2009年3月29日
水の中のつぼみ
▼cinema09-09:少女たちの残酷な青春、透明な痛み。
水の中のつぼみ [DVD] セリーヌ・シアマ ポニーキャニオン 2009-02-04 by G-Tools |
男であるところのぼくにはよくわからないのだけれど、たとえば手をつなぐ仲のよい女の子ふたり。ティーンもしくはそれ以上の年齢であっても無邪気に手をつなぐ彼女たちの意識は、いったいぜんたいどういう構造になっているのだろう。
男の友達とはめったに手をつなぎませんが、オンナノコどうしが手をつないで楽しそうに語らう風景は、かなり頻繁にみられます。嫌いではないし、むしろ微笑ましい。しかし、友達であると同時に、わずかばかり擬似的に恋愛のエッセンスも入っているような印象があります。実際のところは男の邪推かもしれない。身体的な接触も含めてコミュニケーションであると考える女性には、たいしたことではないのかもしれないですね。
構造から理解しようとする男性的なアプローチ自体が間違っているような気がしますが、そこには何か女性特有の甘ったるい感情があるような気がします。感情ではないかな、匂い、のような何か。女の子どうしの友情は、まったく男の友情とは異質の感覚でとらえるべきではないか。ぼくの妄想だけなのかもしれないけれど、そんな風に考えています。
思春期の女の子たちの甘酸っぱい(ということば自体がこっぱずかしい)友情と裏切りと、性へのあこがれや生きることの悩みを描いた映画としては、ソフィア・コッポラ監督の「ヴァージン・スーサイズ」が記憶に残っています。パーティーがあけた朝の気だるさを感じさせるような、一種の女性特有のフェロモンのような"いい匂いがする"映画でした。けれども行き場のない袋小路のような暗さも感じました。ハレーションを起こすような明るい風景だからこそ、何もみえなくなる。明るさがゆえに盲目になる感じ。
邦画でいうと、男性の監督ですが、岩井俊二監督が似たような匂いを醸し出すアーティストだと思います。たとえば、「花とアリス」のような作品でしょうか。友情と恋愛のどちらをとるか、ということが切ない透明さで描かれています。好きな監督のひとりですが、「リリィ・シュシュのすべて」は、ひりひりするような青春のきらめきと残酷さを描いた映画でした。青空と草原の映像もきれいで、思わずDVD買ってしまった作品です。
青春には(という、ことばもまた穴があったら入りたいぐらい恥ずかしいけれど)、純粋さと同時に純粋であるがための残酷さがともなう。そうして、残酷であるがゆえに、出口のない苦悩のなかに閉じ込められていきます。
「水の中のつぼみ」も、思春期まっただなかの15歳の女の子たちの痛い友情と残酷さを描いた、とても切ない映画でした。
シンクロナイズドスイミングのクラブに入っている不細工な友達を応援にきたマリーは、そこで美しい上級生の少女フロリアーヌに恋をします。彼女を追いかけてプールに通ううちに親しくなっていくのですが、最初はフロリアーヌが彼氏と会うためのアリバイづくりに利用されたりもする。けれども悪い噂のある彼女のほんとうの姿がわかって、マリーはさらに親しく焦がれるようになります。
大好きな男の子とセックスをしたいのだけれど、やりたいと思っていながら処女であるがゆえに勇気が出ない美少女のフロリアーヌは、行きずりの知らない男とやって処女を喪失してしまおうとするのだけれど・・・。一方でフロリアーヌに拒まれた彼氏は・・・、さらに処女を捨てきれずに彼女がマリーに頼んだことは・・・のような、青春って間違えた方向に全力で突っ走ってしまうことがあるんだよね(ためいき)という甘ったるいやるせなさを感じました。
また、マリーの不細工な友達が悲痛で、太っているコンプレックスから、ちいさめのジーンズを履いて歩き方が変になっていたり、恋している男の子の家の庭にブラジャーを埋めてみたり。純粋であるのだけれど、これもまた痛すぎる。他にもあるのですが、痛くて書けません。
フランスのリセというのでしょうか、そんな少女たちを描いた映画ですが、マリーの華奢な身体がぼくには性的な何かをぜんぜん想起させなくて、エロティックな感じはありませんでした。ただただ、ひたすら痛かった。
ぼくは女性ではないし、青春時代などは遥かな昔に通り過ぎてしまって、懐かしさを感じるばかりです。けれども、この映画は、春がすみの向こうに遠い時代の名残を感じさせるような、ノスタルジックな時間を再現してくれました。なんというか、お尻がもぞもぞするような居心地の悪さを感じつつ、こういうのもありかもしれないな、と思う作品でした。2月28日観賞。
■Naissance Des Pieuvres / Water Lilies (2007) - Movie Trailer
投稿者 birdwing 日時: 23:49 | パーマリンク | トラックバック
2009年3月28日
サクラのスイッチを入れる。
ずいぶんと春らしくなりましたが、まだ肌寒い毎日がつづいています。晴れたかと思うと曇ったり、雨が降ったりの繰り返し。コートが手放せません。うちの近くでは、来週あたりがサクラのピークだとか。入学式には満開のサクラをみることができるといいですね。
短命なサクラは、咲いたかと思うとあっという間に散ってしまう。あわただしい毎日を送っていると見逃してしまうことも多いのだけれど、天気がよければ近所のサクラを眺めながら春を楽しみたい。通勤時に電車の窓から眺めるサクラも、なかなかよいものです。
そういえば、サクラ前線という言葉もありました。この時期にはよく耳にする言葉です。Wikipediaで調べてみると(詳細はこちら)、60年代からマスコミで使われはじめた言葉らしい。もっと古くから言われていたのかと思ったのだけれど、意外に新しい。
桜前線(さくらぜんせん)とは、日本各地の桜(主にソメイヨシノ)の開花予想日を結んだ線のこと。「桜前線」という言葉はマスコミによる造語で、1967年(昭和42年)頃から用いられている。
南のほうから北上してくるものだと思っていたところ、最近ではランダムに開花するようで、前線も複雑に動くようです。暖冬であることによる「休眠打破」という現象が原因のようですが、環境問題にも関係があるのでしょうか。以下のウエザーニュースのページでは、サクラの開花情報が伝えられています。
■weathernews
http://weathernews.jp/sakura/
確かに全国を俯瞰すると、九州方面は満開の赤い色が濃くなっています。けれども、その他の地域ではいまのところまだ赤い点は少ない。このウエザーニュースのページではサクラシミュレーターもあって面白い。ちなみに本日の3月28日はこんな感じ。
来週の土曜日、4月4日になると、満開の地域が本州の中央あたりに移動して、九州では圧倒的に葉桜であることを示す緑が多くなります。ちょっと寂しい。
左端の再生ボタンを押すと、ピンク色が次第に北上していく様子が動画でシミュレーションされ、時間と空間を俯瞰して楽しめます。こんな風に地上を眺めるのは、神様の視点でしかあり得ないのですが。
卒業と入学、ドラマティックな別れと出会いが交錯するこの時期、KDDIでサクラスイッチというブログパーツを配信していることを知りました。そのキャンペーンサイトにアクセスしてみたのですが、これも面白かった。
■サクラスイッチ
http://www.kddi.com/sakura2009/main.html
「サクラが咲くころ、心のスイッチを切り替えよう。」というイントロダクションのあと、4つのメニューが表示されます。「卒業」「新生活」は、Flashムービー。静止画のスライドショーかと思っていたのですが、動画も取り入れられていて、こういう贅沢なコンテンツもふつうに観ることができるようになったのだなあ、と感動しました。「新生活」のほうの自転車に乗っている視点からの映像は、ちょっと目がくらくらしましたけれども。
ナレーションといっしょにバックグラウンドに聞こえる公園や学校の自然なノイズがいい。ナマロクしたくなりました(笑)。春の音を、街に出て。プロモーションのためのきれいすぎるドラマなので、けっ・・・と思う気持ちもなきにしもあらずですが、こういうピュアなものもいいなあ。汚れちまったからなあ、ぼくのこころは。
一方で「サクラコトバ」は、このサイトの訪問者が短いメッセージを投稿して、それが蝶や花のかたちとなって表示されます。
一覧でみることもできるのですが、ふつーのひとが書いた、ちょっと照れくさいようなふつーのメッセージになぜか泣けた(涙)。要するに色紙に書かれた寄せ書きのようなものですが、一覧表示にすると縦書きでみることができるのも贅沢です。日本語はやはり縦書きですね。
前向きなコトバばかりではありません。うまくいかない現実をぼそっと愚痴っていたり、テストで書き込んだと思われる適当な文字列もある。けれども、そういうところがいい。ブログもそうだと思うけれど、ホンネがそのまま書き込まれているのがいい。ただ、キャンペーンサイトだけに表示させてはいけないコトバを書くようなひともいるかもしれないわけで、きっとそのメンテナンスが大変そうです。というようなことを指摘してしまうと、夢も醒めてしまいますが。
そしてブログパーツとして、サクラスイッチ。
音が出るので気をつけてほしいのですが、スイッチを押してみてください。なかなか素敵なことになります。もとに戻す場合は、右上のスイッチを押せば止まります。サクラが散ってしまうように、期間限定のコンテンツだと思うのだけれど、なかなか叙情的です。
「サクラが咲くころ、心のスイッチを切り替えよう。」か。そろそろ切り替えなきゃな、ぼくも。心のスイッチがどこにあるのかわかりませんが、スイッチの在り処を探りながら。
新生活をはじめるひとたちが、新たな一歩を踏み出せること、その一歩が大きな一歩になりますように。やや近い場所から、そんなことを願っています。
投稿者 birdwing 日時: 08:37 | パーマリンク | トラックバック
2009年3月27日
3月を見直してブログのこれから。
ブログとは何か、ということを考えることは、自分とは何ものか、どこからやってきてどこへ向かうのか、ということを考えることのようで、なんだか照れくさいものです。けれども時折、ここでこうして書いていることの不思議さとその意味について、考えずにはいられません。
