2008年5月30日
教養のあるひとになりたい、Part-2。
誰でも簡単にネットを使ってブログを書き、関心のある事柄について討論や研究ができる昨今、意外にきちんとできていないのが学んだり討論したりするときの基本姿勢ではないでしょうか。
情報をどうやって探せばいいのか、探した情報の真偽をどう判断していいのか、単に引用するのではなく自分の意見を構築するにはどうすればいいのか、反対意見を述べるときコメントのリテラシーはどうすべきか。ぼくを含めてオトナたちの書き込みをみていても、できているつもりでいて、意外にきちんとできていないひとが多いと思います。こういうことを教えてくれるサイトは少ないですね。
ぼくもブログを書いていて感じることですが、共感した部分を確かめもせずに引用してしまったり、または感情的に脊髄反射で批判してしまったり、なんとなくスタイリッシュに知識を軽くなぞってわかったような振りをしたり、知識が深まっていかないことが多々あります。
そんなぼくの姿勢をあらためて正してくれたのが、「知識だけあるバカになるな!」という本でした。
知識だけあるバカになるな! 仲正 昌樹 大和書房 2008-02-09 by G-Tools |
この本は教養を学ぶ学生の「入門への入門」として書かれたようですが、ぼくのようにネットで何か思考を展開したいと考えているひとにとっても参考になる本だと思います。
困ったひとの例がいくつか挙げられているのですが、読んでいてこれがとても痛い(笑)。疑うことの重要性について考察された第1章から、次を引用します。
P.20
たとえば、大学の授業で、「常識を疑ってみましょう」と先生に言われると、すぐに「そういう先生の言葉を僕(私)は疑います」と答える学生が出てきます。
「そういう先生の言葉を僕(私)は疑います」などという陳腐極まりないことしか言えないくせに、「こんな台詞を返せる私は賢い!」と思い込んでいる学生は、たいてい何も考えていません。自己満足して、思考停止しています。
P.24
結局、自分で考えようとしないで、他人に依存しているわけですね。そういう横着な姿勢を一度身につけてしまうと、何でもかんでも、「~というあなたの言葉を疑います」と言って片付けてしまう。思考停止人間になってしまいます。
2ちゃんねるに意味のない書き込みをしている人とか、ブログで他人の考えを悪し様に言っている人たちは、どこかでそういう横着な癖を身につけてしまったのでしょう。
表面的な意味だけで相手を拒絶することだけでなく、妄信のように相手を信じることも思考停止といえるでしょう。そんなことは分かっている、というスタンスで他人の言葉を聞くと、それ以上にコミュニケーションが深まることはありません。話した言葉、書かれた言葉は氷山の一角のようなもので、その背後には途方もない文脈であったり、そのひとの経験が蓄積されていることがあります。
次の一文は、非常に重要であると感じました(P.47)。
優秀な人間は、“つまらない授業”だとしても何か学ぶべきことを発見できるはずです。
この誠実さは大事ですね。「授業」を「人間」と置き換えてみるとかなり辛辣かつ深い洞察があるように思うのですが、あいつはつまらないやつだ、と思って拒絶したり総括したときに、それ以上歩み寄ることもできなければ、理解を深めることもできない。もちろん見切ることが必要な場合もありますが、それでシャットアウトしてしまうことも多い。
一般的に否定と総括は思考停止させる思考ではないかと考えました。どういうことかというと、例えば「創造力は光だ」と発言したとします。そのときに否定系ならびに総括系のバリエーションを挙げてみると、以下のようなコメントを付けることです。
■否定系
①理由なき否定:「それは違うだろ」
②その逆を言及:「いや創造力は闇だね」
③人間失格:「だからおまえはダメなんだよ」
④無気力:「そんなこと言って何になるのさ」
⑤理解放棄:「まったく言っていることがわかりません」
■総括系
①人間に換言:「おまえってそういうやつだよね」
②全体に換言:「社会なんてそんなものだよ」
③過去に換言:「昔から言われていることだよ」
④偉人の威:「○○あたりが言っていそうだな」
⑤終了宣言:「ブログの創造力の議論は、もう終わってるよ」
奢っているように聞こえるのではないでしょうか。高みから見下ろして発言しているように聞こえる。誰かに対して、あるいは誰かが発言したことに対して、上記のようなコメントを付けると賢そうにみえることは確かです。しかしながら、その実は何も考えていない。
特に否定系では、発言されている軸に対して別の軸を立てれば、いくらでも発言できるわけで、安易にフォーマット化された思考なわけです。そして、仲正昌樹さんも書かれていることですが、この二項対立の思考は善/悪という枠組みに押し込めてしまうので、危険な思考でもあります。
教養あるひとになるためには、謙虚であることが重要です。以下、引用します(P.193)。
