2008年3月31日
過去を編集することの是非について。
ブログをはじめてしばらくすると、いろんなことが分かってきて、複数のサービスを使ってみたくなります。隣りの芝生は青く見えるというか、無料のブログサービスであれば、テンプレートはこっちの方が洗練されているなとか、写真をアップロードする仕組みが簡単そうだとか、機能を比較しはじめる。もう少しステップアップすると、MovableTypeとかWordpressとかシステムを導入して自分でブログを組み立てたくなる。ぼくもそうでした。勉強不足でいろいろと中途半端なんですけど。
複数のブログを使ってみても、さすがにあっちこっちで書いているのは面倒なので、自然に使わなくなって淘汰されていきます。淘汰されるのはいいんだけど、IDやPASSWORDを忘れてしまって、消すことすらままならなくなることもある。忘れ去られた古代遺跡(?)のようにぽつねんと残されたブログは、どうしたらいいんでしょう。実はぼくもひとつあります。1日だけ書いて放置してあるやつが。
複数のブログへのアクセスを統合するOpen IDとか、ブログ間の関係を明らかにするソーシャルグラフなども注目されていますが、個人的にはどうかなーという印象です。というのは、公の場では書けないけれども、ぼそっと呟きたいことなどもあったりして、それは公の自分とは別のIDで展開したいんですよね。
そもそも、ぼそっと呟くことをメインにしていれば別のブログを作りたい気持ちにもならないのかもしれませんが、なかなか呟き系のブログは難しい。とんでもないことをぽろっとこぼして、個人が特定されてしまうと辛い。ぼくの場合は微妙に呟いているのだけれど、実はシャイです。写真をおおっぴらに出していたりして、どこがシャイなのだ、と思われるかもしれないがシャイなのだ。露出趣味があるのではないかと心配になることもありますが、このブログはパブリックであることを意識して気を使って書いているのですよ、これでも(苦笑)。
とはいえ、小説を書いたり音楽を作ったりするひと、つまり表現するひとは、多少なりとも露出癖があるような気がします。つまり表現したものには、意図したにせよしなかったにせよ、自分というものが露呈する。それを恥ずかしいと思っていては、表現できない。また、恥ずかしさの障壁を突き破ってしまうと、きゃっほーという感じで自分を露出しまくる傾向もなきにしもあらずでしょうか。路上で裸になったら捕まりますが、精神を露わにすることは、ある意味アートといえなくもない。芸術はタマシイの露出だ。
ただ、やはり瞬間風速的なテンションでアドレナリンのおもむくままに表現して、ああやっちまった(苦笑)ということはありますね。いつもクールに抑制ばかりしていられません。特に若い時期には(フィジカルな若さではなく、精神的な若さ、つまり未熟さを含みます)、書いちゃえーということで書いてしまって、どーんと落ち込んだりもする。また炎上まではいかなくても批判のやいばを受けて、いてててて、なことになったりもする。それもまたブログの醍醐味といえば醍醐味なんですけど。などと考えるわたくしはM?(困惑)。
実は、「過去を統合する。」というエントリーでも書きましたが、この場所でブログを書き始めたのは、2007年8月の「ここから、どこかへ。」からだったのですが、それ以前に2004年から書き散らかしたあれこれをすべてここに統合しようとしています。
しかしながら、現在エントリー数905に対して未公開エントリー608、公開エントリー297で、つまり32.8%しか公開できていない。昨日の日曜日にもちまちまとmusicカテゴリーのエントリーを復活させていたのですが、10個復活させるだけで疲れた。いつになったら全部公開できるのでしょう。
というか、全部公開するつもりはないのですね。なぜならば。さすがに公開できないエントリーがある。稚拙すぎて(苦笑)。また公開したエントリーに対してもリライト(編集)をかけているのですが、ここで生じる疑問は
ブログの過去のエントリーを編集してよいのか
という倫理というか、価値観のようなものです。
公開したエントリーをすぐに引っ込めたことがあるのですが、一度公開したものは引っ込めるべきではない、完全なものを書き上げてから公開すべきだ、と通りすがりのひとにコメントで叱られました。高いところから見下ろした気持ちのいい批判で、ブロゴスフィアには、ほんとうにおせっか・・・いや、親切なひとがいるものだと感心したものです。
確かにトラックバックやブックマークの観点からは、リンクした先の記事が消失するのはちと困る。過去の記事を検証していて、いまだに数年前のリンク先の記事が残っていると確かにぼくも嬉しい。一方で、リンクが切れていると残念です。といっても記事を引用していれば、とりあえず辻褄は合うので、問題ないともいえますね。そもそも自分の事情で、コンテンツを消しちゃって許せん、と憤るのもおかしい。あなたの事情で世界が回っているわけではない。
丁寧なブロガーは、きちんと間違いもそのままにしておいて、消し線などで誤ったところは訂正しています。そうすると履歴がよくわかる。あるいは追記というカタチで本文を補足する。思考の過程も明らかになるので、情報としては非常に豊かになります。なかなかぼくにはそんなきめ細かな対応はできません。だいたいブログそのものをどっかーんと消してしまうタイプなので、あらためて自分の暴挙を反省しました(苦笑)。
ただ一方でぼくは、書きたいように書き、変えたいように変えていいんじゃないか、とも思うわけです。というのは、ブログを書くセオリーやマニュアルがあってもいいのだけれど、そんなもの無視して書くのがブログ的といえないこともない。インディーズやオルタナティブな何かは、お行儀よくちんまりまとまっていては、つまらない。整然とした理論やお手本があるのは、なんとなく違う。もっと過激であってよいと思うし、めちゃめちゃでかまわない。技巧に凝るよりも小手先のテクニックなんか無視して、びんびん伝わるものがあってほしい。
日記としての意味が強ければ、編集すべきではないかもしれないですね。というのは、過去の特定の時期にあったこと、考えたことの“記録”が重要なので、現在の視点から解釈を加えて修正すると、それはまったく別の過去になってしまう。教科書問題というか、戦争をどう扱うか、のような危険性を孕む。ひょっとすると事実を新しい解釈で歪曲させてしまう可能性もある。
しかしながら創作的な視点を導入すると、完成のない作品もあると思う。永遠に推敲し、短編が長編になったり、長編が短編になったりするような小説もあり得るのではないか。常に発展途上であり、現在進行形であり、安定を拒むような創作。生々流転して、動的に変化して、立ち止まることのない作品。なんとなくその方がリアルだし、“生きている”という気がする。固くなったり、動かないものは死んでいる、という意味で。
あるいは音楽番組で中田ヤスタカさんが語っていたことだけれど、彼は作品ができあがっても完成したとは思わない、というようなことを言っていました。だからリミックスやアレンジを変えて、まったく別の作品に作り変えてしまうことがある。作品至上主義だと、そうしたスタイルは許されないでしょうね。結局それって、未完成のプロトタイプなんじゃないの、という発想になる。でも、完成した、と思ったときに創造力の翼は折れるものではないでしょうか。完成の宣言は、ここでおしまい、という宣言でもある。だからきっと、翼があったとしても、もう飛べない。
人生、いっしょう未完成でいたいですね。未完成なんだけど、想いは完成の方角へ伸びている。完成に憧れる未完成。満たされない矢印の気持ち。
過去エントリーを推敲して編集しつづけて、いまわの際に、「いや、まだこれ完成じゃないんですけどー(泣)」を遺言にしてみたい。未練たらたらなんだけれども、ゴーストになっても永遠に書きつづけていたい。というか、著名人の最期の言葉でそんな感じのものがありましたっけ。
過去だって書き換えられるものだと思います。そうじゃないと、国のレベルにしても、人のレベルにしても、一度関係性のおかしくなったものは二度と和解できないことになる。それって寂しくないですか?
優等生のペシミストよりも、アタマの悪いオプティミストでいたい。過去は大事だけれど、絶対的なものではないと思うし、現在からの視点を変えて見れば、いくらでも違ったカタチを見出せるものではないでしょうか。というか、ぼくが見出したいのだな、そうやって過去を編集して。
投稿者 birdwing 日時: 23:57 | パーマリンク | トラックバック
2008年3月29日
無駄なこと礼賛。
春は、どこかへ出かけたいような、身体を動かしたいような、何かを終わらせて別のことを始めたいような、要するに心機一転したいような、それでいて過去を大切にしたいような(けれども途方もなく眠い)季節です。
先週の日曜日には、昼間からビールを2缶空けてよい気分だったのですが、こりゃちょっと休日の過ごし方としては緩くないか?ということで、息子(長男くん)と渋谷へ行って卓球してきました。なぜか卓球(笑)。といっても、長男くんは小学校で卓球クラブの課外活動をやっているそうです。ラケットを買ってあげたりしていたので、マイラケット持参で渋谷まで行ってきました。
花粉症のマスクをして非常にテンションの低い長男くんは、行っても行かなくてもどーでもいいような顔でした。というよりむしろゲーム三昧の日曜日のほうがいいという顔なのですが、そんな彼を無理やり連れ出して、酩酊70%の父は、息子とふたり電車に揺られて休日の渋谷へ繰り出したわけです。まず行き慣れない渋谷の東口方面で迷った。そして若者たちの雑踏にくらくらした。ついでに30分760円の卓球は高くて困惑。けれども、久し振りに少しばかり身体を動かして爽快でした。酔いも抜けたし。
今日は晴れたり曇ったりの一日でしたが、東京のサクラは満開。髪を切ってさっぱりして、近所のサクラを眺めながら散歩しました。そのときのショットです。
ついでに図書館に行って本2冊とCD3枚を借りてきました。図書館の近くの植え込みには白い水仙のような花が咲いていて、なんだか懐かしい匂いがする。子供の頃を思い出すような匂いです。ネットを通じて匂いまで届けることができればいいのだけれど・・・難しいですね。
借りたのは次の本。長男くんの折り紙飛行機研究から、ちょっと折り紙に興味が沸いてきたので。
空とぶ鳥のおりがみ (新・おりがみランド) 桃谷 好英 誠文堂新光社 2000-02 by G-Tools |
おりがみ はこ (おりがみ工房) 布施 知子 誠文堂新光社 2005-05 by G-Tools |
いやーしかし箱の折り紙は最初で躓いた。難しい。これ、できないかも(泣)。つづいて借りたCDはハーゲン弦楽四重奏団のモーツァルト:弦楽四重奏曲 第15番 ニ長調 K.421(417b)、キップ・ハンラハン・アンド・ジャック・ブルースのアルバムとこれ。
ソロ・モンク+9 セロニアス・モンク ソニー・ミュージックジャパンインターナショナル 2003-12-17 by G-Tools |
「ソロ・モンク」は、CDショップのカフェ・ミュージックのコーナーで試聴していました。なかなかよかったので買おうか買うまいか迷っていたのだけれど、図書館にあってラッキー。ありがとう、図書館。
それにしても、どうして図書館のCDはオーソドックスなのか突拍子もないのか、びみょうなアルバムばかり置いてあるんでしょうね。ロジャー・二コルスがあってびっくりしたのですが、「ビー・ジェントル・ウィズ・マイ・ハート」でした。名盤や定番のアルバムはないのですが、妙なこだわりのあるチョイスになっているような気がします。
ネットでダウンロードして音楽を購入でき、図書館の蔵書はデジタルでアーカイブ(保存)されつつある時代です。けれども、ぼくは新しいメディアの恩恵を十分に理解したり歓迎している一方で、それでもアナログなCDショップや図書館という場所を肯定したいと思っています。
