2008年11月30日
奇跡のシンフォニー
▼cinema:音楽という手紙でつながる絆。
奇跡のシンフォニー [DVD] フレディ・ハイモア, ジョナサン・リース=マイヤーズ, ケリー・ラッセル, ロビン・ウィリアムズ, カーステン・シェリダン ポニーキャニオン 2008-10-22 by G-Tools |
モーツァルトのような天才ではないぼくが憧れてやまないのは、世界のあらゆるものを音楽に翻訳できたら、という夢想です。「海の上のピアニスト」という映画では、船上のバーに現われるひとたちを次々と音で表現していく天才のピアニストが登場しましたが、そんな風に視覚的なイメージを音で表現することができたら、どれだけ楽しいことか。
凡人であるところのぼくは、趣味のDTMで、そのときどきに感じたことを打ち込みのDTMとして表現しようと試みているのですが、表現や技術の限界からどうしてもうまくできません。イメージと音の間には大きな隔たりがある。だから世界のあらゆるものをモチーフとして泉のように音楽が自然に沸いてくる才能に、ほんとうに羨望を抱いてしまいます。
「奇跡のシンフォニー(原題はAugust Rush)は、孤児院の11歳の少年オーガスト・ラッシュことエヴァン(フレディ・ハイモア)が主人公です。彼は、ロックバンドのヴォーカリストである父ルイスとクラシックのチェリストである母ライラが一夜の運命的な恋に落ちて授かった子供ですが、ふたりは周囲の反対から引き離され、エヴァンはライラには死んだことにされて、孤児院に預けられてしまいます。しかし、音楽家であるふたりから生まれたエヴァンには、世界のあらゆるものを音楽としてとらえることができる才能があったのでした。そして、いつか自分のなかの音楽が両親に導いてくれると信じていました。
ばらばらになった3人ですが、それぞれが一緒になりたい想いを諦めきれずにいて、エヴァンは親に会うために孤児院を抜け出します。その彼がニューヨークで彷徨いながら辿り着いたのが、子供たちをストリートミュージシャンとして演奏させて金を巻き上げるブローカーのような"ウィザード"と呼ばれるおじさん(ロビン・ウィリアムズ)の家でした。ちなみに、その部分でイメージが重なったのは、ぼくがいま読んでいる途中のポール・オースターの「ミスター・ヴァーティゴ」という小説の冒頭です。
ウィザードの家で、彼は生まれてはじめて手にしたギターを弾きはじめます。彼が使っているギターはGibson SJ-200。ここで天才エヴァンは、コードも奏法もわからずに、独学で、とんでもない方法で弾きます。ぼくは、うわーっと思った。この奏法はタッピングではないですか。
日本では押尾コータローさんのアルバムで聴いたことがあるのだけれど、ギターを抱えずにパーカッシヴに弾く方法は、以前ぼくがブログの「すごい技術」というエントリで取り上げたエリック・モングレインというギタリストと同じ奏法でした。どこかギターというよりも鉄琴のように打楽器として弦を叩いて、ハーモニクスをたくさん使ったきらきらした音色になります。美しい。
さらに彼は、教会で出会った黒人の女の子の家で生まれてはじめてピアノをさわります。楽譜について教えてもらうと、女の子が学校に行っている間にものすごいスピードで作曲をはじめて、さらに教会でパイプオルガンを弾きこなしたりします。驚いた神父さんが、彼をジュリアード音楽院に入学させると、理論をあっという間に学んで授業の間に狂想曲を書き上げる。そんな彼の作品は、オーケストラで演奏するようになるのですが・・・。
ロックミュージシャンの父と、クラシックのチェリストである母から生まれて開花したエヴァンの書き上げた曲は、ロックとクラシックが融合したような音楽でした。この宇宙のあらゆるものにはハーモニーがある、というようなことを、たくさんの子供のミュージシャンからお金を巻き上げて暮らしているウィザードは言うのですが、エヴァンの曲もまた父の遺伝子と母の遺伝子の調和として生まれました。そして、ライブハウスでもなくコンサートホールでもない場所で、世界に向けて奏でられます。それは父親と母親に「僕はここにいるよ」と告げる「手紙」でもあり、どこかにいる両親に届くように、彼はたくさんのひとに聴いてほしかった。儲けるためではなく、才能ではなく、彼の音楽はたったふたりに向けたメッセージでした。
個人的な話としては、ちょうど日曜日、部屋のなかを片付けていたらヴァン・モリソンのCDが出てきて、このアルバムを聴いたあとで映画を観たところ、彼の「ムーンダンス」という有名な楽曲がルイスとライラの出会うシーンで使われていたりして、偶然の符合にびっくりしました。
ファンタジーというか音楽をめぐるお伽話であり、けがれのないエヴァンの音楽に対して、神童の才能に喰らいついて金儲けを企てるウィザードの汚さの対比とか、恋人であるルイスとライラ、あるいは母ライラと息子エヴァンのすれ違いのせつなさとか、ありがちなステレオタイプの物語ではあるのですが、使われている音楽もすべていい。日曜日の夕方、映画に仕掛けられた泣きどころに思いっきりはまってしまった。泣けた(涙)。号泣しながら観終えました。
やっぱり音楽っていいなあ。異質なジャンルが融合するときの創造性ってすばらしいなあ。そして技術や才能だけでなく、「ここにいるよ」というエヴァンが作品に込めたメッセージがこころに染みました。フレディ・ハイモアの無垢な少年ぶりに浸りたい、少年好きのひとにもおススメです。11月30日鑑賞。
■YouTubeからトレーラー
■公式サイト
http://www.kiseki-symphony.com/
投稿者 birdwing 日時: 23:49 | パーマリンク | トラックバック
2008年11月29日
音楽と読書と、そして。
センサーが解放されていると、あらゆる文章が/音が/匂いが/ビジュアルがこころに飛び込んでくるものです。けれども、時折こころのセンサーが閉鎖された、あるいはフィルターがかかっているような状態になることがあります。だからといって日常生活に支障はありません。淡々と日々は過ぎていくのですが。
それでもしばらくすると急速に閉ざされていた感覚が開かれる。文章が/音が/匂いが/ビジュアルが、ぱあっとぼくのなかに入ってくる。
年齢にしたがって感受性が衰える、ということもいわれますがそうでしょうか。世間一般のそうした考え方にとらわれているひとは、衰えていくのではないかとぼくは思います。とらわれなければ、精神の若さは維持することができるはず。
もちろん若い頃のように、剥き出しのひりひりするような感覚はなくなるかもしれません。それでも年齢を重ねることによって、"感受性の成熟"を迎えることもできるのではないか。つまり積み重ねてきた、あるいはインプットしてきた感覚や智恵が有機的に結合しはじめることが、"感受性の成熟"であるとぼくは考えます。そのためには時間が必要であるし、焦って何かをカタチにせずにじっと耐えることも必要です。
もはや若くはない年齢ですが、ぼくは無駄な抵抗はしません。若いひとと張り合おうとは思わないし、無駄に若づくりをしようとも思わない。けれども美しいものに向き合っていると、自然に気持ちは若くなりますね。どうやらこれは確かなようです。年齢に関わらず、美しいものを排除していたり、斜に構えて批判ばかりしていると、身体はどんなに若くてもこころから老いてしまう。
身体の老化は避けられないものだとすれば、こころの老化だけはなんとかしたい。美しさを美しさのまま受け入れられること。その感覚さえあれば、雨を染み込ませる大地のように、こころはいつまでも世界からの美しさという恵みを享受できるような気がしています。
さて、音楽から遠ざかった場所にいたのですが、久し振りに週末にCDショップで試聴して音を漁ってきました。
ブログを書くときもそうですが、現場から離れていると、感覚を取り戻すのに時間がかかります。最近ほんとうに音楽を聴いていないので、ちょっと当惑しました。なんとなく1曲聴いてはどうもなあ、また1曲聴いてなんかなあ・・・と時間をもてあましていたのですが、そのうちにやっとぼくの感覚にひっかかってくる2枚をみつけて購入しました。
まず1枚目は、School of Seven Bells。インディーズとポストロックのコーナーでみつけました。双子の女性+男性というユニットのようです。マイブラ(マイ・ブラッディ・バレンタイン)のシューゲイザーを思わせる雰囲気とともに、どこか中近東(?)のような雰囲気を感じさせる。けれどもポップです。双子のコーラスが気持ちいい。
Alpinisms スクール・オブ・セヴン・ベルズ アート・ユニオン 2008-10-29 by G-Tools |
映像ではなくて静止画に音を入れただけですが(苦笑)、YouTubeから「Half Asleep」を取り上げてみます。逆回転風のノイズの処理など、もろに好みです。ヴォーカルの甘いハーモニーは、個人的にはAu Revoir Simoneを思い出しました(感想エントリはこちら)。楽曲の肌触りはまったく違いますが。
■School of Seven Bells - Half Asleep
そして2枚目は、まったく違うジャンルで、菊地成孔さん。今年の夏に行われたダブ・セクステットのライブです。これ、かっこいいなあ。iTunesで購入しようかと思っていたんですが。
イン・トーキョー | |
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エッジが際立っていて、思考の明晰さのようなものを音に感じました。都会的ですね。などと書いてしまうところがジャズに対しては田舎ものなのかもしれませんが。ディレイや電子音のようなものが、こんなにジャズに溶け込むとは思いませんでした。でも、たぶん嫌がるひとはいるかもしれない。
以下、YouTubeから。ピアノの音をぶつ切りにして連続再生したようなノイズも、演奏に違和感なく溶け合っています。
■菊地成孔DUB SEXTET - Monkey Mush Down
それにしても、どちらのCDも紙ジャケットなのですが・・・貧弱になったなあ。その分コストも下がっているのかもしれませんが、ダウンロード販売が主力になっていく影響を感じました。一方でYouTubeのほうは、高音質・高画質になっている気がしました。
ところで、読書のほうも盛り上がりつつあります。といっても乱読状態です。
つまみ読みのようなことになっていますが、いま集中して読み始めたのは水村美苗さんの「日本が亡びるとき」です。梅田望夫さんのブログのエントリ絡みで知った本ですが、とても面白い。こんなことを書くのは失礼だけれど、文章がうまいですね。そして何よりもきちんとブンガクに向き合っている姿勢が伝わってきて、ぼくの思考というか志を刺激します。
日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で 水村 美苗 筑摩書房 2008-11-05 by G-Tools |
忘れてしまわないようにメモしておくのですが、水村さんの文章のうまさは、その明晰さと少しユーモラスなところにあると思います。これはなぜかと考えたのですが、水村さんが少女時代にアメリカで過ごし、しかし、部屋に閉じこもって日本の文学全集ばかり読んでいた、という稀有な体験に根ざしているのではないでしょうか。この体験は、ロンドンに留学しつつ精神を病んでいた漱石に重ね合わせることができそうです。また、外国文学に傾倒して自ら翻訳もする村上春樹さんに通じる姿勢でもあります。
