば明るくされてしまうのは当然です。ちょっと明るすぎたか?と不安だったのですが、帰宅して家族にヒアリングしてみると、それほどではない印象だったのでほっとしました。けれども、3歳児である次男は「えーと、えーと」としばし悩んだあとで「バナナみたい」とのこと。うーむ、そこまで黄色くないと思うぞ。
明るさ、という言葉は分解すれば、あ+かるさ(軽さ)でもあり、逆に暗さは重さと結びつくような気がします。髪の色が明るくなると、見栄えも軽くなりますが(そもそも重い考え方の人間なので、ちょっとぐらい軽くみえたほうがいい)、気分的にも少しだけ軽くなります。明るさと重さは単位が違うものなのに、感覚のなかでは対応している。ということを考えていくと、人間の感覚というのは派生・分化しているけれども根っこの部分は同じなのかもしれません。
すかっと晴れた土曜日の午前中、もしくは日曜日の朝という時間帯がぼくは好きなのですが、その何が好きかと言うと、散歩などをしたときに住宅街の家の壁や塀などに太陽の光が反射している明るさがいい。青空の透明なブルー、公園で光に透ける樹木の葉のみどり、そんな明るさのエッセンスから何か創作できないかとも考えています。たとえば、音楽では明るい和音(メジャーコード)が光を表現すると思うのですが、暗い和音(マイナーコード)という影の部分と組み合わせることによって、明るさが引き立つような気もしています。つまり明るさと暗さは対で意味を成すものかもしれません。
今日、髪を染めてもらいながら店内に流れているBGMを聴いていたのですが、カーズ、ブルース・スプリングスティーン、スタイル・カウンシル、シカゴなど80年代の洋楽がかかっていて、そんな曲を聴いていたら一瞬だけ、「すかっと晴れた土曜日の午前中、もしくは日曜日の朝」のイメージがぼくのなかに広がりました。つまり、明るい気持ちになった。それはどこか学生時代の記憶にも似ていたかもしれません。こうしたアーティストの曲は積極的に聴きたいとはあまり思わないのですが、喫茶店や飲み屋、美容院、街頭などで聴くと妙によかったりする。場や空間によって効果的な音楽もあるのかもしれません。そして自分のなかの失われた感覚を呼び覚ましてくれる音楽は、なかなかいいものです。
視覚的な明るさと聴覚的な音楽を対応させて考えたのですが、「ブランドらしさのつくり方―五感ブランディングの実践」という本の最後では、最先端の五感に対する研究を「五感を分解する流れ」と「五感を統合する流れ」の二つの方向にあると書かれています。
まず分解する流れについては、次のように説明されています(P.223)。
嗅覚でいえば、ある香りをいくつかの基本的な香りの要素に分解して、その組み合わせで香りを再現しようとしていることがまさしくこの方向だ。分解することで複雑なデータをデジタル化し、それによって記録したり、伝達したり再現したりすることが可能になる。触感をいくつかの刺激に分解して、再現している触覚ディスプレイや、三つの原色に分けて、その組み合わせで色を再現するテレビなどと考え方は同じだ。
この分解してデジタルデータにする流れが「五感研究を飛躍的に向上させてきている」としながら、五感を複合的に扱う必要性についても述べられています。
五感と一口にいっても、五つの完全に独立した感覚ではなくて、互いに相互作用を起こし、一つの固有の感覚を生み出しているからだ。同じ温度の同じ部屋であっても暖色系の部屋のほうが暖かく感じ、寒色系だと冷たく感じる。同じ映像であってもバックに流れる音楽によって感じ方がまったく異なる。そんな経験は多いだろう。事実、多くの専門家が、五感は互いにつながっており、一つひとつ別々に切り離せないものだ、と指摘している。
分解する流れ+統合する流れのふたつがぼくは重要だと思っていて、それは部分思考+全体思考という形に言い換えることができるかもしれません。たとえば、Webサイトにおいてもカラーだけを追求しても、書かれているコピーやテキストの内容が色の表現する世界感とかけ離れていたらブランディングとして機能しないのではないでしょうか。
もう少しやわらかい喩えにしてみると、恋人を想起する場合には、彼女の香り(嗅覚)+声(聴覚)+姿(視覚)+肌触り(触覚)+味(味覚?えーと、何の味だ?)のような、五感の総体として存在が立ち昇ってくるようなものではないでしょうか。テキスト情報の場合には、そのほとんどが欠如しているため、相手をほんとうに理解するためには欠如している五感の情報を想像力で補う必要があります。
「ブランドらしさのつくり方」では、最後に五感ではなくて「互感」というコンセプトが提示されていました。これが興味深い考え方でした。
五という数以上に重要なのは、それらが互いに関連し合う感覚で、人間の判断に強い影響を与えているということだ。つまり、五感ではなく「互感」。互いに複雑に絡み合う感覚をとらえることこそが、これからの五感ビジネスの醍醐味だ。"互"感を考えることが、この領域をより深めてくれる。
互いに影響を与え合う、という感じがいいですね。ぼくはずっと音楽(聴覚)に映像(視覚)をつけたくて、けれどもなかなかできないのですが、未来のクリエイターはさらに嗅覚や触覚的な表現も可能になって、五感に訴えるアートが登場するのかもしれません。
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