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2008年3月31日
過去を編集することの是非について。
ブログをはじめてしばらくすると、いろんなことが分かってきて、複数のサービスを使ってみたくなります。隣りの芝生は青く見えるというか、無料のブログサービスであれば、テンプレートはこっちの方が洗練されているなとか、写真をアップロードする仕組みが簡単そうだとか、機能を比較しはじめる。もう少しステップアップすると、MovableTypeとかWordpressとかシステムを導入して自分でブログを組み立てたくなる。ぼくもそうでした。勉強不足でいろいろと中途半端なんですけど。
複数のブログを使ってみても、さすがにあっちこっちで書いているのは面倒なので、自然に使わなくなって淘汰されていきます。淘汰されるのはいいんだけど、IDやPASSWORDを忘れてしまって、消すことすらままならなくなることもある。忘れ去られた古代遺跡(?)のようにぽつねんと残されたブログは、どうしたらいいんでしょう。実はぼくもひとつあります。1日だけ書いて放置してあるやつが。
複数のブログへのアクセスを統合するOpen IDとか、ブログ間の関係を明らかにするソーシャルグラフなども注目されていますが、個人的にはどうかなーという印象です。というのは、公の場では書けないけれども、ぼそっと呟きたいことなどもあったりして、それは公の自分とは別のIDで展開したいんですよね。
そもそも、ぼそっと呟くことをメインにしていれば別のブログを作りたい気持ちにもならないのかもしれませんが、なかなか呟き系のブログは難しい。とんでもないことをぽろっとこぼして、個人が特定されてしまうと辛い。ぼくの場合は微妙に呟いているのだけれど、実はシャイです。写真をおおっぴらに出していたりして、どこがシャイなのだ、と思われるかもしれないがシャイなのだ。露出趣味があるのではないかと心配になることもありますが、このブログはパブリックであることを意識して気を使って書いているのですよ、これでも(苦笑)。
とはいえ、小説を書いたり音楽を作ったりするひと、つまり表現するひとは、多少なりとも露出癖があるような気がします。つまり表現したものには、意図したにせよしなかったにせよ、自分というものが露呈する。それを恥ずかしいと思っていては、表現できない。また、恥ずかしさの障壁を突き破ってしまうと、きゃっほーという感じで自分を露出しまくる傾向もなきにしもあらずでしょうか。路上で裸になったら捕まりますが、精神を露わにすることは、ある意味アートといえなくもない。芸術はタマシイの露出だ。
ただ、やはり瞬間風速的なテンションでアドレナリンのおもむくままに表現して、ああやっちまった(苦笑)ということはありますね。いつもクールに抑制ばかりしていられません。特に若い時期には(フィジカルな若さではなく、精神的な若さ、つまり未熟さを含みます)、書いちゃえーということで書いてしまって、どーんと落ち込んだりもする。また炎上まではいかなくても批判のやいばを受けて、いてててて、なことになったりもする。それもまたブログの醍醐味といえば醍醐味なんですけど。などと考えるわたくしはM?(困惑)。
実は、「過去を統合する。」というエントリーでも書きましたが、この場所でブログを書き始めたのは、2007年8月の「ここから、どこかへ。」からだったのですが、それ以前に2004年から書き散らかしたあれこれをすべてここに統合しようとしています。
しかしながら、現在エントリー数905に対して未公開エントリー608、公開エントリー297で、つまり32.8%しか公開できていない。昨日の日曜日にもちまちまとmusicカテゴリーのエントリーを復活させていたのですが、10個復活させるだけで疲れた。いつになったら全部公開できるのでしょう。
というか、全部公開するつもりはないのですね。なぜならば。さすがに公開できないエントリーがある。稚拙すぎて(苦笑)。また公開したエントリーに対してもリライト(編集)をかけているのですが、ここで生じる疑問は
ブログの過去のエントリーを編集してよいのか
という倫理というか、価値観のようなものです。
