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2009年3月17日

「ヘーゲル・大人のなりかた」西研

▼book09-02:社会を生き抜く強靭な思考を鍛えるために。

4140017252ヘーゲル・大人のなりかた (NHKブックス)
西 研
日本放送出版協会 1995-01

by G-Tools

西研さんの名前は息子から聞いて知りました。小学校の国語で哲学的な授業があったようで、自己と他者のようなテーマのようなものだったかと思うのだけれど、幼い彼は興味を持ったらしい。ぼくも気になって教科書を借りて開いてみたところ、西研さんの名前がありました。そんな経緯があったので、お、この名前知ってるぞ、と書店で手に取った本です。

特にヘーゲルに関心があったわけではありません。しかし、"大人のなりかた"には関心があったかもしれない。というのは、自分の幼稚さに幻滅することが多く、大人になれないなあと最近、反省することが多かったので。

お酒を飲んでタバコを吸える成人になってもちっとも大人ではなかったように、家庭をもって子供ができてもやはり大人ではない自分がいます。幼稚なことに拘って誰かを傷付けたり、自信がもてなくて落ち込んだりしている。稚拙な言動や生き方に、溜息をついたり凹むことが多い。ひとかわ剥けた大人になれません。どうしたものか。

そんなときに読んで、タイムリーに考えさせられることがたくさんあった本でした。本来であれば、ヘーゲルを理解するにはヘーゲルの著作を正面から読むべきでしょう。ただ入門書として、西研さんの解釈を通して学ぶ彼の考え方も、とても魅力的でした。たぶん西研さんのフィルタリングがかけられたヘーゲルだと思います。どちらかというと西研さんの思想の本ともいえる。でも、わかりやすかった。哲学に詳しくないぼくの悪いアタマにもすーっと入ってきた。

ところが、ときどき抜き書きしたり、付箋を立てたりして読んだのだけれど、内容は広範囲に渡っていて、流れを切り出せるものではない。したがって、感想を書こうとすると途方に暮れてしまいました。そんなわけで読後にしばらく寝かせていました。

最近になってヘーゲル関連の著作をよくみるようになった気がするのですが、80年代のポスト・モダニズムの思想では「諸悪の根源こそヘーゲルだ」と徹底的に批判されていたとのこと。共同体など社会の考え方が、個人に重きを置くポスト・モダニズムの思想家には目の敵となるものだったようです。

しかし、現在の生きづらい社会のなかで個人的な悩みを解消し生き方を考える上で、ヘーゲルの哲学は参考になる、と西研さんは述べています。社会や他者を批判するとき、そこにはタフな流儀が必要になる。自分がなぜその正義に至ったのか、という強靭な自己了解がなければ、想いを貫くことができない。しかも、自分にしか理解できない正義ではなく、社会で通用することが重要です。

うわべだけの空虚なスタイルで批判しても、常識やモラルを引き出しても誰かの発言を借りてきても、言葉には重みがありません。過去に生きてきた自分の蓄積された経験、そして反省を総動員して、ひとつの言葉に結晶化させる必要がある。さらに自己の考え方を自己の内部にとどめるのではなく、社会に投影して、社会に通用する正義なのか思考を鍛えあげる必要がある。

まさにこれは、先日観賞したティム・ロビンスが主演の「ノイズ」という映画につながることです。自分にとってうるさくて迷惑な自動車の警報機をぶっ壊しまくった彼は犯罪者でしかないが、署名を募って騒音を規制する条例を作るための政治活動に変えたなら、その正義も社会には通用する。独断的な正義は正義ではないですね。ときとしてそれは悪になる。

生きにくい社会において、自分の正義を潰してしまわないタフな流儀として、思考を鍛えていくものとしてヘーゲルの考え方はとても興味深いとぼくは感じました。また、西研さんがヘーゲルの思想の欠陥を指摘しているところに共感しました。盲目的に思想を信じているわけではない。しかし、時代と誠実に関わって考えつづけたヘーゲルの人間性に注目されています。そう、どんなに抽象的な哲学であっても科学であっても、そこには学問に関わるひとがいてリアルな世界や社会があるんですよね。

自己了解から社会あるいは共同体へ。社会とのかかわりの中で自分の思想をタフに鍛え上げていくことを考えたとき、次の箇所には力を感じました。終章から引用します(P.231)。

人が生きていく、ということは、人間関係や共同体に対する憎しみや齟齬を経験することでもある。私の存在が拒否され、受け入れられないと感じる。そこから、共同体と他人を蔑んで、「あいつらはバカだ、俺だけがわかっている」と思い込むこともある。逆に自分自身のほうを蔑んで、「ぼくはみんなのようにできないダメなヤツだ」と思い込むこともある。
ヘーゲルは、この理想と現実の対立、つまり自分と共同体との対立を、そのまま放置してはおかなかった。「理想が理想のままにとどまるならば、それは無力だ」と考えたからだ。そしてこの対立を超え出るためにこそ、「時代の精神」という場所を設定したのである。
自分の理想には時代的な根拠があるはずだ。そう彼は考えた。自分が抱いてきたのは、たんなる自分だけの妄想ではないはずだ。そう確信できたからこそ、彼はそれまでの自分の理想(自由・愛・共和制)を、時代の歩みという基盤のなかでもう一度検証し、鍛え直すことをみずからに課すことができた。そして、その理想を実現するための具体的な条件を探ることができた。ヘーゲルはそれ以後、この道をまっすぐに進んでいったのだ。

つづいて、西研さんの経験が語られるとともに「相手のことがわかると、自分が受け入れられること」として、ヘーゲルの思考を自分のなかの言葉で綴っていきます(P.233)。

<人間はそれぞれ、その人なりに苦労したりしながら、生きるための努力を続けている。ぼくだけが苦労しているわけでもなく、ぼくだけが偉いのでもない>
<ぼくだけの悩みと思っていたものは、以外にそうではない。他の人も、大なり小なり、同じような悩みを抱えている>
<これまでのぼくは、「自分だけがわかっている」と思うことで、他人との関係をほんとうに大切なものとは思っていなかった。しかし、その態度はむしろ自分を貧しくさせていたのだ>
それと同時に、<だれかを批判するときには、相手の事情をくみとったうえで相手に通じるような言葉をつくらなくてはならない>。強くそう思うようになってきた。なぜなら、あいてのことがわかること、相手を信頼できること、自分が受け入れられていると感じること、そういう悦びをぼくが必要になったからだ。
つまり、関係の悦びを求めるからこそ、言葉を鍛える意味がある。

思考は概念の労働であるとヘーゲルは言っているそうですが(P.112)、その労働によって、自分を起点として、誰かと誰かの向こう側に広がる社会に向けて働きかけていく。そのことが共感を生むようにもなります。次のようにも書かれています(P.239)。

文学や音楽は、ときに、「ああ、ここにも人が生きている」という感覚を与えてくれることがある。生き方が大きくちがっていても、深い共感が生まれることがある。思想の営みも、そういう働きをすることができるかもしれない。いや、そういうものでなくてはならない、とぼくは思うのだ。

思考の鍛え方が足りないな、と自分を振り返って反省しました。説得力のある言葉を獲得するためには、ひとりの時間をつくって、自分の深いところまで降りていく必要があるのかもしれません。

いま「孤独であるためのレッスン」という本も読み進めているのですが、ブログを書くときにも、いたずらにスピードや量産を重視するのではなく、ジムで身体を鍛えるように自分の思考を鍛える時間も大事であり、そんなエクササイズをもっと増やしてもいいかもしれない、と思っています。2月23日読了。

投稿者 birdwing : 2009年3月17日 23:59

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