かつてのようなブログのブームはすぎてしまったとしても、ぼくはまだ書きつづけています。何度も中断したり、閉鎖してしまおうと悩んだり、もっと日記のように気軽に書いたらこんなに辛くなることもないのではないのか、と隣りの芝生を遠目に憧れてみたりしたけれど、まだ書いている。よいことなのかどうかはわかりません。ブログに没頭する膨大な時間をほかの何かに費やせば、もっと別の人生があったかもしれない。けれども、ある意味、こう生きるしかなかった、というのがいちばんの理由でしょうか。
日記なのかブログなのか考えずに、思うがままに書いていたときには、ほんとうにしあわせでした。日付変更線を超える2時間ばかり、仕事で加熱したアタマをビールで冷やしながら、PCの画面に向かってさまざまなことをひとりで考える。楽しいこともあれば、かなしみに打ちひしがれているときもあり、怒りもある。映画を観たときの感動もあれば、日常の瑣末なできごともある。いくつかのネタをどう料理しようか、文章にまとめようかと考える時間は、とてつもなくしあわせな時間でした。それでいいんじゃないのかな、と、たまに考えます。別にたいそうな理由がなくても、そうやって淡々と書けばいいのではないか、と。
いつからか、書くことの至福な時間を見失ってしまっていたように思います。最近は、書こうとすると苦痛を感じるようになりました。ブロガーとは何なのかわからずにブロガーであろうとしたこと、ことばでだれかを救いたいという身のほどを超えた大義とか、自分にはあまり興味のない話題にあえて挑戦しようとか、そんなむちゃを企てたせいかもしれません。等身大のことを書くこと。自然にうちなる何かに突き動かされて、いずみのように溢れてくる何かをことばに絡めとること。それが大切なはずなのに。
訪問していただいて、稚拙なぼくの文章を読んでくれているだれかの視線も気になっていました。その視線に自由を奪われていたところもあります。だれかの言うことに耳を澄ますことは大切ですが、自分というものを確固として持っていないと、だれかのことばに翻弄される場合もあります。こういうことを書くと嫌われるだろうなと思って口をつぐんでしまったり、ウケを狙って書きたくもないテーマで書いてみたり。ほんとうは違うんだけれど、と違和感とだれに向けて発しているのかわからない前口上を呟きつつ、固定されたイメージの枠のなかで、過去の確固としたブロガー像から逃れられずに、惰性のまま書きつづけてしまう。
自意識の問題かもしれません。しかし、何かを表現するにあたって、読者としての他者や自意識から解放されて書くことは難しい。特に炎上することがなかったとしても、そんな内なる葛藤に疲れて、ブログを辞めてしまうひとも多いのではないでしょうか。具体的な敵対する他者よりも、自分の内側にいる批評家の辛辣な指摘に負けてしまうこともあります。
それでもぼくは、自分で選んだこのスタイルに覚悟を決めて、これからも書きつづけようとする意思を確かめています。
ブログの模様替えなども考えながら、あらためてアーカイブページ(こちら)に並んだタイトルを眺めて、よく書いたものだなあ、と自分にあき・・・いや、感心しています。酷いエントリも多々ありますが、それもまた過去の経験です。嫌悪感を感じるのであれば読まなければいいし、わからないひとにはわかってもらおうとも思わない。そもそも既成のブログサービス(はてなでした)から逸脱して、自分でサーバーを借りてブログを構築したのは、読んでほしくないひとからの過剰なアクセスを避けたいという意図もありました。ひっそりと世間から離れた場所で、隠遁のようなかたちでブログで好きなことを書いていたかった。
長期的にブログを書いていて面白いのは、去年の3月、おととしの3月というように、時系列で輪切りにしてそれぞれの3月のできごとを比較できることですね。ブログに限らず、5年日記のようなものを書いているひとは、そんな風に過去の同じ月のことを比較できることと思います。読んでいるひとにはわかりにくいかもしれませんが、ぼくはどうやら3月から4月にかけて毎年、情緒不安定なようです。読み直して、どひゃー穴があったら嵌まりたい(いや、入りたいか)という恥ずかしさを感じました。しかし、遠い過去の3月を懐かしく見直しています。
本日で2004年から2009年までのエントリー数は543です。しかし、過去のブログから移行して公開していないエントリがあと523あります。つまり、いま公開されているのと同様の数のエントリが、システムのなかに眠っているわけです。どうしようもない酷い記事は非公開の闇に永遠に葬り去るとして、時間のあるときに過去の記事も復活させていきたいと考えています。
ちなみにメモしておくと、ブログの模様替えとしては、mp3プレイヤーを変えたいということと、できればサイドメニューの月別のリンクをAjaxのメニューにしたい。月別の部分をクリックすると、毎月の項目がうにょーと表示されるような感じです。Ajaxのライブラリから借用すれば特に問題なくできるはずだと思っていますが、なんだか腰が重い。そんなわけで手付かずです。
ときどき、こんな風に自分のこと、ブログのことを見直しながら、ゆっくりと進んでいくことにしましょう。今週は春なのに寒い日がつづいています。はやくコートを手放すことができるといいですね。
東京のサクラも(ぼくの家の近くですが)わずかに開きはじめました。
投稿者 birdwing 日時: 02:10 | パーマリンク | トラックバック
2009年3月25日
デザイナーの葛藤と憂鬱。
CNET Japanの「グーグルのビジュアルデザイン責任者が退職--データ中心主義に嫌気」という記事を、わかるなあと思いつつ、やや苦い気持ちを抱きながら読みました。
先日IE8の正式版もリリース。ブラウザ開発では一時期、各社が戦々恐々と表示速度を競った末、現在ではほぼ互角のスピードになりつつあり、今後はセキュリティ上で堅牢かどうかが求められているようです(WIRED VISIONの記事を参考)。機能性を重視すると、デザインの豊かさより情報取得のスピードや安全性が重視されるのでしょう。
ところが、感性よりも技術志向かつデータ至上主義の取り組みが徹底されていくと、美しいプロダクトを求めるデザイナーのモチベーションは奪われる。文系のぼくには共感できることです。なんとなくですが、わかる。
記事では、Douglas Bowman氏のブログに書かれた彼の嘆きが引用されています。彼のブログ「stopdesign」の3月20日のエントリ「Goodbye Google」から、実際の英文も引用してみます。まずは以下の部分。
When a company is filled with engineers, it turns to engineering to solve problems. Reduce each decision to a simple logic problem. Remove all subjectivity and just look at the data. Data in your favor? Ok, launch it. Data shows negative effects? Back to the drawing board. And that data eventually becomes a crutch for every decision, paralyzing the company and preventing it from making any daring design decisions.
CNETの記事では、「Data in your favor? Ok, launch it. Data shows negative effects? Back to the drawing board. (データはいい感じ?オーケー実装しよう。データはネガティブな効果を示してる?じゃあ振り出しに戻ろう:注・勝手に訳しました)」が省略されていますが、以下のように訳されています。
技術者が溢れている企業では、問題を解決するため工学技術を頼りにする。問題を単純で論理的なものに還元し、主観をすべて取り去ってデータだけを見る。やがて、データがあらゆる問題解決を支えるようになり、企業を麻痺させ、斬新なデザインの決定を妨げる。
直感的なデザインに対して、科学技術は客観性を重視します。感覚的に、これがクールだよね?は通用しない。じゃあ、データで裏付けろ、ということになる。けれども、なんとなくよさを感じているからクールなのであって、感性を数値で説明した途端につまらなくなることもある。
マーケティングでもよくあることです。インサイト(洞察)をもとにした画期的なプランがあったとき、リサーチデータで補足するような愚かなことをやってしまうと、途端にありがちな平均的、平凡な何かになってしまう。直感的な発想のきらめきが色あせてしまう。
ここには、ビジネスは芸術(アート)なのか、という命題もあります。否と考えることもできるし、然りともいえる。感性とロジックのどちらを取るか、ということも考えられます。ぼくは感性至上主義をとるわけではありません。すぐれた作曲をするためには音楽理論の裏づけが必要になることもあるように、客観的な知識は大切なものです。スタンスの違いによって、方向性も分かれてくる。
極論かもしれませんが、たとえばアップルは感性重視であるのに対して、ソニーはロジック重視の企業として製品開発をしている印象もあります。戦略の選択によって、企業のめざすべき方向性も変わってきます。
現場の話に戻りましょう。直感的なデザイナーと客観的な技術者の相互理解がなければ、水と油のように反発しあうだけのものかもしれません。つづいて、次の部分。
Yes, it's true that a team at Google couldn't decide between two blues, so they're testing 41 shades between each blue to see which one performs better. I had a recent debate over whether a border should be 3, 4 or 5 pixels wide, and was asked to prove my case. I can't operate in an environment like that. I've grown tired of debating such minuscule design decisions. There are more exciting design problems in this world to tackle.