公開したエントリーをすぐに引っ込めたことがあるのですが、一度公開したものは引っ込めるべきではない、完全なものを書き上げてから公開すべきだ、と通りすがりのひとにコメントで叱られました。高いところから見下ろした気持ちのいい批判で、ブロゴスフィアには、ほんとうにおせっか・・・いや、親切なひとがいるものだと感心したものです。
確かにトラックバックやブックマークの観点からは、リンクした先の記事が消失するのはちと困る。過去の記事を検証していて、いまだに数年前のリンク先の記事が残っていると確かにぼくも嬉しい。一方で、リンクが切れていると残念です。といっても記事を引用していれば、とりあえず辻褄は合うので、問題ないともいえますね。そもそも自分の事情で、コンテンツを消しちゃって許せん、と憤るのもおかしい。あなたの事情で世界が回っているわけではない。
丁寧なブロガーは、きちんと間違いもそのままにしておいて、消し線などで誤ったところは訂正しています。そうすると履歴がよくわかる。あるいは追記というカタチで本文を補足する。思考の過程も明らかになるので、情報としては非常に豊かになります。なかなかぼくにはそんなきめ細かな対応はできません。だいたいブログそのものをどっかーんと消してしまうタイプなので、あらためて自分の暴挙を反省しました(苦笑)。
ただ一方でぼくは、書きたいように書き、変えたいように変えていいんじゃないか、とも思うわけです。というのは、ブログを書くセオリーやマニュアルがあってもいいのだけれど、そんなもの無視して書くのがブログ的といえないこともない。インディーズやオルタナティブな何かは、お行儀よくちんまりまとまっていては、つまらない。整然とした理論やお手本があるのは、なんとなく違う。もっと過激であってよいと思うし、めちゃめちゃでかまわない。技巧に凝るよりも小手先のテクニックなんか無視して、びんびん伝わるものがあってほしい。
日記としての意味が強ければ、編集すべきではないかもしれないですね。というのは、過去の特定の時期にあったこと、考えたことの“記録”が重要なので、現在の視点から解釈を加えて修正すると、それはまったく別の過去になってしまう。教科書問題というか、戦争をどう扱うか、のような危険性を孕む。ひょっとすると事実を新しい解釈で歪曲させてしまう可能性もある。
しかしながら創作的な視点を導入すると、完成のない作品もあると思う。永遠に推敲し、短編が長編になったり、長編が短編になったりするような小説もあり得るのではないか。常に発展途上であり、現在進行形であり、安定を拒むような創作。生々流転して、動的に変化して、立ち止まることのない作品。なんとなくその方がリアルだし、“生きている”という気がする。固くなったり、動かないものは死んでいる、という意味で。
あるいは音楽番組で中田ヤスタカさんが語っていたことだけれど、彼は作品ができあがっても完成したとは思わない、というようなことを言っていました。だからリミックスやアレンジを変えて、まったく別の作品に作り変えてしまうことがある。作品至上主義だと、そうしたスタイルは許されないでしょうね。結局それって、未完成のプロトタイプなんじゃないの、という発想になる。でも、完成した、と思ったときに創造力の翼は折れるものではないでしょうか。完成の宣言は、ここでおしまい、という宣言でもある。だからきっと、翼があったとしても、もう飛べない。
人生、いっしょう未完成でいたいですね。未完成なんだけど、想いは完成の方角へ伸びている。完成に憧れる未完成。満たされない矢印の気持ち。
過去エントリーを推敲して編集しつづけて、いまわの際に、「いや、まだこれ完成じゃないんですけどー(泣)」を遺言にしてみたい。未練たらたらなんだけれども、ゴーストになっても永遠に書きつづけていたい。というか、著名人の最期の言葉でそんな感じのものがありましたっけ。
過去だって書き換えられるものだと思います。そうじゃないと、国のレベルにしても、人のレベルにしても、一度関係性のおかしくなったものは二度と和解できないことになる。それって寂しくないですか?
優等生のペシミストよりも、アタマの悪いオプティミストでいたい。過去は大事だけれど、絶対的なものではないと思うし、現在からの視点を変えて見れば、いくらでも違ったカタチを見出せるものではないでしょうか。というか、ぼくが見出したいのだな、そうやって過去を編集して。
投稿者 birdwing : 2008年3月31日 23:57
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