効率化から考えたら、そんなもの不要ですよね。NGN(Next Generation Network:次世代ネットワーク)によって、テレビとネットの融合が加速されつつあります。したがって、オンデマンドによる映画の配信もより身近になっていくことでしょう。レンタルビデオショップに行かなくても、自宅でビデオをダウンロードして観ることができるようになる。それでもやっぱり、リアルなレンタルビデオ店とか、図書館は残っていてほしいなあ。要するに人が介在して借し出す場所は、モノのレンタルそのものだけでなくコミュニティとして意義があると思います。
何が違うかというと、あまりにも当然ですが、そこには"ひと"がいるということ。もちろんネットにおいてもアバターやバーチャルボディなどを使えば人間的な質感のあるサービスは可能だと思うのですが、貸し出しのときの笑顔だとか、ちょっと困った顔だとか、そうした表情は体験できない。さらに、いまのところ図書館の本の匂いであるとか、窓から光の差し込む具合だとか、そんなリアルな空気感も体験することは不可能です。また、リアルな場所の確保は、そこで働く人材や雇用の創出もできると思う。
本や音楽のコンテンツだけ入手できればいいのだと効率化の観点から割り切ってしまうと、付随的な感覚や面倒なことはすべてノイズであって、排除しても問題ない。けれども、その無駄なものが結構大事だったりします。そもそも春の休日に図書館まで歩くことは健康にもよかったりする(笑)。参加したことはないけれど、地域のコミュニティで行われる講演や朗読会のようなものも、レベルが低いとか参加者が集まらないとかの問題だけでなく、実施していること自体が重要な場合も考えられます。
などと考えながら、なんだかぼくも老人になりつつあることだなあと思い、微笑ましくなりました。
老人結構。どんなに威勢のいい若者も年をとります。アンチエイジングも大切だけれど、衰えていく身体や脳ときちんと向き合ったり、覚悟を決めることも大事でしょう。年相応の生き方もある。
若い頃には無駄に身体を鍛えて腹筋割ったり、無駄に遠征したり、無駄に酒を飲んだりしたものですが、年をとってそんな無駄なことをしなくなった反面、かえって別の意味で無駄を楽しめるようになってきました。心に余裕ができたからかもしれません。他人と比較して無駄にしゃかりきになることもなくなったけれど、自分の大切なものに対しては無駄に熱中したり没頭できる。
その取捨選択ができるようになったことを、われながら褒めてあげたいですね。老いた気分にはなりたくないけれども、精神的に成熟したい。無駄に目くじらを立てるのではなく、無駄を許容できることは、ある意味オトナだと思います。
ブログや趣味のDTMによる音楽制作も、無駄であっていいと思うんです。もちろん無駄じゃなくて、儲け第一で稼ぎが多ければ多いほどいいというスタンスでやることも間違いではありませんが、ぼくは(個人的な見解としては)人生における膨大な無駄で構わないと思っています。無駄だけれど、いちばん尊いし、適当にやるのではなくてあらゆるものを注ぎ込む。無駄に対して真剣に取り組みたい。
かつてぼくはブログや趣味にも、ビジネスライクな目標管理の視点を導入したことがあったのですが、疲れちゃいました(苦笑)。ただでさえ仕事で疲れがちなのに、プライベートでさらに疲れてどうする、という。しかしながら、ほんとうに熱中しているときは、人間疲れを感じないものです。作曲家の江村哲二さんも本に書かれていましたが、何時間でも集中できる。趣味のせいで、とか、趣味のために、という発想自体がなくなる。そもそも無駄とか有益だとか、そんな発想自体がなくなる。
究極の理想としては、そんな風に生きてみたい。ということを前提として、まずは無駄ウェルカムの方向で、春を楽しみたいものです。
のんびりと、やわらかい風に吹かれながら。
投稿者 birdwing 日時: 22:41 | パーマリンク | トラックバック
2008年3月26日
弥生の散財、JAZZの精神。
柄にもなく先月は出費をセーブして慎ましく生活していました。実はちょこっとお金を貯めたい(なかなか貯まらないのですが貯金してやりたいことがある)。ところが給料もいただいて、久し振りにCDショップに立ち寄ったところ、試聴しまくって散財癖が出ました(泣)。小遣いが・・・ほんとうに文字通り「小」さくしか遣えないものになってしまう。
でも久し振りに音楽を堪能しました。やはり音楽はいいですね。春のセンバツがはじまってサッカーもあって、スポーツの選手たちはたくさんの声援がいちばんのビタミンだったりするのかもしれませんが、音楽のビタミンもまたいいものです。うろうろとショップ内を放浪して、摂取したいビタミン系のアルバムが大量に出現してしまったのですが、悩みに悩んでまずは4枚を購入。
1枚目はJAZZです。ジョン・コルトレーンの「クル・セ・ママ」。インパルス40周年の企画もので生誕75周年の初回プレス完全限定版らしい。
クル・セ・ママ(紙ジャケット仕様) ジョン・コルトレーン ファラオ・サンダース エルヴィン・ジョーンズ ユニバーサル ミュージック クラシック 2001-06-27 by G-Tools |
そもそも、コメントで教えていただいたYouTubeでGiant Stepsを観て、コルトレーンが気になりました。さらに先週ぐらいに読み終えた「ジャズ喫茶 四谷「いーぐる」の100枚」という本で紹介されていて購入。ちなみに試聴していません。
ジャズ喫茶 四谷「いーぐる」の100枚 (集英社新書 421F) (集英社新書 421F) 後藤 雅洋 集英社 2007-12-14 by G-Tools |
しかし、もうちょっと初心者向けのやつを買えばよかったかもしれません。いきなりフリー・ジャズっぽい(苦笑)。あまりJAZZなんて聴いたことがないのに、最初からフリー・ジャズは敷居が高すぎ。そりゃあ、ジャズ喫茶のオーナーがすすめるアルバムだから、若葉マーク向けのおすすめではないでしょう。ちょっとひねくれたアルバムのチョイスだったりするはず。
ところがですね、ダメかなと思ったら、これが非常によかった!
ぼくはコルトレーンに詳しくないのですが、たぶん彼にとっては枠にはまった自分を壊そうとしていた時期のアルバムではないでしょうか。違うのかな。いや、ぼくにはそう聴こえた。音的というよりも、その精神的な何かが非常にリスナーであるぼくにびしばしと響きました。この音がわかるなどと言うこと自体、コルトレーン様に失礼なのだけれど、コルトレーンの縮小100万分の1だとしても、ぼくもいまそういう心境なのかもしれない。創作はもちろん、どこか人生のフレームを壊したい過渡期にあります。だからこの音はわかる。共感できる。
なんというかJAZZもエレクトロニカも同じだ、という乱暴な印象も持ちました。われながらこれはひどい感想ですね(苦笑)。アバウトにもほどがあります。しかしですね、きっちりと機械的に打ち込まれたテクノを始点として、逆回転や音の切り貼り、サビがない複雑な構成、ポリリズムや変拍子などを多用したエレクトロニカへの進化は、どこかジャズがフリージャズに向かった進化(なのか?)の流れに近いものを感じました。クラシックから現代音楽へ、という流れも同じかもしれない。というか、そんなことは偉いひとが音楽論で語っていることでしょうね、ぼくなんかがあえて語らなくても。
ついでに言うと、このアルバムの1曲目は17分もあるのだけれど、その1曲だけを取り出して聴くものではないと痛感しました。アルバム全体に流れがあります。2曲目、ドラムとサックスだけの「ヴィジル」で緊迫して、最後の美しいバラード「ウェルカム」の旋律を聴いたときには、涙が出そうになりました。混沌の水面からすーっと美しい何かが生まれる感じ。
そういえば今日。CDショップへ向かう道すがら、新宿の舗道でとても長身のカップルをみました。
髪の長いきれいな女性は、壁に寄りかかって泣いていた。ちょっとR&B風の(なんだそりゃ。苦笑)彼氏は、彼女の顎に手を触れながら、何か慰めている。慰めているのではないかもしれない。もしかしたら責めているのかもしれない。喧嘩したのでしょうか。それとも嬉しくて泣いているのか。話す言葉は聞き取れないし、立ち止まることもできないのですが、通りすがりのぼくには、なんとなく気になる風景でした。
喧嘩があるからこそ、愛も深まるのではないですかね。どうでしょう(照)。物語は危機と和解という起伏があるからこそ感動も生むのであって、そういう意味では「クル・セ・ママ」の一枚のなかには人生が凝縮されている。混沌があり、対立があり、緊張があり、和解がある。この構成は見事です。
その他の3枚がかすんでしまうのだけれど、あとは全部、日本人のアルバムです。いずれもなかなかよいです。クラブジャズあり、宅録系あり、そしてエレクトロニカあり。ほんとうに雑多ですけれども。
REALism indigo jam unit インディーズ・メーカー 2007-12-05 by G-Tools |
It could be done if it could be imagined folk squat & records 2008-03-19 by G-Tools |
Antwarps aus Preco Records 2008-03-12 by G-Tools |
indigo jam unitは昨年ぐらいから気になっていたのだけれどやっと購入しました。1曲目のぶっといベースラインが魅力的です。YouTubeにPVがありました。なかなか素敵です。
■indigo jam unit - AdrenaLine
最後のausは、きらきら感が好きなエレクトロニカです。そんなアルバムも購入しましたが、どちらかというとJAZZっぽい何か、精神的な高揚とかグルーヴに惹かれます。
さすがに3月はいろいろと慌しくて、読了した本も6冊ぐらい溜まっていて感想も滞っているのですが、のんびりゆっくりまったりと、書きたい気持ちが募ったときに更新していきたいと思います。
東京のサクラもそろそろ、いい感じになってまいりました。
投稿者 birdwing 日時: 23:49 | パーマリンク | トラックバック
2008年3月23日
[DTM作品] フライト・レコーダー
何度か書いているのですが、ブログでBirdWingという鳥らしきハンドルをつけたのは、雲の上から俯瞰できるような幅広い視野(あるいは思考)を獲得したいと願いを込めたからでした。しかしながらその実、泥にまみれて地上をとぼとぼと歩く犬のような生き方しかできないような気もします。
日々の生活に追われると、感性を磨いたり、わずかばかり芸術的な作品(文章や趣味のDTMなど)を結晶化させることが難しくなります。基本的にぼくはアーティストではないので、現実をしっかり生きることが大事だとは思うのですが、欲張りだったりもするので何か創造的なことをしたい。稼ごうとか有名になろうとはあまり思わないのですが(何も思わないとは言えない。ちょっとは野心もあったりする。笑)、まず第一に創作をしている時間が楽しいし、どんなに陳腐であったりささやかなものであったりしても、自分が生きてきた証のようなものを残しておきたいと思う。
と、若干自分に対する言及が多くなりましたが、思考の世界はともかく、現実において高みからの視野を獲得するには、高層ビルに昇ったり飛行機の機上から眺めるのがいいですね。あまり出張のない仕事に就いている自分は、仕事も含めて飛行機に乗る経験は稀なのですが、高層ビルから眺める風景は結構好きだったりします。
そもそもぼくは高所恐怖症気味なところがあったりするけれども、さすがにしっかりと窓で守られていれば高層ビルから眺める風景も怖くない。何を血迷ったか若い頃には山岳をやっていた時期もあるのですが、その当時、ロッククライミングはぜんぜん楽しめませんでした。うーむ、なんでそんなことやっていたんだろう。解せない。若気の至りでしょうか。