水村美苗さんの文章のうまさは、英語の論理的な明晰さを骨として、日本語の芳醇な意味の広がりを表現として獲得している、「二重言語」にあるのではないかと考えました。ふたつの文化が交じり合っているところで書かれている。日本の読者のトレンドにウケる表現に媚びているところもないし、かといって文壇に引きこもって偉ぶるようなところもない。このひときっとブンガクを愛しているんだな、ということが伝わります。
文化を語るとき、ある領域内における文化を語るのではなく、複数の領域を横断した視点で語ると、その言葉に思考に幅や新たな視点が生まれます。アメリカと日本を横断する比較文学のような視点もそうかもしれないし、文系と理系の思考を横断することもそうでしょう。また、男性と女性の視点を合わせもつことも同様であるし、もっと突き詰めると自己と他者における限りない往復も然り。それがぼくらの思考や言葉を豊かにしてくれます。
ということから、ぼくも自分を突き詰めるにあたって、垂直的に自分の関心を掘り下げるとともに、水平的にジャンルを横断して、たとえばジャズとポストロック、純文学とビジネス書など分野にとらわれないやわらかさと奔放さで、いろんなことを吸収していこうと考えています。
音楽と読書が面白くなってきました。あとは、映画ですかね。備忘録的に書き連ねてみました。
投稿者 birdwing 日時: 23:48 | パーマリンク | トラックバック
2008年11月28日
揺れる、まなざし。
目を見て話しなさい・・・と子供の頃によく言われたものでした。そんなことを親や先生から言われた経験のあるひとも多いと思います。でも、見れなかったなーぼくは。なんだか恥ずかしくて。
コミュニケーションの観点から、あらためて誰かの目を見て話すことの意義について考察すると、次の3つを挙げることができそうです。
- あなたの話を聴いていますよ、という「意思表示」。
- 話している相手の表情をしっかり読み取り、たとえば怒りの色がみえたら、適宜話題を変えるなど軌道修正するための「相手の情報収集」。
- 心の窓である目を開くことで、嘘偽りがない「誠実さの証明」。
さて、大人になったいま、子供たちを叱るとき、パパの目を見なさいっ!と自分のことは棚に上げて言っている自分がいます。でも、遺伝子のせいか、やはりきちんと見ることができないですね、うちの子たちも。
特に長男くんは幼稚園の頃、目を見なさいっと言われると、逆に、ぎゅううっと瞑ってしまった。頑なにこちらを見ませんでした。反抗的な態度に思えてむかっとしたのですが、いつもと違う父親が怖かったのかもしれません。でも、どこか自分の殻にこもってしまう感じがして、このまま大きくなったら自閉的な子供になってしまわないか、叱る親のほうが心配だったことを覚えています。いまでもその不安はなくなったわけではないですけどね。
次男くんはそれほどでもないのですが、目に関していうと、ウルトラマンシリーズに出てくるガンQというひとつ目の怪獣が好きです。趣味わりーというか、気持ち悪いのであまりぼくは好きじゃなかったのだけれど、ソフトビニールの人形はお気に入りでした。ポケモンも、やはりひとつ目でアルファベットの形になっているアンノーンが好きらしい。彼はひとつ目好きです。
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どうでもよいことですが、ぼくは目がでかいほうです。目が大きくて得したことはあまりありませんが、損したことはありました。以前にもどこかに書いたような気がするのですが、白目の周りに髪の毛がぐるりと一周して入り込んでしまったことがあり、取れなくて困った。ハードコンタクトレンズを入れているのですが、ときどき取れなくなって困ります。目に異物が入ると気が狂いそうになりますね。きっと見えないからでしょうね、目のなかの異物は。
余談ばかり書き連ねてしまいましたが、昨日、アスペルガー症候群についてブログで取り上げながらWikipediaで調べたところ、次のような部分が気になりました。
表情や他人の意図を読み取ることに不自由がないアスペルガーの人もいる。彼らはしばしばアイコンタクトが困難である。ほとんどアイコンタクトをせず、それをドギマギするものだと感じる場合が多い。一方、他人にとって不快に感じるくらいに、じっとその人の目を見つめてしまうようなタイプもいる。相手からのメッセージ(アイコンタクトなど)が何を示すのか、彼等なりに必死に理解しようと努力するのだが、この障害のために相手の心の解読が困難で、挫折してしまうパターンが多い。
ひとと目を合わせない、じっと見つめてしまう・・・と極端なのですが、アスペルガー症候群ではないぼくらにも十分あり得ることではないでしょうか。
ちょうどうまい具合に、WIRED VISIONに面白い記事がありました。「女性と視線を合わせる練習用の日本製DVD『ミテルだけ』:サンプル動画」です。視線恐怖症というか恥ずかしがり屋のひとのために、他人と視線を合わせられるよう練習するDVDらしい(笑)うーむ、なんかさびしい気もするけど、観てみたい。以下、引用します。
このDVDには、真っ白な背景を背に立っている50名の人が収録されている。全員女性だが、それはたまたまだと伊藤氏は断言する。彼らはカメラをじっと見つめ、「帰りたい」「もうたくさん」といった言葉を口にすることもある。
WIRED VISIONに掲載されているサンプル動画はYouTubeの動画なので、ぼくも取り上げてみます。
え、えーと。あのう・・・すみません。女性の方にはヒンシュクかもしれないのですが・・・そのう、どうしてもですね、目をみるというより・・・胸の谷間をみてしまうんですけどー!!(涙)はうー。煩悩から解放されないわたくし。男性にはわかってもらえると思うのですがだめですかー。
そういえば、Webサイトのユーザビリティを解析するツールとして、一時期、アイトラッキングというツールが注目を集めました。少しSFっぽいのですが特別な機械を頭に固定して眼球の動きを測定し、Webサイトのどこを見て次にどこへ目を動かしたのか可視化して分析できるようなツールです。JMR生活総合研究所のコンテンツに非常に詳しい解説がありました。
■見えないニーズを捉える方法
http://www.jmrlsi.co.jp/concept/report/consumption/nv2005-05.html
トラッキング(追跡)された部分は円形のポイントと軌跡が表示されるのですが、目が止まったところはヒートマップと呼ばれるとのこと。じーっと注視したところは赤くなる。「注視点と注視点の間の動きはサッケード (saccade) と呼ばれる」と解説されていますが、その部分では人間の意識は情報をさーっと早送りしているといえそうです。
もし、上記のようなツールを使って先程のぼくが女性の映像をみるときをトラッキングしたら・・・。ちょっと恥ずかしいですね。あからさまにじろじろみるおじさんもいますが、視線のセクハラかもしれない。紳士は煩悩を超越しなければ。しかし・・・はあ、ちょーえつできない。
自閉症のような場合、視線の動きが固定されるのではないでしょうか。だから他者の感情に気付かない。挙動不審のように、きょろきょろ落ち着きなく視線を動かすのもどうかと思うけれど、一点だけ見つめすぎるのもどうでしょう。それに見ているのに見えていないこともあるかもしれません。死角というものもあります。
視覚についていろいろ考えつつ思うのは、最近なんだかちいさな文字が読みにくくなってしまったのですが、できるだけきれいなものを見ていたいものだなあ、ということでした。できれば、ですけどね。
++++++++
■ミテルだけ
http://avex.jp/miterudake/
サイトでは5ページに渡って、登場する50人の女性が紹介されているページもあります。きれいな女性が多いのですが、ときどき強面のひとがいるのが気になります。あと白髪のおばあさんがいたり、外人もいますね。うーむ、おばあさんに見られるのは辛いかもしれない。あんた何してんの!と叱られそうだ。ある意味、にらめっこですな。視線をそらしたほうが負け、という。
投稿者 birdwing 日時: 23:48 | パーマリンク | トラックバック
2008年11月27日
ひとと社会を理解するために。
「ひと」を理解しようと思いました。人間について、いろんな本を読みながら、このブログで考察していきたい、学んでいきたい。そんな意識が高まっています。
といっても、働くおとーさんとしては、家計を支えるために仕事のスキルの研鑽もしなければなりません。直接的にお金を生み出さない「ひと」の研究よりも、資格のひとつでも取得したほうが後々のためには大事なことなのかな、と思うこともあります(といっても、ぼくはこの資格取得が全然ダメなんですが)。
あるいは、ひとについて理解を深めたいのであれば、実際にたくさんのひとに会って話をしたほうがよいかもしれません。安全な部屋に閉じこもって観察や考察するよりも、実際に話したり接しなければ、ほんとうに人間とは何かということはわからないのかもしれないですね。
それはそれで仕事などを通じて別に進めることにしましょう。このブログでは一日の数時間、パソコンに向かいながら本から学んだこと、ネットで情報収集したことから「ひと」について考察し、つれづれに綴っていきたいと思います。
ところで、社会はいま、全体的に何かが病んでいる気がしています。そう感じるのは、ぼくだけでしょうか。どこか人々は疲れているし、何かに追われているような気がしてなりません。そして、おかしな犯罪や事件が多すぎる。社会のどこかが緩んだりズレてしまって、その結果とんでもないことになっている印象があります。警官や教師といわれるひとたちの奇行が毎日のように報道されているし、個人的な動機から人を殺めるような犯罪が多い。なんだかおかしい。
実際にインドではテロが起きてかなしい事態になっていますが、当初はテロリズムと思われていた元厚生次官宅襲撃事件は、「1974年4月に保健所にチロが殺された。その敵を討った」などと容疑者が言及していることから、保健所に殺された犬の仇討ちが襲撃の動機だったというセンセーショナルな報道がありました。得体のしれない脱力を感じました。もちろん原因はそれだけではなく、仕事や同僚とうまくいかなかった苛立ちなどもあるようです。それにしても何十年も前の鬱屈や個人的な苛立ちが人を殺める衝動につながっています。もちろんそんなこともあるかもしれないけれど、やっぱりおかしい。
格差や精神病の問題で片付けてしまうマスコミの報道にも疑問を感じます。報道の在り方については、池田信夫さんがブログで「「意味づけ」の病」というエントリで批判していました。容疑者が統合失語症ではないかという見解を示して、大衆が飛びつきやすい意味づけや過剰な文脈のなかで問題を大きくするメディアの愚かさを指摘しています。部分的ですが引用してみます。
精神異常者はどんな社会にも存在し、彼らは一定の確率で殺人をおかす。その対象が家族であればベタ記事にしかならないが、「秋葉原」や「厚生省」という意味がつくと、メディアが大きく取り上げる。この種の報道は憶測ばかりで、犯罪の連鎖を呼ぶ有害無益なものだ。
確かにメディアの過剰な「わかりやすい」意味づけは、犯罪の連鎖を生む点では問題だと思いました。マインドコントロールや洗脳的な危険性があります。
しかし、池田さんの指摘に疑問を感じるのは、精神異常者のことだから仕方ない・・・で片付けてしまっているようにも読めることです。であれば、マスメディアの安易な意味づけとなんら変わりはない。この論旨もまた本質に迫っていない印象を受けました。
ぼくが問題だと感じるのは、健常者と異常者の垣根がなくなってきているように思えることであり、異常な動機を正当化する犯罪が確実に増えている気がすることです。数値できちんと把握しているわけではなく、ニュースを読んだ感覚でしかないのだけれど、どうも多すぎる。
