« [DTM作品] 硝子窓、木枯らしの影。 | メイン | 音の謎に迫る。 »

2008年11月 3日

共感覚、表現の可能性について。

頭のなかにあるイメージを文章・絵画・音楽などで表現するとき、創造の枠組みとして既存の作品をベースにする場合もありますが、もやもやっと感じている原初的な"何か"が元となる場合もあります。

"何か"とは、ことばでもありビジュアルでもあり音でもある"何か"です。たとえば冷たさ、鮮やかさ、騒々しさであり、あるいは怒りやよろこびの感情であり、しかもそれらの複合体であるような。

この"何か"を素材と考えると、素材の加工によって文章にも絵画にも音楽にもなるのではないか。つまり加工の手法は異なっていたとしても、文章も絵画も音楽も表現の根幹となる素材は同じなのかもしれない、というような確かめようのない仮説というか妄想をぼくはずっと抱いていました。

ぼくらは、作家/画家/音楽家という分化された"職業"から芸術を考えがちですが、もしかするとそれは社会の制度という枠組みに囚われているだけであって、もともとはアーティストという大きな表現者だけがあるのかもしれない。進化の過程で単細胞の生物がさまざまな種を経てトリやサカナに分化していったように、表現者の進化論のようなものもあるんじゃないのかな、と。

もちろん、根幹はひとつだといっても、ジャンルを横断させた表現ができるかといえば、なかなか難しいものです。

たとえば文章を書き、絵画から音楽まですべてひとりで表現できるようなマルチな才能を持つアーティストがいるかというと、そう多くは存在しません。強いてあげるとレオナルド・ダ・ヴィンチのような人物かもしれませんが、それぞれの道を究めるのは大変なことだし、簡単に他に応用できるものではない。だからこそスペシャリストとして、作家がいて、画家がいて、音楽家がいるのだと思います。

しかしながら、音を編み出すときに映像的な何かが刺激を与えることもあるし、絵画のようなイメージが小説に影響を与えることもあります。

ぼくは趣味のDTMで日記を書くように音楽を作る、というコンセプトで制作しているのですが、意識的に視覚のイメージを曲に"翻訳"するように心がけています。休日の雲であるとか、星空だとか、窓に映る木々の影であるとか。そんなビジュアルをアタマに描きながら、曲というカタチにしていく。といっても、これはとても個人的な心象風景なので伝わらないことも多い。むしろ伝わったとき、共感していただいたときのほうがぼくも驚きます。

ところで、以前にNHKの番組を観て興味を持ったのですが(エントリーはこちら)、数字を色として認識してしまうような特異な能力を持つひとたちがいるようです。この知覚現象は「共感覚」と呼ばれるとのこと。

Wikipediaの「共感覚」の解説は非常に興味深いのですが、特に音楽についての解説が面白いと思いました。音を色として感じる場合は「色聴」というらしい。以下、引用します。

共感覚の中でも、音楽や音を聞いて色を感じる知覚は「色聴」といわれる。絶対音感を持つ人の中には、色聴の人がいる割合が高い。日本人には色聴が多いと言われることがあり、少なからずヤマハ音楽教室が階名教育の際に使用している色(赤=ドなど)等の過去の経験が影響していると言われたが[要出典]、それと一致しない場合が多く、実際にはほとんどの音楽家・作曲家にとっては無関係である。

ヤマハ音楽教室のせいで「色聴」が多いというのはすごいですね。

ぼくは日本人に「色聴」が多いのは、漢字という言語を使う文化のせいかもしれないと考えました。象形文字は、音とビジュアルがひとつのことばのなかにセットで表現されています。もちろん言語に音階はあまり関係ないのかもしれませんが、音とビジュアルをセットにした文字を日常的に使っている日本人は、逆に音から視覚的なイメージを容易に引っ張り出すのではないか。

それにしても多くの日本人がド=赤という認識を持っているとすれば、面白い。赤の札をあげるだけで、ドの音をイメージするなんてこともあるのでしょうか。

共感覚については、10月24日に日経BPネットの斉藤孝さんのコラム「齋藤孝の「3分間」アカデミー」にも取り上げられています。「人間の身体はすごかった!「情動」の驚異~感応バージョンその2」を興味深く読みました。

冒頭では「共感覚者の驚くべき日常」という本から、2000ヘルツの音を聞かせると「ピンクがかった赤い花火みたいに見える。細長い色が、ざらざらと不快な感じで、味も悪い。塩辛いピクルスに似ている。(中略)触ると手が痛くなりそうだ」という視覚的なイメージとしてとらえる男性の話を引用されています。

4794211279共感覚者の驚くべき日常―形を味わう人、色を聴く人
Richard E. Cytowic 山下 篤子
草思社 2002-04

by G-Tools

これは特殊な例ですが、その後で、どんなひとであっても会ったことのない誰かとはじめて電話で会話するときには、そのひとの骨格、つまり姿かたちをを想像している、という例を挙げています。以下、引用します。

私たちは会ったことのない相手と話すとき、その受話器の声から、無意識のうちに相手の骨格まで想像しているはずだ。野太い声なら武骨な体躯を、か細い声ならやせ型の体型を、といった具合である。ついでにある種の期待を込めて、美形かどうかも勝手にイメージしてしまうものだろう。

確かにそうですね。電話で会ったことがないひとと話しながら声の印象から、宇多田ヒカルみたいなひとかな?などと考える。携帯電話の音声は高音がカットされるので、実際に会ってみるとまったくイメージが違うこともありますが、この試みは、ことばや話し方のトーンという情報の断片からリアルという像を結ぶための練習になります。

