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2008年11月13日

賢者は何を選ぶか。

ほとぼりが冷めた頃に考察するのですが、梅田望夫さんがご自身のブログ「My Life Between Silicon Valley and Japan」で水村美苗さんの「日本語が亡びるとき」という本について書評を書かれています(梅田さんのエントリーはこちら)。ぼくも、この本は読んでみたいなと思いました。

4480814965日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で
水村 美苗
筑摩書房 2008-11-05

by G-Tools

しかしながら、はてなブックマーク(以下、はてブ)で、梅田さんのエントリをあざ笑うかのような懐疑的なコメントがつづいたようです。ありがちなことだなあ(苦笑)と思いました。

ネガティブなコメントにうんざりした梅田さんがTwitterで、はてブのコメントにはバカなものが多いと批判したことにより、ついにブログが炎上。J-CASTニュース「梅田望夫、はてブ「バカ多い」 賛否両論殺到してブログ炎上」で読んで、久し振りにネットの在り方について考えさせられました。

梅田望夫さんのTwitterにおけるつぶやきを引用します。

「はてな取締役であるという立場を離れて言う。はてぶのコメントには、バカなものが本当に多すぎる。本を紹介しているだけのエントリーに対して、どうして対象となっている本を読まずに、批判コメントや自分の意見を書く気が起きるのだろう。そこがまったく理解不明だ」

うーむ、同感。その通りだと思います。

中学生の頃に本を読まずに読書感想文を書いて、しかもその感想文が先生に絶賛されて後ろめたい気分になったぼくは、少年時代をはるかに遠く過ぎ去ったいま、不誠実な自分を反省してきちんと本を読んでブログで感想を書こうと思っているところです。だからこそ痛切に感じるのだけれど、読んでから書け、というのは、まさにその通り。誠実じゃないよな、読まずに書くのは。作者にも、本にも、そして感想を読むひとにも失礼です。

それから某アルファなブログで、せっかくブロガーがいいことを書いているのに、訪問者がエントリとは関係のないくだらない自説を延々とコメントで展開している様相をみたことがあり、あまりのコメント欄の愚かさに脱力したことがありました。だから梅田さんの憤りはわかる。

最近、茂木健一郎さんとか梅田望夫さんの書物には新しさや惹かれるものがないので遠ざかっていたのですが、この発言における梅田さんの男気というかストレートな物言いにぼくは好感を持ちました。いいこというじゃん。

ただ、考察すべきポイントが多々あります。この梅田さんの発言はOKだとしても、OKではない発言があると思いました。たとえば次の3通りの発言について考えてみます。

a. はてぶのコメントには、バカなものが本当に多すぎる。
b. はてぶには、バカなコメントは書き込まないでほしい。
c. はてぶのコメントから、バカな発言は削除すべきだ。

a.については○だとしても、ぼくはb.とc.については×だと思うんですよね。というのはネットにおける発言の自由を奪うのではないか、と考えるからです。

YouTubeに関しても、問題コンテンツを掲載するgoogleを批判した似たような指摘のニュースがあったように記憶しているのですが、ブログにしてもソーシャルブックマークのコメントにしても、ネットのサービスは入れ物を提供するだけであって、(個人のブログを土足で踏みにじるようなコメントは別として)一般に開かれているサービスには、基本的に何を書き込もうと自由ではないでしょうか。書き込むな、削除しろ、とはいえない。

しかしながら、いまぼくは性善説的なスタンスから理想論を述べています。常識的なモラルがあれば、あまりにも酷い発言はしないだろうという楽観主義から語っているわけで、誹謗中傷、差別、ひとを殺める予告などは当然いけません。法で取り締まるべきでしょう。

最近、仕事や人間関係のイライラという個人的な欲求不満から、どうせみつからないだろうと軽く考えて掲示板などにとんでもない発言を書き込んで逮捕されるひとも増えていますが、言っていいことと悪いことがあります。子供にはわからないかもしれません。だから大人が指導しなければいけないとは思うのですが、成人したよい大人が分別もなく酷いことを書き込むのは大問題です。

そもそも一国の総理大臣や官僚が問題発言をするぐらいなので、国民の口がすべて緩んでいるような気もします。慎みましょう。さらに問題なのは、明らかな問題発言よりも、法律では取り締まることができないような言っていいことのようだけれど悪いこと、なんですけどね(このびみょうなニュアンスが伝えにくい)。

一方でぼくは、入れ物(器)としてのはてなブックマークについて、機能的な愚かさもきちんと考えるべきではないかな、と思いました。というのは、設計思想に問題がある。

ブックマークしたついでに覚え書きとしてメモをする。そんな個人的な用途のためにコメントが書き込めるような機能が追加されたのではないかと思います。であればコメントを公開して共有する必要はないんじゃないか。いや、あれは集合知なのだ、たくさんのユーザーの感想があるからいいんだ、他者のコメントを参考にできるのがいい、という考え方もあるでしょう。