ひき逃げの多発なども同様ではないでしょうか。殺意の問題ではなく事故なのかもしれませんが(殺意があってひき殺した事件もありましたが)、本来、責任を取るべきものを取らずに逃げてしまうのは、はたして健常といえるのかどうか。責任の欠如というより正常であることの基準や認識が揺らいでいるように思えます。学生の大麻所持もそうかもしれないし、北海道の高校生が修学旅行先のロスで集団で万引きするような行為も同様です。それやっちゃいけないよ、だめだよ、という明確な境界線が消えかかっている。
そんな社会状況を見渡しながら、ぼくがいま不安とともに捉えようとしているのは、心の闇を抱えながら悩むひとたち、あるいはこの過酷な現実生活のなかで、社会という器から零れ落ちてしまいそうなひとたちのことです。
ぼくもまたそんなひとりではあるのだけれど、健常なひとであっても、闇に落ち込むことがないとはいえない。生きにくい世のなかで喘いでいるし、尖ったエッジの上でゆらゆらしながらバランスを取っているような気もします。なぜこんなに生きにくいのでしょう?どうすればもっとラクに生きることができるのか?そのことにきちんと向き合いたい。答えを探したい。
ということを考えつつ本を探したり、情報を彷徨ったりしていたのですが、ひとつの関心事のキーワードとして浮かんできたのは、アスペルガー症候群(高機能自閉症)でした。Wikiぺディアではこちら。
いま読んでいる「僕の妻はエイリアン」は、そんな高機能自閉症の妻を持つ泉さんの日常を描いたもので、なんとなく「妻」の行動はひとごととは思えないところもあります。ほんわかとした文章で紹介いただいているのですが、その理解し合えない日常は想像よりもずっと大変なことでしょう。
僕の妻はエイリアン―「高機能自閉症」との不思議な結婚生活 (新潮文庫) 泉 流星 新潮社 2008-06-30 by G-Tools |
アスペルガー症候群のひとたちは高い知能指数があるのだけれど、コミュニケーション能力に障害があるようです。だから、他者の感情を読み取れない。そのことを比喩的に泉さんは異星人であると表現しています。また、「言葉を額面どおりに受け取る」や「些細なことにこだわる」特徴もあり、言葉を言われたまま受け取るので、まさに先程の比喩表現が伝わりにくいらしい。単純な仕事が覚えられないため、何度も仕事で失敗を繰り返し、その結果、仕事を辞めてしまうひとも多いとのこと。
同類項で括るのは危険だと思うのですが、秋葉原の大量殺人も、元厚生次官宅襲撃事件も、犯人が抱えていたものは孤独という闇ではなかったでしょうか。仕事がうまくできない、同僚とコミュニケーションできない、そんな苦しみが蓄積された結果、ひとを殺める方向に向かってしまった印象があります。
しかし、じゃあ心を開きなさい、外向的になって楽しく生活しましょう、というのもきっと無理な話で、たぶんそういうひとは頑張りたくても頑張れないのではないか。諦観で言うわけではないのですが、障害とまではいかなかったとしても、そういう風にしか生きられないひとたちである、という気がしています。
サカナに地上で堂々と歩きなさい、といっても無理ですよね。もちろん進化の過程で歩き出したサカナもいるかもしれないのですが、水を得たサカナのごとく、水中で暮らせることがサカナがサカナであるゆえんだと思います。心を開こう、明るくなろう、というのは、健常者を気取った傍観者の暴力的なまでに余計なお世話であり、多様性を尊重し、そういうひとが生きられる環境や場所を作ることが社会全体として重要な気がします。もちろん甘えさせる、という意味ではありません。
アスペルガー症候群に関する「僕の妻はエイリアン」を読んでいて共感を得たのは、理解できない異星人のような妻を、毎日の生活のなかで異星人としてそのまま受け入れていく著者の姿勢でした。異星人である妻を正すのではなく、また理解できないことは理解できないときちんと正直に告げながら、そのまま日常の生活のなかで受け入れる。なかなかできないことです。
しかし、アスペルガー症候群は発達障害でもあるようで、成長するどこかの段階で心に圧力がかかって歪むようになってしまったと考えられます。心理学者でもないし、精神病理に詳しいわけでもないけれど、その圧力が何かを知りたいし、圧力に屈しない生き方があれば、それを知りたい。
というわけでなんだか重い話題になってしまったのですが、ブログのテーマのひとつとして設定しながら、いままで考えていなかった領域のことも書いていきたいと考えています。
投稿者 birdwing 日時: 23:12 | パーマリンク | トラックバック
2008年11月26日
自分を究める。
年末に向けて慌しくなってきました。膨大な書類に判子を押したり仕事をしたりプライベートでいろいろ考えたり。ブログの更新が滞っていますが、もしかすると過去に遡って更新することがあるかもしれません。でも、できれば慌しい毎日のなかで、リアルタイムでエントリを書き殴ってみたいと考えています。書きたいことも少しずつ増えてきているし、すぐに忘れてしまうので(苦笑)。
コメントでぽろりさんからご紹介いただいたのですが、本日、次の本を読了しました(ぽろりさん、ありがとうね)。
欲望としての他者救済 (NHKブックス 1121) 金 泰明 日本放送出版協会 2008-09-24 by G-Tools |
久し振りに時間が空いて早めに帰宅できた途中、喫茶店でビールなど飲みながら、昨日のハードな仕事の疲れでうとうとしながら読み終えました。
面白かった。実は、購入してすぐに帰りの電車のなかで読みはじめたのですが、冒頭部分では思わず涙しそうになって困りました。作者である金泰明さんの息子さんの不登校の話に打たれてしまった。しかし、中盤部分の政治に関するエピソードは、ぼくには退屈だったかな。そんな中だるみを経由して、終盤の第4章「欲望としての他者救済」で、ぼくはいろいろと考えることが多くありました。ぱっと目からうろこな感じでした。
この本では、「なぜ、人は困っている他人を見たら手を差しのべてしまうのか」ということを、カントやヘーゲル、ホッブスなどの哲学者、アマルティア・センなどの書物を引きつつ、ご自身の在日韓国人政治犯の救済活動に触れながら深く考察していきます。
ぼくもブログを書くことによって、同じような問題を抱えて悩んでいる誰かを救うことができれば、と考えていました。あるいは、いま自殺しようとしている誰かの手を、言葉によって止めることができるか、ということを考えたこともありました。しかし、その発想は、どこか偽善的な大義、あるいは義務としての他者救済のようなものに絡め取られてしまう印象があります。大きな正義のもとに、何かよそよそしさを感じてしまう。
髄膜炎になった息子のことや家族のあれこれなど、個人的な体験を基盤として考えているつもりなのですが、それは単なるプライベートな自分語りであって、他者のために語られているかというとそうではない。他者を救うために・・・と言ってしまうと、なんだかとんでもない欺瞞があるような気がする。自分が偽善者になったようです。
ブログで他者を救いたい、というような24時間テレビのような発言をしたとき、どこかすっきりしませんでした。そうじゃないのにな、と思いつつ、発言した途端にどこかきれいごとになってしまう言葉に、苛立ちを感じていました。
しかし、この本を読んで腑に落ちたのは、それが自分の欲望に根ざした他者救済である、ということでした。孟子の「惻隠の心」、つまり「困っている他人を見たら、損得を考慮せずに、自分のためではなく自分が得するわけではなくても、自然に体が動いてしまう」という考え方を指摘されて、なるほど、と思うとともに、ヘーゲルの「精神現象学」から引用された次の考え方に、はっと気付かされることがありました。ぼくも引用してみます(P.192)。
自分のために配慮をめぐらせればめぐらすほど、他人に役立つ可能性が大きくなるだけでなく、そもそも個人の現実とは、他人とともにあり、他人とともに生きることでしかない。個人の満足は、本質的に、他人のために自分を犠牲にし、他人が満足するように手助けする、という意味を持つ(ヘーゲル『精神現象学』)。
これだな、と思いました。しんどい状況にありながらぼくがブログを書きつづける原動力も、こんなところにあるのかもしれません。よりよく自分を生きること、自分の考えを深めることによって、それが他者のためにもなる。最初から、他者のために何か・・・と思うのではありません。まず、自分を救済する。自分さえ救済できないひとが他者を救済できるわけがない。
他者を救いたい、という大義から発想すると、どこかステレオタイプな借り物の言葉になります。けれども弱い自分や、自分のなかに存在する闇に徹底的に向き合い、どう生きていくか、どう課題を解決していくか、ということを考えつづけたなら、それが他者にとっても何よりも有用なアドバイスになる。
そもそも他人を変えたい、救済したい、というのは、とんでもない傲慢な考えですよね。あなたは神か?と思う。他人には他人の信条があり、いままで培ってきた生活があり、親族や会社や仲間など複雑に絡み合った文脈がある。そこにいきなり、あんた間違ってるよ、こうしなさい、救われるから、というのは、余計なお世話にすぎない。あなたのことを考えてアドバイスしているのだ、と言えば言うほど、押し付けがましくなる。
他者は変えられない、むしろ尊重すべきものだと思います。けれども、自分は変えられる。そして、変わっていく自分を誰かにみせることで誰かが変わるとすれば、それが他者を救済したことになるのではないか。つまり、触媒として他者に機能させることが「私」の限界であり、他者が変わるとすれば、自分で自分を変えるしかない。他者である「私」は、ひとつの参考(モデル)として、あるいは他者を変えるための触媒として、少し距離を置いた場所から変わっていく他者を見守ること。それが他者を尊重し、ほんとうに変わりゆく他者のためにもなることだと思います。
自分を究める(探すではありません)と、そのことを通じて他者を理解できるようになるのではないでしょうか。自閉的に、あるいはナルシストとして自愛に閉じこもることではなく、徹底的に自分に向き合う。その突き抜けた向こう側には、自分だけでなく他者も見出せるはずです。そのときに、ひとは自律できると思うし、かつ他者とも共存可能な自分を発見できるような気がします。
自分の痛みがわかれば、他者の痛みもわかる。自分のよろこびがわかれば、他者のよろこびもわかる。使い古された社会通念や常識の枠組みの言葉ではなく、自己の体験や感覚に根ざした(ほんとうに個人的な)思考や感覚を見出せば、それはどんなものよりも説得力があるし、生々しい感覚を誰かに与えることができる。そのことによって誰かの心を動かすこともできるかもしれません。
まず、自分を生きろ、ということでしょうかね。と、なんだか難しくなってきましたが、詩人の語る言葉はもっとやさしくて心を打ちます。実は、読みかけの本が10冊ぐらいたまっているにも関わらず、本日、谷川俊太郎さんの「質問箱」という本を買ってしまいました。
谷川俊太郎質問箱 江田ななえ 東京糸井重里事務所 2007-08-08 by G-Tools |
そのなかから、恋愛に関するふたつの質問と谷川さんの答えを引用します。他者との関わりを考えるときに、恋愛はわかりやすいですね。そしてここで谷川さんが語られていることも、実は自分に向き合うことの重要性ではないかと思います(P.24/P.58)。
質問七
どうして「この人がいちばん。いちばん好きだ!!」と
思う気持ちは終わってしまうんでしょうか?