勉強すればするほど、知的に謙虚になり、自分のことを反省的に振り返るようになれる人ばかりであれば、何の問題もありません。自分の知的限界が本当に分かっていれば、次にどうすべきか自ずから分かってくるはずです。そういう人が、「教養のある人」だと思います。
ほとんどの人はその逆です。勉強して知識が増すほど、横着で傲慢になっていきます。横着で傲慢になると、自分の無知や考え違いを素直に認めることができません。頭が堅くなり、新しいことが学べなくなります。
自分に都合の悪い情報を隔離して、気持ちのいい言葉だけを受け入れようとすること。誰かの発言にわかったような否定や総括だけ加えて、それ以上そのひとの言葉に耳を傾けようとしないこと。そんな奢った姿勢を反省して、謙虚でありたいと思っています。
投稿者 birdwing 日時: 23:17 | パーマリンク | トラックバック
2008年5月28日
思考の手触り、脳内の快楽。
久しぶりに本を読んで作者に嫉妬しました(苦笑)。2冊ほど本を読了したので、ツンドク本も残っているけれども、昨日、新たに姜尚中さんの「悩む力」という本を購入。読み始めたのですが、やられた。まいりました。
悩む力 (集英社新書 444C) (集英社新書 444C) 姜尚中 集英社 2008-05-16 by G-Tools |
姜尚中さんは、この本で決して難しいことを書いているわけではないし、奇をてらった文体でもありません。当たり前のことを静かに折り重ねるように綴るスタイルです。しかしながら、ぼくは冒頭を数ページ読んで、ああこのひとの文章は魅力的だなあと感じました。
惹かれたのは、そのロジックの組み立てかたです。文体から思考のなめらかな流れが感じられる。深い教養と鋭利な知力によって構造化されているのだけれど、ごつごつした荒さはありません。論理の流れが心地よい。そんな文章もあったのか、という感動がありました。
ルックスも素敵だけれど、書かれたものも魅力的ですね。そもそもテレビの討論番組などでコメントするときの話術の巧みさについては、黒川伊保子さんも著作のなかで絶賛されていました。女性に人気のある評論家だけのことはある。ちぇっ。ほんと悔しいんですけど(笑)。
「悩む力」は、夏目漱石とマックス・ウェーバーを横断しつつ、ご自身の青春時代の悩みなども絡ませながら、現代の孤独や病理についても考察していく非常に興味深い内容でした。半分ほど読み進めて、感動して涙出そうになった部分もありました(涙腺弱すぎ。年のせいでしょうか)。
しかしながら、その内容についての感想はまた別のエントリーで書くことにして、脇道にそれて、このエントリーでは、ぼくは文体の身体的な感覚について考えてみたいと思います。
小説にもいえることですが、内容はもとより、思考の“手触り”が感じられる文体があります。語のインパクトと同時に、言葉の連なりと展開される論理のリズムによって、読むこと自体がそもそも気持ちいい、そんな文章があります。文体の快楽といってもよいかもしれないですね。
ちょっと不謹慎かもしれませんが、やわらかく思考を撫でていく文体の言語感覚は、愛撫に近いのかもしれません。まず、語感で思考に触れる。むきだしの思考という肌にやわらかくタッチする。そしてロジックあるいは紡いでいく文章の流れによって、その触れた“指”を動かしていく。皮膚ではなく、思考そのものにダイレクトに触れて動かす文体はセクシーです。官能的ともいえる。
と、ここでちょっと気付いたのが、I love you.という英文でした。
黒川伊保子さん的な感覚による分析を加えるのですが、この短い一文では、まずIの[a]とloveの[Λ]という母音のなかでも最も口を大きく開く発音で、発話者の身体を開き、聞き手をその懐に受け入れます。そして最後のyouの[u:]という口をすぼめる発音で、開かれた腕のなかに聞き手を包み込み、抱き寄せるイメージがある。I love you.という文章自体が、両手で聞き手を抱き寄せて包み込む語感があるのではないか。
面白いな、と思ったのが、日本語の「あいしてる」もローマ字にすると「aisiteru」であり、[a]で開いて、[u]で包み込む語感であるということでした。つまり、この発話をすることによって、(身体的には困難であっても)思考という脳内において愛するひとを抱き寄せて包み込むことができる。遠距離恋愛のコイビトたちは、恥ずかしがっていないで、ぜひ使うべき言葉だと思います(笑)。その言葉に込めた感情はもちろん、語感によって距離の遠さを埋めることができるはず。つまりですね、意味よりもその言葉の気持ちよさによって、バーチャルだとしても抱き合うべきではないかと思ったりするわけです。余計なお世話か(苦笑)。
ついでにぼくは趣味のDTMで「AME-FURU」という曲を作ったのですが、これも[a]で開いて[u]で包み込む語感です。したがって、意味は違ったとしても、「あいしてる」に近い触感を誘発する語ではないかと思いました。あめふる、という語がやさしく感じられるのは(ええと、ぼくだけの感覚かもしれませんが)、あいしてる、と類似した言語(音声)的な構造があるからではないか。