休日、パソコンに保存された写真をいろいろと整理していたところ、飛行機の機上からデジタルカメラで撮影した写真が出てきました。
空港で待機するときの落ち着かないけれど楽しい気持ち。離陸するときのGがかかる感覚。乱気流で揺れるときのささやかな不安。美しい雲海を眺めるときのどこか神聖な想い。目的地の上空を旋廻するときの懐かしいような、それでいて地上では感じられないわずかな非日常的な何か。
そんな感覚を曲にしてみたいと思いました。が、苦戦した(苦笑)。いろいろと躊躇する箇所はあるのですが、思い切って公開してみます。飛行を記録するという意味で「フライト・レコーダー」としました。正式にはFlight data recorderというらしい。この装置に記録されるのは高度などの味もそっけもないデータだと思うのですが、ぼくは飛行しているときの感情も含めて記録したい。
■Flight Recorder(2分43秒 3.73MB 192kbps)
曲・プログラミング:BirdWing
楽曲的には不満が多いです。ボツにしようかとさえ考えていました。きれいにまとまっているとは思うのですが(まだ詰めが甘い部分も多いと感じています)、既存の何かに絡めとられている印象もあります。ストレートに言ってしまえば、中田ヤスタカさん的な何かとか? 4つ打ちのリズムとぐりぐりしているベースなど。
中田ヤスタカさんでいうと飛行系の曲としては、Capsuleの「グライダー」を思い浮かべました。好きな曲です。なぜか英語の字幕付きの映像をYouTubeから。
■capsule-glider(EnglishSub)
このような好きな曲の影響を受けることもありますが(といっても今回の曲はあまり影響はないと思うのですが)、自分で自分の過去の曲のいくつかに影響を受けることもあります。過去に作った曲のフレームを壊すことができない。自分がライバルという感じですが、既存の曲作りの文法を超えていないところが納得できなかったりする。
とはいえ途中から、ちょっとラテンっぽいリズムになるのがおかしかったですね(笑)。個人的には、ラテンの音楽の文脈(コンテクスト)はなかったのですが、フルート+ブラスの音を組み合わせていたらラテン系のアレンジが浮上してきました。フライトだけに、リズムまで舞い上がった感じですかね(苦笑)。
冒頭のシンセのシーケンスは、バッハの平均律っぽい何かをめざしました。甘酸っぱくて少しソフトなエッセンスはPet Shop Boysあたりが近いでしょうか。というわけで、これは自分のなかでもわかりやすい曲のほうですが、現在とてもわかりにくい抽象的な曲に着手しています。こちらも苦戦中。
想いを音や言葉にするのは、ほんと難しいですね。
投稿者 birdwing 日時: 20:05 | パーマリンク | トラックバック
2008年3月20日
ゆめか、うつつか。
断片的に1時間ぐらい眠っては目覚めるという時間を過ごして仕事を終えた一昨日。けれども危うげな状態にあることをわかっているのは自分だけだったと思います。ぼくの内面的だけにめまぐるしい思考の暴風が吹き荒れていたとしても、外側に存在するのは、おだやかなハル。
さすがに睡眠が不足していると、ふらふらする。というよりも、ふわふわします。ふあん(不安)という言葉は、地に足の付かない状態を表すのに適切かもしれません。通勤電車のなかで、オフィスの静けさのなかで、どこかまだ夢が続いているような気がして、この気持ちは危険だなとも思った。
リアリティがない、というのではないですね。むしろすべてがリアル。ただしその現実は夢という大きなカッコで括られている感じ。ぼくの視界にないところ、つまり死角で<これは夢ですよー>というプラカードをあげているひとがいるのだけれど、さっとそちらを向くとすばやくプラカードを下げて知らん顔をしているような、どっきりカメラ的な現実。そんな心象の風景がありました。
仮に夢の世界と現実の世界があったとします。夢の世界は曖昧模糊としていて、目が覚めてしまえば消えてしまう。消滅することを前提とした美しい世界です。一方で現実の世界は精彩があって騒がしいけれどもあたたかくて、いつまでも継続している。そしてそれぞれの世界の住人がいる。
夢の世界の住人が現実を訪れたらどうでしょう。きっとそのリアリティに眩暈を感じる。エッジが際立っていて、論理のつじつまが合って、よくも悪くも消滅することがない世界。愛しいものに触れることもできるし、五感のすべてを動員して世界を感じ取ることもできる。その確かさに目が眩む。
でも、しばらくすると夢の世界の住人は所在のなさに落ち込み、現実の世界のなかで消耗していくような気がします。夢の世界の住人は、ぼんやりと影が薄くなって、やがて大気の粒子として消えていってしまうのではないか。誰にも知られずに、また知られたいとも思わずに。
一方で、現実の世界の住人が夢の世界を訪れたら何を感じるのでしょう。夢の世界は曖昧で、茫洋としていて、何が起こるかわからない。しかしながら快楽的で、アドレナリンが噴出するほどスリリングで、できればずっとそこにいたいぐらいに魅力的。
たとえばこんな場所です。河が流れていて、屋形船がけばけばしい電飾の光を水面に散りばめながら静かに運航している。煌いてる原色のあかりが水面でゆらゆらと揺れている。河のほとりには狭い舗道があって、大切な誰かとそこを歩いている。気配だけを感じる。そのひとの存在はあまりにも儚くて、大切すぎて、手を握ることさえできない。触れたらその指の先から、粒子が分解していきそうな予感がある。
しかし、夢の世界には制限時間があり、現実の世界に帰らなければなりません。まるで舞台セットを片付けるように、夢の世界の記憶はすべて失われてしまうわけです。しっかりと網膜に焼き付けておきたいと思うのだけれど、そう思った途端に世界の輪郭がますます曖昧になっていく。写真を撮ろうとしても、焦っているからピンボケでさまにならない。実体の周辺に漂う雰囲気のようなものだけを残して、夢の世界はゆっくりと消滅していきます。そして自分だけが現実世界に取り残される。
朦朧とした
睡眠不足
の
意識のなかで
そんな幻想を思い浮かべました。
ぼくらの世界は、儚く、
脆い。
さて。
そろそろ東京でも、さくらの開花宣言でしょうか。
卒業と入学という終わりと始まりが混在する切ない季節ですが、街を行き交うひとはどこか賑やかです。鞄にしまい込まれたままでしたが、地下鉄の駅で配布されているフリーペーパー「metropolitana」の3月号は「桜色の夜に酔いしれて」でした。
夜桜の写真を大きくレイアウトして、さくらを題材としたいくつかの小説が取り上げられています。水上勉さんの「櫻守」。渡辺淳一さんの「桜の樹の下で」。村上春樹さんの「ノルウェイの森」における夜桜の描写など。
そういえば花見の描写で思い出したのは、川上弘美さんの「センセイの鞄」にある花見の描写でした。どこか甘酸っぱいものがある場面で、あらためて本棚から引っ張り出して読んでみました。いま文庫になったかと思うのですが、ぼくが持っているのはハードカバーです。
センセイの鞄 川上 弘美 平凡社 2001-06 by G-Tools |
美術の石野先生(女性)に誘われて、センセイこと松本春綱先生は主人公である大町月子(38歳)を花見に誘います。花見の場所で、月子は同級生の小島孝に出会う。小島孝は、月子の友達の鮎子と結婚してその後は離婚していた。その元配偶者だった鮎子は、高校時代から石野先生に憧れていました。ややこしいスクェアな関係なのですが、松本先生に誘われておきながら月子さんは花見の宴のあいだに小島孝と抜け出して、バーでワインをくるくる回しながら飲んだりしています。松本先生を置き去りにして。
けれども月子の心は、松本先生にある。だから次のように気付きます(P.134 単行本)。
月が、空にかかっていた。 「月子の月だな」小島孝が空を見上げながら、言った。センセイならば、まず言いそうにないせりふである。センセイのことを突然に思い出して、驚いた。店の中にいるときには、センセイのことはあわあわと遠かった。小島孝がわたしの腰にかるくまわしている腕が、突然重く感じられた。
そして、疲れた、年だ、という小島孝に反論しながら、次のように考えます。
わたしはセンセイのことを思っていたのだ。センセイが自分のことを「年だ」などと言ったことは、一度もない。気軽に「年」をもてあそぶ年齢でもないし、質でもないのだろう。ここに、この道に立っている今のわたしは、センセイから、遠かった。センセイと私の遠さがしみじみと身にせまってきた。生きてきた年月による遠さでもなく、因って立つ場所による遠さでもなく、しかし絶対的にそこにある遠さである。
この遠さに共感。それはバーにおける現実と、花見という一種の夢のような儚い場所における距離であるともいえます。あるいは孤独なものと孤独なものの距離かもしれない。「万有引力とは/ひき合う孤独の力である」という言葉はぼくが好きな谷川俊太郎さんの「二十億光年の孤独」の一節なのだけれど、遠いからこそ惹かれるチカラも強まるのかもしれません。
小島孝とは身体的に密着しているのに、月子はそこからは位置関係だけでなくすべてにおいて遠いセンセイのことを思っています。ぼくは最初にこの部分を読んだときに、じれったさのようなものを感じました。なぜ小島孝と付き合ってしまわないんだ、と。月子は実際にかなり揺れている(不意打ちで小島孝にキスをされてしまう)。この、淡いものぐるほしさ(正気の沙汰ではない感情)が、花見という儚いシチュエーションと相まって、なにか痛切なひりひりするような感覚を伝えてくれます。
月も桜も、一種の狂気の象徴として扱われるものかもしれないですね。桜といえば、映像では北野武監督の「Dolls」の桜のシーンを思い出しました。
Dolls[ドールズ] 北野武 バンダイビジュアル 2007-10-26 by G-Tools |
社長令嬢との縁談のために付き合っていた彼女との約束を破ってお互いに壊れてしまうふたり(西島秀俊さん、菅野美穂さん)が満開の桜の下を、「つながり乞食」として赤い布でつながれながら歩いていくシーンが印象的でした。YouTubeから。
公式サイトのFlashもかなりきれいです。オープニング部分の桜のシーンをキャプチャーしてみました。音楽は久石譲さん。
■Dolls 公式サイト
http://www.office-kitano.co.jp/dolls/
愛情は憎しみをともなう、というか、暴力のなかにやさしさが存在することもあると思うのですが(ちょっとSM的な思考かもしれませんけどね)、北野武監督の暴力的なまでに静かで美しい映像に衝撃を受けました。
と、睡眠不足によって覚醒された眠りのような状態で感じたことをそのまま表現してみたいと思ったのですが、なかなか難しいものです。であれば春の空気に包まれながら、ぼーっと花を眺めてしあわせな気分になるのもいいかな、などと。
投稿者 birdwing 日時: 22:10 | パーマリンク | トラックバック
2008年3月19日
青いロマンス。
新宿の駅では全面的にプロモーションされていて、小田急線の車内広告でも告知されているのだけれど、小田急がブランドロゴを変えたとか。そういえば先日、青いロマンスカーが開通して、一部ローカルな話題にもなっていました。
ちいさな子供はどういうわけか電車が好きです。電車のなかのノイズが胎内の音に近いからというようなことも聞いた覚えがあるのですが、真偽はわかりません。電車に限らず自動車なども好きなので、単純に動くものが好きなのかもしれない。
いまはティーン(といっても10代にはいったばかり)になった長男くんですが、幼稚園の頃までは電車オタクに近い感じでした。○○系という細かいところまで記憶していたぐらいです。ところが成長するにしたがって別のものに興味を惹かれて、まったくその天才的な知識は消滅してしまった。