なんで好きじゃなくなっちゃったんだろうー!!
自分でもわからーん!!
(gold 二十九歳)
谷川さんの答
「わからーん」と思う気持ちが大切です。
どうして、どうしてと自問し続けることが、
たとえ答えはなくとも
新しい恋を
豊かなものにしていくのではないでしょうか。
衣食住どれをとっても
人はひとりでは生きていけません。
人間は群棲動物ですから、
性を離れても他人を必要とします。
その対象が異性であれ同性であれ、
他人を好きになることのうちに
人間社会の基本構造があると思います。
恋のうちには友情も同志愛も含まれているもんね。
質問二十一
世界でいちばん大事でいちばん好きで
愛してるダンナ様がいるのに
職場で素敵な男性に出会ってしまうと、
すぐ恋をしてしまいます。
・・・・・・といっても、いつも誰にも言わないし言えない、
密かな片思いです。
その人とたまに出会って話すだけで十分満足なんですけど
いつか自分が暴走しちゃうんじゃないかって
妄想して心配したり、
そんな心配をする自分が不潔な気がして落ち込んだり、
いい大人なのに、なんだかぐるぐるして
アホみたいなのです。
「人は死ぬまで恋をする」って
聞いたことがありますけど、
こんなに恋ばかりしてたら
いつまで経ってもどこか落ち着かない
ふわふわした大人のまま
おばあさんになってしまいそうで心配です。
どうしたら、恋しやすい心をおさめることができますか?
どうしたら、ダンナ様だけを見つめて
暮らすことができますか?
(ゆん 三十八歳)
谷川さんの答
一人が一人を愛し続けるというのが
愛の理想だとは思いますが、
一人が二人を(あるいはもっと多くを)
それぞれのしかたで愛し続けるということも、
人間には不可能ではないと思います。
ただそれには
いまの社会が建前として合意している価値観
(たとえば「ダンナ様だけを見つめて暮らす」というような)
を超える価値観を、
他人に頼らずに自分で我がものとしなければなりません。
一夫一婦制の外に生まれた愛を
浮気とか不倫とかいう決まり文句で捉えていては
何も始まらない。
「不潔」「暴走」「妄想」という言葉で分かりますが
あなたはきっとまだ本当に恋なんかしていないし、
本当にダンナ様を愛してるのかどうかも疑わしいね。
誰かが誰かを好きになるということは、
生きていく上でいちばん大切なことだから、
自分の気持ちを恥じずに、もっと深く突きつめて
新しい自分を発見してください。
詩人の言葉は弾けていますね。しかしこのぶっ壊し方がなければ、詩というものも生まれないのでしょう。
自分を突きつめること。社会通念にとらわれないモノサシと、考え方を持つこと。なかなか難しいことではあり、社会のなかで揺らぐことではあるのですが、恋に限らず、そんな自分を究めた人間は、ほんとうに他人を変えるぐらいの生き様ができるのではないでしょうか。
究めてみたいです、自分を。
投稿者 birdwing 日時: 23:59 | パーマリンク | トラックバック
2008年11月13日
賢者は何を選ぶか。
ほとぼりが冷めた頃に考察するのですが、梅田望夫さんがご自身のブログ「My Life Between Silicon Valley and Japan」で水村美苗さんの「日本語が亡びるとき」という本について書評を書かれています(梅田さんのエントリーはこちら)。ぼくも、この本は読んでみたいなと思いました。
日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で 水村 美苗 筑摩書房 2008-11-05 by G-Tools |
しかしながら、はてなブックマーク(以下、はてブ)で、梅田さんのエントリをあざ笑うかのような懐疑的なコメントがつづいたようです。ありがちなことだなあ(苦笑)と思いました。
ネガティブなコメントにうんざりした梅田さんがTwitterで、はてブのコメントにはバカなものが多いと批判したことにより、ついにブログが炎上。J-CASTニュース「梅田望夫、はてブ「バカ多い」 賛否両論殺到してブログ炎上」で読んで、久し振りにネットの在り方について考えさせられました。
梅田望夫さんのTwitterにおけるつぶやきを引用します。
「はてな取締役であるという立場を離れて言う。はてぶのコメントには、バカなものが本当に多すぎる。本を紹介しているだけのエントリーに対して、どうして対象となっている本を読まずに、批判コメントや自分の意見を書く気が起きるのだろう。そこがまったく理解不明だ」
うーむ、同感。その通りだと思います。
中学生の頃に本を読まずに読書感想文を書いて、しかもその感想文が先生に絶賛されて後ろめたい気分になったぼくは、少年時代をはるかに遠く過ぎ去ったいま、不誠実な自分を反省してきちんと本を読んでブログで感想を書こうと思っているところです。だからこそ痛切に感じるのだけれど、読んでから書け、というのは、まさにその通り。誠実じゃないよな、読まずに書くのは。作者にも、本にも、そして感想を読むひとにも失礼です。
それから某アルファなブログで、せっかくブロガーがいいことを書いているのに、訪問者がエントリとは関係のないくだらない自説を延々とコメントで展開している様相をみたことがあり、あまりのコメント欄の愚かさに脱力したことがありました。だから梅田さんの憤りはわかる。
最近、茂木健一郎さんとか梅田望夫さんの書物には新しさや惹かれるものがないので遠ざかっていたのですが、この発言における梅田さんの男気というかストレートな物言いにぼくは好感を持ちました。いいこというじゃん。
ただ、考察すべきポイントが多々あります。この梅田さんの発言はOKだとしても、OKではない発言があると思いました。たとえば次の3通りの発言について考えてみます。
a. はてぶのコメントには、バカなものが本当に多すぎる。
b. はてぶには、バカなコメントは書き込まないでほしい。
c. はてぶのコメントから、バカな発言は削除すべきだ。
a.については○だとしても、ぼくはb.とc.については×だと思うんですよね。というのはネットにおける発言の自由を奪うのではないか、と考えるからです。
YouTubeに関しても、問題コンテンツを掲載するgoogleを批判した似たような指摘のニュースがあったように記憶しているのですが、ブログにしてもソーシャルブックマークのコメントにしても、ネットのサービスは入れ物を提供するだけであって、(個人のブログを土足で踏みにじるようなコメントは別として)一般に開かれているサービスには、基本的に何を書き込もうと自由ではないでしょうか。書き込むな、削除しろ、とはいえない。
しかしながら、いまぼくは性善説的なスタンスから理想論を述べています。常識的なモラルがあれば、あまりにも酷い発言はしないだろうという楽観主義から語っているわけで、誹謗中傷、差別、ひとを殺める予告などは当然いけません。法で取り締まるべきでしょう。
最近、仕事や人間関係のイライラという個人的な欲求不満から、どうせみつからないだろうと軽く考えて掲示板などにとんでもない発言を書き込んで逮捕されるひとも増えていますが、言っていいことと悪いことがあります。子供にはわからないかもしれません。だから大人が指導しなければいけないとは思うのですが、成人したよい大人が分別もなく酷いことを書き込むのは大問題です。
そもそも一国の総理大臣や官僚が問題発言をするぐらいなので、国民の口がすべて緩んでいるような気もします。慎みましょう。さらに問題なのは、明らかな問題発言よりも、法律では取り締まることができないような言っていいことのようだけれど悪いこと、なんですけどね(このびみょうなニュアンスが伝えにくい)。
一方でぼくは、入れ物(器)としてのはてなブックマークについて、機能的な愚かさもきちんと考えるべきではないかな、と思いました。というのは、設計思想に問題がある。
ブックマークしたついでに覚え書きとしてメモをする。そんな個人的な用途のためにコメントが書き込めるような機能が追加されたのではないかと思います。であればコメントを公開して共有する必要はないんじゃないか。いや、あれは集合知なのだ、たくさんのユーザーの感想があるからいいんだ、他者のコメントを参考にできるのがいい、という考え方もあるでしょう。
しかし何かを論じるとき、1行程度の限られたスペースできちんとした批判を論じられると考えること自体がおかしいですよね。あの狭いコメント欄に何か書こうとすると必然的に思考の一部を切り取ることになるわけで、思考の過程や背景を排除した極論になる。
脊髄反射的な思いつきばかりが書き込まれ、したがって感情論になりやすい。だいたいきちんと何かを述べようとするならば、自分のブログで論理的に自説を展開してトラックバックすればいい。すべての利用者がそうだとは思いませんが、トラックバックする勇気もなく、ひょっとすると自分のブログさえ持っていない、ブログも書けないようなひとが匿名で無責任なまま、はてブを利用している。プログラマーであれば終わらない開発作業のストレスを解消するために、仕事の合間に酷いことを書いて溜飲を下げている。愚痴を吐き出すには格好の場所です。集合知というより、ストレス発散の場所となっている。愚かなコメントが増えるのは当然でしょう。
あの場所に賢さを求める梅田さんがおかしい、というのも正論。そんなチープなサービスが梅田さんが理想とするような知になるかどうかもあやしい。せいぜいラクガキ程度の知になればよいほうで、文化の一部にはなるかもしれませんが王道にはなり得ない。ただの一行コメントに、過大な夢を抱いちゃいけません。
はてなは、あのサービスを設計するときに、ブックマークにコメント欄つけちゃったら便利だろう?ぐらいの安易な発想しかなかったのではないかな。グランドデザインのないままに作ってしまった思想のない技術とサービスが魑魅魍魎としたコメントを呼んでいるわけで、作ってしまったはてなにも責任がある。何やら新しいはてブもリリースしたようですが、結局のところ小手先でいじりまわしているような印象が否めませんでした。「お気に入られ」という機能にも首を傾げました。あってもいいけど、どうでもいいような気がする。というよりもぼくは、正直なところ、はてブに何も価値を感じていないんですけどね。
賢者を気取るつもりはありませんが、愚かではありたくないと思っています。そして、きれいなものだけで構成されているのが世界ではなく、邪悪なものも、汚れたものも世界には存在する。そのことは理解しておきたい。
リアルな都市においても同じでしょう。たとえば新宿には整然としたオフィス街もあれば、けばけばしいネオンに彩られた欲望の坩堝もあるわけで、ネットも同様、正しき場所もあれば悪しき場所もある。人間の作り出すものは、そういうものです。ぼくは悪しき場所が悪いとは思いません。清さも濁りも世界の一部であると受け止めていたい。濁りを排除して清さだけを求めるのも愚かであると思うし、逆に濁りのなかで安穏として清さに唾を吐くのもどうかと思う。