これは短い語についての考察ですが、論文の段落や物語内でも、身体に訴える言語表現あるいは構造があるのではないかと考えました。開いて包み込む構造、あるいは突き放してより戻す構造。起承転結といってしまうとステレオタイプですが、すぐれた文章家は意図的に、あるいは無意識のうちに、そんな身体に訴えかける構造で文章を書いているように思います。あるいはそんな身体を文体に投影している。
ぼくは姜尚中さんの文章に、文体による身体的な心地よさを感じました。ええと、それで感じちゃった(ぽっ)とか書くと、おまえはホモか?ということになるので控えますが、究極のことを言ってしまえば、文体による思考の愛撫は性を超えるはずです。男性が書いたものであれ、女性が書いたものであれ、あらゆるひとをやさしく、気持ちよくすることができる。
といっても、読み手のコンディションや感性に左右されるものかもしれませんね。通りすがりのひとにいきなり抱き寄せられたら引いてしまうわけで、いきなりあからさまに自己を開くのではなく、パブリックな文章としての節度を維持しながら開いていくことが望ましい。
言葉を操るブロガーとして、そんな文章を書けるようになりたいものだ、と思っています。
まずは、姜尚中さんの文章から学ぶことにします。ダンディかつ若い魅力的な姜尚中さんの思考に、率直なところひとりの男性として嫉妬を感じつつ(笑)。
投稿者 birdwing 日時: 23:58 | パーマリンク | トラックバック
2008年5月26日
教養のあるひとになりたい、Part‐1。
つづけざまに本を読了しつつあるのですが、日曜日にこれ。
思考するカンパニー―欲望の大量生産から利他的モデルへ 熊野 英介 幻冬舎メディアコンサルティング 2008-02 by G-Tools |
そして月曜日にこれを読了。
知識だけあるバカになるな! 仲正 昌樹 大和書房 2008-02-09 by G-Tools |
どちらも非常に幅広い分野について触れている本であり、視野を広げてくれる感じがしました。
まず、「思考するカンパニー」ですが、これは環境コンサルティングなどの事業を展開しているアミタ株式会社の代表取締役である熊野英介さんが書かれた本です。非常に共感しました。しかしながら、うーむ、と考えてしまうところもあった、と正直に記しておきます。どこか宗教的な気もする。
歴史から生物学から哲学まで、さまざまな文化を横断する論点は確かにスリリングな感じもするのだけれど、どこかもう少し知識を深めてから判断したい気持ちもあります。批判的ではないのですが、よい/悪いという判断で語れない内容といえます。
メディア論のようなものも考えたいので、あえて裏側的なことを語ってしまうと、たぶんこの本は幻冬舎のカスタム出版ではないかと思います。
これは何かと言うと、企業が制作費用を出して主として企業のイメージアップや製品の啓蒙のために作る、いわゆる企業の自費出版のようなものです。つまり、一般的に書籍の企画を立てたとしても、出版社としては売れなければその企画は通りません。しかし、お金を出すなら別です。そうして企業が制作費を出して、まるでパンフレットのようにPRのために本を作る。この本もそういう作られ方をしたのではないか、と推測しています。
しかしですね、その内容が優れていれば、若者を引き寄せるリクルートツールにもなれば、社会的な価値を生み、取引を拡大するための営業ツールにもなると思う。ぼくは、お金にものを言わせて本を作ることが悪いとは思わないし、結局のところ、しょうもない本は読者に見破られるだけのことであり、自然に淘汰されていく。サイトで問い合わせをくれたひとに無料配布するとか、セミナーに来てくれたひとにノベルティといっしょに配るとか、そんな使い方もあるわけで、それは企業の姿勢によるものだと考えます。
という周辺を踏まえた上で、ぼくは熊野さんの利他的モデル、性弱説という考え方に共感しました。競争社会のなかで強いものだけが生き残る、いわゆる西洋的な強者/弱者の勝ち負けを基準とした考え方ではなく、弱いものだからこそ進化できるという発想に魅力を感じます。また、現代において孤独が病となっていることに着目して、自分のためではなく誰かのために何かをすること、利他的な思考を個人だけでなく企業レベルで追及していく、ということには、なんとなくあたたかいものを感じました。
ただ・・・やはりそれが企業になったときどうなのか、ということがぼくには何とも言えない。農業と工業の次に来ると書かれている「心産業」、「フィロカルチャー(Philoculture)」あるいは「マインダストリー(Mindustry)」というコンセプトも興味深いのだけれど、この本のなかから具体的な施策がみえてくるかというと、ぼくにはいまひとつみえませんでした。
といっても気になるので、環境ビジネス関連は今後も継続してウォッチしていきたいと考えています。グリーンITなども注目されていますが、企業の環境への取り組みは、これからより活発になってくるような気もするので。