逆に次男くんのほうは、暗記はまったくだめで、車両の名前を「すーぱーいえろー」など勝手に命名してしまう(苦笑)。が、彼は絵にはこだわりがあり、まだ3歳ぐらいのときにソニックの絵を書かされて、ものすごいダメ出しをくらったことがありました。ソニックは難しいんだよう(泣)山の手線にしてくれ。中央線でもいいけど(同じか)。
さて、ブランドロゴの変更と青いロマンスカーのお披露目のためか、東京のビジネス街のとあるビルの前には(というか大手町ですが)、青いロマンスカーの催し物が設置されていました。
何だろうと近づいてみると、ちょっとしたバーのような感じになっていて、そこで飲み物を売っている。なかなか力が入っています(このイベントは19日で終了とのこと)。
ロマンスカーといえば昔は赤が定番だったのだけれど、白いスマートなVSEが登場してから、イメージが変わってきました。丸っこい以前のロマンスカーと比べると親しみやすさはなくなった気がします。けれども洗練された車体のデザインという感じ。ちょっとヨーロッパっぽい?これがVSE。
そして今回は青。通勤電車として東京メトロに乗り入れる意味もあるのではないかと思います。そもそも小田急線は一部、地下鉄千代田線の路線内も走っているのですが、なんとなく地下鉄にロマンスカーが走るのは違和感がある。遭遇したら驚きそう。
ロゴのブランドイメージなどについては、以下で説明されています。説明からコンセプトの部分を引用します。
■「小田急グループ ブランドマーク」を制定(PDFファイル)
http://www.odakyu.jp/program/info/data.info/3353_1782322_.pdf
このマークは、「豊かな沿線環境のもとに、自然・歴史・都市文化の新しい 融合、豊かな生活の創造、より多くの上質と感動を提供していく小田急 グループ」を表現しています。デザインのコンセプトとして、小田急 ブランドの基準となる価値観のキーワード「真摯」「進取」「機知」「融和」を根底におき、「躍動感」「先進性」「お客さまとのつながり」 といったこれからのグループの姿勢を、odakyu の頭文字である「O(オー)」 の中にダイナミックに集約させました。ブランドマークメインカラーの ブルーは、小田急線を中心に長年親しまれてきた色であり、「小田急らしさ の誇り」として使用していきます。
悪くはないですね。もともと小田急線の各駅停車は青い車体だったわけでもあり、よりブルーのイメージと統合されたという感じでしょうか。しかし、気になるのは小田急百貨店などはどうするか、ということ。現状ではまだ昔のロゴを使っているようです。ODAKYUのAの文字がとんがったようなロゴです。百貨店にこのロゴが合うかどうかは、なんとなく疑問もないわけではない。昔のロゴに馴染みすぎているせいかもしれないけれど。
ちなみに小田急グループの経営理念は次のようになります。
小田急グループは、お客さまの「かけがえのない時間(とき)」と「ゆたかなくらし」の 実現に貢献します。
輸送時間の短縮化や、さまざまなニーズに合わせてバリエーションを用意することは、利用者の「時間」と「くらし」を豊かにするものだと思います。理念-ロゴデザイン-具体的な施策(MSE)という整合性はきちんと合っていて好感が持てます。ただし、その理念のために周辺住民が我慢しなければならないことが生じると、どうかと思いますが。
鉄道の未来としては、リニアモーターカーの開業(首都圏-中京圏)は2025年となっているようです。物理的に時間の短縮となり、利用者にとっては、かけがえのない時間を有効活用できるようになります。とはいえ、既存の電車レベルでは複々線化やダイヤ改正などによって対応するしかない。青いロマンスカーの登場も、小田急にとっては新たな需要を生み出すためのイノベーションのひとつのように思われます。
鉄道のような運輸の分野においても、時代に合わせた変革の必要性があるのでしょう。どのような事業展開をしていくかということにもつながると思うのですが、新しいもの好きの自分としては、青いロマンスの登場に期待しています。
+++++
■青いロマンスカーの特設サイト。
http://www.odakyu.jp/romancecar/mse/index.html
投稿者 birdwing 日時: 23:58 | パーマリンク | トラックバック
2008年3月13日
音楽で遊ぶ。
昨年のクリスマスだったか誕生日だったか、長男くんにドラゴンテイマーというニンテンドーDSのゲームをプレゼントしました。
ドラゴンテイマー サウンドスピリット ナムコ 2007-11-01 by G-Tools |
彼はドラゴン系のモンスターが好きなようです。ポケモンにしてもデュエルモンスターにしても、竜関連を集めています。おとーさんであるぼくにとって竜といえば「エルマーのぼうけん」シリーズに出てくる羽のはえた竜なのですが、幼い頃、長男くんにその本を買ってあげた影響がひそかにあるのかもしれません。結構、何気ないオトナのおすすめが子供ごころに深く影響を与えたりするんですよね。
エルマーと16ぴきのりゅう (世界傑作童話シリーズ) ルース・スタイルス・ガネット 福音館書店 1981-12 by G-Tools |
このドラゴンテイマーがどのようなゲームかというと、以下のページにも説明がありますが、画面に示された音符の通りに音を聞かせるとドラゴンが生まれる。DSにはマイクがついていて、そこで音声を認識するようです。
■ドラゴンテイマー サウンドスピリット公式サイト
http://www.bandaigames.channel.or.jp/list/ds_dragontamer/
そんなわけで、ドラゴンを手に入れるために、ピアニカなどでDSの画面に向かってぷーかぷーか吹いていたのですが、うまくできないよう・・・ということでぼくに助けを求めてきました。どれどれ、まかせてみーと、DTMで音を鳴らしてあげた。認識する時間が短いので全体の長さを調節しなければならなかったのですが、ベートーヴェンの運命の冒頭などでは、オーケストラヒットのプリセットでじゃじゃじゃじゃーんとやってあげたら、おお!とびっくりしていた。
そもそも部屋にこもってひとりで音楽制作をすることが多いぼくとしては、そんな風に子供と触れることがあまりないので、なかなか楽しいひとときでした。ただ、やっぱりぼくが手伝ってしまっては面白くないと思うので、あとは勝手に自分でやらせるようにしましたが。
しかし、あとでサイトをみたら、サイトにキーボードがあるじゃないですか。「竜界のキーボード」らしい。ちゃんとパソコンのキーボードに対応して音が出せるようになっています。「ドラゴンスコアを手に入れたのに身の回りに楽器がない~という人はこのキーボードを使って音を聴かせられるぞ!」という細かい配慮がにくい。優しい。
とにかくDSにはスピーカーだけではなくてマイクも付いてるのか、とあらためてこのちいさなゲーム機のポテンシャルに感動したのですが、DTMを趣味とするぼくとしては、ITmediaの「アナログシンセの名機がDSでよみがえる――「KORG DS-10」登場」というニュースにおお!と思いました。DSでアナログシンセサイザーをシミュレートしている。
AQインタラクティブは3月12日、ニンテンドーDS用音楽ツールソフト「KORG DS-10」を7月に発売すると発表した。コルグ(KORG)と共同開発し、アナログシンセサイザーをタッチパネルを使って演奏できるのが特徴。「スタイラス・ミュージック」という新しいスタイルを提案する。価格は4800円。
スタイラス(タッチペン)で配線できるんですね。アナログの配線をつなぐ音作りをDSで再現しているのが、シンセごころをくすぐります。公式サイトのトップにYouTubeによる映像を載せているところもいい。マニュアルであるとか操作を見せるときに映像は効果的です。
■公式サイト
http://www.aqi.co.jp/product/ds10/
■KORG DS-10 #001
■KORG DS-10 #002
うおお!!音作っているところいいなあ。レゾナンスとかフィルターとかぐにょぐにょ操作しているのをみると、くらくらしてきます。これたまらなく欲しいんですけど!!ITmediaの解説を引用すると、基本的には1978年のアナログシンセをベースとしながら、最新のKAOSS PAD的なエフェクトも装備しているらしい。
1978年発売のアナログシンセ「MS-10」をデザインコンセプトとし、DSの2画面とタッチパネルを活用して操作可能。エフェクター「KAOSS PAD」や、直感的に演奏できる超小型シンセサイザー「KAOSSILATOR」と同様のタッチコントロール機能を備え、リアルタイムなサウンドコントロールとノート(音符)入力が可能。楽器初心者からプロまで満足できる仕様になっているという。
KORG MUSEUMのMS-10の解説ページがまた泣ける。仕様については以下のように書かれています。
具体的には、パッチング可能な2台の2オシレーターアナログシンセシミュレーターと、アナログシンセで作成した音を使う4パートのドラムマシン、6トラック(アナログシンセ×2+ドラムマシン×4)/16ステップのシーケンサー、3種類のエフェクト(ディレイ、コーラス、フランジャー)を搭載。ノート入力モードはタッチコントロール、キーボード、マトリクスの3種類。リアルタイム演奏するサウンドコントロールモードも備える。
うーむ。これはあなどれない。通信機能もあるらしいので、複数ユーザーとセッションしたり曲のデータも交換できるとのこと。ああ、いまの子供たちって、なんて恵まれているのでしょう!いや、これは子供よりオトナが買いそうだ。ちなみにAmazon限定で販売のようです。ううう、どうしよう。注文したい。うずうず。
考えてみるとぼくがDTMをはじめたのは、YAMAHAのQY-20という玩具のような手乗りシーケンサーがはじめてだったのでした。さ、探したら出てきたー。どわー。これは15年前に購入した機材です。変色してきったねー(苦笑)。
とはいえ、電池駆動ができるので、持ち歩いてモバイルで曲を作ったりもしていたんですよね。さすがに電車のなかでちまちまとちいさい鍵盤を押していると、あんた何?という感じで見られて恥ずかしかったのですが。DSなら電車のなかでも曲作りができるかもしれない。15年前であればともかく、あらゆる場所で携帯電話でメールを打ったり、ゲームをしている現在では、さほど違和感がないのでは。良識のある教育者的な見解はともかくとして、ぼくは優等生の視線で新しい風潮に眉をひそめるよりも面白がってしまうタイプなんですけどね。
ちなみに「男の隠れ家」という雑誌を購入したのですが(なんてタイトルだ、という感じです。苦笑。これについては別途またエントリーを立てる予定)、音楽の変わった遊び方としては、おじさんたちにひそかに人気があるのはギターの塗り絵らしい。
ギター塗り絵 ロックの時代を彩った名器8本を塗る ギター・マガジン編集部 リットーミュージック 2007-10-30 by G-Tools |
リットーミュージックから出ていて本格的なのですが、DSのシンセより、こっちのほうがどうかと思うなあ(苦笑)。塗り絵はボケ防止にもよいということを聞いたことがあるんですが、塗り絵するよりもヘタでもいいから弾いてみたほうがいいんじゃないか。でも、いろんな音楽の楽しみ方があっていいですよね。
投稿者 birdwing 日時: 23:53 | パーマリンク | トラックバック
2008年3月11日
[DTM]春に想う。
あったかくなってまいりました。ぽかぽかと陽気も春めいてきています。休日にぼくの部屋の窓を開け放つと、目の前にちいさな青い花がたくさん咲いていました。というか咲かせているわけですが(苦笑)、そのスナップを。