そう、Googleでは2種類の青色のいずれかで決めかねたら41の中間色をテストして最もパフォーマンスのよいものを選ぶというのは事実なのだ。先日、境界線の幅を3ピクセル、4ピクセル、5ピクセルのいずれにするかが問題になったとき、自分の意見を証明するよう求められた。このような環境で仕事をすることはできない。そうした些細なデザインの決定を論じるのにはもううんざりだ。
この部分においても最後の「There are more exciting design problems in this world to tackle.(わたしたちが取り組む世界には、もっと面白いデザイン上の問題がある。)」はCNETの記事では引用されていませんが、現場の雰囲気がよくわかります。ちなみに、もっと面白いデザインの問題とは何を考えていたんでしょうね。
すこし考察して、こんなことを見出しました。彼の憤りもわかるけれど、一方的にデータ重視がまずいのではなく、ピクセルに対する緻密なこだわりがあるからこそ、グーグルのサービスは高い品質を維持しているといえるのではないか。
凡人のビジネスマンであれば、まあいいか・・・と妥協して歩み寄るところでしょう。しかし、感性をデータで裏付けなきゃならない考え方が納得できん、やめたやめたやめた!というこだわりは、一流の仕事をしているからこそ言えるものかもしれない(あるいは、デザイナーが逆上するぐらいデータ至上主義が徹底されているのかもしれませんけれども)。
結局のところ、どちらに軍配を上げるというのではなく、双方ともに正論であると思いました。仕事をする環境は自分で選ぶものだと思うし、去っていくDouglas Bowman氏がどこか別の場所で納得できるビジュアルデザインができることを祈るばかりです。一方で、卓越した技術を基盤として成長をつづけてきたグーグルがピクセルにこだわり、データを信頼するのも当然です。
残念だと思うのは、どちらも正論であり正論を戦わせる場所にこそ、すごい仕事ができそうだ、イノベーションも生まれるのではないか、と感じたことです。もちろん、過酷な感性と技術の戦いに疲弊してグーグルを去っていくことに決めたのだとは思うのだけれど、デザインVS技術の戦いを突き抜けたときに、ものすごいものが生まれるような気がする。
・・・結論が出ないですね。煮え切らない感想はひとまず置いて、閑話休題。
Douglas Bowman氏のブログをみて、うーむ、かっちょいいなあ、と思いました。シンプルなのだけれど、グレイとイエローの使い方とか素敵だ。グーグルのビジュアルデザイン責任者だから当然なのだけれど。
実は久し振りに、ぼくもブログのデザインをすこしばかりいじってみたいと考えています。
かつては既製のブログサービスを使ってブログを書いていたのですが、2007年8月からレンタルサーバーを借りてMovable Typeでオリジナルのブログを構築しています。テンプレートは無料で配布されたものを利用させていただいているものの、かなりカスタマイズしていて、実験と学習のためにCSSやデザインもいじりました。しかし、きちんと学習したわけではないので、詰めが甘い。かなりいい加減な作り方をしています。プロの眼でみると、なんだこれは、というコードになっているような気がします。
正直なところ、これがなかなか難しい。既成のものだけでは満足できずに、自分だけのブログを作りたかったのですが、現在では、既製のブログサービスでもかなりコードをいじれるようになっています。たぶん文章を書くことだけに集中するのであれば、テンプレートのデザインを選んですぐに使えるような既成のサービスのほうがいい。
しかし、Web制作に携わっているひとたちだと思うけれど、センスのいいオリジナルデザインのブログを構築しつつ、文章や写真も洗練されていたりするひとには憧れます。なんでもかんでも自分でやる必要はありませんが、デザインに凝ることができるのもブログの楽しみのひとつ。書くだけではなく仕組みであるとか、デザインについてもちょっとだけ究めたい。
本、映画、音楽の紹介については、G-Toolsというサービスを利用しています。これはAmazonのAPIを使って商品情報などを提供する仕組みです。ところがAmazonの仕様変更があったようで、いつからか本の表紙写真など掲載した情報の一部が表示されないようになっていました。どうしたものかな、とずっと悩みつつ放置していたのですが、G-ToolsのAjax Amazonのページを参考にブログに簡単なコードを貼り付けたところ、修正することができました。なんだ、もっと早くやっておけばよかった。そんなわけで過去の書籍の表紙やCDジャケットもきれいに表示されるようになってうれしい。
グーグルのビジュアルデザイン責任者の話と比べると、とほほなぐらい初心者の話ですが、そんな風に、きれいなブログを構築することは、デザインだけではなく技術的な知識も必要になります。しかも技術的なものは次々と変わっていく。Web関連のデザイナーは大変だな、と痛感します。
メインページの上にある、自作DTMを聴くことができるmp3プレイヤーも、もう少しかっこいいものに変えたい。春だからかもしれませんが、模様替えの気分が高まっています。
投稿者 birdwing 日時: 00:46 | パーマリンク | トラックバック
2009年3月19日
「美しい時間」小池 真理子・村上龍
▼book09-03:50代のためのリッチな短編。
美しい時間 (文春文庫) | |
小池 真理子 文藝春秋 2008-12-04 売り上げランキング : 58163 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
50歳の自分が想像できません。どうなっているんだろう。というよりも最近、そこまで頑張れるのかな、という弱気なことまで考えてしまう。なんとなく息切れがしがちな毎日のせいでしょうか。体調も弱ったり、こころもすこし疲れていたり、どこか病んでいたり。もう少しゆっくり生きることができるとよいのだけれど。
あるひとから聞いた話では、50歳になると悩みや身体的なあれこれから突き抜けられるらしい。しかし男性は二極化されるようで、何かに吹っ切れて人生を謳歌できる突き抜けた人間と、病気などで老いていくだけの人間と別れてしまうとのこと。それは極論ではないかな、とぼくは思っていて、ふつうに穏やかなシニアになっていく道もあるだろうと思うのですが、さて、どうでしょう。
小池真理子さんの「時の銀河」、村上龍さんの「冬の花火」という2編の短編小説をカップリングして、平野端恵さんのイラストレーションと横山幸一さんの写真で構成された「美しい時間」は、ネスレのプレジデントというコーヒーのタイアップとして、50代の比較的裕福な層に向けて書かれた作品のようです。
プロモーションのためか、と考えると若干ひいてしまい、純粋に作品を楽しめないことも多いのですが、この本は楽しくさっと読めました。ささいなことに拘るとすれば、贅沢なレイアウトがうれしい。余白が十分にとられていて、特に下の部分の余白が多く、文字の行間もゆったりとしたレイアウトです。内容はもちろん贅沢なつくりといえます。
小池真理子さんの「時の銀河」は、亡くなってしまった男の妻の亜希子と不倫相手の私・梢がレストランで、かつての男に似た人物をみつけながら食事をするシーンからはじまります。そして回想に入っていきます。
ふたりの女性は互いに52歳で、梢は30代のときに亜希子の夫、つまり彼に知り合っている。そもそも浮気相手の女性とその男の妻はいっしょに食事なんてするものかな、という疑問を感じたのですが、ありそうもないシチュエーションもまじえて、どこか昼間に放送されているドラマっぽい印象です。しかしながら、ベタだなーと思いつつ、読んでいくうちに若干じーんとした場面もありました。うまく言えないのだけれど、女性作家ならではの静かな切なさがある。
小説のなかのハイライトのシーンといえば、ここでしょう。忘年会で飲んで遅くなる梢を男は待っているのだけれど、彼女が遅くなったことに苛立ってテレビを大音量でかける。子供じみた行為に腹を立てて喧嘩になり、梢は「こういう関係性にある場合、女が必ず口走ること」を言い立てる。すると、男は部屋の片隅にあった二段チェストを窓から外に投げ捨ててしまう。けれども、あとで和解のために電話をかけてきて、実はその日は、彼の妻である亜希子が卵巣の手術を受ける前日であったことを告げる。
うーむ。びみょうなところです。何が正解かはわからないけれど、言わないのであれば男はずっと口をつぐんでいるべきだと思う。しかし、話すのであれば、もっと別のときに話すべきかもしれない。ただ、男の身勝手さのようなものをうまく描いている気がしました。
村上龍さんの「冬の花火」は、ステッキ店を営んでいる「わたし」が新聞で、カジノで1億円をあてたあとに死んだ老人の記事を読むところからはじまります。この老人、大垣さんは父親の友人であり、とても裕福な暮らしをしていたひとだった。そして、亡くなる前に彼から「冬の花火だ」という短いメールを受け取っていた。冬の花火とはいったい何なのか、という疑問を抱きながら、「わたし」は彼と親しかったひとたちに会い、老人のことを回想します。
とにかくディティールの書き込み方がすごい。ステッキに対する知識であるとか、大垣さんが興味のあった化石に対する薀蓄であるとか、富裕層を想定した暮らしぶりなど、緻密にこれでもかというぐらいに書き込まれています。さすが村上龍さんだ、アタマのいいひとだな、と思うのと同時に、けれども個人的には小説としてはすこしばかり食傷気味というか、疲れてしまいました。なんとなく物語よりも知識の奔流に押し流されてしまう感じ。
しかし、そういう薀蓄を楽しむのも、50代ならではのこころの余裕なのかもしれませんね。たぶん村上龍さんはターゲティングに合わせて、物語的な流れより、知識の幅や広がりを重視したのだと思う。
とはいえ、冬の花火とは何か、という疑問から推理小説的に読ませていく力量にもまいりました。和むのだけれど寂しい結末が用意されています。また、村上龍さんのあとがきがまた面白かった。どちらかというと創作を考える上で、参考になりました。まずはコーヒーのタイアップであることについて書かれた以下を引用します。
五十代の読者を想定して、しかも性的、暴力的な描写はNG、というような制約は、実はわたしの好むところである。小説というのは、制約があったほうが書きやすい。
プロだと思いました。ビジネスマンの感覚に近い。
制約というのは音楽のコードや映画の原作に似ていて、一種の「約束事」であり、大げさに言うと「制度」だ。制度的なものへの挑戦と突破を常に自分に課しているわたしとしては、制約があればあるほど書きやすい、ということになる。
この発言、好きです。音楽と映画に喩えられているところが村上龍さんらしいのだけれど、ぼくにもよくわかる。制度そのものを壊すのではなく、制度のなかで制度を裏切るような何かを生み出すことは、とてつもない快楽であり、ものすごい創造性が求められると思います。
というわけで、あっという間に読み終えてしまった一冊ですが、美しい時間というよりも、ちょっとだけリッチな感覚を味わうことができました。作られたコンセプトの通り、深く文学を楽しむというよりも、コーヒーを飲みながらすこしだけ贅沢な時間をすごしたいときにおススメです。3月8日読了。