それにしても、この本のなかに熊野さんが詰め込んださまざまな知識や日本をみつめるまなざしには、思わず唸るものがありました。教養があるというのは、こういうことなのかもしれないな、という印象を受けました。しかしながら、ほんとうの教養とは何か、ということを深く考えさせられたのは、次の「知識だけあるバカになるな!」かもしれません。この内容についてはまたいつか。
投稿者 birdwing 日時: 23:14 | パーマリンク | トラックバック
2008年5月25日
[DTM]雨にオンガクと創作を想う。
雨ですなあ。東京は今日も雨降りです。昨日、キリンジを聴いていて思ったのだけれど、雨を歌う曲というのは意外に多いのではないでしょうか。彼等の場合には、「朝焼けは雨のきざし」「雨をみくびるな」「雨は毛布のように」とタイトルにも直接表現されています。
日本は雨の多い気候です。雨を表現する言葉だけでも100以上あるということをどこかで読みました。というわけでなんとなく好奇心がむくむくとわきあがってきて、調べてみると「雨の名前」という本が出ているようです。「雨の名前」422語、「雨の写真」148点、「雨の詩とエッセー」35篇が収録されているとのこと。うーむ、読んでみたい。
雨の名前 高橋 順子 佐藤 秀明 小学館 2001-05 by G-Tools |
つづいてWikipedia。「雨」をうぃきってみると、雨が降る仕組みなどが解説されていて面白い。それから、サカナが降る現象などは子供の頃に科学雑誌か何かで読んだっけなあ、となんだか懐かしくなりました。楽曲では、ビートルズの「Rain」などいくつか雨をテーマにした曲が掲載されています。
懐かしかったので、とりあえずビートルズの「Rain」。
■Beatles - Rain
あらためて楽曲の新鮮さにびっくりした。おそるべしビートルズ。少年の日のわたくしはこの曲に衝撃を受けたのですが、何に衝撃を受けたかというと、テープの逆回転が使われているからです。最後のジョン・レノンのボーカルが逆回転になっている。
こういうことをやろうとして、BirdWing少年はカセットテープレコーダーを分解した経緯があったりするのですが、うまくできませんでした(というか全然無理)。しかし、いまではDAW(デジタル・オーディオ・ワークステーション。音楽制作ソフト)で簡単にできてしまう。ぼくの使っているSONARでもオーディオ編集でリバースのボタンをぽちっと押すだけで逆回転になります。うれしかったですねえ、もう若くないBirdWingおじさんは。
ぼくも趣味のDTMで雨の曲を作成することが多い。3曲ほどあるのですが、いちばん最初に公開したのは「Rain Dance」という曲でした。再掲載してみます。
ちなみにFlashの白い棒状のプレイヤーですが、左端を押すと再生、右端でダウンロードができます。音量の変更はできないので、お使いのPCで調整してお聴きください。
■Rain_Dance 3分36秒 3.29MB 128Kbps 2004.09.26
曲・プログラミング:BirdWing
この当時、ぼくはmuzieという楽曲配信サイトで自作曲を公開していました。
いまよりもずっとネットの可能性を積極的に探していた頃といってもいいかもしれません。数にこだわるのはどうかと思うのだけれど、2006年時点でRealPlayer配信数:88、MP3配信数:102、投票数:47とぼくの曲のなかでは2位に人気があった曲でした。とはいえ、muzieのすごいアーティストは数千という投票がありますからね。ほんと、これだけ聴いてもらえただけでもうれしい。
それから2曲目は、現在メインページ上にあるJukeBoxで公開している「AME-FURU」という曲。このページでも聴けるようにしてみます。無理やりテクノのアレンジにしたバージョンもありますので、興味のある方はメインページのJukeBoxでどうぞ。
■AME-FURU 3分59秒 5.48MB 198Kbps
Vocal:Sheep(Lotuslounge) 詞・曲・プログラミング:BirdWing
記載していませんでしたが、LotuslongeのSheepさんという方に歌っていただきました(きちんとクレジット入れます)。ネットコラボというカタチで、ファイルをやりとりしての制作です。そもそもぼくはネットを彷徨ってLotuslongeを発見し、その楽曲の完成度の高さにのけぞった。K.K.さんという旦那さんとのユニットなのですが、ふたりの音楽作りはすばらしい。サイトは以下になります。
■Lotuslounge
http://alterego.fem.jp/
ええと、実は恥ずかしくて言えなかったのですが、ボーカルをご協力していただいたお礼に、サイトでおふたりの音楽をご紹介する文章を書かせていただきました(照)。上記のサイトをスクロールしていただくと、ぼくのレビューが読めます。書き始めると無駄に長文になるぼくは、ものすごい長文を書いてしまったのですが、Sheepさんが編集してくださったようです。失礼しました。
なんとmyspaceのほうでは翻訳されて掲載されておりました。国際的ですね。引用させていただきます。
LotusLounge's Review by Bird Wing.
Floating...