なんという花だったのか忘れました。鳥のかたちをした風車があって、春の風にくるくると回っている。花粉を運んでくる風には困りますが、やわらかい風は歓迎したいものです。
街を歩く女性の服装も春めいて薄着化の傾向にありますが、ジャケットのひざこぞうの写真に惹かれてか、ついついBGMにしてしまったのが原田知世さんの「I could be free」というアルバムでした。
I could be free 原田知世 曲名リスト 1. 愛のロケット 2. アイ・クッド・ビー・フリー 3. 君は君のもの 4. 雨音を聴きながら 5. ロマンス 6. ラヴ 7. サークル・オブ・フレンズ 8. アー・ユー・ハッピー? 9. パレード 10. ヴァカンス 11. ネイヴィー・ブルー 12. 燃える太陽を抱いて 13. ラクに行こう Amazonで詳しく見る by G-Tools |
一時期、話題になったスウェディッシュポップのプロデューサーであるトーレ・ヨハンソンのプロデュースですね。このアルバムに収録されている春らしい「ロマンス」という曲をYouTubeから。
ブラスのアレンジがなかなか雰囲気があります。この曲ではトーレ・ヨハンソンがギターとベースを弾いているようです。途中の「風が吹いてる」という部分のコード進行がぐっときました。それにしても原田知世さんは、どういうわけか春らしいひとという気がしています。
ところで、ぼくも趣味のDTMで何度か春の曲に挑戦してみました。いま作りかけの曲が苦戦中なので、過去の曲を再公開してみます。まずは、2006年のちょうど3月に作った「march」です。
■march 3分22秒 4.62MB 192Kbps 2006.03.28
詞・曲・プログラミング:BirdWing
どこか破綻している気がします(苦笑)。ただ、自分としてはこの破綻のなかに春らしき何かを封印したかった気持ちがあったような。ピアノの音を生ピ系とエレピ系を重ねているなど、無駄に凝っていたりします。
次はこの曲を作った前月である2月に作った「サクラサク。」。歌うソフトウェアVocaloidでボーカルを入れています。
■サクラサク。 4分03秒 5.56MB 192Kbps 2006.02.25
詞・曲・プログラミング:BirdWing
歌詞はこんな感じです。
+++++++++++
サクラサク。
詞・曲:BirdWing
サクラ咲く未来に 続いてるこの道
遙か遠く青い空 かすんでみえる山並み
きみはどこへ行くの
明日旅立ちのとき
夢を忘れないでいて
そっと鞄に詰めて
サクラ咲く春の日 少しだけ切ない
踏み切りの向こう側 手を振るきみがみえない
きみはきみでいればいい
いつも どんなときにも
雨がきみを濡らしても
傘はここにあるから
+++++++++++
音源としては、Vocaloid MEIKOのほか中国の楽器である二胡の音を出すフリーのVSTi「MiniErhu」とギター音源のReal Guitarを使っています。MiniErhuのインターフェースはこんな感じ。
春といえば受験シーズンです。希望する進路を得たひともいれば、夢が叶わなかったひともいるかもしれません。けれども、短期的に夢を見失ったとしても、それがそのひとを損なうものであるとはぼくは思わない。ここに存在しているだけで、そのひとの価値はあるものだから、あえて自分探しをする必要もないし、他者と比べて落ち込んだりくだらない優越感に酔いしれる必要もないと思う。
その進路を選ばなかったことで、みえてくるものもきっとあるはずです。そんな想いを「きみはきみでいればいい」という言葉に込めました。短期的には雨が降ることがあっても、雨はきっと上がる。特に春の天候は変わりやすいものです。寒くて冷たい風が吹いたとしても、次の日にはあたたかい陽光が降り注いでいる。
そもそもこの歌詞のきっかけとなったのは、まだちいさな長男くんを休日にどこかへ連れて行ったとき、ビルのフロアを「○○たんは○○たん(○○は彼の名前)」と叫んで走り回っていたことにありました。そうだよな、きみはきみだよな、とそのときに思った。まあ、当たり前のことなんだけれども。
あと歌詞としては蛇足なのですが、歌のなかの主人公は泣いているわけです。しかし泣いていると直球で言ってしまっては言葉に広がりも何もない。「手を振るきみがみえない」は、電車が通過するから向こう側の「きみ」が隠されてしまうということと(踏み切りらしき音もアレンジで入れています)、涙でみえないというイメージを込めたいと思いました。いやー、ほんとこういうことを書くべきではないんですが。余計ですよね。
辛い経験がひとを強くやさしくするのだと、ぼくは思いたい。そんな辛いけれども前を向こうとしているひとたちを応援しています。どんなに社会的にマイノリティであっても、いまは最悪のときであったとしても。
投稿者 birdwing 日時: 23:40 | パーマリンク | トラックバック
2008年3月 9日
何もないところから。
いつだったか天気のいい朝、通勤途中にiPodで何を聴こうか迷って日本のエレクトロニカユニットであるausの「Lang」というアルバムを聴いてみたところ、ものすごくぴったりはまったことがありました。朝の空気、きらきらした陽光、そして音楽のすべてが同期して、ある質感を持って周囲を包み込む。朝がリアルに立ち昇るというか、とにかく眠っていた感覚が覚醒されるような感じでした。言葉ではうまく説明できないのですが。
Preco Recordsのmy spaceで、ausの「Halo」を試聴できます。ぼくが聴いたのはこの曲なのですが、いま聴いてもどうってことはあまりません。時間とか場所とかぼくの感情とか、あらゆる条件が同期しなければ、あのちょっとぶっとんだ感覚にはなれないのかもしれません。
■my space Preco Records
http://www.myspace.com/precorecords
ところで、外界から遮断されたオーディオルームで1本数百万のスピーカーで聴くような音楽は最高の音だろうと思います(聴いたことがないけど)。楽器の臨場感も違うだろうし、音の質感も異なる。オーディオルームではなくても、生のオーケストラの演奏を前にすると、演奏されて生れた音のカタマリには言葉も出ないぐらい圧倒されるのではないでしょうか。ポップスやロックのライブも然り。
しかしながら最高の音楽は、一部のお金や暇に余裕がある特権階級だけが聴くことを許されるものなのかな?という疑問を感じます。クラシックやジャズ、あるいは一部のおっかけ的なリスナーに漂う一種の排他的な雰囲気にはどうしても馴染めないものがある。どうせお前には分からないだろう、きみは分かってるから仲間だ、この音楽はこの機材で聴くべきだ・・・という音楽の聴き方、あるいは知に対する姿勢はどうも好きではない。いやほんと好みの問題です(苦笑)。理屈ではなくてね。
しょぼいヘッドホンとオーディオプレイヤーで聴く音楽なんて音楽とは呼べない、という志向性もあるかもしれませんが、ぼくはそうではないような気がします。子供の頃、1万数千円のモノラルのラジカセ(SONY製)を親から買ってもらったことがあるのだけれど、しばらくの間、そのラジカセはタカラモノでした。寝床でイヤホンを耳に差し込んで深夜放送を聴いて、わくわくしました。低音のかけらも再生されないスピーカーであっても、そこから流れる音楽には心を震わすものがあったことを覚えています。
音楽は、周囲から隔離された防音・無菌室のようなところで単体で存在しているものなのか、あるいは存在すべきものなのかどうか。ぼくはむしろ聴くひとの時間・時代の流れ・場所・心理状況(感情とか体調とか)・個人的なさまざまな関係性や社会の文脈などさまざまな混沌のなかに存在しているものではないかと考えます。だからものすごく俗っぽいものがあっていい。
同様の考え方で、ちょっと視点をずらしてみると、どんなに技術が進歩したとしても最近のノイズキャンセラー付きのヘッドホンのようなものがあまりいいとは思っていなくて、むしろ外界の音とミキシングして音を聞くべきじゃないかとぼくは思う。ジャズのアルバムでも、感極まって叫ぶプレイヤーの声が入っていたり、あるいはライブ盤であればグラスや談笑の声などが入っているやつがいい。もちろんこれもまたぼくの趣味であり、雑音が嫌いなリスナーもいていい。聴き方の違いであって、そこに正解はありません。どんな聴き方もできる。
音楽関連の新書をいくつか買い込んでいたのですが、先々週の金曜日に持田騎一郎さんの「儲かる音楽 損する音楽」を読了しました。
儲かる音楽損する音楽―人気ラーメン屋のBGMは何でジャズ? (ソニー・マガジンズ新書 1) 持田 騎一郎 ソニー・マガジンズ 2008-02 by G-Tools |
この本はBGMコンサルタントとして選曲などをされている持田さんが、BGMという観点から音楽と空間の在り方などについて考察された本です。科学的な考察を期待すると失望するかもしれません。どちらかというとエッセイです。正直なところあまり深い内容ではないので(というのも失礼ですが)、芸術至上主義のひとが読むと眉を潜めるか、つまらないなと放り出すか、という印象です。とはいえ、クラブの話とかJ-POPの歴史などについても書かれていて、ぼくはこういう論考も面白いと思いました。いろんな音楽があっていいと思います。どんなにチープで高尚ではない音楽だったとしても、食事や場の雰囲気を盛り上げるのであれば、その音楽には存在価値がある。
ぼくは趣味のDTMで、パソコンだけを使って音楽を作っていたりするのだけれど、では打ち込みがすべてかというとそうは思っていません。生の楽器を演奏する楽しみもわかります。しかしながら、音楽は絶対に生がいちばんだという主張を聞くと、それはどうかな?と反論したくなる。YMOなどを聴いてきた世代だからかもしれないのですが、テクノロジーによって変わっていく音楽も面白いと思うし、そこに可能性も感じています。単純に「べき」論が嫌いなだけかもしれないですね(苦笑)。
結局のところ生か打ち込みかというのは手法の問題であり、心を打つ音楽は、そんなちまちまとした議論を吹き飛ばしてしまうものです。とんでもなくぼろい数千円で買えるようなギターを持って現われたタマス・ウェルズの歌を聴いて、ぼくは思わず涙を流してしまったことがあるのだけれど、生だろうが打ち込みだろうが超ヘタであろうがオンボロ楽器や機材だろうが、琴線に触れるどころか心をえぐるような音楽がある。技術的に優れたものよりも、きれいにまとまっているものよりも(そして商業的に売れているものよりも)そういうものをぼくは聴きたい。
趣味のDTMでは、できればそれなりの機材を使ってプロ志向の曲作りをしたいけれど、なかなかそうもいきません。といっても機材がないからいい音楽ができない、というのは一種の逃げのような気がしています。そんなわけで手持ちの機材を最大限に活用する方法を考えて、さらに無料で使えるプラグインなどをネットで収集して工夫しながら作りたいと考えています。
技術の進化という恩恵をとても感じていて、現在、インターネットや雑誌で無料のツールがたくさん公開されています。ほんとうにびっくりします。既に最新号(4月号)が出てしまっているのだけれど、DTMマガジンの3月号は「いますぐ使える!無料音楽ツール」という特集があって、なかなか楽しく読みました。まだ試していないのですが、DAW(音楽制作ソフト)自体も高機能なソフトが無料で入手できます。
DTM MAGAZINE 2008年 03月号 [雑誌] 寺島情報企画 2008-02-08 by G-Tools |
DTMマガジンの3月号をぱらぱらめくっていたら、マーク・ビアンキ(her space holiday)のインタビューが載っていました。「集え、インディーズ・ミュージシャン」ということで、「DTMを取り入れた良質なインディーズミュージシャンを紹介する」コーナーとのこと。絵本付きの「the telescope」というアルバムの感想を書いたことがあるのだけれど、インタビューの冒頭の部分がなんだか泣けました。