投稿者 birdwing 日時: 23:59 | パーマリンク | トラックバック
2009年3月17日
「ヘーゲル・大人のなりかた」西研
▼book09-02:社会を生き抜く強靭な思考を鍛えるために。
ヘーゲル・大人のなりかた (NHKブックス) 西 研 日本放送出版協会 1995-01 by G-Tools |
西研さんの名前は息子から聞いて知りました。小学校の国語で哲学的な授業があったようで、自己と他者のようなテーマのようなものだったかと思うのだけれど、幼い彼は興味を持ったらしい。ぼくも気になって教科書を借りて開いてみたところ、西研さんの名前がありました。そんな経緯があったので、お、この名前知ってるぞ、と書店で手に取った本です。
特にヘーゲルに関心があったわけではありません。しかし、"大人のなりかた"には関心があったかもしれない。というのは、自分の幼稚さに幻滅することが多く、大人になれないなあと最近、反省することが多かったので。
お酒を飲んでタバコを吸える成人になってもちっとも大人ではなかったように、家庭をもって子供ができてもやはり大人ではない自分がいます。幼稚なことに拘って誰かを傷付けたり、自信がもてなくて落ち込んだりしている。稚拙な言動や生き方に、溜息をついたり凹むことが多い。ひとかわ剥けた大人になれません。どうしたものか。
そんなときに読んで、タイムリーに考えさせられることがたくさんあった本でした。本来であれば、ヘーゲルを理解するにはヘーゲルの著作を正面から読むべきでしょう。ただ入門書として、西研さんの解釈を通して学ぶ彼の考え方も、とても魅力的でした。たぶん西研さんのフィルタリングがかけられたヘーゲルだと思います。どちらかというと西研さんの思想の本ともいえる。でも、わかりやすかった。哲学に詳しくないぼくの悪いアタマにもすーっと入ってきた。
ところが、ときどき抜き書きしたり、付箋を立てたりして読んだのだけれど、内容は広範囲に渡っていて、流れを切り出せるものではない。したがって、感想を書こうとすると途方に暮れてしまいました。そんなわけで読後にしばらく寝かせていました。
最近になってヘーゲル関連の著作をよくみるようになった気がするのですが、80年代のポスト・モダニズムの思想では「諸悪の根源こそヘーゲルだ」と徹底的に批判されていたとのこと。共同体など社会の考え方が、個人に重きを置くポスト・モダニズムの思想家には目の敵となるものだったようです。
しかし、現在の生きづらい社会のなかで個人的な悩みを解消し生き方を考える上で、ヘーゲルの哲学は参考になる、と西研さんは述べています。社会や他者を批判するとき、そこにはタフな流儀が必要になる。自分がなぜその正義に至ったのか、という強靭な自己了解がなければ、想いを貫くことができない。しかも、自分にしか理解できない正義ではなく、社会で通用することが重要です。
うわべだけの空虚なスタイルで批判しても、常識やモラルを引き出しても誰かの発言を借りてきても、言葉には重みがありません。過去に生きてきた自分の蓄積された経験、そして反省を総動員して、ひとつの言葉に結晶化させる必要がある。さらに自己の考え方を自己の内部にとどめるのではなく、社会に投影して、社会に通用する正義なのか思考を鍛えあげる必要がある。
まさにこれは、先日観賞したティム・ロビンスが主演の「ノイズ」という映画につながることです。自分にとってうるさくて迷惑な自動車の警報機をぶっ壊しまくった彼は犯罪者でしかないが、署名を募って騒音を規制する条例を作るための政治活動に変えたなら、その正義も社会には通用する。独断的な正義は正義ではないですね。ときとしてそれは悪になる。
生きにくい社会において、自分の正義を潰してしまわないタフな流儀として、思考を鍛えていくものとしてヘーゲルの考え方はとても興味深いとぼくは感じました。また、西研さんがヘーゲルの思想の欠陥を指摘しているところに共感しました。盲目的に思想を信じているわけではない。しかし、時代と誠実に関わって考えつづけたヘーゲルの人間性に注目されています。そう、どんなに抽象的な哲学であっても科学であっても、そこには学問に関わるひとがいてリアルな世界や社会があるんですよね。
自己了解から社会あるいは共同体へ。社会とのかかわりの中で自分の思想をタフに鍛え上げていくことを考えたとき、次の箇所には力を感じました。終章から引用します(P.231)。
人が生きていく、ということは、人間関係や共同体に対する憎しみや齟齬を経験することでもある。私の存在が拒否され、受け入れられないと感じる。そこから、共同体と他人を蔑んで、「あいつらはバカだ、俺だけがわかっている」と思い込むこともある。逆に自分自身のほうを蔑んで、「ぼくはみんなのようにできないダメなヤツだ」と思い込むこともある。
ヘーゲルは、この理想と現実の対立、つまり自分と共同体との対立を、そのまま放置してはおかなかった。「理想が理想のままにとどまるならば、それは無力だ」と考えたからだ。そしてこの対立を超え出るためにこそ、「時代の精神」という場所を設定したのである。
自分の理想には時代的な根拠があるはずだ。そう彼は考えた。自分が抱いてきたのは、たんなる自分だけの妄想ではないはずだ。そう確信できたからこそ、彼はそれまでの自分の理想(自由・愛・共和制)を、時代の歩みという基盤のなかでもう一度検証し、鍛え直すことをみずからに課すことができた。そして、その理想を実現するための具体的な条件を探ることができた。ヘーゲルはそれ以後、この道をまっすぐに進んでいったのだ。
つづいて、西研さんの経験が語られるとともに「相手のことがわかると、自分が受け入れられること」として、ヘーゲルの思考を自分のなかの言葉で綴っていきます(P.233)。
<人間はそれぞれ、その人なりに苦労したりしながら、生きるための努力を続けている。ぼくだけが苦労しているわけでもなく、ぼくだけが偉いのでもない>
<ぼくだけの悩みと思っていたものは、以外にそうではない。他の人も、大なり小なり、同じような悩みを抱えている>
<これまでのぼくは、「自分だけがわかっている」と思うことで、他人との関係をほんとうに大切なものとは思っていなかった。しかし、その態度はむしろ自分を貧しくさせていたのだ>
それと同時に、<だれかを批判するときには、相手の事情をくみとったうえで相手に通じるような言葉をつくらなくてはならない>。強くそう思うようになってきた。なぜなら、あいてのことがわかること、相手を信頼できること、自分が受け入れられていると感じること、そういう悦びをぼくが必要になったからだ。
つまり、関係の悦びを求めるからこそ、言葉を鍛える意味がある。
思考は概念の労働であるとヘーゲルは言っているそうですが(P.112)、その労働によって、自分を起点として、誰かと誰かの向こう側に広がる社会に向けて働きかけていく。そのことが共感を生むようにもなります。次のようにも書かれています(P.239)。
文学や音楽は、ときに、「ああ、ここにも人が生きている」という感覚を与えてくれることがある。生き方が大きくちがっていても、深い共感が生まれることがある。思想の営みも、そういう働きをすることができるかもしれない。いや、そういうものでなくてはならない、とぼくは思うのだ。
思考の鍛え方が足りないな、と自分を振り返って反省しました。説得力のある言葉を獲得するためには、ひとりの時間をつくって、自分の深いところまで降りていく必要があるのかもしれません。
いま「孤独であるためのレッスン」という本も読み進めているのですが、ブログを書くときにも、いたずらにスピードや量産を重視するのではなく、ジムで身体を鍛えるように自分の思考を鍛える時間も大事であり、そんなエクササイズをもっと増やしてもいいかもしれない、と思っています。2月23日読了。
投稿者 birdwing 日時: 23:59 | パーマリンク | トラックバック
2009年3月15日
[DTM作品]グラデュエーション。
季節はめぐり、春がやってきます。春は卒業の季節です。さまざまな希望や不安を抱きながら、学び舎を巣立っていくひとたちも多いのではないでしょうか。慣れ親しんだ環境を離れて、新しい世界に飛び込むのは怖いものです。けれども、その恐怖に打ち克つことで大きな成長もあります。頑張ってくださいね。
社会人になると卒業や入学という節目が希薄になり、特にぼくの勤め先では新入社員を定期的に採用しないので、ますますそんな節目から遠ざかるのですが、それでも春は静かにいろいろなこころのなかを整理する季節であります。逆に情緒不安定になることも多いのだけれど、その危うさもまたよいものです。というのは、ぼくが春に生まれたからかもしれません。
とにかく眠くて、だるくて、頭さえ痛くなってしまったのですが、そんな春の卒業にちなんだ曲を作りたいと思いました。土曜日の深夜から日曜日にかけて、久し振りにPCに向かって制作活動に没頭しました。ゆっくりとした叙情的なバラードではなく、すこしテンポのいい、けれどもなんとなく暗さの漂うような、そんな曲にしたいと考えていました。
いまひとつ荒削りで完成度が低いのですが、公開します。タイトルは、いろいろと悩んだのですが「グラデュエーション(卒業)」としました。映画のエンドロールに流れるような曲にしたかった。
■グラデュエーション。(2分19秒 3.18MB 192kbps)
作曲・プログラミング:BirdWing
ぼくが作る曲のジャンルについて考えるのですが、ミニマル・ミュージックのようかもしれないと思うことがあります。といっても、そのジャンルを想定して作っているわけではなく、分野に関する知識もないので確信がありません。久石譲さんの次の本を読んでいるとき、この言葉に出会い、ああ、ぼくが作りたいものもこれかもしれない、と思いました。
感動をつくれますか? (角川oneテーマ21) 久石 譲 角川書店 2006-08 by G-Tools |
Wilkipediaの解説から次の解説を引用します。
ミニマル・ミュージック(Minimal Music)は、音の動きを最小限に抑え、パターン化された音型を反復させる音楽。1960年代から盛んになった。単にミニマルと呼ばれることもある。
あくまで単純な反復のリズムがメインであり、曲として成り立つ最低限度に近いほど、展開も少ない。しかしそれらの中での微細な変化を聞き取るのが目的であり、全体的な視点から見れば決して無駄な反復ではなく、音楽は徐々に展開していると言える。 音楽にそれほど詳しくない者でも、「ゴジラのテーマ」といえばおおよその想像は付くであろう。
次の部分も引用しておきます。スティーヴ・ライヒはいつか聴きたいと思っていながら、まだ聴いていません。ミニマル・ミュージックの発生がテープによるリピート再生というところも面白い。