しかし何かを論じるとき、1行程度の限られたスペースできちんとした批判を論じられると考えること自体がおかしいですよね。あの狭いコメント欄に何か書こうとすると必然的に思考の一部を切り取ることになるわけで、思考の過程や背景を排除した極論になる。

脊髄反射的な思いつきばかりが書き込まれ、したがって感情論になりやすい。だいたいきちんと何かを述べようとするならば、自分のブログで論理的に自説を展開してトラックバックすればいい。すべての利用者がそうだとは思いませんが、トラックバックする勇気もなく、ひょっとすると自分のブログさえ持っていない、ブログも書けないようなひとが匿名で無責任なまま、はてブを利用している。プログラマーであれば終わらない開発作業のストレスを解消するために、仕事の合間に酷いことを書いて溜飲を下げている。愚痴を吐き出すには格好の場所です。集合知というより、ストレス発散の場所となっている。愚かなコメントが増えるのは当然でしょう。

あの場所に賢さを求める梅田さんがおかしい、というのも正論。そんなチープなサービスが梅田さんが理想とするような知になるかどうかもあやしい。せいぜいラクガキ程度の知になればよいほうで、文化の一部にはなるかもしれませんが王道にはなり得ない。ただの一行コメントに、過大な夢を抱いちゃいけません。

はてなは、あのサービスを設計するときに、ブックマークにコメント欄つけちゃったら便利だろう?ぐらいの安易な発想しかなかったのではないかな。グランドデザインのないままに作ってしまった思想のない技術とサービスが魑魅魍魎としたコメントを呼んでいるわけで、作ってしまったはてなにも責任がある。何やら新しいはてブもリリースしたようですが、結局のところ小手先でいじりまわしているような印象が否めませんでした。「お気に入られ」という機能にも首を傾げました。あってもいいけど、どうでもいいような気がする。というよりもぼくは、正直なところ、はてブに何も価値を感じていないんですけどね。

賢者を気取るつもりはありませんが、愚かではありたくないと思っています。そして、きれいなものだけで構成されているのが世界ではなく、邪悪なものも、汚れたものも世界には存在する。そのことは理解しておきたい。

リアルな都市においても同じでしょう。たとえば新宿には整然としたオフィス街もあれば、けばけばしいネオンに彩られた欲望の坩堝もあるわけで、ネットも同様、正しき場所もあれば悪しき場所もある。人間の作り出すものは、そういうものです。ぼくは悪しき場所が悪いとは思いません。清さも濁りも世界の一部であると受け止めていたい。濁りを排除して清さだけを求めるのも愚かであると思うし、逆に濁りのなかで安穏として清さに唾を吐くのもどうかと思う。

ただ、賢者であるためには

あやしげな場所には近づかない

ということが大切ではないかと思っています。

ときには魑魅魍魎的な不健康さに身をゆだねてみたいと思うこともあるけれど、その不健康さに蝕まれたり過度に依存するようであれば、距離を置くような判断力ならびに抑制力をつけたい。自分が弱い人間であることをきちんと認識して、だからこそ自分を大事にする。破滅的な何かにとらわれないこと。弱いがゆえに、弱さに依存しないこと。

要するに、こころを乱されるようなものには近付かない、見にいかなければいい、ということです。ぼくも、一時期は流行に流されて、はてブを使っていたのですが、これって愚かだなあ・・・と気付いてからは利用をやめました。

だいたい、ブックマークの数を大喜びしているようなブロガーもとんでもない愚かだと思っています。というのは、実はブクマで嘲笑されていたり、大量のブクマを付けることだけに喜びを見出すようなひとが、内容を読まずになんとなく付けて忘れ去られているだけのことも多い。個別の内容を無視して、数だけで大喜びしているのは愚の骨頂だとぼくは思います。むしろ、たったひとりのひとに共感と支持をいただけるほうが、どれだけうれしいか。

さて、ぼくが賢さについて考えるようになったのは、次の本を読んでいるせいかもしれません。

4872578279賢く生きる智恵 (East Press Business)
Baltasar Gracian 野田 恭子
イーストプレス 2007-08

by G-Tools

十七世紀に書かれた内容のようです。正直なところ、こういう本には眉唾なものが多く、全面的に信じるのはどうかと思う。しかし、きれいごとだけではなく、ときには裏技であったり、手を抜いたり、悪の視点から処世術についても書かれています。いろいろと考えさせられることが多くありました。

類は友を呼ぶ、といいますが、愚かな発言をしていれば愚かな魑魅魍魎を呼んでしまうし、清らかな言葉を使っていれば、その言葉に共感する仲間が集まる。どちらがよいかというと・・・ぼくは後者ですかね、いまのところ。

投稿者 birdwing : 2008年11月13日 06:02

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