――バンドをやっていた貴方が、ソロユニット「her space holiday」を始めたのはどういったきっかけですか? 「最初自分だけでレコーディングを始めたときは、作品をリリースするつもりがなかった。最初の何曲かは、人生の辛い時期を過ごしてた友達の女の子を励ますために作ったんだ。彼女は、自分が自分の体から抜け出して、宇宙を漂っているみたい、って言ってた。だから僕は最初の曲たちに"HER SPACE HOLIDAY"って名前を付けた。レーベルから作品をリリースしないかって打診があって、そのときにHER SPACE HOLIDAYって名前を続けようと思った。そのころ僕がやっていたことの雰囲気に合ってたしね」
うーむ。「人生の辛い時期を過ごしてた友達の女の子を励ますために作ったんだ」のようなことをさらりと言えてしまうのが素敵だ(泣)。このやさしさと無欲な感じが、彼の音楽にも表われているように思いました。インディーズの音楽はこうあってほしいものです。ミニマルでかまわないから、ちいさなサークルであったとしても確実にひとびとをあたたかい気持ちにしてくれる音楽がいい。さらに影響を受けたアーティストには、コーネリアス、ブライアン・ウィルソンの名前があり、こちらもなぜか納得。
そんなあれこれを考えつつ、新しい曲を制作中です。いつも土日でさくっと作ってしまえるのですが、今回に限ってなかなか手に負えなくて迷走中。けれども何か突き抜けそうな予感も感じています。
この停滞した感じがたまりません。たまりませんといっても辛いのではなくて楽しい。停滞しているときには、どうしても過去のフレームを持ってきてしまうのだけれど、持ってきても構わないフレームと壊さなきゃいけないフレームがあります。そんな自分のなかにある創作の枠組みを検証しながら、マウスでぽちぽちと曲を描いています。
投稿者 birdwing 日時: 23:45 | パーマリンク | トラックバック
2008年3月 8日
「プロフェッショナルアイディア。」小沢正光
▼Book08-008:広告の思考、現場のノウハウ。
プロフェッショナルアイディア。欲しいときに、欲しい企画を生み出す方法。 小沢 正光 インプレスジャパン 2007-02-28 by G-Tools |
アドマン(広告のクリエイター)が発想するときのバイブルとしてはジャック・フォスターやジェームズ・W・ヤングの本が古典的といえますが、「プロフェッショナルアイディア。」は博報堂執行役員エグゼクティブディレクターの小沢正光さんが長い現場で培ったノウハウをわかりやすく解説された、発想を仕事とする考えるひとのバイブルともいえる本です。日本版フォスターあるいはヤングという感じ。アイディア開発法について、さまざまな示唆を与えてもらうことができました。
さすがに広告の現場で活躍されてきた方の言葉だけあって、切れ味が鋭い。まず、各項目の見出しタイトルで唸らされます。たとえば、ぼくが注目したのは次のような言葉でした。
・プロのアイディアは思い付きではない。(P.4)
・コンスタントに結果を出す。(P.8)
・完全性より適時性。(P.44)
・「わかる」は「分ける」。(P.78)
・バックキャスティング。(P.104)
・律速要因。(P.160)
・進歩は階段状。(P.174)
ぼくはアイディアにおいてはキャッチコピーの重要性を感じています。一言で言うと・・・という部分で切れ味がなかったり、そうそう!わかるわかる!のような共感を生まないアイディアはいまひとつという気がする。延々と30分ぐらい説明しなければ理解できないコンセプトは、どこかひねくりすぎていて、実はたいしたことがない。すばらしいアイディアは一語に集約される気がします。その意味で、さすがプロフェッショナルだなあ、という印象を受けました。一語が研ぎ澄まされている。
上記のいくつかについて引用しつつ感想を書いてみることにします。まずプロフェッショナルの要諦としては、「プロのアイディアは思い付きではない」と「コンスタントに結果を出す」のふたつが重要だと思いました。
やはりぼくも仕事を通じてアイディアと企画は違うということを考えていたのですが、口頭ではいくらぽんぽんとアイディアを出せたとしても、営業的には強みになることがあったとしてもプランナーとしてはそれだけでは仕事になりません(というか、実現不可能な概念的なことや思いつきだけを口先で乱発する営業は信頼されないかもしれませんが・・・)。つまり、クライアントの要件をしっかりと吟味した上で、論理を構築していく地道な作業が必要になる。
また、感情や案件によって左右されるのではなく、常に結果を出せることは必須です。これは、企画にとどまらず経営者はもちろん、ミュージシャンでも同じだと思いますね。運よくヒットのアルバムを出せたとしても、一発屋で終わってしまうのでは実力がなかったということになる。プロゴルファーや野球の選手などもそうではないでしょうか。プロは何度同じことを挑戦しても、そのたびに同じ結果が出せるひとだと思います。一発でっかいヒットを飛ばすよりも、継続して長い期間に同じ結果を出すのがプロです。同じ結果を出すためには、才能はもちろん努力も必要になる。
とはいえ、結果を出す過程に多大な時間やコストが必要であれば、プロの仕事とはいえません。もちろん場合によってはあえて時間と費用を想定した以上に設定することもありますが、アーティストではないので、いつまでも納得ができるまで継続していたらビジネスにはならない。引用します(P.45)。
仕事の完璧さを優先すべきか、締め切りを優先すべきか。
とくにものづくりにかかわる人は、誰しもいちどはこの問題に頭を悩ませたことがあるに違いない。アイディア開発の場合は、どちらを優先すべきだろうか。
まちがいなく、締め切りだ。
アイディア開発には、ほかにも守るべき条件の優先順位がある。プライオリティの高いものから順に並べれば、「適時性」「先行性」「並行性」「完全性」だ。
ここで完全性よりも適時性を重視するということは、プロトタイピング(試作)などの方法論にもつながると思いました。不完全であったとしても、とりあえずデザインしてしまう。そしてβ版を試用させることによって、サービス自体の完成度をあげていく。
時間をかければよいものができるかというと、かければかけるほど泥沼に入り込むこともあります。組織全体においても、全体のスピードアップを図らなければ、スピードの遅いスタッフの速度に引き摺られてしまう。これが「律速要因」です。
化学反応がいくつかのステップをへて進行する場合、その反応速度はもっとも遅いステップのものに支配される。つまり、ひとつのステップの速度が遅ければ、ほかの反応速度がいくら速くても、すべてがその速度に支配されてしまうのである。
この場合、もっとも反応速度が遅いステップは、全体の反応速度を律速しているという。
小沢さんはアイディア開発の律速要因として、人的なものと作業効率的なもののふたつを挙げています。なかなか前者については難しいナーバスな問題を含むのではないでしょうか。速度を落としている要因の解明は、問題の追求と該当するスタッフの吊るし上げになりかねない。けれども、適材適所のような観点から、速度のあった部分に担当を配置するような視点を提示されていて、なるほどと思いました。
その他、バックキャスティングはいわゆる仮説思考、「わかる」は「分ける」ということはMECE(Mutually Exclusive and Collectively Exhausti:漏れもなく重複もない)というコンサルティングの思考法に通じるものを感じました。進歩は階段状であるということは、マクドナルドの原田泳幸さんの本にも書かれていたことであり、クリエイティブに関わらず、仕事哲学や人生哲学にも応用できる言葉です。
読んだときには失礼ですが、どこかで聞いたことがあるような視点ばかりだな、たいしたことないかなという感想を抱いていた本ですが、しばらくしてじわりじわりと効いてくる。ただ読者であるぼくのなかで、もう少し構造化・体系化ができればいいのですが未消化な印象もあり、もどかしく感じています。
投稿者 birdwing 日時: 12:10 | パーマリンク | トラックバック
2008年3月 6日
自由なケイタイ。
インターフェース(interface:2つのものの間のやりとりを仲介するもの)に関心があります。といっても技術者ではないので、SFのような近未来の技術にわくわくしているだけの傍観者なのですが、「コントローラーという楽器。」というエントリー では、音楽のMIDIインターフェースをいろいろと調べてみました。
ふつう楽器といえば鍵盤、弦、あるいはサキソフォンなどのように息を吹き込んで穴を押さえるインターフェース(?)が一般的ですが、そうではない楽器も出てきています。テルミンのような電子楽器は昔からあったのですが、身体全体で音を出すようなものもありました。電子楽器のインターフェースはまだまだいろんな形態が出てきそうです。「新しい音楽のために。」で取り上げましたが、YAMAHAの新しいガジェットであるTENORI-ONにも興味があります。
一方で、パソコンの進化としてマルチタッチスクリーンも面白いなあと思っていて、「指で触れる、操る。」というエントリーを書いてみました。わかりやすいのがiPod Touchだと思うのですが、人差し指と親指などのアクションを組み合わせることでさまざまなショートカットを実現できたり、操作方法も進化しています。やがては映画「マイノリティ・リポート」のように、奥行きのある仮想的な3D空間を指で操ることでファイルなどの操作ができるようになるのでしょうか。
となると、現在はデスクトップ上に広がっているアイコンが、デスクトップの「手前」はもちろん「奥」にも広がってしまうわけで、ますます検索の技術が重要になってくるような気もしています。ファイルをかきわけて探す、などというようなインターフェースになったら大変そうだ。それこそ容量が増えたりインターネットに接続されたら、漆黒の宇宙空間を手探りするような感覚になりそうです。情報技術が進化しているのか、アナログなのかわからなくなりますね。
そんなインターフェースの進化について妄想をしていたところ、CNET Japanのフォトレポートにあるノキアの新携帯端末「Morph」の情報を発見。少し古くて2月の記事ですが、引用してみます
■フォトレポート:伸びて縮んで向こうが見える--新携帯端末「Morph」
http://japan.cnet.com/mobile/story/0,3800078151,20368154,00.htm
Nokia Research Center(NRC)とケンブリッジ大学によって共同開発された携帯端末のコンセプトモデル「Morph」。同技術は、モバイルデバイスを伸縮可能で柔軟にし、透明度を持たせながら簡単にきれいさを保つため、ナノテクノロジがどのように使われるかを実証することを目的としている。Morphは、ニューヨーク近代美術館(MoMA)が5月12日まで開催の「Design and the Elastic Mind」展と連動したオンライン展示で見ることができる。
ちなみに、MoMAの「Design and the Elastic Mind」展のオンライン展示もナノテクノロジーで羽ばたく虫のようなロボットとか折り紙とか、なかなか面白いのですが、脇道にそれてしまうので機会があればまた取り上げることにして、リンクだけ記載しておきます。
■MoMA「Design and the Elastic Mind」展 オンライン展示
http://www.moma.org/exhibitions/2008/elasticmind/