ただ、賢者であるためには
あやしげな場所には近づかない
ということが大切ではないかと思っています。
ときには魑魅魍魎的な不健康さに身をゆだねてみたいと思うこともあるけれど、その不健康さに蝕まれたり過度に依存するようであれば、距離を置くような判断力ならびに抑制力をつけたい。自分が弱い人間であることをきちんと認識して、だからこそ自分を大事にする。破滅的な何かにとらわれないこと。弱いがゆえに、弱さに依存しないこと。
要するに、こころを乱されるようなものには近付かない、見にいかなければいい、ということです。ぼくも、一時期は流行に流されて、はてブを使っていたのですが、これって愚かだなあ・・・と気付いてからは利用をやめました。
だいたい、ブックマークの数を大喜びしているようなブロガーもとんでもない愚かだと思っています。というのは、実はブクマで嘲笑されていたり、大量のブクマを付けることだけに喜びを見出すようなひとが、内容を読まずになんとなく付けて忘れ去られているだけのことも多い。個別の内容を無視して、数だけで大喜びしているのは愚の骨頂だとぼくは思います。むしろ、たったひとりのひとに共感と支持をいただけるほうが、どれだけうれしいか。
さて、ぼくが賢さについて考えるようになったのは、次の本を読んでいるせいかもしれません。
賢く生きる智恵 (East Press Business) Baltasar Gracian 野田 恭子 イーストプレス 2007-08 by G-Tools |
十七世紀に書かれた内容のようです。正直なところ、こういう本には眉唾なものが多く、全面的に信じるのはどうかと思う。しかし、きれいごとだけではなく、ときには裏技であったり、手を抜いたり、悪の視点から処世術についても書かれています。いろいろと考えさせられることが多くありました。
類は友を呼ぶ、といいますが、愚かな発言をしていれば愚かな魑魅魍魎を呼んでしまうし、清らかな言葉を使っていれば、その言葉に共感する仲間が集まる。どちらがよいかというと・・・ぼくは後者ですかね、いまのところ。
投稿者 birdwing 日時: 06:02 | パーマリンク | トラックバック
2008年11月11日
時間のしっぽ、情報のしっぽ。
あぁ、見逃したと思いました。テレビ番組ではありません。時計です。
11月11日11時11分11秒。1が10個並ぶ時間を見逃した。もちろんアナログ時計では醍醐味がなく、デジタル時計でしか確認できません。だからどうだ、ということはあるかと思うのですが、1が10個ですよ?大晦日に零時の鐘とともにジャンプして、おれ今年のはじめには地上にいなかったもんね、と言うのと似ている気がしますが、なんとなくこういう瞬間風速的に意味のある時間に対して無駄に拘りたいのですがどうでしょう。どうでもいいですかそうですか・・・(泣)。
ジンクスに拘るほうではありませんが、ふと時計を眺めて時間が555であるとファイズだ(注:仮面ライダー555ファイズという番組がかつてありました)と思う。そんなちいさな楽しみがあります。一時期は夜中に目覚めて時間を確認すると、4:44ばかりのときがあり、そのときはユーウツでした。目が覚めてしまったけれどまさか・・・と思って時計をみると、必ず4が3つ並んでいる。寿命が縮みそうな気がして、布団のなかにもぐり込みました。そんなことないのだけれど。
逆に書店で本を購入して、777円だったりするとうれしいですね。税抜きで740円の商品は777円になります。お買い物上手のひとは試してみてはいかがでしょう。そのレシートを財布に入れておくと、お金が貯まるかもしれません(保障はできません)。
地下鉄の駅で配布しているフリーペーパー「metropolitana」に「時間のしっぽを追いかけて」という特集があり、興味深く読みました。時計職人であるとか、時間に関連する仕事とともに、時間についての考察が書かれています。公式サイトは以下になります(サムネイル画像は、最新号のもの)。
■metropolitana
http://www.metropolitana.jp/
しかしながら、いまブログを書こうと思ったらどこかへこの雑誌を紛失してしまった。そんなわけで記憶を辿りながら内容に触れるのですが、時間というものは人間の外部の時間と内部の時間があり、内部の時間については長さが決まっていない、長くなれば短くもなるということが書かれていました。
つまり、時間の流れに集中すると長くなる。これは授業で終りまであと何分・・・と時計ばかり眺めていると、時間が長く感じるということだと思います。また、場所の広さと時間も関係があり、広い空間のなかにいると時間は長く感じるそうです。宮殿などでは、広い空間のせいでゆったりと時間の流れを感じるため、気持ちも優雅になるのでしょうか。
ところで、時間旅行(タイムトラベル)といえば、昔からSFやファンタジーでは取り上げられるテーマでした。
よく知られたところでは、スピルバーグ監督の「バック・トゥ・ザ・フューチャー」三部作かもしれませんが、日本では筒井康隆さんの原作による「時をかける少女」でしょうか。大林宣彦監督の映画のほか、テレビのシリーズやアニメーションにもなりました。ぼくはどちらかというとNHKの少年ドラマシリーズの「タイムトラベラー」の印象が強いのですが、ラベンダーの香りで誰もが過去にトリップするのであれば、富良野のひとはどうなるんだ?と、どうでもいい心配をしてしまう。
時間旅行の作品には、まだ何かあったな、なんとなく引っかかっているな・・・と記憶のなかを探りつづけて、思い出したのが「タイムトンネル」でした。幼少のときに観たのでストーリーも何もわからなかったのだけれど、白と黒のおどろおどろしいトンネルがあって、そのなかを潜ると時間を旅することができる。スタートレック(宇宙大戦争)と並んで、うちの親父がよく観ていたテレビ番組でした。
いろいろと探していて、みつけました。英語サイトですが、これだ。
■The Time Tunnel
http://www.iann.net/timetunnel/
うーん懐かしい。ひょっとしたら記憶の間違いかな、とも思っていたのですが、目的のものを探し出すことができてみょうな達成感があります。すっきりした。時間について考えているうちに、記憶の古い地層に眠っていたテレビ番組を掘り起こしてしまいました。
ぼくは忘れっぽいので、過去のあれこれを明確に覚えていません。記憶が明解であればモノシリとして尊敬もされたりするかもしれないのだけれど、ほんとうに過去のディティールに弱い。その忘れっぽさは弱点でもあるのですが、ときには忘れっぽいがゆえにしあわせでもある。ただ、何かをきっかけとして鮮明にそのときの風景が蘇ることがあります。ラベンダーの香り、というわけではなく、ある種の言葉であったりするのですが、封印された記憶をずるずると引っ張り出すきっかけとなる何かがあるようです。
記憶に関していうと、インターネットですべての情報を管理できる現在では、雲(クラウド、つまりネット)の向こう側へ記録を放り込んでしまえば、個人はきちんと覚えている必要がありません。インデックスとして、情報のしっぽさえ握っておけば、「ええと、去年の11月11日にはどうしていたっけ?」ということもデータのアーカイブから引っ張りだすことができる。脳内に貯め込んでおく必要はなくて、記憶の領域だけ、外部のブレインであるネットを活用できる。
ブログの次にくるのはライフストリーミング、ということが言われたこともありましたが、ライフストリーミングはあらゆる生活の断片を記録していく試みです。写真・動画やブログやネットからクリッピングした情報などを、時系列に沿ってどんどん投稿していく。日記の進化系のようなスタイルでしょうか。TwitterやFlickrなどのコンテンツを統合して、ユーザーが生活のなかでキャッチしたものを記録し、SNSのようにコメントなどでつながっていきます。
日本では、ソニーからライフストリーミングサービスの「Life-x」が本日、正式に公開されました。
■Life-x
http://www2.life-x.jp/
こちらはYouTubeからコンセプトのビデオ。
膨大な自分史という感じもしますが、今日の昼ご飯や服装を記録しても面白いかもしれません。数日でおしまい、という三日坊主であれば物足りないけれど、10年ぐらいつづけば、社会や文化の記録としても価値がある。個人的な法則性もみつかるかも。
時系列のシークエンスについては何度かブログにも書いたのですが、音楽も時間に沿って流れるものであり、言葉も基本的には時間軸に沿って読まれていくものです。さまざまなことに追い回されて時間がないのですが、時間とは何かについて思いを巡らせてみました。
投稿者 birdwing 日時: 23:59 | パーマリンク | トラックバック
2008年11月 9日
[DTM作品] 枯葉の絨毯。
人間の身体のなかにも音楽があるのではないか、ということを考えたのですが、いちばんわかりやすいのは心臓の鼓動、つまりリズムでしょう。赤ちゃんの場合は速く、大人になるとゆったりと遅くなる。同じひとであっても、緊張しているときには速くなるし、落ち着いたときにはゆったりと遅くなる。生きている人間であれば、必ずこのリズムが体内で刻まれているわけで、メロディやハーモニーよりもまずリズムがある。
検証したわけではないのですが、ぼくが趣味のDTMで作る音楽のリズムは、いつでもほぼBPMが100あたりのテンポであり、これがぼくの鼓動の速さ、あるいは身体に適したテンポなのかもしれません。
ぼんやりと休日にSONARのソフトに向かいながら、このリズムを変えられないか、と思ったのですが、なかなか難しかった。そこで今回は拍子を変えようと思いました。3拍子、つまりワルツに挑戦です。考えてみると3拍子の曲を作ったことがありませんでした。盲点でした。
ところで、3拍子、ワルツといってぼくが思い出すのは次の2曲でしょうか。ビル・エヴァンスのワルツ・フォー・デビィ、そしてエリック・サティのジムノぺティ。
■Bill Evans - Waltz For Debby
まずビル・エヴァンスのワルツ・フォー・デビィをYouTubeから引用してみました。ジャズの入門者用の曲だとは思いますが、学生時代に某鎌倉に住んでいる友人に薦められて輸入版のレコード(CDではない)を購入し、毎日聴いていた覚えがあります(ということを何度かブログに書いたなあ)。冒頭のやさしいピアノの雰囲気と、ベースのソロがいい。この映像はアルバム収録のテイクよりテンポが速めのような気がします。
