« 自分を究める。 | メイン | 揺れる、まなざし。 »

2008年11月27日

ひとと社会を理解するために。

「ひと」を理解しようと思いました。人間について、いろんな本を読みながら、このブログで考察していきたい、学んでいきたい。そんな意識が高まっています。

といっても、働くおとーさんとしては、家計を支えるために仕事のスキルの研鑽もしなければなりません。直接的にお金を生み出さない「ひと」の研究よりも、資格のひとつでも取得したほうが後々のためには大事なことなのかな、と思うこともあります(といっても、ぼくはこの資格取得が全然ダメなんですが)。

あるいは、ひとについて理解を深めたいのであれば、実際にたくさんのひとに会って話をしたほうがよいかもしれません。安全な部屋に閉じこもって観察や考察するよりも、実際に話したり接しなければ、ほんとうに人間とは何かということはわからないのかもしれないですね。

それはそれで仕事などを通じて別に進めることにしましょう。このブログでは一日の数時間、パソコンに向かいながら本から学んだこと、ネットで情報収集したことから「ひと」について考察し、つれづれに綴っていきたいと思います。

ところで、社会はいま、全体的に何かが病んでいる気がしています。そう感じるのは、ぼくだけでしょうか。どこか人々は疲れているし、何かに追われているような気がしてなりません。そして、おかしな犯罪や事件が多すぎる。社会のどこかが緩んだりズレてしまって、その結果とんでもないことになっている印象があります。警官や教師といわれるひとたちの奇行が毎日のように報道されているし、個人的な動機から人を殺めるような犯罪が多い。なんだかおかしい。

実際にインドではテロが起きてかなしい事態になっていますが、当初はテロリズムと思われていた元厚生次官宅襲撃事件は、「1974年4月に保健所にチロが殺された。その敵を討った」などと容疑者が言及していることから、保健所に殺された犬の仇討ちが襲撃の動機だったというセンセーショナルな報道がありました。得体のしれない脱力を感じました。もちろん原因はそれだけではなく、仕事や同僚とうまくいかなかった苛立ちなどもあるようです。それにしても何十年も前の鬱屈や個人的な苛立ちが人を殺める衝動につながっています。もちろんそんなこともあるかもしれないけれど、やっぱりおかしい。

格差や精神病の問題で片付けてしまうマスコミの報道にも疑問を感じます。報道の在り方については、池田信夫さんがブログで「「意味づけ」の病」というエントリで批判していました。容疑者が統合失語症ではないかという見解を示して、大衆が飛びつきやすい意味づけや過剰な文脈のなかで問題を大きくするメディアの愚かさを指摘しています。部分的ですが引用してみます。

精神異常者はどんな社会にも存在し、彼らは一定の確率で殺人をおかす。その対象が家族であればベタ記事にしかならないが、「秋葉原」や「厚生省」という意味がつくと、メディアが大きく取り上げる。この種の報道は憶測ばかりで、犯罪の連鎖を呼ぶ有害無益なものだ。

確かにメディアの過剰な「わかりやすい」意味づけは、犯罪の連鎖を生む点では問題だと思いました。マインドコントロールや洗脳的な危険性があります。

しかし、池田さんの指摘に疑問を感じるのは、精神異常者のことだから仕方ない・・・で片付けてしまっているようにも読めることです。であれば、マスメディアの安易な意味づけとなんら変わりはない。この論旨もまた本質に迫っていない印象を受けました。

ぼくが問題だと感じるのは、健常者と異常者の垣根がなくなってきているように思えることであり、異常な動機を正当化する犯罪が確実に増えている気がすることです。数値できちんと把握しているわけではなく、ニュースを読んだ感覚でしかないのだけれど、どうも多すぎる。

ひき逃げの多発なども同様ではないでしょうか。殺意の問題ではなく事故なのかもしれませんが(殺意があってひき殺した事件もありましたが)、本来、責任を取るべきものを取らずに逃げてしまうのは、はたして健常といえるのかどうか。責任の欠如というより正常であることの基準や認識が揺らいでいるように思えます。学生の大麻所持もそうかもしれないし、北海道の高校生が修学旅行先のロスで集団で万引きするような行為も同様です。それやっちゃいけないよ、だめだよ、という明確な境界線が消えかかっている。

