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2008年3月 2日

11歳から学ぶこと。

親がなくても子は育つ、という方向性でしばらくほったらかしにしておいた息子たちですが、わずかばかり心配になりました。放任しておいて心配になるのも勝手ですが、久し振りに父親をやってみようと思いました。だいたい父親なんてそんなものです。ときどき思い付きで、いろんなことを都合よく言ってみたりやってみたりする。で、家族から鬱陶しく思われて敬遠される・・・(苦笑)。

長男くんには通信教育で進研ゼミのチャレンジをやらせているのですが、んーどれどれやってるかな?と見てみたところ、2月の冊子でやっているところは1ページのみ。しかも国語だけ。こらぁ。

というわけで、土曜日と日曜日に数時間いっしょに問題を解いたり付き合ってあげたのですが、久し振りにこういうことをすると非常に疲れる。一応ぼくには父(および母)の教師の血が流れているはずですが、教師にならなくてよかったのかもな、と考えました。教えるのは好きなんだけど、忍耐力に欠ける。総合的に考えると誰かに何かを教えるときには忍耐力が重要ではないか、と。

とはいえ、これがよい経験になりました。そもそも小学校5年生にもなると、なかなか問題も難しくなってきます。問題はもちろん、教えることを通じていろいろとぼくにも考えさせられることがあります。

今回、いろいろと考えてしまったのは、算数の以下のような問題でした。百分率や割合に関する問題です。

問題:12本で3000円の鉛筆を2割引で売ります。1本いくらですか。

この出し方としていちばん最短距離で答えがでるのは、次でしょうか。えーと、ぼく自身ばりばりの文系なので、算数はものすごーく苦手なのですが。

3000×0.8÷12=200

ただ、これは最初に12で割って単価を出す方法、割引の値段を出して全体から引いてから単価を出す方法など、いくつかの到達経路があるかと思います。ひょっとするとその経路の違いが算数の面白さなのかな、とオトナのぼくはあらためて考えてしまったのだけれども。

まず、長男くんがフリーズしてしまったのは、2割という考え方。小数点で表すときにわからない。まず次のように説明しました。

「全体を100としたときに、そのうちの1つが1%といいます。そして、全体を10としたときにそのうちのひとつが1割」

しかし、なんとなくぼよーんという顔をしている。そこで、ふと思い付いて次のように訊いてみました。

「といってもだ。なぜ全体を100とか1とかにしなければならないんだろう?」

すると長男くんは完全フリーズ(苦笑)。なので、その問題はちょっと置いといて、

「じゃあ、ちょっと別の問題で考えてみよう。いまクラス30人のうち20人が賛成しています(雨あがりの日には運動場がぬかるむので入ってはいけない、そのことについて学級会で議論している、という物語を作った)、一方で同じ質問を学校全体の600人に訊いてみたら200人が賛成でした、クラス全体と学校全体では、どちらのほうが賛成の割合が多いですか?」

というサブ設問を作って訊いてみました。そりゃクラスだよ、と即座に答えたのだけれど、なぜ?と訊いてみるとわからない。こいつ直感的にアバウトな回答してるな、という感じ。そこで、「もとの数」と「比べる数」を表組みにさせて、百分率で計算させて、パーセントにすると「もとの数」が違っても比較が可能になる、という話をしました(小数点以下第2位までという割り切れない問題設定をしてしまったのでちょっと困惑)。

いやー、それにしてもですね。ちょっと考えてしまったのは、確かに定量的には比較できるけれど、定性的にはどうなのか、と。クラスで賛成の手を挙げるのと学校全体で手を挙げるのは、場の温度差が違う。つまり、空気に左右されるわけで、「空気を読む」作用によって単純に比較ができないのではないか。などと考えるぼくが文学的で、科学的にはダメなのかもしれません。だいたい、マイノリティ(少数派)を尊重してしまうあまのじゃくな傾向があるので、大多数の意見がどうだ、という設問自体が気に入らない。ぼくが作ったんだけどさ。

そんなわけで、大安売りの割引鉛筆の問題を解くだけで1時間半を費やし、へとへとになりました。だいたい大安売りには値札で表示されているから、計算しなくてもわかるだろう。それを言っちゃおしまいですか。

ついでに疑問を感じたこと。いまの子供たちって計算機を使っていいんですね。おいおい、それで計算するのか?と思ったのだけれど「学校でも使っているよ」とのこと。そうなのか。いいのか?