つづいてサティですが、埋め込み不可なのでリンクで引用します。
■Aldo Ciccolini plays Satie (vaimusic.com)
http://jp.youtube.com/watch?v=Lvqoqjwfv-c
サティのジムノぺティは、よく耳にする音楽です。具体的に例を示せないのですが、映画やCMのなかで使われることが多いように思います。明るさと翳りが混在したような静かな音楽で、ぼくがこの曲を聴くと、なんとなく陽光が降り注ぐ図書館の窓際の席を思い出します。光のなかで埃がふわふわ浮かんでいる。何かのレポートか課題に取り組まなければならないのだけれど、手つかずのまま、まったりと埃を眺めている、そんなイメージです。なんでしょうか、この特定されたイメージは(笑)。
そのほか、ボーカル入りの曲では、キャロル・キング(The City)のSnow Queen、ビートルズでは途中で拍が変わりますがLucy in the Sky with Diamondsなどが3拍子です。
というわけで今回は、3拍子、ワルツという限定したスタイルから制作してみたのですが、イメージしたのは冬の公園の散歩でした。そろそろコートが必要な季節になりましたが、コートに手を突っ込んで、冬の公園を歩く。枯葉が敷き詰められていて、歩みにしたがってかさかさと音を立てる。葉の落ちてしまった木々からは青空がのぞいていて、風はあまりない。ときどき鳥の鳴き声が聞こえて、遠くに雲はふたつばかり浮いている。
というわけでワルツ(3拍子)に挑戦した曲をブログで公開します。タイトルは「枯葉の絨毯。」としました。
■枯葉の絨毯。(3分4秒 4.21MB 192kbps)
作曲・プログラミング:BirdWing
あらためて聴き直して、いつになくまとまっていない印象です。反省。まあ、挑戦したので無理はあるのですが。
DTMをはじめた頃には、イントロ・Aメロ・Bメロ・サビ・エンディングなどのようにきっちりとした構成の曲を作っていたのですが、最近はインストのせいかどうでもいい傾向があり、しかも同じコードの繰り返しで最初から最後まで作ってしまう横着ぶりです。しかも制作途中の思いつきで変わっていくので、同じようなコードでありながら最後にはびみょうに異なっていることもある。
SONARでTTS-1というソフトウェアシンセだけを使っています。けれどもベースは、ジャズに使うようなアップライトのベースのプリセットにしました(ビル・エヴァンスの映像で左側で弾いているひとのようなベース)。本物のような音を出すことはできないのですが、なぜかこのベースの音を聴くと、ぼくは枯葉を思い出します。弦が振動するときの乾いた感じから連想するのかもしれないし、枯葉という名曲がジャズにあるからかもしれないのですが、色彩でいうと、ぼくにとってのジャズはどうしてもセピアなんですよね。共感覚の持ち主ではないから、そんなに鮮明ではないのですが。
そういえば、バンドでベースを弾いていた頃には、エレキのアップライトのベースをとても欲しかった時期がありました。フレットレスなのでかなり高度な技術が求められるため、ぼくには無理そうな気がするのですが、やっぱりかっこいい。キリンのラガーというビールの宣伝で、いかりや長介さんが弾いていて、かっこいいなあと思いました。YouTubeからの映像です。
渋い。ああ、こんなおじいさんになりたい(笑)。というかビール飲みたい。最近は、安いので発泡酒(キリンのストロングセブン)なんですけどね。
というわけで、ぼくが作る趣味のDTM作品の志向性は、ジャズなのかポップスなのかエレクトロニカなのか、デジタルなのかアコースティックなのか判別できないような音楽に足を踏み込んでしまったようです。それらのジャンルのいずれでもなく、一方でいずれでもあるような感じがします。これだ!と自信をもっていえるようなものではないけれど、この音楽は紛れもなくぼくが通過してきた音楽の延長にあり、ひょっとすると混沌とした光とも闇とも判別できないものが自分ではないのかな、と。
この混沌のなかから、いつしか自分らしい何かが生まれてくるといいのだけれど。そんな期待と不安を抱きながら、自作曲を聴いて考えています。
投稿者 birdwing 日時: 10:49 | パーマリンク | トラックバック
2008年11月 8日
音の謎に迫る。
ビートルズのA Hard Day's Nightといえば、冒頭のジャーンという音が衝撃的です。長いあいだギター少年を悩ませてきたのは、どうすればこの音が出るんだろうか?ということだったのではないでしょうか。ぜったいにひとりでは出せない。しかし、バンドで、せーの!で弾いたとしても何かが違う。もどかしい。
なかなかよい映像とサウンドがなかったのですが、YouTubeからライブの映像を引用します。
■A Hard Day's Night
数万円出せばデジタルの多重録音機材が買えてしまう現在では、あとから何か音を重ねたのではないか、ということを考えるのですが、当時は4トラックのマシンを使っていたようです。だから、それほど簡単に音を重ねられない。とはいえ録音されたものである以上、音の構成が解明できれば、あのじゃーんが再現できるはずです。
いま手元に「ビートルズ・レコーディング・セッション」という本があります。
ちなみに背景にあるのは、ぼくのへフナーのバイオリンベース(本物。でも弦を張ってない。苦笑)です。ビートルズのポール・マッカートニーに憧れてつい衝動買いしてしまった一品でした。社会人バンドをやっていた時期ですが、当時勤めていた会社で、業績がよくて手渡しで貰った特別賞与で買いました。
その本の1964年4月16日の記録には次のように書かれています。ちょっと長いのですが、引用します(P.47)。
"A Hard Day's Night"というフレーズの生みの親はリンゴだった。ある日彼は、長い一日を終え、誰かに"It's been a hard day(忙しい一日だった)"と言いかけて、もうとっくに夜になっているのに気付き、そのあとに"'s Night"をくっつけたのである。このころ、ビートルズの映画はほとんどできあがっていたが、まだタイトルが決まっていなかった。そんなときにリンゴがふと口にしたこの言葉が、映画の雰囲気にぴったりだったので、正式なタイトルとして採用され、4月13日にプレス陣に公表された。これによってレノンとマッカートニーは、今までになかった類の難問を抱え込む。つまり、すでにタイトルが決まっている曲を書かねばならなかったのだ。しかし彼らは、例によってこれを軽くクリアし、数日で曲を書きあげた。そして4月16日、ビートルズはこの曲のレコーディングのためアビィ・ロードを訪れる。
まずはタイトルの由来とレコーディングの進行ですが、ドラムスのリンゴが何気なく口にした言葉がタイトルになってしまったんですね。映画を観ると、最初からそのタイトルと曲があったような印象ですが、レノン・マッカートニーはタイトルから曲を作ったとのこと。それであの曲ができてしまうのは驚きです。
プロは制限のなかで最大の仕事をするものだと、ぼくは思っています。たとえば、コピーライターであれば、指定された文字数の最後まできっちり書くとか、あと5分でコピー20本、という時間内で最高のものを提出する。そういう意味では、レノン・マッカートニーはアーティストであると同時に、当然のことながらプロのクリエイターでした。だからこそ商業的にも成功した。
ビジネスではちいさな約束をきちんとこなしていくことが重要ですが、そういう意味ではビジネスとしての基本ができています。今週は某大物音楽プロデューサーが詐欺によって逮捕されてセンセーショナルを呼びましたが、できないことをできるといっちゃいけないですね(苦笑)。作曲の面ではできたとしたとしても、仕事では堅実さや誠実さはとても大切です。
レコーディングの詳細についても引用します。
さして、困難な仕事ではなかった。5つの完全ヴァージョンのうち最後のもの、第9テイクが"ベスト"となる。4トラック・マシンを有効に使い、トラック1にはベーシック・リズム、トラック2にはジョンのファースト・ヴォーカル、トラック3には彼のセカンド・ヴォーカルとポールのバック・ボーカル、ボンゴ、ドラムス、アコースティックギター、トラック4にはエンディングのギターとジョージ・マーティンのピアノを入れた。
この曲の特徴あるオープニングについて、マーティンは言う。「映画とサウンドトラックの両方の冒頭を飾る曲だから、ことさら印象の強いオープニングにしたかった。あの不協和音のギター・コードは文句なしの幕開けだったよ」
アマチュアの安い機材でも8トラックぐらいは簡単に使える(しかもデジタルで)現代では、考えられない時代です。ヴォーカルとドラムスを同じトラックに録音しているのは、なんだかひどい(笑)。しかし、4つのトラックを有効に使うために、どのトラックに何を録音するか、ものすごく検討したのではないでしょうか。制限された状況で、あのじゃーんという音が作られたかと思うと、なんだか熱くなる。
えー余談ですが、この本は現在絶版になっているようで、Amazonで価格を調べたところ14,769円~ 20,000円になっていました。購入したときの定価は3,000円で、それでも当時のぼくには高い買い物だな、どうしようかな、と思ったことを覚えています。けれども、この本は買っておかねば、と鼻息を荒くして購入したものです。初版は90年の7月で、ぼくの持っているのは94年の第4版なのですが、価値が出たものだなあ。
ビートルズレコーディングセッション 内田 久美子 シンコーミュージック 1998-12-10 by G-Tools |
さて、前置きが長すぎたのですが、A Hard Day's Nightの謎のじゃーんの秘密を数学者が解明した、という記事がWIRED VISIONに掲載されていて、へーっと感心して読みました。11月6日の「ビートルズ名曲冒頭の音の謎」を数学者が解明という記事です。「英ダルハウジー大学[数学・統計学部]のJason Brown教授が、半年という時間と、高度な数理解析技術を費やしてついに解明した。」とのこと。まず以下を引用します。
Brown教授は、フーリエ変換を使って標本化(サンプリング)された音の振幅を分解し、原音の周波数を求めることでこれを突き止めた。[リンク先の記事は、和音の個々の音を解析し、自由に編集できるプログラム『Direct Note Access』の紹介。音声編集ソフト『Melodyne』で知られる独Celemony社の技術]
うーむ。音声の解析ですね。すごい。論文のPDFのファイルは英語だったのでなんとなく敷居が高かったのですが、以下の解析データになんとなくすごいなーと感じました。データに弱いわたくし(困惑)。