ミニマル・ミュージックにつながる最初のきっかけは、スティーヴ・ライヒがテープ音楽によるパフォーマンスを試みたことに始まる。彼の最初期の作品「カム・アウト」(1966年)「イッツ・ゴンナ・レイン」(1965年)は、コピーされた2つの同じテープループを2つの再生装置で同時に再生するが、そのわずかのテープの長さの違い、あるいは再生装置の回転数の微妙なずれにより、最初はほぼ同期していた2つのテープの音声(2つとも曲名にある単語をしゃべって録音したもの)がだんだんずれていく。このずれによるモアレ効果に着目し、単純な反復を繰り返すうちにずれが生じる=徐々に微細な変化を遂げる作風を器楽作品にも当てはめた。ライヒの初期の作品「ドラミング」や「ピアノ・フェイズ」がこれにあたる。
今回作った曲も、途中に展開部分は入りますが、ほぼ同じメロディ、フレーズの繰り返しです。手抜きだ、と思われるかもしれないのですが、まあ、確かにそうかも(苦笑)。ただ、バンドではなくDTMでラップトップミュージックをはじめてから、ひとつのモチーフを繰り返しながら変奏していくパターンに惹かれています。このスタイルで曲を作るとすれば、その音楽がいちばん適していると思うので。
今回も全面的に打ち込みで、凝った技術は何も使いませんでした。最近、制作手法がどんどんシンプルになっていきます。リズムとしては、ボサノヴァではないかと思います。といっても、プロの方からみれば首を傾げるようなボサノヴァのような気がしますが。
さて、音楽とは関係のないお話ですが。
情けないので書くのはどうかと思っていたのですが、過去に思いを馳せて暇を持て余すうちにふと、学生時代に付き合っていた彼女の名前を検索エンジンでググってしまいました。ええと、いい訳なのですが、そういうことってありませんか? ぼくだけでしょうか。
すると、検索の結果から大学教授として働いている彼女がみつかって驚いた。同姓同名もあるかもしれないけれど、これは彼女だ、と確信しました。専攻している分野が大学時代のままだったんですよね。ドイツ文学を学んでいた彼女はミヒャエル・エンデが好きでした(ぼくはエンデより映画のリマールの音楽のほうが好きだったけれど)。たしかお父さんも大学の教授であり、大学院に進学したということをなんとなく知っていたのだけれど、教授になったとは。
■Never Ending Story ( Limahl )
卒業して、いろいろな人生を歩み、疎遠になってしまったひとたちもたくさんいます。いま教授として働いている彼女とは二度と会うことはないでしょう(しあわせなのだろうか、しあわせだといいのだけれど)。しかし、頑張っているなあ、とPCのモニターを眺めながら考えて、ちょっと微笑んでしまった。修復不可能な酷い喧嘩をして別れたのですが、こうして消息を知ることができてよかった。
のめり込むと盲目的に激しい感情をもって付き合うような場合、別れてもお友達で、という大人の関係にはなりにくいものです。とはいえ、心底惚れたひとであれば、関係がなくなったとしても、相手を嘲ったり恨んだり後悔したり関係をなかったことにはせずに、大切にしたい。しあわせであることを遠くから願いたい。けっしてストーカー的に追うのではなくて。
学生の頃のような恋愛をすることはなくなりました。必要のない恋は無駄だと思うし、仕事であるとか、追及したい世界であるとか、ぼくらにはたくさんのやるべきことがあります。しかし、抑制のとれた気持ちのなかで、それでも恋に落ちることはあるかもしれません。予測もつかない何かに翻弄されることもある。それが人生です。
学生を卒業しても、人生を学ぶことからは卒業できない。むしろ、卒業したあとのほうが人生を学ぶ機会がたくさんあります。
投稿者 birdwing 日時: 19:30 | パーマリンク | トラックバック
2009年3月12日
ベロニカは死ぬことにした
▼cinema09-08:狂気の群像に潜む、正常で青い透明な何か。
ベロニカは死ぬことにした [DVD] パウロ・コエーリョ 角川ヘラルド映画 2006-09-22 by G-Tools |
ラテンアメリカの小説家パウロ・コエーリョ原作の邦画です。彼の作品は「11分間」を読んだことがありますが、この「ベロニカは死ぬことにした」は読んでいません。したがって原作のイメージが忠実に再現されているかどうかはわからないのだけれど、主人公の名前もベロニカではなく日本人の名前であるトワなので、まったく違う物語として考えてもよいかもしれないですね。いつか小説も読んでみましょう。
国立図書館で殺伐としたデータ入力の仕事に携わる28歳のトワ(真木よう子さん)は、「何でもあるけど何にもない」生活に嫌気がさして自殺をはかります。ホテルで睡眠薬の錠剤を机に並べて、一粒ずつ口に入れながら、大嫌いな自分へ、とだけ書いた手紙をボトルに詰めて窓から投げる。ここまでのシーンが、こころに痛い。せつない場面です。アンドレア・モリコーネの音楽も耳に残りました。「ニュー・シネマ・パラダイス」を思い出しました。
自殺したはずだったのに、目覚めてみると、トワは精神を病んだひとたちのサナトリウム(診療所)に入れられています。拘束されて暗いベッドの上で眠っている。死ぬことができなかった失意に彼女は苛立って暴れます。しかし、その環境から逃れられない。
それにしても、片桐はいりさんの看護婦は怖すぎ。暗い病室で高笑いするところなどは、背筋が凍りました。凄い女優さんですよね、ある意味。
精神病の病院というものに行ったことがないのだけれど、こんな感じなのでしょうか。たくさんの患者と、医師と看護婦がいるのだけれど、どちらが正常なのかわからない。狂気あるいは精神疾病は、どこまでが正常でどこからが狂気なのか、境界が曖昧なものなのかもしれません。だから映画のなかでは、医師も患者も関係なく、境界の周辺にいるひとたちがサナトリウムに集っているようにみえる。
医師も看護婦も、どちらかというと患者と仲良く共生している。患者に支えられているようなところさえあります。なかにはリストカットばかりしていた過去をもち、アルコールに溺れている看護婦もいる。暗い過去を生きているのに彼女はどこか楽しげであり、その楽しげな笑いが狂気にもみえる。サナトリウムの空気には常に緊張があって、何かのきっかけでぐらぐらと揺れて感情の端から端へと跳んでしまう。患者全体に雰囲気の跳躍が伝播していく。とても危うい。
そうした繊細な脆い群像のなかで、トワだけは、正常であるかのようにみえます。睡眠薬が心臓に負荷をかけたため、あと1週間しか生きられないと告げられ、はじめは抵抗をしますが、そのうちにサナトリウムのひとたちと静かに打ち解けていきます。
彼女と同室の病室である患者サチ(中嶋朋子さん)もせつなかった。15歳のときに大好きになった男性に捨てられて、以後たくさんの男性と関係を持ち、結婚して2人子供をもうけるのだけれど、やはり大好きな男性のことが忘れられずに言葉が出なくなってしまう。そんなサチは、催眠によって身体から抜け出して空を浮遊することに楽しみを見出しています。
何かの本で読んだのだけれど、女性は、思春期のある段階で自分を途方もなく嫌悪する時期があるとのこと。それが原因でこころを病んでいくケースが多く、自分を赦せないあまりに闇のなかへ入り込む。そのきっかけは、とても些細な躓きです。トワもまた同様でした。母親から期待されてピアノの練習をさせられていたのだけれど、発表会の日に途中で弾けなくなり、その日から壊れてしまった、と語ります。それ以降、彼女は自己を全否定しながら28年間を生きてきました。
28歳という年齢についてトワは、もっと若いころには何かを選択するのは早すぎると思っていた、けれどもその年齢になって変わるには遅すぎたと思った、ということを医師に淡々と語ります。この言葉がみょうに記憶に残りました。ぼくにもわかる気がしました。
この映画のなかでは、多くの男性の狂気が外部に向かうのに対して、女性の狂気は深く内面に向かっている印象があります。どちらかというと女性の狂気について緻密に描かれていて、男性としてはトワに想いを寄せる統合失語症のクロード(イ・ワン)ぐらいのものです。絵画の世界に閉じこもって理想の女性を描きつづけるクロードは、彼が描く絵のように静かなブルーという印象の青年です。話はできないけれど、トワと同様に正常な人間のように思える。
自分を嫌うのではなくて、自分を好きになろう、ほんとうに満たされた人生、満たされたセックスをしよう、ということで、トワはある夜、ピアノのある部屋で裸になり、クロードに自分を慰めているところをみせます。
真木よう子さんの肢体(見事なおっぱいだ)に圧倒されましたが、あまりいやらしさはない。というより、静かに微笑んで遠くからトワの自慰を眺めているクロードに、やっぱり正常じゃないのかも、と思いました。ただ、愛するひとが自分の感じる場所を指で弄んで悦びを究めている姿は、自分にとっても悦びをもって見守ることができるのかもしれないな、と思ってしまったぼくもまた、どこか狂っているのかもしれません。
全体的に月光のようなブルーの色調で覆われた印象のある映像で、特にぼくは音楽がよかったと思いました。耳に残る調べでした。ただ、とても混乱する映画であると思うし、うーむ?という解せない感じは残ります。終わり方も納得できない。こういう風に解消してしまってよいのか、という疑問があります。なので、あまりおすすめの映画とはいえません。3月10日観賞。
投稿者 birdwing 日時: 01:19 | パーマリンク | トラックバック
2009年3月10日
ノイズ
▼cinema09-07:ノイズを撲滅する正義、でも作品は・・・。
ぼくらは音に囲まれて生活しています。生活のなかにある音には、心地よい音がある一方で不快な音もたくさんあります。犯罪の発生を知らせるサイレン、ばかでかい音をがなりたてる選挙活動のアナウンス、ドリルがアスファルトを砕く工事中の音など。
ノイズの多くは、人工的に作り出された音です。技術や文化が新たな音を生み出すことがあり、そうした音のなかには、身体に馴染まない音もすくなくない。自然にもカミナリの音や地響きのような不快や不安を生じさせるノイズもありますが、自然のノイズはなぜか耳にやさしい(と、ぼくは感じる)。
シンセサイザーのような電子楽器が作り出した音にも、身体に馴染まない種類の音があります。耳にしっくり馴染まない音はノイズに近い。たとえば音声合成のVocaloidはすっかりブームになりましたが、MEIKOを使っていたとき、技術の可能性を感じつつ、なんか違うなという違和感を確かに感じていました。合成された音のなかにはノイズ的な不快感があります。だからといって、生楽器の至上主義は掲げませんけどね。生楽器だって、弾き方によってはとんでもないノイズになる。
アスペルガー症候群関連の本を読んでいたとき、自閉的な傾向のあるひとは掃除機の音を異様に嫌がる、ということが書かれていて、そうなのか、と思いました。ふつうのひとにとっては、騒々しくても掃除機の音が耐えられないことはない。しかし、しゅいーんというモーターの音や、がーがーとごみを吸い込む音がほんとうに駄目なのだそうです。掃除機から逃げてまわるとか。
騒音に苛立ったり気分を害したりすることがあります。独身最後の時期、ひとり暮らしをしていたぼくは線路に近い場所にアパートを借りていました。始発から最終までの時間、つまるところ深夜以外は、いつも電車の音が振動とともに聞こえているわけです。慣れると思ったけれど駄目でしたね。キンモクセイのたくさん咲く庭があったので癒されたのだけれど、休日もなんだか電車の音で落ちつかなかった。静けさというのは大事だと思いました。