その後、社会の問題に移ったところ、環境問題には非常に興味があるらしい。北九州市の公害の問題などに取り組んでいたのだけれど、いろんなことを話してくれる。赤潮のほかに青潮もあることを教えてもらいました。へええ。というか、誰でも知ってるのか、これ。

そういえば以前、姓名判断だったか何かの運勢占いのようなもので彼の未来を診断したところ、「愛情に恵まれたしあわせな家庭に育つが、成長にしたがって自分の境遇に疑問を感じ、ボランティア活動のために世界に出ていく」というような結果が出ていたことを思い出しました。なんとなくその兆しがみえるようなみえないような。

ただ、親としては頼もしい反面、ちょっと寂しいですね。馬鹿でもかまわないし、どんな職業に就いてもしあわせであればいいと思うのだけれど、できれば親の近くにいてほしい。というぼくが田舎から出て親の遠くにいるのだけれど。

天気がいいので、外で遊ぼうよ、と長男くんに言ったところ「えー寒いんだもん」とのこと。きみは老人か(苦笑)。というわけでブログを書いている始末です。父は遊びたいんですけど。ひとりで遊んじゃってもいいですか。

投稿者 birdwing : 2008年3月 2日 13:34

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4 Comments

ぽろり 2008-03-02T16:09

こんにちは。
うーむ、実は曲がりなりにもセンセイ(私塾ですけど)になろうとしている身なので、非常に興味深いエントリです。ということで私も算数苦手なんですけど、頑張って考えてみた結果こういう式になりました。

3000÷12=250
250÷10×2=50
250-50=200

これ以外に有り得ない!小数なんて考え付きもしなかった。。。なのでこの式から説明を試みると、

・単価を出す
・「2割」を出す
・単価から2割を引く

そのまんまですね(苦笑)。
それで肝心の「2割」ですが、小学5年生だと分数は済んでいるのではないでしょうか。であれば絡めて説明するのはどうでしょう?あとはもう実践済みかもしれないけれど、オーソドックスに紙に書いちゃう。小数点の概念であれば1÷100を筆算で書いたり、パーセンテージであれば円や四角を描いて半分にしてこれが50%=5割、さらに割って3割、2割・・・と段階を踏んで、最終的に0.01まで持って行くとか。ビスケットがあったら割りたいところです。ただし50%だったら理解できる、という前提ですけど。
結論を先に言ってしまうと苦手意識がついてしまうので、徐々に進めるのがいいかも・・・と、ぼんやり思いました。なので私だったら多分先に上に書いた式を教えて、それから「こうすると早いよ」と言ってBWさんが書かれている最短の式を教えるかなー(って考え付きもしなかったんですけど。苦笑)。既に実践されてたらごめんなさい。
しかし「定性的」「設問が気に入らない」って笑いました。長男くんはそんなお父さんに似たんですね、素敵です(笑)。それと、個人的には電卓は賛成ですね。車に乗ることと電卓を使うことに特に差を感じません。
えーと・・・恒例の長文&連投で非常に心苦しいですけど(涙)結局のところ、長男くんは理解してくれたのでしょうか?気になります。。。

BirdWing 2008-03-02T17:30

ぽろりさん、いつもコメントありがとうございます。さて、ぼくも長文になりそうですがコメントをお返しします。

そうそう。実はぼくも最初はぽろりさんと同じように、10で割ってそのうちの2つはいくつか、という考え方で教えようとしていたんですよ。モノサシのような目盛りを紙に書いてですね、ここが2割とか書き込んで教えていました。とはいえ、ざっと見たところ、教科書の流れとしては分数→小数→百分率→割合となっているようで、それぞれを遡って確認していたら彼には基本的なことが分かっていない。なので基礎を確認していこうとしたのですが、センセイ的なことをするのはぼくも久し振りなので、いろんなことを詰め込みすぎちゃったんですよね。

ここでひとつ感じたポイント。教えるときにはシンプルなほうがいいのかも。

あんまりいろんなことを詰め込みすぎると、かえって分からなくなるようです。ただ、もうひとつ感じたのは、うちの息子は結論を急ぎすぎるということ。というのも宿題や勉強は嫌だから、なるべく短くしたいんですよね。だから、前に解いた(成功した)方法で次の問題を解こうとしてしまう。しかし、それはどうなんだろう、と。

そこで次のポイント。遠回りしていいのではないか、ということ。

電卓でぱぱっと答えは出てしまうのですが、それはよいとして、考え方の経路はいろいろありますよね。エントリーでぼくはひとつの式にまとめてしまったのですが、ぽろりさんのように何段階かに分けたほうが理解しやすいと思います。「分かるということは分けることだ」ということもどこかで読みましたが、まとめないほうが分かりやすいこともあります。それから答えが合っているかよりも、他に画期的なプロセスがないかを考えるほうが重要かもしれません。

確か池谷裕二さんが言っていたことだと思いますが、池谷さんは数学の公式を覚えなかったそうです。問題を解くときに、その都度これはどういう解き方があるだろうかと考えたらしい。すごいなーと思ったのですが、暗記も大事だけれど、どんなに時間がかかったとしても独創的な考え方を獲得できるほうが大事なのかもしれないな、と思いました。

ということを、つらつらと考えて、以下のぽろりさんの指摘にすごく納得。

> 苦手意識がついてしまうので、徐々に進めるのがいいかも

そうなんですよね。つまりですね、教える立場には「余裕」が必要なのかもしれません。

なんでそんなこともわかんないのっ!こうしなさいって言ったでしょ、その通りにやればいいのっ!というと、萎縮しちゃいますよね。スローなんとかは流行なのかもしれませんが、ゆっくり、まったりお互いに確認できればそのほうがいい。教わるほうもリラックスできるし楽しい。いちばんいいのは、勉強することの楽しさを教えられることかもしれませんね。

どわー。すみません。非常に考えるところの多いコメントをいただいたので、長文になってしまいました。結局ですね、長男くんは、とりあえずうるさい親父の家庭教師が終わってほっとしたようです。理解したどうか・・・理解してないんじゃないかな(涙)。まあいっか。

ぽろりさんはセンセイをめざしているんですね。どんなセンセイなんだろう。すみません、素敵な女性のセンセイは男子の憧れなので、ついつい妄想してしまいました。なかなか厳しい業界かと思いますが、きっとぽろりさんなら大丈夫。応援しています!