まず写真で「Morph」のデザインを確認。グリーンのジェルのような印象です。この色合いと様相は日本+北欧系の別のメーカーを想像させるのですが(苦笑)、それはさておき。
ナノテクノロジーの活用によって、ケイタイ(携帯)のケイタイ(形態)がさまざまに変わります。トランスフォーマーではないですが、いくつかのカタチに変身します。これがなかなか少年ごころをくすぐります。
オープンモード。これはミュージックプレイヤーにも使えるような感じ。
フォンモード。上のほうに見える星座のマークのようなものは何でしょう。
そして、驚くべきなのがリストモード。2つ折どころじゃなくてジャバラに折り畳むこともできるのですが、驚いたことに丸めてブレスレットにもできます。素材自体が透けているのでおしゃれです。スケルトンとかシースルーという感じ。
ソフトウェアキーボードのような画面を表示すれば、かなりパソコンに近いこともできそうです。
写真よりも動画で見たほうがわかりやすいと思います。なのでYouTubeからコンセプト映像を。
■Nokia Morph Concept (long)
携帯電話は肌身離さず持ち歩くメディアである、というようなことが言われたことがありますが、丸めて腕に巻きつけられるのであれば密着型のツールになります。さらにすごいのは、勝手にお掃除してくれたり、太陽光から充電してくれるらしい。電池が切れてひやひやすることがよくあるのですが、そんな心配も不要です。至れり尽くせりの携帯電話ですね。
楽器やパソコンもこんな感じになるといいなあと思いました。そういえばキーボードには、くるくる丸めることができるハンドロールピアノもありました。
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ちなみに「morph」というネーミングの語源は「モーフィング(morphing)」ではないかと思います。Wikipediaから解説を引用します。
モーフィング(morphing)は映画やアニメーションの中で使用されるSFXのひとつで、コンピュータ・グラフィックスの手法のひとつ。ある物体から別の物体へと自然に変形する映像をみせる。これはオーバーラップを使った映像のすり替えとは異なり、変形していく間の映像をコンピュータによって補完して作成する。変身・変化を意味する単語「メタモルフォルシス(metamorphosis)」の中間部分から命名されたという説と、move(移動)+morphology(形態) の合成語であるとする説がある。
というわけで、YouTubeで探したモーフィングの映像を。映画女優のモーフィングです。アンジェリーナ・ジョリーの顔がいろいろと変化していきます。キーラ・ナイトレイは「シルク」にも出ていますがいいですね。
■Famous Faces Morphing
ちょっと気持ち悪いような気もします(苦笑)。一方でWikipediaの解説で興味深かったのが、最後の次の解説です。
音響面でも援用され、その場合はクロスシンセシスと呼ばれる技術が用いられる。ある楽器の特徴を持つ音色から別の音色へ、音響スペクトルの滑らかな推移を伴う連続した音響をコンピュータによって合成する。このような音響技術の研究機関のひとつとしてIRCAMが有名。
実際の音をテクスチャーとして音から音へのモーフィングができるということでしょうか。たとえば、アタックはバイオリンだけど次第に減衰していくとピアノの音になっていくとか?うーむ。検索してみたのですが非常に難しい技術的なトピックが多くて理解できません(涙)。音声ファイルをクロスフェードすれば同じようなことができそうですが、それじゃダメなんでしょうね。周波数などが滑らかに変わっていかないとモーフィングとはいえないのかも。
考えてみると、ガジェットも多機能化するようになって、きっちりとした機能の境界がなくなっているような気がしました。携帯電話でありながら音楽プレイヤー・・・のように、機能にグラデーションがかかっている、というかモーフィングによってどちらにもなるような小物が増えています。機械らしい機械というかボリュームがごてごて付いているものも嫌いではないのですが(というか好きだったりするのだけれど。オーディオ系は特に)、機能の切り替えに弾力性があり滑らかになると、より人間的に使いやすくなるのではないかと思いました。
人間もそうかもしれないですね。がちがちのアタマの固さではなく、さらに柔軟すぎるお調子者でもなく、ときには真面目また別のときには軽めと、TPOに合わせてモーフィングして自分自身の形態(というかキャラクター)を変えることができれば社会にフィットできるような気がします。
まあ、大人になるということは、そんな風に妥協したりご都合主義で長いものに巻かれたりすることもあるのですが。
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2008年3月 4日
野良犬
▼Cinema08-007:打ちのめされるほど熱い。
野良犬<普及版> 三船敏郎;志村喬;清水元;河村黎吉 黒澤明 東宝 2007-12-07 by G-Tools |
やられた。まいりました。黒い(モノクロ映画だから黒にみえるのだけれど)犬がぎょろりと目を剥きながら、はあはあ舌を出す冒頭の映像から衝撃を受けて、ぐいぐい引き込まれるようにして観てしまった。あらためて感動。これが世界のクロサワだったのか。震えました。
物語は、拳銃を盗まれた新米刑事の村上(三船敏郎さん)がベテラン刑事の佐藤(志村喬さん)と組んで犯人を追い詰めるという、筋だけ抜き出してしまうと、どちらかというとありがちなストーリーです。けれども場面の切り替わるテンポといい物語の人間模様の深みといい、圧倒されました。
そもそも映像に残されている日本の風景が全然違う。記録の意味としても強烈なインパクトがあります。戦後の荒れ果てた光景は、凄惨で退廃的で、アジア的なけばけばしい混沌と貧困をあらためてみせつけてくれる。奪われたり奪ったり時代を恨んだり、泥沼のような現実でその日一日を生き延びるひとたちがいる一方で、すがすがしいほどの自然や健全さも存在している。めちゃめちゃ暑いにもかかわらず麻のジャケットを着込むような男たちに、なんだか途方もなく格好良さを感じてしまった。
享楽的なものとストイックさが共存していて、どこか破綻している時代だったのかもしれません。けれどもぼくはそこに眩暈がしそうな魅力を感じてしまう。映画のなかでも使われていたのだけれど、アプレゲール(après-guerre)という風潮なのでしょうか。Wikipediaからその言葉の解説を引用します。
日本でも第一次世界大戦後、大正デモクラシーの風潮の中、享楽的な都市文化が発達し、エロ・グロ・ナンセンスと呼ばれる風俗も見られたが、治安維持法の施行から昭和恐慌、第二次世界大戦へと至る流れの中で、こうした動きは徐々に圧殺されていった。日本で(アプレゲールを略して)「アプレ」という言葉が流行したのは、第二次世界大戦の後である。戦前の価値観・権威が完全に崩壊した時期であり、既存の道徳観が欠落した無軌道な若者が大量に出現し犯罪事件も頻発した。また徒党を組んで愚連隊を作り、治安を悪化させた。このような暗黒面も含めて、「アプレ」と呼ばれるようになった。
映画のなかでは、ベテランの佐藤刑事は蛙の鳴き声を聞きながら「アプレゲールじゃなくて、あきれげーるだ」などとシャレにしてしまうのですが。ともかく、戦後の混乱のなかでリュックを盗まれた苛立ちから時代を恨んで金を盗み人を殺す遊佐と、同じようにリュックを盗まれながらその社会を変えようと思って刑事になる村上が対比されています。
格差社会といっても現代は裕福であり、戦後の格差と歪みに比べたら甘っちょろいのではないか、とも思いました。このひりひりするような飢餓感とまっすぐな何かはあまり感じられない。
これは日本なのだろうか。いや、日本なのだけれど。アジアでもなく西洋でもない、戦後の日本ならではのパワーを感じました。とにかく夏の暑い日を描いていて、何度もタオルで汗を拭うシーンがあるほど暑いのだけれど、物語自体も熱かった。新人刑事である村上のストレートぶりも、それをしなやかにたしなめる佐藤の人徳も熱い。
だから、きっと日本は急成長できたのだな、とあらためて感じました。豊かないまという時代には、その泥臭さはありません。ピュアな気概もない。それが良い悪いという問題ではなくて、この映画に描かれている日本は現代とはまったく別の日本という気がしています。
映像としては、印象に残るうまいシーンがたくさんありました。たとえば、冒頭でぎょろ目で舌を垂らした犬と盗まれたピストルを探すために復員兵に変装して戦後の焼け跡の貧民のなかにもぐり込む村上の目つきの映像がオーヴァーラップしていくところ。ほかにも、病院でひとり取り残される踊り子ハルミの姿とか、やっと「狂犬」である犯人遊佐を逮捕したときに、カメラが遊佐の視線の映像に変わるところなど。
「その日はおそろしく暑かった」という冒頭の語り口にブンガク的なものも感じるのだけれど、台詞のぶっきらぼうな感じもいい。コルトがなければ別の拳銃でやったさ、というような佐藤刑事の語り口であるとか、「狂犬の目にまっすぐな道ばかり」という川柳を引用しながら、追い詰められた遊佐のチャンスを示唆するところなどなど。
そもそもこの映画を観ようと思ったきっかけは、先日読了した久石譲さんの「感動をつくれますか?」という本で、「映画と音楽の共存」としてこの作品のクライマックスシーンが絶賛されていたからでした。以下、引用します(P.81)。
このクライマックスのシーンに流れるのが、近くの家の奥さんが引いているピアノの音だ。ピアノ練習曲として名高いクーラウのソナチネだ。 片や刑事、片や殺人者となった二人は共に復員兵である。対立する立場でありながら、運命の差は紙一重のところにある。一方、戦後まもなくその時代に郊外に家を建て、ピアノがあるという状況は、ある種のブルジョワである。戦争によって運命の変転を余儀なくされた若ものたちと、平和で幸せな生活を安閑と享受している奥さんというもう一つの対比。その奥さんが弾いているというかたちでピアノ曲が流れることにより、若い刑事と犯人がともに戦争の犠牲者であることを観客に訴える。音楽を状況内のものとして自然に使いながら、重層的に現実を表現している。そこでアクション系の威勢のいい音楽を流して取っ組み合いを見せたら、あの深みは決して出せない。映画音楽のあるべき姿として、理想的だと思う。 映画音楽を状況の中で上手に使うと、このように映画そのものが深く、知的なものとなる。
引用していて唸ったのですが、音楽家でありながら久石譲さんの文章は切れ味がいい。的確です。ああ、なんだか自分の書いた感想が恥ずかしくなってきた。さらに恥ずかしいことに、クロサワ映画をはじめとして古典的な名作で観ていないものがたくさんあります。しかしものは考えようで、これからいくらでも観る楽しみがあるともいえて、なんだかしあわせな気もします。俄然、映画を観たくなってきました。
よい作品を観て、作品に負けないようなレビューをブログで書いてみたいものです。時代検証を含めて、この映画にはまだまだ語り尽くせない魅力があるように思います。たぶんたくさんのひとが、それについて語っていると思うのですが。3月2日鑑賞。
+++++
「野良犬」の最初の部分をYouTubeから。たぶんビデオテープからエンコードしたもので、最初のほうにあるトラッキングによるぶれが惜しい気がします。
■映画 野良犬001
以下のページには、あらすじとともに昔のパンフレットなども掲載されていて参考になりました。この「野良犬」の物語は実話に基づいたものであるとのこと。
http://homepage2.nifty.com/e-tedukuri/norainu.htm
投稿者 birdwing 日時: 23:58 | パーマリンク | トラックバック
2008年3月 2日
11歳から学ぶこと。