と、ノイズに関する断片をまとめきれずに、無駄に長い前書きをしましたが、そんな関心のもとにタイトルで借りてしまったDVDが、ティム・ロビンス主演の「ノイズ」です。
クルマの盗難防止の警告音に不快感を感じる主人公デビッド(ティム・ロビンス)が、キレて警告音の止まらないクルマを破壊しまくるあげくに、自ら救世主と名乗って街に存在するノイズを撲滅する活動にのめり込んでいきます。どこかバットマンなどのヒーローに重ね合わせられないこともない。けれども、どれだけうるさくて周囲を不快にさせる諸悪の根源とはいえ、正義の名のもとに勝手にひとさまの自動車を破壊したら犯罪者です。だから彼も牢屋に入れられてしまう。
ぼくらも電車のなかで隣りのひとのウォークマンがしゃかしゃかうるさかったとしても、舌打ちして我慢しますよね。よほどのことがなければ、ボリュームを下げてくれませんか、と進言できない。最近では、余計なことを言うと刺されてしまったりすることもあります。だから、うるさくない場所に自分が移動するとか、逆に自分のiPodを聴いて音に引き篭もるとか、受動的な解消をはかる。ものごとを荒立てずに回避しようとする。
しかし、この映画のなかで主人公は主張します。騒音は暴力だ、どうして黙って耐えなければならないんだ、行動を起こすべきではないか、と。一方でチェロが趣味の彼の妻は、窓を閉めればいいじゃない、あなたは犯罪者になってわたしたちの家族を壊すつもりなの、子供にも悪い影響が出ているのよ、と理性的に彼をなじります。そうして騒音に対する苛立ちから解放されずに拘りつづける彼を見捨てて、妻と子は別居してしまう。
ひとりになった彼は多少落ち込んだものの、バットマン的な騒音撲滅活動に目覚めていくわけですが、そんな過程でひとりの若くて美しい女性記者に出会う。彼女は、ひとりで正義のヒーローを気取ってクルマを破壊しまくっていた幼稚な彼の行為を政治的な活動に変えていきます。つまり、署名を募って自動車の警告音を廃止する条例を作る活動に変えていく。
騒音のなかでヘーゲルを読んでいる彼が本を破いてしまう場面もあったのですが、脚本家の趣味なのか、どこか哲学的な示唆がふんだんにありました。そもそも個人の正義を発端として、社会全体の制度に変えていく経験が描かれているところが、どこかヘーゲル的です。また、彼が何を求めているのか、という問いに対して正義や公正さというよりも「美しさ」であるなどという会話が出てくるところも非常に哲学的でした。そのあと署名運動に参加した女性と寝て、ベッドの上で裸の彼女が脚を開きながら、私は美しくありたいのだけれどあそこがグロいから幻滅する、などという会話には困惑したのだけれど。
クルマを破壊していた彼の活動が社会的になっていき、6万人もの署名が集まるにつれて、市長は彼の活動を苦々しく思うようになり、政治的な圧力をかけていきます。せっかくの署名が無になってしまいそうになったとき、彼は・・・。
テーマは面白いと思いました。また、妻とのぎりぎりのやり取りはもっと切なく描ける気がしたのですが、なんとなく陳腐です。そもそも最初のシーンで、カメラ目線で騒音についての見解を語らせたり、選択しなかったもうひとつの現実について画面を分割して表現するところが、観ていて興ざめな印象です。全体的には、いまひとつか、いまふたつ。惜しい映画(ドラマ)だと思いました。3月8日観賞。
■トレイラー
投稿者 birdwing 日時: 23:58 | パーマリンク | トラックバック
2009年3月 8日
きまぐれロボット
▼cinema09-06:コミカルな未来、のようなリアル。
きまぐれロボットDVD+CD(SOUNDTRACK by コーネリアス) きまぐれロボット DVD+(オリジナル・サウンドトラック byコーネリアス, 浅野忠信, 香里奈, 逢坂じゅん ワーナーミュージック・ジャパン 2009-02-25 by G-Tools |
星新一さんのショート・ショートをショートフィルム化。うまい組み合わせです。もともとは携帯電話に配信されていた映画とのこと。携帯電話で映画を観る経験のないぼくには想像できなかったのですが、モバイルのヘビーユーザーにとっては、いまやふつうのことなのだろうか。これなら観てみたいと思いました。通勤時間に1本楽しむ感覚かもしれません。おんぼろのP902iをいまだに使っているけれど、携帯電話を最新の機種に換えようかな。
テンポのいい40分のムービーです。面白かった!随所で、うわはは!のような感じでウケた。声を出して笑いました。中野裕之監督の「SF サムライ・フィクション(DVD買ってしまった)」や石井聰亙監督の「 エレクトリック・ドラゴン 80000V (浅野忠信さんが出ている)」を観賞したときにも思ったのですが、邦画では音楽のプロモーションビデオに似た映像表現で、あえてモノクロの映画が好みです。ローテクなのかハイテクなのかわからず、新しい技術と古い文化が混在している感覚がいい。
主人公エヌ氏(浅野忠信さん)は、新聞小説(!)の作家であり、日々原稿に追われています。母(夏木マリさん)がサポートしていたのですが、突然死してしまう。そこで、朝食を作ったり生活の瑣末なことを任せられるロボットを探して工場を訪れます。この工場が日本の下町に多い旋盤工場のようなたたずまいであり、けれども全部自動でロボットが生産されている。21世紀ってそんなものだろうな、と妙にリアルでした。
彼が雇ったロボット「ジロウ」は、身体がずんぐりしていてかわいい。何か言われると音声で対応するのではなく、口からでっかいレシートのようなもので返事を吐き出します。そこには、ドットのばかでかい文字で「ハイ。」とか書いてある。
しかし、「もっと早く走れないかなー」とエヌ氏に苛立っていわれると、ジェット機にトランスフォームするほど高度な機能をもっています。かと思うと、修理にきた助手(香里菜さん)が後ろから叩いて取っ手をあけると、操作パネルには、「きまぐれ」と「すなお」というつまみしかない。それも古いボリュームコントロールのようなつまみです。すっとぼけた細部の設定が楽しめました。
エヌ氏は、ロボットに家事をさせながら鉛筆を削って原稿用紙に書いています。PCをかたかた打つのではないんですね。そういえば自分も少年の頃には、専用のナイフを親から渡されて鉛筆を削っていたっけ。それが親の教育だったようですが、鉛筆を削るのは得意でした。小説のアイディアに詰まると、エヌ氏はお尻を叩いて発想のひらめきを得ようとします。そんなコミカルな作家を淡々と演じている浅野忠信さんの演技が楽しい。好きな俳優さんなのですが、これは適役だな、と思いました。
星新一さんのショート・ショートは、卒業した学校のような懐かしさがあります。確かはじめての彼のショート・ショートに触れたのは、小学校に入学したばかりのときに教科書に掲載されていた、モグラのロボットの話(タイトルを失念しました)だったかと思います。荒地に花を咲かせるロボットなのだけれど、研究所が封鎖されてしまっても、けなげに働きつづけていて、研究所のあった島を花でいっぱいにしていた・・・のような物語でした。星新一さんの監修のもとに、「SFショートショート・ランド」というような雑誌もあったかと思うのですが、恥ずかしながら10代の頃、その雑誌に常時開設されていたコンテストに応募して佳作になったこともあったっけ。
ロボットが暴走したときに、「きまぐれになるように設定しておいたんですよ」と博士は笑って告げるのですが、すねたり怒ったり、ときには仕事をボイコットすることもあるからロボットはとても人間らしい。さらっと言ってしまうけれど、技術的には、このきまぐれ(ファジー)の実現こそが、難しいテーマではないのでしょうか。
原稿を頑張って書いているエヌ氏に、そっと手書きの応援の手紙を差し入れるジロウにあたたかいものを感じましたが、彼を生真面目に動くように修正すると、「死にたいよ」とこぼした言葉を額面通り受け取って、「みなまで言うな」とエヌ氏をドリルで刺し殺そうとする。言葉をすなおに受け取るあまりにコミュニケーション不能に陥った壊れたロボットに恐怖を感じました。
ものすごい制作費をかけたエンターテイメントの大作もいいけれど、インディーズな雰囲気が漂うショートフィルムも楽しいですね。ちなみに音楽はコーネリアス。小山田圭吾さんの曲とのマッチングもよかったと思います。シリーズ化してくれるとうれしいのですが、なかなか難しいのかもしれないなあ。短いとはいえ、完成された脚本や映像の演出のためには、かなりの手がかかっていると思うので。
オチはなるほどね、という感じです。映画ならではの含みがあって、観ているものを和ませる終わりかたです。小説の場合には、こういう終わり方はできないかもしれません。3月8日観賞。
■メイキング
投稿者 birdwing 日時: 11:49 | パーマリンク | トラックバック
2009年3月 7日
本とか音楽とか、雑記。
午前中には青空がみえて日差しも明るい土曜日でしたが、午後になると雲が多くなりました。散歩に行こう!と誘ったところ子供たちにそっぽを向かれてしまったので、おとーさんはひとりで近所を散策。と、いつの間にか電車に乗って隣りの駅の本屋まで行ってしまった。目的もなく、あちこち彷徨いながら、とりとめのない思考をめぐらせました。
雑記というタイトルはいかがなものか、と思うのですが、まとまらない現状を書きとめておきたいと思います。そういう意味では日記的といえるでしょうか。日々の断片です。
■進まない読書のこと。
本は、これを読んでいるのですが、遅々として進まず。
大洪水 (河出文庫) 望月 芳郎 河出書房新社 2009-02-04 by G-Tools |
ノーベル文学書作家、J.M.G.ル・クレジオの代表作のようです。言葉の大洪水だ。氾濫するイメージに押し流されます。かなり本腰を入れて読まないと読めない作品なので苦戦しています。まだ第一章に辿り着けないのですが(とほほ)、実験的な表記もあり、小説というより詩的な言語のきらめきがあります。
文庫の紹介には次のように書かれています。
万物の死の予感から逃れ、生の中に偏在する死を逃れて錯乱と狂気のうちに太陽で眼を焼くにいたる青年ベッソン(プロヴァンス語で双子の意)の13日間の物語。
何か得たいの知れない言葉の力を感じています。ちなみに文庫のカバーに紹介されていたのですが、G・バタイユの次の2冊も気になる。
空の青み (河出文庫) 伊東 守男 河出書房新社 2004-07-02 by G-Tools |
眼球譚(初稿) (河出文庫) Georges Bataille 生田 耕作 河出書房新社 2003-05 by G-Tools |
気になる本は保留にしておき、読みかけの本が多数あるにもかかわらず、今日も本屋めぐりをして、これを買ってしまいました。
美しい時間 (文春文庫) | |
小池 真理子 文藝春秋 2008-12-04 売り上げランキング : 58163 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
贅沢に余白を使ったレイアウトと、挿入される美しい絵。これなら肩の力を抜いて気軽に読めるかも。難しい本に取り組むのもいいのですが疲れるので(アタマも眼も)、息抜きの本も大切だと思います。ついでに、これも購入。
