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2008年3月 4日

野良犬

▼Cinema08-007:打ちのめされるほど熱い。

B000VJ2DOG野良犬<普及版>
三船敏郎;志村喬;清水元;河村黎吉 黒澤明
東宝 2007-12-07

by G-Tools

やられた。まいりました。黒い(モノクロ映画だから黒にみえるのだけれど)犬がぎょろりと目を剥きながら、はあはあ舌を出す冒頭の映像から衝撃を受けて、ぐいぐい引き込まれるようにして観てしまった。あらためて感動。これが世界のクロサワだったのか。震えました。

物語は、拳銃を盗まれた新米刑事の村上(三船敏郎さん)がベテラン刑事の佐藤(志村喬さん)と組んで犯人を追い詰めるという、筋だけ抜き出してしまうと、どちらかというとありがちなストーリーです。けれども場面の切り替わるテンポといい物語の人間模様の深みといい、圧倒されました。

そもそも映像に残されている日本の風景が全然違う。記録の意味としても強烈なインパクトがあります。戦後の荒れ果てた光景は、凄惨で退廃的で、アジア的なけばけばしい混沌と貧困をあらためてみせつけてくれる。奪われたり奪ったり時代を恨んだり、泥沼のような現実でその日一日を生き延びるひとたちがいる一方で、すがすがしいほどの自然や健全さも存在している。めちゃめちゃ暑いにもかかわらず麻のジャケットを着込むような男たちに、なんだか途方もなく格好良さを感じてしまった。

享楽的なものとストイックさが共存していて、どこか破綻している時代だったのかもしれません。けれどもぼくはそこに眩暈がしそうな魅力を感じてしまう。映画のなかでも使われていたのだけれど、アプレゲール(après-guerre)という風潮なのでしょうか。Wikipediaからその言葉の解説を引用します。

日本でも第一次世界大戦後、大正デモクラシーの風潮の中、享楽的な都市文化が発達し、エロ・グロ・ナンセンスと呼ばれる風俗も見られたが、治安維持法の施行から昭和恐慌、第二次世界大戦へと至る流れの中で、こうした動きは徐々に圧殺されていった。日本で(アプレゲールを略して)「アプレ」という言葉が流行したのは、第二次世界大戦の後である。戦前の価値観・権威が完全に崩壊した時期であり、既存の道徳観が欠落した無軌道な若者が大量に出現し犯罪事件も頻発した。また徒党を組んで愚連隊を作り、治安を悪化させた。このような暗黒面も含めて、「アプレ」と呼ばれるようになった。

映画のなかでは、ベテランの佐藤刑事は蛙の鳴き声を聞きながら「アプレゲールじゃなくて、あきれげーるだ」などとシャレにしてしまうのですが。ともかく、戦後の混乱のなかでリュックを盗まれた苛立ちから時代を恨んで金を盗み人を殺す遊佐と、同じようにリュックを盗まれながらその社会を変えようと思って刑事になる村上が対比されています。

格差社会といっても現代は裕福であり、戦後の格差と歪みに比べたら甘っちょろいのではないか、とも思いました。このひりひりするような飢餓感とまっすぐな何かはあまり感じられない。

これは日本なのだろうか。いや、日本なのだけれど。アジアでもなく西洋でもない、戦後の日本ならではのパワーを感じました。とにかく夏の暑い日を描いていて、何度もタオルで汗を拭うシーンがあるほど暑いのだけれど、物語自体も熱かった。新人刑事である村上のストレートぶりも、それをしなやかにたしなめる佐藤の人徳も熱い。

だから、きっと日本は急成長できたのだな、とあらためて感じました。豊かないまという時代には、その泥臭さはありません。ピュアな気概もない。それが良い悪いという問題ではなくて、この映画に描かれている日本は現代とはまったく別の日本という気がしています。

映像としては、印象に残るうまいシーンがたくさんありました。たとえば、冒頭でぎょろ目で舌を垂らした犬と盗まれたピストルを探すために復員兵に変装して戦後の焼け跡の貧民のなかにもぐり込む村上の目つきの映像がオーヴァーラップしていくところ。ほかにも、病院でひとり取り残される踊り子ハルミの姿とか、やっと「狂犬」である犯人遊佐を逮捕したときに、カメラが遊佐の視線の映像に変わるところなど。

「その日はおそろしく暑かった」という冒頭の語り口にブンガク的なものも感じるのだけれど、台詞のぶっきらぼうな感じもいい。コルトがなければ別の拳銃でやったさ、というような佐藤刑事の語り口であるとか、「狂犬の目にまっすぐな道ばかり」という川柳を引用しながら、追い詰められた遊佐のチャンスを示唆するところなどなど。

そもそもこの映画を観ようと思ったきっかけは、先日読了した久石譲さんの「感動をつくれますか?」という本で、「映画と音楽の共存」としてこの作品のクライマックスシーンが絶賛されていたからでした。以下、引用します(P.81)。

このクライマックスのシーンに流れるのが、近くの家の奥さんが引いているピアノの音だ。ピアノ練習曲として名高いクーラウのソナチネだ。
片や刑事、片や殺人者となった二人は共に復員兵である。対立する立場でありながら、運命の差は紙一重のところにある。一方、戦後まもなくその時代に郊外に家を建て、ピアノがあるという状況は、ある種のブルジョワである。戦争によって運命の変転を余儀なくされた若ものたちと、平和で幸せな生活を安閑と享受している奥さんというもう一つの対比。その奥さんが弾いているというかたちでピアノ曲が流れることにより、若い刑事と犯人がともに戦争の犠牲者であることを観客に訴える。音楽を状況内のものとして自然に使いながら、重層的に現実を表現している。そこでアクション系の威勢のいい音楽を流して取っ組み合いを見せたら、あの深みは決して出せない。映画音楽のあるべき姿として、理想的だと思う。
映画音楽を状況の中で上手に使うと、このように映画そのものが深く、知的なものとなる。

引用していて唸ったのですが、音楽家でありながら久石譲さんの文章は切れ味がいい。的確です。ああ、なんだか自分の書いた感想が恥ずかしくなってきた。さらに恥ずかしいことに、クロサワ映画をはじめとして古典的な名作で観ていないものがたくさんあります。しかしものは考えようで、これからいくらでも観る楽しみがあるともいえて、なんだかしあわせな気もします。俄然、映画を観たくなってきました。

よい作品を観て、作品に負けないようなレビューをブログで書いてみたいものです。時代検証を含めて、この映画にはまだまだ語り尽くせない魅力があるように思います。たぶんたくさんのひとが、それについて語っていると思うのですが。3月2日鑑賞。

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「野良犬」の最初の部分をYouTubeから。たぶんビデオテープからエンコードしたもので、最初のほうにあるトラッキングによるぶれが惜しい気がします。

■映画 野良犬001


以下のページには、あらすじとともに昔のパンフレットなども掲載されていて参考になりました。この「野良犬」の物語は実話に基づいたものであるとのこと。

http://homepage2.nifty.com/e-tedukuri/norainu.htm

投稿者 birdwing : 2008年3月 4日 23:58

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