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2006年12月26日

私的ウェブ人間論-2:自分を探さない。

ウェブ人間とは何か?ということを考えているわけですが、ウェブ人間は大量の情報を摂取する生き物ではないでしょうか。梅田望夫さんのように300〜400のブログを閲覧するというところまではいきませんが、それでもぼくもRSSリーダーに登録するブログは増えていくばかりです。調べ物があってGoogleなどで検索すれば、ヒットした下位のサイトもリンクを辿って読みたくなるし、ブログにリンクされている情報からさらに別のサイトを読んでしまったりする。なろうと思わなくても、自然と訪問するサイトが増えていってしまうものです。

その情報をひとつひとつアーカイブしていたら自分がパンクするので、ブックマークする、インデックス化する、そして読んで忘れる。情報化社会の大量な情報に立ち向かいながらフットワークを軽くするためには、情報を抱え込まないことが大事かもしれません。当たり前といえば当たり前のことですが、まずはそこからスタートしてみます。

▼情報を切り替える、横断する、つながる。

かつてザッピングというテレビを視聴するスタイルがありました。これはリモコンでがちゃがちゃとチャンネルを変えながら、複数の番組を視聴するスタイルだったかと思います。たいていCMになると切り替えるのかもしれませんが、多様な番組を選択する楽しさがあります。インターネットも同様に、大量の情報を並行して切り替えながら、あるときには深く、あるときには広く浅く、チャンネルを切り替えていく。

そんなネットのスタイルがリアルライフにも影響を与えつつあるのではないかと思うのですが、というのも最近ぼくは鞄のなかに最低3冊の本が入っていて、それらを切り替えながら読んでいます。すると引用されている別の本が気になったりして、途中で本屋に立ち寄ってまた買ってしまったりする。関連性がないと思って購入した本が、実は同じようなテーマだったりすることもあります。

昨日、渡辺千賀さんの「ヒューマン2.0―web新時代の働き方(かもしれない)」を読み始めたのですが、同時に読み始めた本に「ドラッカーの遺言」があります。

4022731222ヒューマン2.0―web新時代の働き方(かもしれない) (朝日新書)
朝日新聞社 2006-12-08

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4062820005ドラッカーの遺言 (講談社BIZ)
窪田 恭子
講談社 2006-01-20

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ドラッカーの本は、先日ブログにもコメントをいただいたCacaoさんのブログで知りました。ドラッカーについてはきちんと読んでおきたいと思っていたので、タイムリーでした。読み始めたところ、とてもやさしい言葉で語られながら、ものすごく先見性に溢れている。時折挿入される個人的なエピソードがあたたかい。よい本です(ドラッカーの言葉とは関係のないイメージ写真もたくさん挿入されているのですが、これは要らないんじゃないのかなとも思いますが)。

で、この「ヒューマン2.0」と「ドラッカーの遺言」がどういうわけか自分のなかでつながっていってしまうんですよ。というのも「ドラッカーの遺言」でインド人の優秀さについて書かれているのですが、これはプログラマーの面からも「ヒューマン2.0」につながっていく。変化の時代の新しい働き方について渡辺さんは現場から伝えようとしているのですが、その現実はドラッカーの先見に裏付けられているような気がします。

ドラッカーは、いま日本は苦しい時代にある、というようなことを書いています。なぜ苦しいかというと、変化の時代だからです。変化の時代だからこそ、みんな迷う。迷って自分を見失う。

そんなわけで自分を探すためにブログを、という発想も生まれますが・・・。

▼自分を探さない。

自分探しのためのブログってどうでしょう。ぼくもそう考えていた時期があるのですが、最近はどうかな?と思っています。そもそも探さなくても自分はここにいるものであり、またどこかにまったく別の自分(分身?)がいるのではないかと探してみたところ、しょうもない自分しかみつからなかったら失望しませんか?

書くことがない、書けないということもよく言われるのですが(というか作文の宿題をしている息子によく言われるんですけど)、それはたぶん肩に力が入っているからではないでしょうか。さあ美文を綴ろうかと意気込むのではなく、好きなことって何?という、ほんとうにありふれた生活の感情的なことからはじめればいいと思うんですよね。

3歳の息子に「好きなものって何?」と訊いてみると、「カレーがすき。でも、なっとうはきらい」という言葉が返ってきました(納豆も美味しくいただきましよう。栄養だってあるし)。

ぼくはブログは基本的にこれでいいと思っています。自分が何が好きなのか、そのことをまず書く。次にどうして好きなのか、その理由を考える。さらに好きなものについて検索して、その背景などの知識を深めていく。カレーが好きであれば、起源とか種類とかおいしい店とか、ネットで調べてわかったことを公開してみる。次に自分でもお店に行ってみる。作ってみるのも楽しそうです。作ったらブログに書く。それでいいんじゃないの、と。

ただし、ここでちょっと留意点なのですが、好きなものを追求するのであればともかく、嫌いなもののほうを追求するのはおすすめしません。加速的にダークな世界に落ちていってしまうので(さらにダークなコメントを誘発することにもなります)、ぼくは気をつけたほうがよいと思います。さらに、ネガティブな発想は自分のなかにネガティブループを生むことにもなる。だからできれば、好きなことを追求するのがいい。

自分を探すことを人生の目的にするのはどこか寂しい気がします。なんだかそれは勉強するために、勉強のノウハウの本を読むようなところがある。好きなものを追いかけているうちに結果として自分がみつかる、ということがいいと思います。興味のあることを追求していった結果、ああ、自分ってこういう人間だったのか、と自分がみえてくる。それがいいのでは?