世界のトップリーダー英語名言集 BUSINESS―夢を実現せよ、人を動かせ、創造せよ (J新書) David Thayne Jリサーチ出版 2009-01 by G-Tools |
大切な言葉は、ある程度文章を費やさないと語れないものでしょう。しかし、だからこそ、言葉を大胆に削ぎ落とした、格言のようなシンプルな言葉は力をもつ。ビル・ゲイツ、ピーター・ドラッカーなどビジネスの一人者が語った言葉を英文、翻訳で収録。さらにCD付きというのがうれしい。
座右の銘というものをもたない自分ですが、気に入った言葉があれば、英文+日本語で心にとめておこうと思います。CDなら読まなくても、聴くことができるのもいい。
■ジャズ的な、けれどもポップな音楽。
音楽では、先週は会社の帰りに久し振りにCDショップで試聴めぐりをしました。北欧エレクトロニカにも惹かれるものはあったのだけれど、最近はどちらかというとジャジーな雰囲気になりたい。というわけで、ジャズかどうかというと疑問なのですが、このアルバムを購入しました。
ノーバディーズ・チューン ウーター・ヘメル P-Vine Special 2009-03-04 by G-Tools |
オランダのポップ・ジャズのシンガーとのこと。洋楽のコーナーとジャズのコーナーでともにプッシュされていたので、売れ筋なのかもしれません。1枚目は聴いたことがないのだけれど、このアルバムの1曲目を聴いたとき、ドノヴァンというか、何か懐かしいポップスの感じがしました。
ぼくが購入したアルバムに収録された曲ではありませんが、以下YouTubeからプロモーションビデオです。
■Breezy - official video
休日にリラックスして聴くにはいい感じ。しかし、全曲を聴いているとちょっと甘ったるいので、本格的なジャズヴォーカルのアルバムを聴きたくなりました。
もうひとり、やはりオーガニックな感じがして気になったのは、台湾生まれでNY育ちの女性シンガー、ジョアナ・ワンでした。台湾のノラ・ジョーンズなどというキャッチがありましたが、少しハスキーな声が気持ちいい。
3CD+DVDとブックレット付きです。迷ったけれど購入を断念。いい声なんだけれど、購入したいレベルまでぐっとくるものがいまひとつだったので。
Joanna&王若琳(台湾盤) | |
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ファーストも試聴したのですが、かなりアレンジがきれいにまとまっています。ぼくは上記2枚目のアルバムのほうが、ジャジーな感じがしていいと思いました。
坂本龍一さんの新譜も店頭で見かけました。ところで、TVBros.というTV番組の雑誌を読んでいたところ、坂本龍一さんのインタビューを発見。
このおじさん、言っていることが結構面白い。共感できるところが多い。新しいアルバムの制作について語っている部分から、以下を引用します。
ピアノは日記を書くようなものでね。時々、一日か二日、気が向くまま、指が赴くままに録り貯めしていたの。日記のような独り言のような、そこから切り抜いて今回持ってきて。だから暗いですね(笑)。ボソボソと独り言を録り貯めしてるような。例えば'09年1月何日の独り言を切り貼りしているようなものなのよ。
いいなあ、なんとなくわかる。ぼくも趣味のDTMでは、作品と気負わずに、日記のように曲を作りたいと思っています。小山田圭吾さんや高田漣さんに、2~3時間適当に弾いてもらって、使える部分を使って作品にすることを「それはまあ、言ってみれば釣りですね」という言葉にも、思わずにやりとしました。
・・・と、まとまりませんが、本と音楽についてメモしてみました。関係ありませんが、とても眠いです。休日に遅寝して布団にもぐりこんでいると天国です。春ですなあ。
投稿者 birdwing 日時: 22:10 | パーマリンク | トラックバック
2009年3月 5日
アーカイブとリアルによる10年。
ビデオカメラが壊れました。ぼくの使っているカメラは、SONYのHandyCam DCR-TRV10で、あまりよい機材ではなく、購入した当時は入門機として売られていたものだったと記憶しています。一般の家庭向けの普及機でした。
この機材以前にはHi8のテープを使うカメラを使っていたのですが、壊れたのでこのカメラに買い換えました。10年ちょっと使ったでしょうか。成長に合わせて子供たちのイベントをずいぶん記録したし、社会人バンドをやっていた頃には、演奏をチェックするためにスタジオで撮ったこともありました。先日、次男の幼稚園で開かれたおひなまつり会を最後に、動かなくなりました。もう少しがんばってほしかったけれど、寿命をまっとうしたという感じでしょう。お疲れさまでした。
蓋を開けるとカセットの挿入部分がうぃーんという感じで自動的に出てくるのですが、これが戻らなくなった。
からからからから、という感じでテープを巻き戻すモーターも空回りしています。無理やりテープをかませて押し込むと、再生されずに記号(C:32:11)が表示されて、うんともすんともいわない。たぶん修理するよりも買い換えたほうがよいと思うので、新しいカメラを物色しています。
しかし、ここで困った。最新のビデオカメラはハードディスク内臓タイプがほとんどで、カセットは使わない。記録の主流はカセットからディクスに変わっています。CDからハードディスクに書き込むiPodなど音楽観賞と同様の傾向にあります。
80GBなどのディスクに記録して、容量がなくなったら外部メディアのDVDやブルーレイディスクに保存するスタイルです。メモリースティックなど記録メディアを利用する機種は小型化されて、さらにスタイリッシュになっています。画質もフルハイビジョンなので、店頭でデモをみて、おおお、こんなにちいさいのに映像がきれいじゃないですかー、と盛り上がりました。
でも、決定的に困るのが、いままで撮りためていたMiniDVのカセットがまったく使えなくなることです。実はHi8からMiniDVの機種に換えたときもそんなことがありました。過去に撮りためた映像がまったく観ることができなくなってしまったんですよね。大切な記録なのに。
以前、ソニーのプロモーションサイト「Come with me」についてエントリを書いたときに不安に思っていたことが、現実になったという感じです。過渡期なのでしょう、いまはきっと。けれどもせっかくの記録を観ることができなくなってしまうのは酷い。なんとかしてほしい。最新のビデオカメラを購入することは、過去にさんざん記録してきた資産をすべて葬り去ることになる。うーん。
カメラではなくてデッキでMiniDVを観ることができる機械がないか、と検索してみたのですが、既に生産中止になっている。しかも、75万円もするデッキだったりします。なんだこれは。
逆に通常の画質でよければ、3万円でMiniDVのカメラが買えます。このカメラから撮影機能を除けば、1万円ぐらいで再生専用デッキができそうな気がするのだけれど。個人的には、そんなデッキがあればめちゃめちゃ欲しい。ただ、メーカーとしては費用対コストが合わないのでしょう。
ところで、いま動画を撮影できるガジェットといえば、ビデオカメラだけではありません。デジタルカメラや、携帯電話でも映像を撮影して残すことができます。画質や時間にこだわらなければ、ちょっとした動画をメモすることができ、データの記録形式は違っていてもパソコンに取り込めば観ることができる。
こういうスタイルがいいな、と思いました。ハードや記録媒体に依存するのではなく、データに変換してしまえば汎用性も高い。もちろんコンバートする形式によって容量などの問題も生じるかもしれないのだけれど、特別なハードウェアがなければ観ることができない、聴くことができないリソースは不便です。
音楽も同様です。レコードプレイヤーがなければ(というよりも、レコード再生の場合は針が重要で、針がなければ)聴けないようなものは困る。カセットデッキすら最近はあまり見かけなくなりましたが、MDも同様。CDもいずれはなくなってしまうかもしれません。それでもmp3やWAVEなどの形式になっていれば、きっと聴くことができる。そうして原盤がなくなってしまったとしても、どこかの誰かが音源を残していてくれたなら、シェアすることで、懐かしい音を再現できる。
あらためて、21世紀っていい時代なのかもしれないな、と思いました。しかし、データ主導の情報化社会によって弊害があるかもしれません。記録された過去にいつでもアクセスできるため情報量はものすごい勢いで増えます。現在だけでなく、過去の記録のすべてを背負って生きなければならない。人生の重みを超えるほど過度な情報の重さがのしかかることになります。
たとえば子供たちのヒーロー番組をいっしょに観ていて思うことですが、過去の膨大な文脈を辿りながら番組が進行していきます。新しくはじまった「仮面ライダーディケイド」は、過去10年間のライダーがすべて登場します。
■仮面ライダーディケイド
http://www.tv-asahi.co.jp/decade/
ディケイド、なんだかスイカみたいな顔ですけどね。夢のないビジネス視点で解説すれば、キャラクター商品の販売促進も視野に入れた、おとうさん世代を巻き込んだ展開だと思う。あざといといえばあざとい。ただ、過去のアーカイブが現在の物語を多様に膨らませています。10年培ってきた仮面ライダーというキャラクターの資産は、やはり大きい。
うちの息子たちは(特に長男)、過去10年のライダー作品をDVDであらためて借りて観ています。ウルトラマンでもそうでした。ぼくらが子供の時代には、テレビの映像は消えていくものであり、番組をリアルタイムで一生懸命観て、あとは次回を楽しみにしていたものです。ビデオという記録装置がなかったから、時間軸を遡って過去の別のストーリーを体験することはあまりありませんでした。
正しいかどうか判断はできないけれど、リアル+アーカイブによって、現在進行形以外の過去の付加情報が増えつつある時代になっているのではないでしょうか。時間は複線的になっている。決して、現在のリニアな時間だけではなく、寄り添うようにアーカイブされた過去の時間がある。
たとえば、メールなども過去ログを読み直すことによって、過去に感じたあれこれを現在に再生したり、忘れることなく持続できます。ネガティブな感情であれ、楽しかったやりとりであれ、過去が現在と同じぐらいのリアリティで立ち昇ってくるような環境があります。
ブログのエントリも、最新のエントリよりも過去のエントリのほうがむしろよく読まれるようです。書いているブロガーとしては、過ぎ去った時間の遺物だと思っていても、訪問して読むひとにとっては、現在進行形のテーマとして捉えることもあるかもしれません。だから誤解も生まれる。書いている自分にとっては解決している問題が、読み手にとっては現在の問題として捉えられるわけなので。
ところで、新しいビデオカメラなのですが、候補としてはソニーのHDR-HC9を考えています。MiniDVDの資産を生かしながら、フルハイビジョン対応です。