LotusLounge's music carries the vague sense of floating on a still pond quietly like a lotus blossom. Vocalist Sheep writes lyrics, and Kawashima Koji takes charge of the composition and the programming. Their music is composed of sharp electronic sounds with natural touches, and it's very comfortable.
The arrangements are calculated precisely to convey completeness. While their sound has crisp textures and sharp tones, it is softly delicate. It is ultramodern music, but somehow nostalgic... "The tenderness, the softness... where is it coming from?" I thought.
It seems as if their music is meeting from two opposite midpoints. Light and darkness. A man and a woman. An adult and a child. An acoustic sound and an electronic sound. Public and private... Our world is overflowing with various opposing clauses. Both will be lost if either is chosen by itself. However, can't we have a world in which both can be chosen, too? Half-transparent light-happiness. The world can be stated as an Utopia which has all of it.
LotusLounge's music takes on the effect of graduated steps between these midpoints being performed. Appearing in their song's main character are sometimes two conflicting sounds, but these are tools Koji uses to arrange the sounds and create the overall mood.
Listening to "EnnuiGirl" there is a sense of relief from limbo- the escape from feelings of loneliness and being made to feel worthless.
As for "Shang-hi LoveSick", delicate vocal fluctuations are transmitted from the words of Sheep. It seems that she is expressing an android with feelings, while the electronic sound shines completely through.
"Mito" poses a moment like an out-of-body experience, which finds the body in spite of itself near a waterfall and the eternal halfway point at the same time.
I continue wanting to sway with LotusLounge forever. If it moves to their music, the thing of being eternal will become believed.
ああ、こんな風に英文が書けるといいなあ(涙)。英文日記を書き始めてみるかなあ、1日1行。最近、仕事でも英語の会話を耳にすることが多くなりました。英語力は必要ですね。ぼくにはないけど。
ところでLotusloungeのmyspace、す、すごい再生回数ですね。1000超えてますね。さらにやはり楽曲の完成度高すぎです。ノイズのアレンジも緻密だ。ますますボーカルの世界も深まっている。はああ(涙)。やっぱりかないません。でも純粋に、おふたりが作り出すサウンドに感動する。レビューにも書きましたが、「Shan-hi Love Shick」はお気に入りです。ボーカルのエフェクトも最高。YMO世代をくすぐるアレンジです。
気を取り直して(苦笑)。
雨にまつわるぼくの創作の3曲目は、5月の初旬に公開したばかりの「LOVE RAIN」です。ちょこっとだけボーカルを入れたことも含めて、この曲はぼくにとってはいままで作った曲の集大成でもあり、これから作る曲の起点でもある、と思っています。自作曲のなかではいちばん気に入っている曲で、自作曲でありながらヘヴィ・ローテーションで聴いています。たいてい仕事の帰りに歩きながら雨が降っていないのに雨の歌を聴いている、という。