なんとなくぼくが考えたのは、コミュニケーションを補足する上で、共感覚というのは人間に備わっている原初的な機能なのではないか、ということでした。その感覚が研ぎ澄まされると特異な感覚となりますが、うまく利用するとスムースに考えを伝達できるための補助となる。そして、できる限り他者を理解したり共感ができるように、ぼくら人間には共感覚という能力があらかじめ備わっているのではないか。簡易版のテレパシー受信機のようなものとして。

テレパシーというとSFまがいの発想ですが、潜在的な共感覚を呼び起こすためのツボをちょっと突いてやること、そのことによってより強い共感が生まれるのであれば、これはもはや現実的なテレパシーの技術と考えることもできそうです。

ツボをつかむだけでコミュニケーションロスが少なくなり、ああ!あれか、とすぐに共感できる。クオリアと呼ばれるものが個人のなかにある個別の感覚であれば伝わらないかもしれませんが、共感覚がクオリアをつなぐ触媒となるのかもしれません。スタンドアローンのパソコンがネットワークによって他のパソコンとつながる、そんなイメージを想像しました。

わかりやすさ、伝わりやすさの技術という面では、斉藤孝さんは「スポーツオノマトペ」という本から、跳び箱を教えるときのコツについて書かれた部分を参考にしつつ解説されています。

4093877998スポーツオノマトペ―なぜ一流選手は「声」を出すのか
藤野 良孝
小学館 2008-07

by G-Tools

「助走をつけて踏切板でジャンプし、両足を広げると同時に両手をまっすぐに伸ばして跳び箱の上に突き、向こう側に着地する」という説明をするよりも、「サーと走ってタンと跳び、パッと手を突いてトンと着地する」と教えたほうが跳べるひとが増えるらしい。確かに、理屈で解説されるよりも、オノマトペ(擬音)で表現したほうが身体に響く。リズムをつかみやすい。

そして次の言葉に頷きました。

だとすれば、私たちは自分の発する言葉をもっと大事にしたほうがいい。同時に、人の発する言葉に感応する身体も必要だ。特に大人の場合、子どもに比べて感覚が素直ではないので、思い込みや理性を優先しがちだ。しかしそれでは、相手の重要なメッセージを見落としてしまうことになりかねない。

前衛芸術家の表現がどこかぼくらの現実から遠くなって居心地の悪さを感じさせるのは、アタマで考えすぎなところがあり、つまり身体感覚から遠いところで表現しているせいではないでしょうか。しかし、どんなに前衛的であっても身体に訴えかけてくるものは、思考することなしにそのよさが"わかる"。理屈の裏づけがなくても、すーっと表現が思考あるいは身体に入り込んでくる。

ぼくはキーボードを打つのがもどかしくて(といってもブラインドタッチですが)、脳内からダイレクトにパソコンにジャックインしてブログを綴れるといいのに、と思うことがあるのですが、さらに痛みや動悸、発熱や高揚感などを含めて身体的な感覚を文章に翻訳できたらいいのに、とも思いました。もしそんなことが可能であれば、冷めた2バイトのフォントであっても、熱を持ち、奔放に語りはじめるのではないか。

黒川伊保子さんは、「恋するコンピュータ」という本のなかで、息の区切れである文節が思考の区切れでもあり、コンピュータが感情を持つためには息継ぎをすることが必要、というようなことを書かれていました。

448042458X恋するコンピュータ (ちくま文庫 く 23-1)
黒川 伊保子
筑摩書房 2008-08-06

by G-Tools

コンピュータではありませんが、表現する頭脳というCPUをもつ人間として、黒川さんの主張にぼくは共感しました。そして、共感を呼ぶための文体を獲得するためには、書く内容も大事だけれど身体的な息や"気"の流れのようなものを創造する必要があるのではないか、と考えています。

理論ばかりで構築すると文章は冷めてしまい、読み手のこころの温度と合わない。適度のぬくもりが必要であり、リアルな息吹きが必要ではないか。読んでいて、そのひとのまなざしであるとか、語り口を思い出させるような"ぬくもりのある"文体が理想です。できれば、微笑んで佇むそのひとの記憶を脳内に再現するような、そんな文体であってほしい。

あまりスピリチュアルな方面にのめり込むと危険ではないかとも感じていますが、言葉を理解させるのではなく、"感じさせる"ためには、そのひとの息遣いを再現するような文章が究極といえるのではないか、と考えました。

文章であったとしても、理解を超えた五感を総動員した力強さで説得できる表現があるような気がします。それはフォントという無機質なものを超越した熱い身体的な文体であり、実体のない意味をフィジカルな質量に変えるぐらいの力をもって、ダイナミックにこころを揺さぶるような表現かもしれません。

そんな文章を書くことができれば、きっと読み手の五感に訴え、リアルに近い再現性をもって共感させ、広告用語でいえばシズル感のある(みずみずしい)表現になるでしょうね。といっても、これは究極の表現についてひたすら追及するぼくの夢想でしかありません。

あらためて考えると、ぼくの大学時代の卒論は、文体と身体の関係性がテーマでした。いまごろ浮上してきた卒論のテーマに困惑しつつ、共感覚についてもう少し調べるとともに、認知科学のような側面からも、表現の可能性について考えていきたいと思います。

投稿者 birdwing : 2008年11月 3日 23:01

« [DTM作品] 硝子窓、木枯らしの影。 | メイン | 音の謎に迫る。 »


トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://birdwing.sakura.ne.jp/mt/mt-tb.cgi/1010