« 弥生の散財、JAZZの精神。 | メイン | 過去を編集することの是非について。 »
2008年3月29日
無駄なこと礼賛。
春は、どこかへ出かけたいような、身体を動かしたいような、何かを終わらせて別のことを始めたいような、要するに心機一転したいような、それでいて過去を大切にしたいような(けれども途方もなく眠い)季節です。
先週の日曜日には、昼間からビールを2缶空けてよい気分だったのですが、こりゃちょっと休日の過ごし方としては緩くないか?ということで、息子(長男くん)と渋谷へ行って卓球してきました。なぜか卓球(笑)。といっても、長男くんは小学校で卓球クラブの課外活動をやっているそうです。ラケットを買ってあげたりしていたので、マイラケット持参で渋谷まで行ってきました。
花粉症のマスクをして非常にテンションの低い長男くんは、行っても行かなくてもどーでもいいような顔でした。というよりむしろゲーム三昧の日曜日のほうがいいという顔なのですが、そんな彼を無理やり連れ出して、酩酊70%の父は、息子とふたり電車に揺られて休日の渋谷へ繰り出したわけです。まず行き慣れない渋谷の東口方面で迷った。そして若者たちの雑踏にくらくらした。ついでに30分760円の卓球は高くて困惑。けれども、久し振りに少しばかり身体を動かして爽快でした。酔いも抜けたし。
今日は晴れたり曇ったりの一日でしたが、東京のサクラは満開。髪を切ってさっぱりして、近所のサクラを眺めながら散歩しました。そのときのショットです。
ついでに図書館に行って本2冊とCD3枚を借りてきました。図書館の近くの植え込みには白い水仙のような花が咲いていて、なんだか懐かしい匂いがする。子供の頃を思い出すような匂いです。ネットを通じて匂いまで届けることができればいいのだけれど・・・難しいですね。
借りたのは次の本。長男くんの折り紙飛行機研究から、ちょっと折り紙に興味が沸いてきたので。
空とぶ鳥のおりがみ (新・おりがみランド) 桃谷 好英 誠文堂新光社 2000-02 by G-Tools |
おりがみ はこ (おりがみ工房) 布施 知子 誠文堂新光社 2005-05 by G-Tools |
いやーしかし箱の折り紙は最初で躓いた。難しい。これ、できないかも(泣)。つづいて借りたCDはハーゲン弦楽四重奏団のモーツァルト:弦楽四重奏曲 第15番 ニ長調 K.421(417b)、キップ・ハンラハン・アンド・ジャック・ブルースのアルバムとこれ。
ソロ・モンク+9 セロニアス・モンク ソニー・ミュージックジャパンインターナショナル 2003-12-17 by G-Tools |
「ソロ・モンク」は、CDショップのカフェ・ミュージックのコーナーで試聴していました。なかなかよかったので買おうか買うまいか迷っていたのだけれど、図書館にあってラッキー。ありがとう、図書館。
それにしても、どうして図書館のCDはオーソドックスなのか突拍子もないのか、びみょうなアルバムばかり置いてあるんでしょうね。ロジャー・二コルスがあってびっくりしたのですが、「ビー・ジェントル・ウィズ・マイ・ハート」でした。名盤や定番のアルバムはないのですが、妙なこだわりのあるチョイスになっているような気がします。
ネットでダウンロードして音楽を購入でき、図書館の蔵書はデジタルでアーカイブ(保存)されつつある時代です。けれども、ぼくは新しいメディアの恩恵を十分に理解したり歓迎している一方で、それでもアナログなCDショップや図書館という場所を肯定したいと思っています。
効率化から考えたら、そんなもの不要ですよね。NGN(Next Generation Network:次世代ネットワーク)によって、テレビとネットの融合が加速されつつあります。したがって、オンデマンドによる映画の配信もより身近になっていくことでしょう。レンタルビデオショップに行かなくても、自宅でビデオをダウンロードして観ることができるようになる。それでもやっぱり、リアルなレンタルビデオ店とか、図書館は残っていてほしいなあ。要するに人が介在して借し出す場所は、モノのレンタルそのものだけでなくコミュニティとして意義があると思います。
何が違うかというと、あまりにも当然ですが、そこには"ひと"がいるということ。もちろんネットにおいてもアバターやバーチャルボディなどを使えば人間的な質感のあるサービスは可能だと思うのですが、貸し出しのときの笑顔だとか、ちょっと困った顔だとか、そうした表情は体験できない。さらに、いまのところ図書館の本の匂いであるとか、窓から光の差し込む具合だとか、そんなリアルな空気感も体験することは不可能です。また、リアルな場所の確保は、そこで働く人材や雇用の創出もできると思う。
本や音楽のコンテンツだけ入手できればいいのだと効率化の観点から割り切ってしまうと、付随的な感覚や面倒なことはすべてノイズであって、排除しても問題ない。けれども、その無駄なものが結構大事だったりします。そもそも春の休日に図書館まで歩くことは健康にもよかったりする(笑)。参加したことはないけれど、地域のコミュニティで行われる講演や朗読会のようなものも、レベルが低いとか参加者が集まらないとかの問題だけでなく、実施していること自体が重要な場合も考えられます。
などと考えながら、なんだかぼくも老人になりつつあることだなあと思い、微笑ましくなりました。
老人結構。どんなに威勢のいい若者も年をとります。アンチエイジングも大切だけれど、衰えていく身体や脳ときちんと向き合ったり、覚悟を決めることも大事でしょう。年相応の生き方もある。
若い頃には無駄に身体を鍛えて腹筋割ったり、無駄に遠征したり、無駄に酒を飲んだりしたものですが、年をとってそんな無駄なことをしなくなった反面、かえって別の意味で無駄を楽しめるようになってきました。心に余裕ができたからかもしれません。他人と比較して無駄にしゃかりきになることもなくなったけれど、自分の大切なものに対しては無駄に熱中したり没頭できる。
その取捨選択ができるようになったことを、われながら褒めてあげたいですね。老いた気分にはなりたくないけれども、精神的に成熟したい。無駄に目くじらを立てるのではなく、無駄を許容できることは、ある意味オトナだと思います。
ブログや趣味のDTMによる音楽制作も、無駄であっていいと思うんです。もちろん無駄じゃなくて、儲け第一で稼ぎが多ければ多いほどいいというスタンスでやることも間違いではありませんが、ぼくは(個人的な見解としては)人生における膨大な無駄で構わないと思っています。無駄だけれど、いちばん尊いし、適当にやるのではなくてあらゆるものを注ぎ込む。無駄に対して真剣に取り組みたい。
かつてぼくはブログや趣味にも、ビジネスライクな目標管理の視点を導入したことがあったのですが、疲れちゃいました(苦笑)。ただでさえ仕事で疲れがちなのに、プライベートでさらに疲れてどうする、という。しかしながら、ほんとうに熱中しているときは、人間疲れを感じないものです。作曲家の江村哲二さんも本に書かれていましたが、何時間でも集中できる。趣味のせいで、とか、趣味のために、という発想自体がなくなる。そもそも無駄とか有益だとか、そんな発想自体がなくなる。
究極の理想としては、そんな風に生きてみたい。ということを前提として、まずは無駄ウェルカムの方向で、春を楽しみたいものです。
のんびりと、やわらかい風に吹かれながら。
投稿者 birdwing : 2008年3月29日 22:41
« 弥生の散財、JAZZの精神。 | メイン | 過去を編集することの是非について。 »
トラックバック
このエントリーのトラックバックURL:
http://birdwing.sakura.ne.jp/mt/mt-tb.cgi/903