この曲に対する思い入れは強い。そして、これで終わったとは思っていません。しんどい過程も多いのだけれど継続していきたい。障害があったとしても乗り越えたい。
雨の日に静かにいろんなことを考えるつもりが、少し熱く思いを募らせてしまいました。冷たい雨でクールダウンさせますか。と思ってブラインドを上げてみたら、外は雨止んでいるじゃないですか。雨降ってくれよぅ・・・。残念。
投稿者 birdwing 日時: 13:52 | パーマリンク | トラックバック
2008年5月24日
予測のつかない複雑で知的な。
午前中は晴れていましたが、夕方から雨が降り始めました。でも、最近は雨降りもぜんぜん憂鬱ではないですね。今日は午前中から夜までずっと昨日CDショップで買ってきたこのアルバムを朝から聴いていました。しあわせだ、なんだか。
2 in 1
キリンジ
曲名リスト
1. 風を撃て
2. 野良の虹
3. 水色のアジサイの上
4. 茜色したあの空は
5. 冬のオルカ
6. 水とテクノクラート
7. 休日ダイヤ
Amazonで詳しく見る by G-Tools
インディーズレーベルのせいか、Amazonで写真が表示されませんでした。なので自分で撮影。
実は試聴もせずに、これを持ってレジに直行です(苦笑)。まあ、このアルバムを買うためにお店に寄ったのだから当然なのですけれども。ちょこっとシューゲイザー系のコーナーを試聴して、おおこれは?というアーティストもいたのですが、次の機会にしました。一途でしょ。買おうと思ったら浮気しないのだ。というか財布のなかに、4000円しかなかったのだ(苦笑)。給料日なんだけど家に帰らないと、小遣い貰えないひとなので。
1曲目「風を撃て」から、まず音の肌触りにむむっと前のめりな気分です。ざらつき感(?)がいい。完成度はもちろん荒削りな感じがして、バンドらしさというか勢いのようなものを感じます。やはりベースを聴いてしまうのだけれど、ギターも気持ちいい。ディミニッシュのコードとか、サビの転調とか。
もちろん完成度(というかこの緻密な先の予測できない楽曲は、どういう発想をすればできるのでしょうか)も高いのだけれど、どこかローファイな雰囲気がある。不完全だったとしても何か魅力が感じられる曲が好きなぼくとしては、このサウンドはいいと思いました。デモテープっぽい感じもするし。
アルバム全体のなかでは、ぼくは2曲目「野良の虹」が好みですね。ベースラインが素敵だ。あと、ホーンセクションも気持ちいいです。ぱらっぱらっぱら、んぱっぱっぱっみたいなやつ。2分51秒あたり、エレピのマイナーコードにベースが絡むあたりもいい。切ない。
3曲目「水色のアジサイの上」のワルツもノスタルジックです。これはインストゥルメンタルで聴いたほうがよかった(個人的には)。4曲目「茜色したあの空は」は、ウェスタンっぽい曲で、若干こういうカントリー風の曲は苦手なのだけれど、最後の部分は音的に凝っていて楽しめました。「冬のオルカ」「水のテクノクラート」は、どこかスティーリー・ダンを想像しました。
そして7曲目、「休日ダイヤ」は音楽の完成度が高いですね。サビの部分のコード進行とか。しかし、このひとたちの歌詞、天才だな。至るところに虹が出てくるので、さては虹好きだな(にやり)と思ったのですが、「虹のようなものに体をあずけ」の儚さというか脆さや、「ようなもの」という不確かさな表現などに、文学的な婉曲性を感じました。それが複雑な進行に合っていて、よい。
このアルバムの後半は7曲のインストなのですが、これがまたそのまま聴ける。どうしてもアレンジなど、あれこれ考えながら聴いてしまうのだけれど、ボーカルが入っているときには気付かない発見などあったりして楽しい。あらためて解説を読み直すと、富田恵一さんのプロデュースによるところが大きいということも感じました。
えーと、ぼくは彼等の熱烈なファンではないので、詳細は語りません。というか、語れない。ただ、ライナーノーツの冒頭で岡村詩野さんが書いている次の言葉は、確かにそうだと思いました。
覚えづらい、展開が読めない、なのにどうしようもなくポップで、どうしようもなく甘い。リズムは複雑でアレンジは込み入っていて、言葉もそうそう簡単には共感を呼びそうなものではなく、要するにリスナーに媚びることは決してなく常に凛としている。でも、紛うことなくポップ・ミュージック。
さすが音楽ライターさんの形容です。その通りかもしれない。わかりにくい歌詞と複雑な音楽が組み合わさったキリンジの音楽は馴染みやすいとはいえないけれど、そこが結構、気持ちいい。音楽はキャッチーなメロディだけではないのだな、とちょっと思いました。
ということを書いてきて気付いたのは、ぼくは予測のできない複雑で知的なものを求めている、志向している、ということでした。音楽にしても然り、ブンガクはもちろん仕事関連のビジネス書も同様かもしれません。あるいは人間関係もそうかもしれない(笑)。すんなりと受け入れられてしまうものよりも、どこかごつごつとして取っ付きにくく、これってどうだ?という違和感や、パズルを解くようなよろこび、知的な戯れを好むようです。
