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2009年3月12日

ベロニカは死ぬことにした

▼cinema09-08:狂気の群像に潜む、正常で青い透明な何か。

B000H5TZJUベロニカは死ぬことにした [DVD]
パウロ・コエーリョ
角川ヘラルド映画 2006-09-22

by G-Tools

ラテンアメリカの小説家パウロ・コエーリョ原作の邦画です。彼の作品は「11分間」を読んだことがありますが、この「ベロニカは死ぬことにした」は読んでいません。したがって原作のイメージが忠実に再現されているかどうかはわからないのだけれど、主人公の名前もベロニカではなく日本人の名前であるトワなので、まったく違う物語として考えてもよいかもしれないですね。いつか小説も読んでみましょう。

国立図書館で殺伐としたデータ入力の仕事に携わる28歳のトワ(真木よう子さん)は、「何でもあるけど何にもない」生活に嫌気がさして自殺をはかります。ホテルで睡眠薬の錠剤を机に並べて、一粒ずつ口に入れながら、大嫌いな自分へ、とだけ書いた手紙をボトルに詰めて窓から投げる。ここまでのシーンが、こころに痛い。せつない場面です。アンドレア・モリコーネの音楽も耳に残りました。「ニュー・シネマ・パラダイス」を思い出しました。

自殺したはずだったのに、目覚めてみると、トワは精神を病んだひとたちのサナトリウム(診療所)に入れられています。拘束されて暗いベッドの上で眠っている。死ぬことができなかった失意に彼女は苛立って暴れます。しかし、その環境から逃れられない。

それにしても、片桐はいりさんの看護婦は怖すぎ。暗い病室で高笑いするところなどは、背筋が凍りました。凄い女優さんですよね、ある意味。

精神病の病院というものに行ったことがないのだけれど、こんな感じなのでしょうか。たくさんの患者と、医師と看護婦がいるのだけれど、どちらが正常なのかわからない。狂気あるいは精神疾病は、どこまでが正常でどこからが狂気なのか、境界が曖昧なものなのかもしれません。だから映画のなかでは、医師も患者も関係なく、境界の周辺にいるひとたちがサナトリウムに集っているようにみえる。

医師も看護婦も、どちらかというと患者と仲良く共生している。患者に支えられているようなところさえあります。なかにはリストカットばかりしていた過去をもち、アルコールに溺れている看護婦もいる。暗い過去を生きているのに彼女はどこか楽しげであり、その楽しげな笑いが狂気にもみえる。サナトリウムの空気には常に緊張があって、何かのきっかけでぐらぐらと揺れて感情の端から端へと跳んでしまう。患者全体に雰囲気の跳躍が伝播していく。とても危うい。

そうした繊細な脆い群像のなかで、トワだけは、正常であるかのようにみえます。睡眠薬が心臓に負荷をかけたため、あと1週間しか生きられないと告げられ、はじめは抵抗をしますが、そのうちにサナトリウムのひとたちと静かに打ち解けていきます。

彼女と同室の病室である患者サチ(中嶋朋子さん)もせつなかった。15歳のときに大好きになった男性に捨てられて、以後たくさんの男性と関係を持ち、結婚して2人子供をもうけるのだけれど、やはり大好きな男性のことが忘れられずに言葉が出なくなってしまう。そんなサチは、催眠によって身体から抜け出して空を浮遊することに楽しみを見出しています。

何かの本で読んだのだけれど、女性は、思春期のある段階で自分を途方もなく嫌悪する時期があるとのこと。それが原因でこころを病んでいくケースが多く、自分を赦せないあまりに闇のなかへ入り込む。そのきっかけは、とても些細な躓きです。トワもまた同様でした。母親から期待されてピアノの練習をさせられていたのだけれど、発表会の日に途中で弾けなくなり、その日から壊れてしまった、と語ります。それ以降、彼女は自己を全否定しながら28年間を生きてきました。

28歳という年齢についてトワは、もっと若いころには何かを選択するのは早すぎると思っていた、けれどもその年齢になって変わるには遅すぎたと思った、ということを医師に淡々と語ります。この言葉がみょうに記憶に残りました。ぼくにもわかる気がしました。

この映画のなかでは、多くの男性の狂気が外部に向かうのに対して、女性の狂気は深く内面に向かっている印象があります。どちらかというと女性の狂気について緻密に描かれていて、男性としてはトワに想いを寄せる統合失語症のクロード(イ・ワン)ぐらいのものです。絵画の世界に閉じこもって理想の女性を描きつづけるクロードは、彼が描く絵のように静かなブルーという印象の青年です。話はできないけれど、トワと同様に正常な人間のように思える。

自分を嫌うのではなくて、自分を好きになろう、ほんとうに満たされた人生、満たされたセックスをしよう、ということで、トワはある夜、ピアノのある部屋で裸になり、クロードに自分を慰めているところをみせます。

真木よう子さんの肢体(見事なおっぱいだ)に圧倒されましたが、あまりいやらしさはない。というより、静かに微笑んで遠くからトワの自慰を眺めているクロードに、やっぱり正常じゃないのかも、と思いました。ただ、愛するひとが自分の感じる場所を指で弄んで悦びを究めている姿は、自分にとっても悦びをもって見守ることができるのかもしれないな、と思ってしまったぼくもまた、どこか狂っているのかもしれません。

全体的に月光のようなブルーの色調で覆われた印象のある映像で、特にぼくは音楽がよかったと思いました。耳に残る調べでした。ただ、とても混乱する映画であると思うし、うーむ?という解せない感じは残ります。終わり方も納得できない。こういう風に解消してしまってよいのか、という疑問があります。なので、あまりおすすめの映画とはいえません。3月10日観賞。

投稿者 birdwing : 2009年3月12日 01:19

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2 Comments

がど 2009-03-12T21:03

原作を読みました。コエーリョ作品の中では比較的読みやすかったものです。スピリチュアルってよりは物語ってかんじで。
映画なんてあったんですね。レビューを設定は近くした、、というよりは原作を断片的に使ったって感じに思えますね。原作ではサナトリアムが単純に精神病というだけでは片付けられない人々がからみあったりしてたような気がするので目指す着地点というものが違うような気もしました。

BirdWing 2009-03-13T01:58

実はがどさんが原作の感想を書かれていて、どんな作品だろうと思って検索したところ、映画化されていたので、借りてきたのがきっかけでした。ええと、まあ、真木よう子さんのあれこれが動機になったのも正直なところあります。短いシーンですけれど。

確かに物語全体を映画にしたというよりも、物語のなかの使うことができるエピソードを映画にしたんじゃないかな、と思います。原作を読んでしまうと幻滅したかもしれません。そういう映画って多い。解釈は自由だけれど、解釈しすぎだろ、という感じでしょうか。なかなか映画というのは難しいものです。視覚化されて具体的に表現したものより、小説の活字を読んでイメージしたり考えたことのほうがよいこともありますね。

テーマ自体は、とても重かった。それぞれの患者のエピソードが折り重なるように綴られていくので、けっこう観ていてしんどいです。アングラの劇団の演技を観ているようなところもあります。冷めた視点で観賞すると、かなり困惑する映画かもしれません。

ただ、狂気について考える映画としては、面白いと思いました。きちんと対象化してこころのセイフティゾーンを確保して観る必要がありますが、正常な人間のこころと、病んでしまったこころの境界は、ものすごく薄い隔たりしかない。ほんの些細なきっかけで、病んだ世界に入り込んでしまうものです。そんな人間の脆さについて考えさせられました。

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