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2009年3月15日
[DTM作品]グラデュエーション。
季節はめぐり、春がやってきます。春は卒業の季節です。さまざまな希望や不安を抱きながら、学び舎を巣立っていくひとたちも多いのではないでしょうか。慣れ親しんだ環境を離れて、新しい世界に飛び込むのは怖いものです。けれども、その恐怖に打ち克つことで大きな成長もあります。頑張ってくださいね。
社会人になると卒業や入学という節目が希薄になり、特にぼくの勤め先では新入社員を定期的に採用しないので、ますますそんな節目から遠ざかるのですが、それでも春は静かにいろいろなこころのなかを整理する季節であります。逆に情緒不安定になることも多いのだけれど、その危うさもまたよいものです。というのは、ぼくが春に生まれたからかもしれません。
とにかく眠くて、だるくて、頭さえ痛くなってしまったのですが、そんな春の卒業にちなんだ曲を作りたいと思いました。土曜日の深夜から日曜日にかけて、久し振りにPCに向かって制作活動に没頭しました。ゆっくりとした叙情的なバラードではなく、すこしテンポのいい、けれどもなんとなく暗さの漂うような、そんな曲にしたいと考えていました。
いまひとつ荒削りで完成度が低いのですが、公開します。タイトルは、いろいろと悩んだのですが「グラデュエーション(卒業)」としました。映画のエンドロールに流れるような曲にしたかった。
■グラデュエーション。(2分19秒 3.18MB 192kbps)
作曲・プログラミング:BirdWing
ぼくが作る曲のジャンルについて考えるのですが、ミニマル・ミュージックのようかもしれないと思うことがあります。といっても、そのジャンルを想定して作っているわけではなく、分野に関する知識もないので確信がありません。久石譲さんの次の本を読んでいるとき、この言葉に出会い、ああ、ぼくが作りたいものもこれかもしれない、と思いました。
感動をつくれますか? (角川oneテーマ21) 久石 譲 角川書店 2006-08 by G-Tools |
Wilkipediaの解説から次の解説を引用します。
ミニマル・ミュージック(Minimal Music)は、音の動きを最小限に抑え、パターン化された音型を反復させる音楽。1960年代から盛んになった。単にミニマルと呼ばれることもある。
あくまで単純な反復のリズムがメインであり、曲として成り立つ最低限度に近いほど、展開も少ない。しかしそれらの中での微細な変化を聞き取るのが目的であり、全体的な視点から見れば決して無駄な反復ではなく、音楽は徐々に展開していると言える。 音楽にそれほど詳しくない者でも、「ゴジラのテーマ」といえばおおよその想像は付くであろう。
次の部分も引用しておきます。スティーヴ・ライヒはいつか聴きたいと思っていながら、まだ聴いていません。ミニマル・ミュージックの発生がテープによるリピート再生というところも面白い。
ミニマル・ミュージックにつながる最初のきっかけは、スティーヴ・ライヒがテープ音楽によるパフォーマンスを試みたことに始まる。彼の最初期の作品「カム・アウト」(1966年)「イッツ・ゴンナ・レイン」(1965年)は、コピーされた2つの同じテープループを2つの再生装置で同時に再生するが、そのわずかのテープの長さの違い、あるいは再生装置の回転数の微妙なずれにより、最初はほぼ同期していた2つのテープの音声(2つとも曲名にある単語をしゃべって録音したもの)がだんだんずれていく。このずれによるモアレ効果に着目し、単純な反復を繰り返すうちにずれが生じる=徐々に微細な変化を遂げる作風を器楽作品にも当てはめた。ライヒの初期の作品「ドラミング」や「ピアノ・フェイズ」がこれにあたる。
今回作った曲も、途中に展開部分は入りますが、ほぼ同じメロディ、フレーズの繰り返しです。手抜きだ、と思われるかもしれないのですが、まあ、確かにそうかも(苦笑)。ただ、バンドではなくDTMでラップトップミュージックをはじめてから、ひとつのモチーフを繰り返しながら変奏していくパターンに惹かれています。このスタイルで曲を作るとすれば、その音楽がいちばん適していると思うので。
今回も全面的に打ち込みで、凝った技術は何も使いませんでした。最近、制作手法がどんどんシンプルになっていきます。リズムとしては、ボサノヴァではないかと思います。といっても、プロの方からみれば首を傾げるようなボサノヴァのような気がしますが。
さて、音楽とは関係のないお話ですが。
情けないので書くのはどうかと思っていたのですが、過去に思いを馳せて暇を持て余すうちにふと、学生時代に付き合っていた彼女の名前を検索エンジンでググってしまいました。ええと、いい訳なのですが、そういうことってありませんか? ぼくだけでしょうか。
すると、検索の結果から大学教授として働いている彼女がみつかって驚いた。同姓同名もあるかもしれないけれど、これは彼女だ、と確信しました。専攻している分野が大学時代のままだったんですよね。ドイツ文学を学んでいた彼女はミヒャエル・エンデが好きでした(ぼくはエンデより映画のリマールの音楽のほうが好きだったけれど)。たしかお父さんも大学の教授であり、大学院に進学したということをなんとなく知っていたのだけれど、教授になったとは。
■Never Ending Story ( Limahl )
卒業して、いろいろな人生を歩み、疎遠になってしまったひとたちもたくさんいます。いま教授として働いている彼女とは二度と会うことはないでしょう(しあわせなのだろうか、しあわせだといいのだけれど)。しかし、頑張っているなあ、とPCのモニターを眺めながら考えて、ちょっと微笑んでしまった。修復不可能な酷い喧嘩をして別れたのですが、こうして消息を知ることができてよかった。
のめり込むと盲目的に激しい感情をもって付き合うような場合、別れてもお友達で、という大人の関係にはなりにくいものです。とはいえ、心底惚れたひとであれば、関係がなくなったとしても、相手を嘲ったり恨んだり後悔したり関係をなかったことにはせずに、大切にしたい。しあわせであることを遠くから願いたい。けっしてストーカー的に追うのではなくて。
学生の頃のような恋愛をすることはなくなりました。必要のない恋は無駄だと思うし、仕事であるとか、追及したい世界であるとか、ぼくらにはたくさんのやるべきことがあります。しかし、抑制のとれた気持ちのなかで、それでも恋に落ちることはあるかもしれません。予測もつかない何かに翻弄されることもある。それが人生です。
学生を卒業しても、人生を学ぶことからは卒業できない。むしろ、卒業したあとのほうが人生を学ぶ機会がたくさんあります。
投稿者 birdwing : 2009年3月15日 19:30
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