ぼくはアタマがいいわけじゃないけれど、複雑なものを受け入れる身体がある、といってもいいかもしれないですね。そう、どちらかというと身体性のようなもので、だからたぶん合わないひとにとっては、このような音楽の複雑性を気持ち悪いと感じるのではないだろうか。たとえばジャズにも、何かしらそんな雰囲気があります。耳が肥えていくとより複雑なものを求めるのかもしれないけれど、シンプルなビートに打たれる楽しみもあれば、複雑なコード進行やフレーズに脳内が熱くなる喜びもある。だから音楽は面白い。
このソングライティングをしている堀込高樹さんはどんなひとなのだ、何を聴いているのだ、とちょっと思ったのだけれど、ちょっと調べてみたら以下のようなページをみつけました。
■「雨の日に家で聴く曲」 selected by キリンジ(堀込高樹)
http://www.playlistmagazine.jp/list/radio/horigome_t/general060621.html
うーむ、Harpers Bizarreとかソフトロックの大御所を聴いているかと思うと、Kraftwerkなどもリストアップされている。この許容力の広さが楽曲に表現されているんでしょうね。いろいろと聴いてみるかー、と元気が出る。
最後にアルバムの曲ではないのだけれど、YouTubeから。
投稿者 birdwing 日時: 20:34 | パーマリンク | トラックバック
2008年5月22日
そして光のなかへ。
喘息というか風邪のせいか今週の次男くんは夜中に咳き込むことが多かったのですが、2日お休みをもらって今日は幼稚園の遠足でした。とんでもない快晴にめぐまれました。休んでいた彼はこの暑さに大丈夫なのか?と心配になるくらいに。空も青い。
遠足の場所は新宿御苑と聞き、どうしようか・・・と悩んだのですが、仕事場から近いこともあり、ちょっと偵察に。ほんとうは幼稚園から禁じられているようなのだけれど、お昼休みの1時間を使って園内に入ってみました(入園料200円)。
庭園風の池がある場所を抜けると、子供たちの声がする。森のような暗い場所を抜けたとたんに、広い芝生が広がって、ぱあっと辺り一面が光で溢れました。さすが遠足日和、小学生や保育園やら、いくつかの学校から公園に来ているようで、あたりをつけた園児はうちの子供の幼稚園ではありませんでした。
けれどもうろうろと歩き回っているうちに発見。どうやら、木陰でランチ中のようでした。不思議なもので、たくさんの子供たちのなかで自分の子供はみつけられるものですね。とはいえ、一度、ぜんぜん知らない子供が自分ちの子供だと間違えてしまったけれど。
そのうちに昼食が終わったのか、子供たちは遊びはじめました。ものすごく広い芝生を走る、走る。
お、おいおい。そんなに走ったら喘息が(おろおろ)。と、おとーさんの言葉は遠くて届かない。でも、次男くんは心配そうに見守るこちらに気付いて控え目に手を挙げてくれたりした。はぁ、息子ながらちょっときゅんとした(笑)。
遠いなあ、もっと近づいて写真撮りたいなあ、と思ってカメラを構えていたら、前傾姿勢でこちらへダッシュしてくる老女が。
ええと、失礼なんだけど、副園長先生でした。しまった、変質者かと思われたか?と一瞬逃げようとしたのだけれど、このしあわせな公園で不毛なチェイスが始まってしまいそうで諦めていると、「心配ですか?心配ですね?でも元気ですから、大丈夫ですよう!」と声をかけられました。「はあ、あのあのあの○○(息子の名前)の父です。ええと、2日寝込んでいたもので、ちょっと心配しまして。会社も近かったもので。でも大丈夫なのですね。はいはい。はい、さいならー(しどろもどろ)」と父は変な汗をかいて退散。あー恥ずかしかった。
上着を脱いで息子から離れると、芝生の反対側にはバラが美しく咲いていました。一眼レフのカメラで撮るおじいさんとか、絵筆を握るおじいさんとか、みんなで集合写真を撮るおばあさんとか(老人ばっかり。でもなくて、若い写真家風のひともいた)、なかなかにぎわっていました。
いちばん大切なひとに、このバラを贈りたいな、などと考えながらぼくもスナップ。摘んだら叱られますけどね(苦笑)。なので、写真の花束です。
ちなみにバラの花言葉はこんな感じ。
(赤)「愛情」「模範」「貞節」「情熱」
(黄)「嫉妬」「不貞」
(白)「尊敬」「私はあなたにふさわしい」
(ピンク)「上品」「愛を持つ」「しとやか」
(朱赤)「愛情」
(薄オレンジ)「無邪気」「さわやか」
うーむ、黄色はどうかと思う。でも、どちらかというと嫉妬深いぼくには黄色が相応しかったりして(苦笑)。実は長男くんも黄色好きで、学生の頃にはぼくも黄色が好きでした。黄色のカーディガンなんか着ている女性は、いいなと思います。菜の花の色かもしれない。
気が付くと時間が押していて、昼食の時間がない。そこで、御苑の売店所でサンドイッチ(500円)を買って3分で胃のなかにねじ込みました。
ほんとうは上半身裸になって、日光浴でもしたかったんだけど、公園内でぼくはずっとスーツ。公園にスーツは似合わないですね、ほんと。
+++++
さて、なんとなく決意表明を(笑)。
ブログを書こう、書き続けていこう、とあらためて思っています。読者数やコメントであるとか、アクセスはあまり気にせずに自分の書きたいことを綴っていきたい。
エントリーとしてアウトプットするためにはインプットも必要です。最近は感想もおざなりになっているのだけれど、音楽や本や映画を引きつづき摂取していきたい。いろんなひとの意見を参考するのも大事ですが、自分の審美眼を大切にするつもりです。流されるのではなく、自分がこれはと思う作品(本であっても音楽であっても映画であっても)を、ピックアップしよう。
そして、趣味のDTMでは、大勢のひとに聴いてもらわなくてもかまわないから、自分の人生で納得のいく曲を創りたい。何曲もなくていい。1曲だけ残すことができれば十分です。