好きなものがないのであれば、仮にいまから5秒以内に出会ったもの(ひと)を好きになってみればいいのではないでしょうか。ぼくは映画をほとんど観なかったのですが、ぼくの父は映画が好きだったようです。父が亡くなったときに、彼が好きだった映画とはどういうものだろうと観はじめたのが映画に興味を抱いたはじまりであって、とはいえ、ぼくは怠惰な人間なので、放っておくと観なくてもいいや、と安易な方向に流れてしまう。そこで年間100本観てみようかと目標を立ててみました。その目標は8割ぐらいしか達成できていないのですが、量が質に転じるときがあるもので、最近では映画を観るのがほんとうに楽しみです。楽しみなんだけどやっぱり観る時間がなくて延滞料金まで払ってレンタル屋に返しに行くこともあるのですが。きっかけは何でもいいと思います。ぼくの場合には父の死が映画を観始めるきっかけだったのですが、そんなに大きなものでなくてもいい。ぴんときたものを追求してみればいい。ダメだったらやめればいいだけの話です。

自分を探すよりも、自分の外側にある何か好きなものを探したほうがいいと思います。

▼参照と選択とリンクが自己である、という考え方。

自分で曲を作る、文章を書く、絵を描くなど、そんな特別なことをしなくても、自分は表現できます。たとえば服を着るときに、その服は自分で作ったわけじゃないですよね(もちろん自分で作る器用な方もいるかとは思うのですが)。これから着ようとする服は自分で作ったものではないけれど、どんな服を着るのか、そのチョイスによって自分を表現できます。つまり選択することによって、間接的に自分を表現しているわけです。

ウェブ人間は、選択と参照によって自己を表現します。参照について考えてみると、自分でビデオを用意してエンコードしなくても、YouTubeに掲載された誰かのビデオを引用することで自分のコンテンツの一部に加えることができます。ぼくは昨日、押尾コータローさんのビデオを引用したのですが、ブログのテキストを書きながらYouTubeのアドレスと「watch?v=O9V7Q2a9FPI」というパラメーターと「movie」というはてな記法を記述するだけで、ブログに表示することができる。その手軽さ、コンテンツを所有するのではなく借りてくるというスタイルが、ウェブ人間的であるような気がしています。

音楽もそうだと思います。いくつかのエントリーで書いたのですが、たとえばモータウンっぽいとか(先日ブログで引用したAztec Cameraの「Somewhere In My Heart」は、かなりモータウンなどを意識していると思います)、過去の何かとリンクしている音楽、過去を基盤としてその上に積み上げられた音楽がぼくは好きだし、かっこいいと思う。自分のルーツ(根源)ときちんとつながっているという感じでしょうか。それは真似ではないと思うし、借り物でもないと思う。憧れみたいなものかもしれません。参照やリンクは、憧れの一形態だったりして。

自分という個体は、さまざまな関係性の全体のなかの一部として存在しています。親戚関係もそうだろうし、会社や学校という組織も同様です。地域社会というコミュニティにおける個人もあるだろうし、ネットというバーチャルな社会のなかの一員でもある。自分のなかにあるものだけが自分ではなくて、自分の外にある関係性もまた自分である、ということを忘れずにいたいものです

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会社から帰宅する時間には、東京は土砂降りの雨でした。凄かったですね。けれども傘を叩く雨の音を聴いていて思い出したのは、alva noto+ ryuichi sakamotoの音楽でした。alva notoが多用するぶつぶつというノイズは、傘を叩く雨の音に似ていると思う。で、先日、そのDVDが出ていたので買っちゃっいました。限定版ということで売り切れてしまいそうだったので。

B000L213PSInsen Live [DVD] [Import]
Raster Music 2008-12-29

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よかった。いいですこれ。アコースティックな坂本龍一さんの音楽に電子的なカールステン・ニコライさんの音が重なっていって、背後には幾何学的な光が映し出される。このビジュアル、音楽的な視覚だと思いました。視覚の音楽だと思う。じーっと光に集中しているうちにひき込まれて、なんだかものすごく癒されてしまった。ぼーっと意識が遠のいていった。

なんとなくその幾何学的な世界は観終わったあとにも持続していて、仕事でレーダーチャートのグラフをみながら、alva notoのステージでMacが置かれていたテーブルを思い出してしまった。とても実験的な音楽であり、こういう音楽は自分にはできないな、と思うのだけれど、その音楽が創り出す時間というものが、途方もなく尊いものに思えたりする。

あ、いま外で雷が鳴っているのですが(0:16)、そんな自然の音の尊さにも通じるものがあるのではないでしょうか。雷の音もいい感じのノイズです。自然にはかなわないな。

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なんと、これもまたYouTubeにあった。Trioon Iもいいです。

■Berlin

投稿者 birdwing : 2006年12月26日 00:00

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