和訳されたWIRED VISIONから引用するのですが、Brown教授は以下のように推測していきます。
「では、他の3つのD3音はどうだろうか?[レポートによると、D3が4つ聞こえた後にF3が3つ聞こえるが、4つのD3のうち、ひときわ大きい1音はポール・マッカートニーのベースと考えられ、残り3音が謎とされている]
ジョージ[・ハリスン]の12弦ギターでは1つの音しか出せず、ジョン[・レノン]が6弦ギターで別のD3音を出していたとしても、まだ1つ残る。(中略)ビートルズのプロデューサーだったジョージ・マーティンは、この楽曲でジョージ・ハリスンのソロの上にピアノの音を重ねていたことが知られている。では、『問題のコード』の一部はピアノの音なのだろうか?」
[さらに、F3が3つ聞こえる謎については以下のように説明している。]「[この周波数帯域では、]、ピアノのハンマーは、3本の弦を同時に叩いて1つの音を出している。これで、F3の音が3つ聞こえる問題については説明がつく。すべて、ピアノが出しているF3音の可能性が考えられる」
つまり、この周波数帯域では、ピアノ内部のハンマーが、平行に張られた3本の弦を叩くことで、3つの音が出されているのだ[ピアノの弦は、高・中音部では1鍵について3本、低音部では2本または1本を叩く]
ここであらためてレコーディングセッションの記事に戻るのですが、「トラック4にはエンディングのギターとジョージ・マーティンのピアノを入れた。」とあります。つまりトラック4に冒頭のギターに重ねるピアノを入れた可能性も高い。
解析された音の構成は、右の楽譜のようです(出典は、PDFファイル)。
音楽をそんな科学者的に聴くことがどうなのか、ということもありますが、アートとテクノロジーが交差するところにぼくは惹かれる。アナログレコーディングの時代に、偶然にも似た試行錯誤から生まれた音に対して半年もの時間をかけて分析した数学者の頭脳に拍手を送りたいと思います。
そういえば、ドラッカーもビジネスにおける予期せぬ成功を分析しなさい、ということを書いていたように思いました。偶然を偶然としてブラックボックスのなかに入れて満足してしまうか、偶然がどうやって生まれたのか解明するか、そのスタンスだけでもずいぶん違う。
ただ、アーティストはそんな科学者たちの分析を超えるような何かを生み出してほしいですね。
なんとなく名探偵コナンと怪盗KIDの関係を思わせるようなところもありますが(マンガがわからないと意味不明ですよね。苦笑)、アートを生み出すものとクリエイティブの謎を推理するものという、創造と解明の戦いは続けてほしいと思います。
投稿者 birdwing 日時: 23:12 | パーマリンク | トラックバック
2008年11月 3日
共感覚、表現の可能性について。
頭のなかにあるイメージを文章・絵画・音楽などで表現するとき、創造の枠組みとして既存の作品をベースにする場合もありますが、もやもやっと感じている原初的な"何か"が元となる場合もあります。
"何か"とは、ことばでもありビジュアルでもあり音でもある"何か"です。たとえば冷たさ、鮮やかさ、騒々しさであり、あるいは怒りやよろこびの感情であり、しかもそれらの複合体であるような。
この"何か"を素材と考えると、素材の加工によって文章にも絵画にも音楽にもなるのではないか。つまり加工の手法は異なっていたとしても、文章も絵画も音楽も表現の根幹となる素材は同じなのかもしれない、というような確かめようのない仮説というか妄想をぼくはずっと抱いていました。
ぼくらは、作家/画家/音楽家という分化された"職業"から芸術を考えがちですが、もしかするとそれは社会の制度という枠組みに囚われているだけであって、もともとはアーティストという大きな表現者だけがあるのかもしれない。進化の過程で単細胞の生物がさまざまな種を経てトリやサカナに分化していったように、表現者の進化論のようなものもあるんじゃないのかな、と。
もちろん、根幹はひとつだといっても、ジャンルを横断させた表現ができるかといえば、なかなか難しいものです。
たとえば文章を書き、絵画から音楽まですべてひとりで表現できるようなマルチな才能を持つアーティストがいるかというと、そう多くは存在しません。強いてあげるとレオナルド・ダ・ヴィンチのような人物かもしれませんが、それぞれの道を究めるのは大変なことだし、簡単に他に応用できるものではない。だからこそスペシャリストとして、作家がいて、画家がいて、音楽家がいるのだと思います。
しかしながら、音を編み出すときに映像的な何かが刺激を与えることもあるし、絵画のようなイメージが小説に影響を与えることもあります。
ぼくは趣味のDTMで日記を書くように音楽を作る、というコンセプトで制作しているのですが、意識的に視覚のイメージを曲に"翻訳"するように心がけています。休日の雲であるとか、星空だとか、窓に映る木々の影であるとか。そんなビジュアルをアタマに描きながら、曲というカタチにしていく。といっても、これはとても個人的な心象風景なので伝わらないことも多い。むしろ伝わったとき、共感していただいたときのほうがぼくも驚きます。
ところで、以前にNHKの番組を観て興味を持ったのですが(エントリーはこちら)、数字を色として認識してしまうような特異な能力を持つひとたちがいるようです。この知覚現象は「共感覚」と呼ばれるとのこと。
Wikipediaの「共感覚」の解説は非常に興味深いのですが、特に音楽についての解説が面白いと思いました。音を色として感じる場合は「色聴」というらしい。以下、引用します。
共感覚の中でも、音楽や音を聞いて色を感じる知覚は「色聴」といわれる。絶対音感を持つ人の中には、色聴の人がいる割合が高い。日本人には色聴が多いと言われることがあり、少なからずヤマハ音楽教室が階名教育の際に使用している色(赤=ドなど)等の過去の経験が影響していると言われたが[要出典]、それと一致しない場合が多く、実際にはほとんどの音楽家・作曲家にとっては無関係である。
ヤマハ音楽教室のせいで「色聴」が多いというのはすごいですね。
ぼくは日本人に「色聴」が多いのは、漢字という言語を使う文化のせいかもしれないと考えました。象形文字は、音とビジュアルがひとつのことばのなかにセットで表現されています。もちろん言語に音階はあまり関係ないのかもしれませんが、音とビジュアルをセットにした文字を日常的に使っている日本人は、逆に音から視覚的なイメージを容易に引っ張り出すのではないか。
それにしても多くの日本人がド=赤という認識を持っているとすれば、面白い。赤の札をあげるだけで、ドの音をイメージするなんてこともあるのでしょうか。
共感覚については、10月24日に日経BPネットの斉藤孝さんのコラム「齋藤孝の「3分間」アカデミー」にも取り上げられています。「人間の身体はすごかった!「情動」の驚異~感応バージョンその2」を興味深く読みました。
冒頭では「共感覚者の驚くべき日常」という本から、2000ヘルツの音を聞かせると「ピンクがかった赤い花火みたいに見える。細長い色が、ざらざらと不快な感じで、味も悪い。塩辛いピクルスに似ている。(中略)触ると手が痛くなりそうだ」という視覚的なイメージとしてとらえる男性の話を引用されています。
共感覚者の驚くべき日常―形を味わう人、色を聴く人 Richard E. Cytowic 山下 篤子 草思社 2002-04 by G-Tools |
これは特殊な例ですが、その後で、どんなひとであっても会ったことのない誰かとはじめて電話で会話するときには、そのひとの骨格、つまり姿かたちをを想像している、という例を挙げています。以下、引用します。
私たちは会ったことのない相手と話すとき、その受話器の声から、無意識のうちに相手の骨格まで想像しているはずだ。野太い声なら武骨な体躯を、か細い声ならやせ型の体型を、といった具合である。ついでにある種の期待を込めて、美形かどうかも勝手にイメージしてしまうものだろう。
確かにそうですね。電話で会ったことがないひとと話しながら声の印象から、宇多田ヒカルみたいなひとかな?などと考える。携帯電話の音声は高音がカットされるので、実際に会ってみるとまったくイメージが違うこともありますが、この試みは、ことばや話し方のトーンという情報の断片からリアルという像を結ぶための練習になります。
なんとなくぼくが考えたのは、コミュニケーションを補足する上で、共感覚というのは人間に備わっている原初的な機能なのではないか、ということでした。その感覚が研ぎ澄まされると特異な感覚となりますが、うまく利用するとスムースに考えを伝達できるための補助となる。そして、できる限り他者を理解したり共感ができるように、ぼくら人間には共感覚という能力があらかじめ備わっているのではないか。簡易版のテレパシー受信機のようなものとして。
テレパシーというとSFまがいの発想ですが、潜在的な共感覚を呼び起こすためのツボをちょっと突いてやること、そのことによってより強い共感が生まれるのであれば、これはもはや現実的なテレパシーの技術と考えることもできそうです。
ツボをつかむだけでコミュニケーションロスが少なくなり、ああ!あれか、とすぐに共感できる。クオリアと呼ばれるものが個人のなかにある個別の感覚であれば伝わらないかもしれませんが、共感覚がクオリアをつなぐ触媒となるのかもしれません。スタンドアローンのパソコンがネットワークによって他のパソコンとつながる、そんなイメージを想像しました。
わかりやすさ、伝わりやすさの技術という面では、斉藤孝さんは「スポーツオノマトペ」という本から、跳び箱を教えるときのコツについて書かれた部分を参考にしつつ解説されています。
スポーツオノマトペ―なぜ一流選手は「声」を出すのか 藤野 良孝 小学館 2008-07 by G-Tools |
「助走をつけて踏切板でジャンプし、両足を広げると同時に両手をまっすぐに伸ばして跳び箱の上に突き、向こう側に着地する」という説明をするよりも、「サーと走ってタンと跳び、パッと手を突いてトンと着地する」と教えたほうが跳べるひとが増えるらしい。確かに、理屈で解説されるよりも、オノマトペ(擬音)で表現したほうが身体に響く。リズムをつかみやすい。
そして次の言葉に頷きました。
だとすれば、私たちは自分の発する言葉をもっと大事にしたほうがいい。同時に、人の発する言葉に感応する身体も必要だ。特に大人の場合、子どもに比べて感覚が素直ではないので、思い込みや理性を優先しがちだ。しかしそれでは、相手の重要なメッセージを見落としてしまうことになりかねない。