かおるん 2008-03-06T16:17

息子くんの話は聞くにつけ、うちの息子によく似てるなーと思い、見過ごすことができません。お父さんの迷走ぶりが、じつはちょっと女性的なのも面白いです。

長男くんは割合の問題、解けるようになりましたか?
12本で3000円の鉛筆を2割引で売ります。1本いくらですか。という問題を理解するには「言葉のセンス」と「数量のセンス」の両方が必要なんでしょうね。とくに、数のセンスというのは算数の問題をイメージする上で不可欠ですが、最近の「じっくり考えさせる」カリキュラムでは身につきにくいように思います。計算問題を数多くこなす必要があるのは子供を計算マシーンにするのが目的じゃなくて、48×11というような問題を、50×10に近いから500ぐらい?というように、数をざっくり量感でとらえる感覚を持てるようにするという意味もあると思うんです。
同時に子供たちが生活の中で数を使う機会もすくなくなっています。少数や分数の概念は本来、お菓子をシビアに人数割りするようなことの中で自然に(ケンカしながら)覚えるようなものですよね。まあ、ライフスタイルを変えるのは無理でも、計算問題はたくさんやったほうがいいんじゃないかな、と私は個人的には思ってます。
もちろん答えにたどりつく道(論理)はいくつもあるし、そのことは大事だけれど、直感的にどの道が近道かということを見出せないままだと、本人にとっては大変なんじゃないかな。傍から見てる分には「そういうのも面白い」って言えても。

ところで今朝、うちのダンナさんに「2割引の概念がわからない小学生に、どうやって説明する?」と聞いてみたところ、
「2割引は、ちょっと安い。5割引は、すごく安い。8割引は、ただ同然」
そう言い切りました。この人に子供の勉強はまかせられません。

BirdWing 2008-03-07T06:12

かおるんさん、コメントありがとうございます。非常に考えるところが多くあったので、またまた長文になりそうですが思ったことを書き連ねてみます。

まず算数に「言葉のセンス」が必要であるということについて。

これはほんとうにその通りだと思いました。だいたいやつは(って長男くんのことですが)問題を読まない。読まないで、とんでもない方角へ走り出してしまう。問題自体には書かれていなかったとしても、たいていの問題にはツボとか狙いがありますよね(引っ掛け問題であればトラップも)。

かおるんさんも書いていますが、直感でその匂い(問題の意図など)を嗅ぎ分けること、正しさを察知することは大事なことですよね。そのためには数をこなすことも重要だと思いました。

映画もたくさん観ると、最初のシーンで駄作か名作か、ある程度匂いがわかる。問題も数多くこなせば、勘どころが働くようになる。同様に人生にもいろんなツボとかトラップがあるもので、これも経験によって培われるものがあります。小学校の勉強というのは、おいしい壺をキャッチして地雷を踏まないようにする訓練かもしれないなあ、とか考えたりして。

もう少し突っ込んでみると、小学校の算数の問題はコミュニケーションの問題も含んでいるのかもしれないと思いました。出題者は何を考えてこんなこと言ってるんだろうということを見抜くことも大切で、その意味では国語と似ている。実は秀才と呼ばれるひとはそれができている気がします。オトナが求めていることに勘が働くわけです。要領がいいってことでしょうか。そればかりに嗅覚が利くのはあざとくてどうかと思いますが。

次に、ざっくりと答えを求めることについて。

これも納得しました。パターン認識の練習かもしれません。この枠組みで訊かれたら、だいたいこういう答えだろうと予測する。まさに「地頭力を鍛える」という本では、正確な答えを出すよりも、現在持っている情報を使ってざっくりと短時間で無理やり答えを出す重要性が書かれていました。日本に電柱が何本ある?のような問題の解き方ですが、正確さよりも答えを出すことを優先する。

当たり前のことですが、頭のいいひとは答えが出せるひとかもしれません。答えは正解ではなくても構わなくて、間違えでも答えを出せたことが正しい。特に人生では答えを出すタイミングによって正解が異なることがありますよね。鮮度も問われます。りんごを食べる、ということが正解であるのは、りんごが美味しいときのことであり、腐ってから食べても正解ではない。時と場で正解も変わるものです。これが教科書の勉強とは違うのかも。

などと理屈っぽく考察しましたが、かおるんさんのダンナさんはいいですねー。いやーそのアバウトさは大事だと思いました。

長男くんは割合を・・・たぶん理解していないと思うなあ。またいっしょにやってみるかなあ。できるかなあ。

ぼくの迷走は女性的ですか??あら、そうなのかしら。

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