親がなくても子は育つ、という方向性でしばらくほったらかしにしておいた息子たちですが、わずかばかり心配になりました。放任しておいて心配になるのも勝手ですが、久し振りに父親をやってみようと思いました。だいたい父親なんてそんなものです。ときどき思い付きで、いろんなことを都合よく言ってみたりやってみたりする。で、家族から鬱陶しく思われて敬遠される・・・(苦笑)。
長男くんには通信教育で進研ゼミのチャレンジをやらせているのですが、んーどれどれやってるかな?と見てみたところ、2月の冊子でやっているところは1ページのみ。しかも国語だけ。こらぁ。
というわけで、土曜日と日曜日に数時間いっしょに問題を解いたり付き合ってあげたのですが、久し振りにこういうことをすると非常に疲れる。一応ぼくには父(および母)の教師の血が流れているはずですが、教師にならなくてよかったのかもな、と考えました。教えるのは好きなんだけど、忍耐力に欠ける。総合的に考えると誰かに何かを教えるときには忍耐力が重要ではないか、と。
とはいえ、これがよい経験になりました。そもそも小学校5年生にもなると、なかなか問題も難しくなってきます。問題はもちろん、教えることを通じていろいろとぼくにも考えさせられることがあります。
今回、いろいろと考えてしまったのは、算数の以下のような問題でした。百分率や割合に関する問題です。
問題:12本で3000円の鉛筆を2割引で売ります。1本いくらですか。
この出し方としていちばん最短距離で答えがでるのは、次でしょうか。えーと、ぼく自身ばりばりの文系なので、算数はものすごーく苦手なのですが。
3000×0.8÷12=200
ただ、これは最初に12で割って単価を出す方法、割引の値段を出して全体から引いてから単価を出す方法など、いくつかの到達経路があるかと思います。ひょっとするとその経路の違いが算数の面白さなのかな、とオトナのぼくはあらためて考えてしまったのだけれども。
まず、長男くんがフリーズしてしまったのは、2割という考え方。小数点で表すときにわからない。まず次のように説明しました。
「全体を100としたときに、そのうちの1つが1%といいます。そして、全体を10としたときにそのうちのひとつが1割」
しかし、なんとなくぼよーんという顔をしている。そこで、ふと思い付いて次のように訊いてみました。
「といってもだ。なぜ全体を100とか1とかにしなければならないんだろう?」
すると長男くんは完全フリーズ(苦笑)。なので、その問題はちょっと置いといて、
「じゃあ、ちょっと別の問題で考えてみよう。いまクラス30人のうち20人が賛成しています(雨あがりの日には運動場がぬかるむので入ってはいけない、そのことについて学級会で議論している、という物語を作った)、一方で同じ質問を学校全体の600人に訊いてみたら200人が賛成でした、クラス全体と学校全体では、どちらのほうが賛成の割合が多いですか?」
というサブ設問を作って訊いてみました。そりゃクラスだよ、と即座に答えたのだけれど、なぜ?と訊いてみるとわからない。こいつ直感的にアバウトな回答してるな、という感じ。そこで、「もとの数」と「比べる数」を表組みにさせて、百分率で計算させて、パーセントにすると「もとの数」が違っても比較が可能になる、という話をしました(小数点以下第2位までという割り切れない問題設定をしてしまったのでちょっと困惑)。
いやー、それにしてもですね。ちょっと考えてしまったのは、確かに定量的には比較できるけれど、定性的にはどうなのか、と。クラスで賛成の手を挙げるのと学校全体で手を挙げるのは、場の温度差が違う。つまり、空気に左右されるわけで、「空気を読む」作用によって単純に比較ができないのではないか。などと考えるぼくが文学的で、科学的にはダメなのかもしれません。だいたい、マイノリティ(少数派)を尊重してしまうあまのじゃくな傾向があるので、大多数の意見がどうだ、という設問自体が気に入らない。ぼくが作ったんだけどさ。
そんなわけで、大安売りの割引鉛筆の問題を解くだけで1時間半を費やし、へとへとになりました。だいたい大安売りには値札で表示されているから、計算しなくてもわかるだろう。それを言っちゃおしまいですか。
ついでに疑問を感じたこと。いまの子供たちって計算機を使っていいんですね。おいおい、それで計算するのか?と思ったのだけれど「学校でも使っているよ」とのこと。そうなのか。いいのか?
その後、社会の問題に移ったところ、環境問題には非常に興味があるらしい。北九州市の公害の問題などに取り組んでいたのだけれど、いろんなことを話してくれる。赤潮のほかに青潮もあることを教えてもらいました。へええ。というか、誰でも知ってるのか、これ。
そういえば以前、姓名判断だったか何かの運勢占いのようなもので彼の未来を診断したところ、「愛情に恵まれたしあわせな家庭に育つが、成長にしたがって自分の境遇に疑問を感じ、ボランティア活動のために世界に出ていく」というような結果が出ていたことを思い出しました。なんとなくその兆しがみえるようなみえないような。
ただ、親としては頼もしい反面、ちょっと寂しいですね。馬鹿でもかまわないし、どんな職業に就いてもしあわせであればいいと思うのだけれど、できれば親の近くにいてほしい。というぼくが田舎から出て親の遠くにいるのだけれど。
天気がいいので、外で遊ぼうよ、と長男くんに言ったところ「えー寒いんだもん」とのこと。きみは老人か(苦笑)。というわけでブログを書いている始末です。父は遊びたいんですけど。ひとりで遊んじゃってもいいですか。
投稿者 birdwing 日時: 13:34 | パーマリンク | トラックバック
2008年3月 1日
「地頭力を鍛える」細谷功
▼Book08-007:答えを出すチカラ。
地頭力を鍛える 問題解決に活かす「フェルミ推定」 細谷 功 東洋経済新報社 2007-12-07 by G-Tools |
アタマのいいひとはどんな人間でしょうか。異論はあるかと思うのですが、一言で表現すると「答えを出せるひと」ではないか、とぼくは考えます。
どんな難問であっても瞬時に回答できること。思考の回転の速さも求められますが、相手や状況が求めていることを読み取る能力も必要かもしれません。また、瑣末なことに拘ると答えは出ないものです。したがって大雑把に割り切って、瑣末なあれこれを切り捨てる大胆な勇気も求められます。
この本でも引用されていましたが、エレベーターテストは思考力を問う試験として聞いたことがありました。ちなみにエレベーターテストとは、以下のようなものです。引用します(P.207)。
例えば読者がどこかのクライアントにプロジェクトマネージャーとして駐在し、社長が最終報告先であるプロジェクトを実施しているものとする。ある時偶然エレベーターホールの前で社長とばったり会って「プロジェクトの状況はどう?」と聞かれたとしよう。多忙な社長に説明できるのは、エレベーターに乗って降りるまでの三〇秒だけである。こうした場合にいかに簡潔かつ要領を得た説明ができるか?これがエレベーターテストである。
就活の面接でも求められるチカラかもしれないですね。全体を見渡した上で、いちばん説得力のある答えを瞬時にまとめる。音楽に喩えると即興演奏のチカラに近い。才能もあるかもしれないけれど、アドリブのセンスというのは場数を踏むことで培われることもあります。瞬時にその場の空気を読んで、しかも自分を主張できることが重要になります。
ぼくは優柔不断なので、「えーと、いま考え中です・・・」と結論を保留にしてしまうこともあるのですが(苦笑)、そんなときに「それならば・・・ですね(きっぱり)」と歯切れよく言い切ってしまうひとは素敵です。回答が適切であればあるほど、アタマがいいなあ、と尊敬します。
面白かったのは、このエレベーターテストになぞらえて、「流れ星はなぜ願いを叶えてくれるか」ということを解説されていた部分でした。
人生の「仮説」としての願いごとを「非常に短時間」「いつ現われるのかわからない」星の流れる時間に三回も唱えるためには、常に答えを整理し、準備しておかなければならない。だから、その星が流れる間に唱えることができた時点で、その願いはもう叶うはずのものになっている。星に願うことを「神様のエレベーターテスト」と表現しているのが気に入りました。以下を引用しておきます(P.209)。
もうおわかりであろう。この「神様のエレベーターテスト」に合格するためには、片時も忘れずに願いごとを単純に凝縮した状態で強く心に思い続けることが必要なのだ。一つのことをそこまで強く継続して思い続ければ、叶わぬ願いなどないはずがないというのがこの話のメッセージである。スポーツの世界でも、夢を叶えた人たちというのは「神様のエレベーターテスト」に合格した人ばかりなのだ。これには普段から「結論から」「全体から」「単純に」考えることを追求しておく必要がある。
まったく「地頭力」の内容の中核から外れたところばかりから引用しましたが(苦笑)、上記で触れられている「結論から」「全体から」「単純に」ということが地頭力を鍛えるための中核となる思考法です。そしてこのことについて、フェルミ推定というツールを紹介しながら解説されています。
フェルミ推定とは次のように定義されています(P.40)。
「東京都内に信号機は何基あるか?」「世界中にサッカーボールはいくつあるか?」といった把握することが難しく、ある意味荒唐無稽とも思える数量について何らかの推定ロジックによって短時間で概数を求める方法をフェルミ推定という。 「原子力の父」として知られるノーベル賞物理学者エンリコ・フェルミ(1901-1954)が、自身こうした物理量の推定に長けていたとともに教鞭を取ったシカゴ大学の講義で学生にこのような課題を与えたことから、彼の名前を取ってフェルミ推定と呼ばれる。
都内の信号機の数の出し方などの思考のフレームワークを取り上げて詳細に解説されているのですが、ぼくが重要だと感じたのは、いま手元にある情報からとりあえず答えを出すこと、だと思いました。
たいていそんな場面に置かれたとき、手元にある情報が正しいかどうか検証をはじめてしまうものです。そして、いつまでも確証が得られないと、永遠に答えがでないことになる。けれども求められているのは、アバウトでいいから答えを出すことだったりします。デジタル思考で1か0かを考えると、どんなに緻密に仕事をしたとしても答えの出ない仕事は0、つまり何もやっていなかったことに等しい。
と、同時にインターネットなどを使って手元の情報の精度を上げる技術を学べば、さらに正確かつ短い時間で答えを出すことが可能になります。コンピューターや他人に任せられる部分はどんどん任せてしまって、答えを出すことに集中すれば、情報化社会のなかで有能な人材として重宝されそうです。
「地頭力を鍛える」の「地頭力」は、ぼくは聞きなれない言葉だったのですが、人材採用やコンサルティングの業界では頻繁に使われる言葉だとか。
まず地頭力とは何か、ということから細谷功さんは定義されているのですが、知力について構造化して分析していく思考力にまず唸りました。悔しいので、そのあとの部分を読み進めながら「いや、これはこういう反論ができるのではないか」などとあえて揚げ足を取るような読み方をしていったのですが、最後まで読み進むとぼくが感じていた反論がすべて列記されている。まいりました。たぶん想定される反論を推測した上で考察されながら書き進めていかれたのでしょう。
読んでいる途中には、ひらめきが明滅しまくっていたのですが、読み終わったらすべて考えていたことがどこかへさーっと流れてしまった(苦笑)。引用してブログで語りたい部分が多すぎたせいもあるのですが、そんなわけで手付かずのまま1ヶ月半もの間この本の感想は置き去りにしてしまいました。気付いたときにめくって思考の栄養にしたいと思っています。1月26日読了。
投稿者 birdwing 日時: 23:32 | パーマリンク | トラックバック