前衛芸術家の表現がどこかぼくらの現実から遠くなって居心地の悪さを感じさせるのは、アタマで考えすぎなところがあり、つまり身体感覚から遠いところで表現しているせいではないでしょうか。しかし、どんなに前衛的であっても身体に訴えかけてくるものは、思考することなしにそのよさが"わかる"。理屈の裏づけがなくても、すーっと表現が思考あるいは身体に入り込んでくる。
ぼくはキーボードを打つのがもどかしくて(といってもブラインドタッチですが)、脳内からダイレクトにパソコンにジャックインしてブログを綴れるといいのに、と思うことがあるのですが、さらに痛みや動悸、発熱や高揚感などを含めて身体的な感覚を文章に翻訳できたらいいのに、とも思いました。もしそんなことが可能であれば、冷めた2バイトのフォントであっても、熱を持ち、奔放に語りはじめるのではないか。
黒川伊保子さんは、「恋するコンピュータ」という本のなかで、息の区切れである文節が思考の区切れでもあり、コンピュータが感情を持つためには息継ぎをすることが必要、というようなことを書かれていました。
恋するコンピュータ (ちくま文庫 く 23-1) 黒川 伊保子 筑摩書房 2008-08-06 by G-Tools |
コンピュータではありませんが、表現する頭脳というCPUをもつ人間として、黒川さんの主張にぼくは共感しました。そして、共感を呼ぶための文体を獲得するためには、書く内容も大事だけれど身体的な息や"気"の流れのようなものを創造する必要があるのではないか、と考えています。
理論ばかりで構築すると文章は冷めてしまい、読み手のこころの温度と合わない。適度のぬくもりが必要であり、リアルな息吹きが必要ではないか。読んでいて、そのひとのまなざしであるとか、語り口を思い出させるような"ぬくもりのある"文体が理想です。できれば、微笑んで佇むそのひとの記憶を脳内に再現するような、そんな文体であってほしい。
あまりスピリチュアルな方面にのめり込むと危険ではないかとも感じていますが、言葉を理解させるのではなく、"感じさせる"ためには、そのひとの息遣いを再現するような文章が究極といえるのではないか、と考えました。
文章であったとしても、理解を超えた五感を総動員した力強さで説得できる表現があるような気がします。それはフォントという無機質なものを超越した熱い身体的な文体であり、実体のない意味をフィジカルな質量に変えるぐらいの力をもって、ダイナミックにこころを揺さぶるような表現かもしれません。
そんな文章を書くことができれば、きっと読み手の五感に訴え、リアルに近い再現性をもって共感させ、広告用語でいえばシズル感のある(みずみずしい)表現になるでしょうね。といっても、これは究極の表現についてひたすら追及するぼくの夢想でしかありません。
あらためて考えると、ぼくの大学時代の卒論は、文体と身体の関係性がテーマでした。いまごろ浮上してきた卒論のテーマに困惑しつつ、共感覚についてもう少し調べるとともに、認知科学のような側面からも、表現の可能性について考えていきたいと思います。
投稿者 birdwing 日時: 23:01 | パーマリンク | トラックバック
2008年11月 1日
[DTM作品] 硝子窓、木枯らしの影。
菊地成孔さんの音源を聴きました。JAZZにはあまり詳しくないし、この音楽性を真似するのは才能も力量もないぼくには無理と思いつつ、彼の芸術性にインスパイアを受けています。いろんな活動をされているのですが、以下の映像をYouTubeから引用します。
■Nariyoshi Kikuchi - Elizabeth Taylor
音楽は理解するものではない、心に響けばいいのだ、技術だけでもない、感情がなければひとの心は打てない、と考えていた時期もありますが、やっぱりテクニックは必要だし、理論を含めて知的な何かを発動させたサウンドも素晴らしい。シンプルなロックもいいけど、難解なJAZZも楽しい。時間があれば音楽理論もきちんと紐解いてみたいと思っています。きっと音楽を聴く耳が、いままでとは変わるのではないか。
そもそもミーハーなぼくは、よく理解できないにもかかわらず思想書などを購入してしまうひとであり、思考系ブロガーを標榜しています。だから個人的には、知との戯れは途方もなく贅沢な時間です(実りはなかったとしても)。バンド活動ではなく、ひとりで趣味のDTMで曲を作る作業が楽しいのは、知との戯れの要素があるからだと思います。構造的に曲を考えたり、ある枠組みのなかで音の可能性を探るのは、途方もない知的な好奇心を満たしてくれます。
といっても、あまりに過激な思考だとか、奇をてらった試みには引いてしまうわけで、ふつーのひとの感性も持っているつもりです。それがないと、傍目に困ったひとになってしまう。
たとえばインディーズのエレクトロニカでいうと、カールステン・ニコライだったかと思うのですが、文書ファイルのテキストを音に変換した楽曲があって、さすがにこれはどうだろう・・・と思いました。ショップで試聴して困惑しました。というのも、ピーガリガリガリ、というようなFAXの送信音のようなものがCDに入っていたので。うーん、これはありかもしれないけれど、購入する価値があるのか、と。
あれはやりすぎでしょう。ノイズも音楽の要素になるし、ジョン・ケージの無音を演奏とする試みだとか、プリペアド・ピアノのような楽器を別の使い方で演奏する音楽もありとは思うのですが、それ変じゃないの?という裸の王様の寓話のような正直さは忘れずにいたい。でも、ときどき自分の感性に自信が持てなくなることもあります(苦笑)。ブログを書いていて文章に歯止めが利かなくなることがある。客観性というのは難しい。
さて、今日は天気はいいけれど、風の強い日でした。ぼくの部屋はブラインドなのですが、風の強い日に思い出すのは、子供の頃、ふすまにちらちらと映った植え込みの木々の影です。たぶん熱を出して学校を休んでしまった日で、微熱を持て余しながらぼんやりと布団のなかからふすまに動く影絵を眺めていた。風は強いのだけれど部屋のなかは静かで、ふすまの影だけが激しく動いている。そんな風景です。
気がつくともう11月。秋から冬へとなめらかなグラデーションで季節が変わっていく時期になりましたが、木枯らしを部屋のなかから眺めるような曲を作りたいと思いました。とにかくアタマのなかにある音の像をカタチにしたかったので、土曜日の1日、ときどき子供たちと遊びつつ、すごい勢いで作ってしまったのですが、ブログで公開します。タイトルは、「硝子窓、木枯らしの影。」としました。
■硝子窓、木枯らしの影。(3分2秒 4.21MB 192kbps)
作曲・プログラミング:BirdWing
今回もすべて打ち込みです。ソフトウェアシンセはSONAR付属のTTS-1のみです。以前、学研の大人の科学「シンセサイザー・クロニクル」という号の冊子で、レイ・ハラカミさんが、いまもRolandのSC-88Proというハードウェア音源を使って制作されている、ということを読んでショックを受けました。実はこの機材はぼくも中古で購入して持っているのですが、まさかこれであの音が・・・と。使う人が使うと音も変わるものだなあ、ということを痛感しました。
大人の科学マガジン別冊 シンセサイザー・クロニクル (Gakken Mook 別冊大人の科学マガジン) 大人の科学マガジン編集部 学習研究社 2008-07-30 by G-Tools |
もちろん最新のマシンで最新のソフトウェアを使えば、ものすごくリアルなサンプリング音源でとんでもないことができそうな気がしますが、だからといっていまの機材で何もできないかというと、そんなことはない。かつてぼくはすべて無料の音源で曲作りに挑戦したことがありますが、機能が制限されるからこそ、その機能を生かした曲作りを工夫するようになります。また、タマス・ウェルズというミュージシャンのコンサートに行ったときにも、ぼろぼろのギター1本で(5000円ぐらい?)演奏した曲に、思わず涙したこともありました。
というわけで、アレがないから何もできない(時間がないからできない、も同様)という言い訳はやめて、とにかくいまある時間と機材とありったけの才能を使って、できる限りの曲を作ったり、文章を書いたりしていきたいと思っています。
今回は、リードとしてSAW、いわゆるノコギリ波の音を使っています。シンセサイザーの基本とも言える音です。大人の科学の付録シンセサイザー、学研のSX-150を使いたかったのですが、音階がコントロールできないことと、どうもPCに音を取り込むのがいまひとつうまくできないので断念しました(SX-150を組み立てたときのエントリーはこちら)。オーディオインターフェースが貧弱なせいか、あるいはぼくの設定がまずいのか、外部の音を取り込むことができずに残念です。
SAWのリードにはフランジャーとディレイをかけて、ユニゾンでパッド系(ヒューマンボイス風)の音を重ねています。SAWだけだといかにもな音なのですが、パッド系の音を加えることにより広がりができたような気がします。また、ピアノは途中でコードを逸脱するような音を試みたつもりです。ちなみにぼくはマウスで音を置いていくステップ入力というスタイルで曲を作るので、キーボードは弾いていません(というか、弾けません。苦笑)。入力した音の強弱を加工して自然に聴こえるようにする、という途方もない作業で制作しています。
しかし、こういうコード進行を崩すようなときこそ理論による裏づけが必要で、感覚的に音を外したのですが大きなボウケンはできていないような気がします。難しいですね、どうしても既存の音に絡み取られてしまう。表現の幅を広げるためには既存の何かを壊す爆弾のような何かも必要もあり、その何かを探して日々研鑽です。
ところで、前回のDTM作品「あき、星空のもとで。」を公開したとき、プラネタリウムなど星のことを書いたのですが、古い雑誌を整理していたら、地下鉄の駅で配っているmetoropolitanaというフリーペーパーの「夜空みあげて星をみよう。」という特集号をみつけました。なんと、日付けは2003年10月号。どれだけモノを捨てられないんだか。
その特集に天文写真家である林完次さんという方の撮影した写真があるのですが、これが美しい。左側ページは奥多摩の空、そして右側ページは長野県富士見高原のカシオペア座だそうです。ぼうっと木立が霞む風景はイラストのようですが、れっきとした写真らしい。すごい。
「宙の名前」という本も出されているとのこと。ちょっとほしくなりました。
宙(そら)の名前 林 完次 角川書店 1999-12 by G-Tools |
寒いのですが、木枯らしに寒さをこらえて眺める空もまたいいものです。
投稿者 birdwing 日時: 22:18 | パーマリンク | トラックバック