別にソニーではないくてもいいのですが(キヤノンやパナソニックも結構よさそう)、なぜか子供の頃からの憧れでソニー製品を選んでしまう。新しい電化製品を買うのは、選ぶ時間も含めて楽しいものです。選ぶ時間のほうが楽しかったりもする。わくわく。
願わくば、これから10年、つまるところ2019年まで使える機材であってほしいのですが。
投稿者 birdwing 日時: 23:23 | パーマリンク | トラックバック
2009年3月 3日
ゾロめな日。
今日はひなまつり。googleのトップページも、おひなさまの画像で飾られていました。いつもは控え目なロゴですが、かなり派手だったような気がします。金屏風が背景にあったりして。
ぼくには娘がいるわけではありません。だから、ひなまつりは季節のイベントとしては盛り上がりに欠けます。むしろゾロめに敏感なぼくとしては、おひなまつりより3月3日という3並びの数字にぐっときました。夜更かしができれば、深夜3月3日3時33分33秒を確認したいところでしたが、ぐっすり眠っていたので残念。確認したからどうだ、というのはありますけどね。
しかしながら、数字がいくつも並ぶ瞬間は、なんとなく魅力的なものがありませんか? ぼくだけなのかな、この感覚。
もちろん、パチンコでは数字が並ぶことによって利益が生まれます。だからパブロフの犬的に数字の並びはうれしいのだけれど、そうではなくても数字が規則的に並ぶ現象が、ぼくには楽しい。とてもささやかな楽しさなのだけれど。
時間のマジックというか、刹那の完成系という感じでしょうか。同じ数字の列がつながり、時間の結晶となって一瞬だけ完成されたあとで、すぐにばらばらと崩れていく。その儚い美しさがいい。というより、ぼくの意識がマジックを成立させているだけであって、別にどうってことない日常なのかもしれません。
そんなゾロめ好きなぼくが、今日ニュースを読んで、偶然とはいえこれだけ3が並ぶのも凄いな、と思ったのは、asahi.comの「3月3日、三つ子3歳誕生日 白石の一家」という記事でした。
「札幌市白石区の氷室信康さんの三つ子の子どもたちが3日に誕生日を迎え、そろって3歳になる」とのこと。さらに、夫妻も今年で33歳らしい。「3日午前3時33分には、信康さんが3人の寝顔を記念撮影する予定」とあり、やられた・・・と思いました。何にやられたのかよくわかりませんが、ここまで徹底して3が並ぶ運命にある家族もあるものだなあ。すこし感動。
ちなみに、5月5日は子供の日、7月7日は七夕と、ゾロ目の記念日もあります。こじつけも含めて、そのほかに面白いゾロめの日はないかなと探してみたところ、Wikipediaでいろいろと発見しました。Wikipediaには、365日について、その日に生まれたひとや行事が記されているため、自分と同じ誕生日の有名人や誕生日に縁のある行事を探すのにも便利です。
いろいろな記念日が作られているのですが、個人的に面白いと思ったものをピックアップしてみます。あまり、よろしくない記念日としてはこれ。
■2月2日
頭痛の日
「2(ず)」「2(つう)」の語呂あわせから、頭痛の存在と理解の輪を広げるためジョンソン・エンド・ジョンソンが2001年に制定。
苦し紛れというか、無理があるような気もする。タイレノールの製品といっしょに頭痛の日を紹介するコンテンツがあってもいいんじゃないか、と思ったのですが、いろいろとサイトを検索して調べてみると、頭痛の日は一年で廃止されてしまったようです。一過性の頭痛だったか。では、8月2日は「8(よう)2(つう)」の日か、と思ったら、そんな日はなさそうでした。残念。
音楽に関連する並びの記念日には、次のようなものがあるようです。
■4月4日
ピアノ調律の日(日本)
4月の英語表記が April、調律に使うAの音の周波数が440Hzという所から。
■6月6日
楽器の日
6月6日がなぜ楽器の日なのでしょう。よくわからなかったのですが、ヤマハのサイト「おんがく日めくり」に説明がありました。このサイトは既に更新が終了している古いコンテンツのようですが、なかなか面白いコラムが掲載されています。以下、引用します。
では、6月6日がどうして楽器の日に選ばれたのでしょうか。それは古くから言われている「芸事の稽古はじめは、6歳の6月6日にする」というならわしに由来しています。なぜ子どもの稽古はじめが「6」づくしなのか、定説はありませんが、一説によれば日本式に数を指で数えると、5までは指を曲げるけれども、6になると逆に小指から指を立てる、そこから「子が立つのは6」と縁起をかつぎ、6歳の6月6日となった、とも言われています。
楽器でなくてもいいですね、これは。芸事の稽古はじめなのだから、舞踊の日であってもかまわない。こじつけ臭がぷんぷんにおいます。ただ、このわけのわからなさが記念日としては面白い。
ところで、日々の繰り返しのなかにいると、昨日と同じ今日、今日と同じ明日のように、毎日が金太郎飴のような連続になってしまう感覚に囚われます。しかし、意識によって連続を断つことにより、新しい時間の流れを生むことができないか。そんなことを考えました。
思い立ったが記念日というか、ゾロめという規則的に数字が並んだ日や時間でもかまわないのですが、何か非日常的な節目を勝手に設定して、そのとき自分にリセットをかける。時間や空間には境目というものがありませんが、数値化された何かによって、意識的に境界を作るわけです。
緑内障という視力の障害を病院で告げられて、逆にものすごく鮮やかにみえてきた風景がありました。
たとえば自宅までの帰り道。商店街の遠くまでつづく街灯が、最近、ぼくにはとてつもなく美しい光の連鎖にみえます。いままでにも、その風景はあったはずです。世界は何も変わっていないのに、意識が変わったことによって、みえ方がぜんぜん違う。いままでみえていなかった風景がみえるようになる。ちょっとしたきっかけで、世界は昨日とは変わってしまう。
大袈裟なことではなく、生活のなかに潜んでいる瑣末な契機でかまわないと思います。けれども、そいつを掴んでしまうと、世界がいままでとは変わってみえる。そんな生活を変える些細なTIPSのようなものがあるのかもしれない。
東京では、しんしんと雪が降っています。季節はずれの雪だけれど、今夜は積もるのかな。雪もまた現実世界を一夜にして変えてくれますね。明日の朝が楽しみです。まったく積もっていなければ、それはそれでよかった、ということで。
さて、あったまって眠りますか。
投稿者 birdwing 日時: 23:57 | パーマリンク | トラックバック
2009年3月 1日
[DTM作品] YOKO(陽光)。
春はどこへ行ったんだろう。東京では寒い日々が続いています。雨が多いのですが、先週は雨どころではなく雪まで降りました。ぼたぼたと落ちてくる大きめの春の雪を眺めながら、風流というよりも寒さの意識が先行していたような気がしました。とにかく、さみー。さみー・でいびす・じゅにあ(意味不明)。
寒さのために身体も縮こまりがちですが、こころも縮こまってしまう。なんとなく冷え込んだ気持ちを立て直すために、久し振りに土曜日から趣味のDTMに没頭することにしました。できれば、あたたかい春の日差しのような曲が作りたかった。ゆったりと穏やかな曲もいいけれど、テンポがあって気分が高揚して明るくなれる曲がいい。
ところが、久し振りに音楽制作ソフトDAWのSONARに向かってみると、どうも調子が出ません。というよりも、作り方自体を忘れてしまっている。
愕然としました。ブログもそうですが、継続して書いていると習慣でエントリを書けるものですが、しばらくインターバルがあると書くのに抵抗がありますね。そして、ソフトウェアやアプリケーションも、離れていると操作の方法自体がわからなくなる。ピアノロールの画面を前にして途方に暮れました。
スポーツも同様だと思うのだけれど、身体で覚えているようなところがあり、アタマではわかっていても身体感覚を取り戻せないとうまくできない。
そんなわけで、打ち込みのリハビリという感じで作った作品です。タイトルは「YOKO(陽光)。」としてみました。今日も天気のぱっとしない一日でしたが、春のあたたかい日差しを想って作りました。ちなみに、女性の名前のヨウコさんではないですよ。ヨウコさんといって思い出すのは、ジョン・レノンが生涯ひたむきに愛した女性であるオノ・ヨーコですが。
■YOKO(陽光)。(2分49秒 3.86MB 192kbps)
作曲・プログラミング:BirdWing
曲を作るにあたって、どのような文脈を参考にしたかということはなかなか難しく、どちらかというと自分のなかにある音を引き出してきた感じです。リハビリということもあり、あまりとらわれずに自由に作ってみたかった。打ち込み感覚を取り戻すということで、基本的なテクノ感を大事にしました。打ち込みらしさに忠実にあること、でしょうか。
しいていえば、80年代の洋楽の感じかもしれません。かつても書きましたが、スクリッティ・ポリッティとか、ハワード・ジョーンズとか、ペット・ショップボーイズとか。どの曲とはいえませんが、ぼくのなかにあるそんなミュージシャンたちの記憶です。
■Scritti Politti - Absolute
クールだけれど、あたたかい音があると思っています。無機質な電子音でありながら、包み込むようなあたたかさがあるシンセサイザーの音のように。というのは80年代に生きてきた人間だからこそ感じる印象かもしれません。音の背景に、過ごしてきた学生時代の思い出などを重ねるのでしょう。とはいえ、ぼくは個人的には、オルゴールの音、サックスの音などに透明な響きとともに洗練されたぬくもりを感じています。
今回はSONAR付属のTTS-1のプリセット音のみで制作しました。テナーサックスの音をプリセットで入れましたが、きっと本物の音にはかなわない。最近、菊地成孔さんとか、コルトレーンなどを聴いていたせいで、サックスに対する憧憬が高まっているのだけれど、聴くのと創るのでは大きな違いがあります。
所詮、シンセサイザーはまがいものであり、サックスの「ような」音しか出ない。けれども吹けるようになるためには才能も要求されるわけだし、ぼくは憧憬を擬似的な音で追求していきたいと考えています。
楽曲的には、仕事の最中にアタマに浮かんだメロディ一発勝負で、ほとんど最初から最後までそのモチーフを利用しています。忘れないように口ずさんだりしていました。しかし後半で転調をして、そのまま終わりました。転調したあとの展開部分はありがちなコード進行で、どうかな?とは思っています。
しかし、リハビリという意味では、ありふれた展開部分が楽しかった。創造的な意味ではクリエイティビティに欠けるかもしれませんが、自分にとって近しかったり好きなコードで曲を作るのは、とても心地よいものです。
ほんとうは作り手の立場としては、聴き手のことを考えなければいけないことはわかっているのだけれど、自分を救済するためには、ホームグラウンドのような場所を持っておくことは大切なことかもしれません。自分を見失ったら帰ってくることができる何かを維持しておくことは、とても大事だと思います。
それにしても、はやく春が来るといいですね。
投稿者 birdwing 日時: 18:59 | パーマリンク | トラックバック