そんな社会状況を見渡しながら、ぼくがいま不安とともに捉えようとしているのは、心の闇を抱えながら悩むひとたち、あるいはこの過酷な現実生活のなかで、社会という器から零れ落ちてしまいそうなひとたちのことです。

ぼくもまたそんなひとりではあるのだけれど、健常なひとであっても、闇に落ち込むことがないとはいえない。生きにくい世のなかで喘いでいるし、尖ったエッジの上でゆらゆらしながらバランスを取っているような気もします。なぜこんなに生きにくいのでしょう?どうすればもっとラクに生きることができるのか?そのことにきちんと向き合いたい。答えを探したい。

ということを考えつつ本を探したり、情報を彷徨ったりしていたのですが、ひとつの関心事のキーワードとして浮かんできたのは、アスペルガー症候群(高機能自閉症)でした。Wikiぺディアではこちら

いま読んでいる「僕の妻はエイリアン」は、そんな高機能自閉症の妻を持つ泉さんの日常を描いたもので、なんとなく「妻」の行動はひとごととは思えないところもあります。ほんわかとした文章で紹介いただいているのですが、その理解し合えない日常は想像よりもずっと大変なことでしょう。

4101350515僕の妻はエイリアン―「高機能自閉症」との不思議な結婚生活 (新潮文庫)
泉 流星
新潮社 2008-06-30

by G-Tools

アスペルガー症候群のひとたちは高い知能指数があるのだけれど、コミュニケーション能力に障害があるようです。だから、他者の感情を読み取れない。そのことを比喩的に泉さんは異星人であると表現しています。また、「言葉を額面どおりに受け取る」や「些細なことにこだわる」特徴もあり、言葉を言われたまま受け取るので、まさに先程の比喩表現が伝わりにくいらしい。単純な仕事が覚えられないため、何度も仕事で失敗を繰り返し、その結果、仕事を辞めてしまうひとも多いとのこと。

同類項で括るのは危険だと思うのですが、秋葉原の大量殺人も、元厚生次官宅襲撃事件も、犯人が抱えていたものは孤独という闇ではなかったでしょうか。仕事がうまくできない、同僚とコミュニケーションできない、そんな苦しみが蓄積された結果、ひとを殺める方向に向かってしまった印象があります。

しかし、じゃあ心を開きなさい、外向的になって楽しく生活しましょう、というのもきっと無理な話で、たぶんそういうひとは頑張りたくても頑張れないのではないか。諦観で言うわけではないのですが、障害とまではいかなかったとしても、そういう風にしか生きられないひとたちである、という気がしています。

サカナに地上で堂々と歩きなさい、といっても無理ですよね。もちろん進化の過程で歩き出したサカナもいるかもしれないのですが、水を得たサカナのごとく、水中で暮らせることがサカナがサカナであるゆえんだと思います。心を開こう、明るくなろう、というのは、健常者を気取った傍観者の暴力的なまでに余計なお世話であり、多様性を尊重し、そういうひとが生きられる環境や場所を作ることが社会全体として重要な気がします。もちろん甘えさせる、という意味ではありません。

アスペルガー症候群に関する「僕の妻はエイリアン」を読んでいて共感を得たのは、理解できない異星人のような妻を、毎日の生活のなかで異星人としてそのまま受け入れていく著者の姿勢でした。異星人である妻を正すのではなく、また理解できないことは理解できないときちんと正直に告げながら、そのまま日常の生活のなかで受け入れる。なかなかできないことです。

しかし、アスペルガー症候群は発達障害でもあるようで、成長するどこかの段階で心に圧力がかかって歪むようになってしまったと考えられます。心理学者でもないし、精神病理に詳しいわけでもないけれど、その圧力が何かを知りたいし、圧力に屈しない生き方があれば、それを知りたい。

というわけでなんだか重い話題になってしまったのですが、ブログのテーマのひとつとして設定しながら、いままで考えていなかった領域のことも書いていきたいと考えています。

投稿者 birdwing : 2008年11月27日 23:12

« 自分を究める。 | メイン | 揺れる、まなざし。 »


トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://birdwing.sakura.ne.jp/mt/mt-tb.cgi/1017