なんとなく最近、ブログを書くのを躊躇していたんですよね。何に躊躇していたのか、よくわかりませんが(苦笑)。いろんなものをシャットアウトして、ただひたすら闇のなかに光を見出そうとしていた。
もちろんぼくは光を見出しているのだけれど、ぼく自身がもっと光に溢れていなければ、誰かに輝きを与えることもできない。辛いこともあって、ひたすら歩いてしまうわたくし(困惑)ですが、光を与えてあげたい。誰かのために、まずは自分が輝かなくては。暗闇のなかに閉じこもっているのではなくて。そんなことを闇のなかから考えました。
投稿者 birdwing 日時: 23:40 | パーマリンク | トラックバック
2008年5月20日
無音の闇、騒音の闇。
健康のためだけではないのだけれど、雨降りとくたびれた日以外は新宿御苑のあたりを歩いて帰っています。たいていiPodで音楽を聴きながら歩くことが多い。アルバムをひととおり聴くこともあれば、自分の作った曲を1曲のみを延々とリピートさせて、あーだこーだ改良のアイディアを思い巡らせながら考えながら帰ることもあります。
今日はなんとなく音楽を聴く気持ちになれずに、イヤホンを外して帰りました。気持ちが塞いでいたせいかもしれません。どうせ音楽を聴かないのなら、街の音でも聞きながら帰るか、と思ったのだけれど、聞こえてくるのは自転車のブレーキの軋む音とか、トラックの汚れた排気音とか、けたたましいおばさんの笑い声とか、急に鳴り響く救急車とパトカーのサイレントとか、そんなものばかりでした。なんとなくめげた。
といっても、思考に支配されていると音も聞こえなくなるものです。周囲はさまざまなノイズで溢れているのにもかかわらず、聴覚にブラインドをおろすように、何も聞こえなくなる。騒音に包まれながら、無音の闇が広がっている。イヤホンと大音量の音楽で耳を塞がなくても、ぼくらの意識は外界の音をシャットアウトすることができるみたいですね。それが・・・楽しいことばかりではないのだけれど。
無音の闇のなかをただひたすら歩み続けていると、新宿御苑のあたりでは、ふいに草いきれのようなむっとする匂いに包まれました。低圧ナトリウムランプというのでしょうか、オレンジ色の街灯が暗い御苑の木々を照らしている。そして、顔を上げると新宿の副都心のビルが眩しい。
新宿の丸井CITY-1、バルト9というシネマコンプレックス(映画館)が入っているビルの裏側、目の前に新宿高校がある場所がなんとなく好きで、わざわざこの場所を経由して歩くこともあります。映画の待ち合わせか、ここで電話をかけているひとも多い。ずいぶん前に携帯電話のカメラでスナップしてみたことがありました。その写真です。
この前は、歩道がちょっと広めになっている。壁面に照明が取り付けられたこの建物を眺めていると、なんとなく落ち着きます。
壁面といえば、マイクロソフトがTouchWallというプロトタイプを先日披露しました。ブログでマルチタッチスクリーンによる「Surface」を「指で触れる、操る。」というエントリーで取り上げたこともあったのだけれど(といっても薄っぺらな表面的な把握ですけれど)、壁面全体をタッチスクリーンにしてしまうような技術です。Plexというソフトウェアによって、赤外線で位置情報を認識して操作できる。
TechCrunchの記事にYouTubeの動画が掲載されていたので、その動画を。
TouchWallが実用化されると、たぶんバルト9の下あたりは、映画の検索やトレイラーをインタラクティブに操作しながら見ることができる“壁”が登場するかもしれませんね。いま壁は壁でしかない、というか壁は建物の一部なのだけれど、壁が情報端末になる。
そんな未来を妄想しながら新宿駅のほうへ、とぼとぼと歩いていったのだけれど、雑踏で人が増えて路上で楽器を演奏するひとの音などが聞こえながらも、ぼくの耳は無音の状態というか、ノイズキャンセラーを利かせたように静かなのでした。あるいはいろんな思考が音を奪っていたのかもしれない。
騒音なら耳を塞げば大丈夫です。けれども問題なのは、内なる音に耳を塞ぐことかもしれない。自分の内側でなっているさまざまな悪しき言葉、しゃがれて嗤うような声、肌を粒だてるような不快な音に耳を塞ぐのは、なかなか難しい。そんな音をやり過ごすためには、ぼくはただ歩くしかない。歩いて、身体を動かすことで音に向かう心をそらす。
けれども、どんな闇にも光が当たるときが来るものであり、夜が明ければ朝になります。闇があるからこそ光は眩しく感じられるのだし、夜の静けさがあるからこそ、さわやかな朝に心も打たれる。どちらかに傾倒するのではなく、闇と光の両方を受け止めることが大事なのかもしれません。無理に笑ったり、無理に悲しむのではなく、ありのままに。
投稿者 birdwing 日時: 23:59 | パーマリンク | トラックバック
2008年5月18日
音楽と映像。
「海でのはなし。」という映画を借りてきたのですが、10分観てダメだこりゃと断念。そもそもスピッツの音楽から生まれた映画、という創作の過程に関心を持ったのですが、映画というのは映像があって音を付けたほうがいいのではないか、という素朴な疑問が浮かびました。
海でのはなし。 大宮エリー ポニーキャニオン 2007-05-25 by G-Tools |
全編に絶え間なくスピッツの音楽が流されると、なんとなく苛立ってくる(苦笑)。スピッツファンのみなさんにはすみません。彼等の音楽のせいというよりも、ドラマのなかの台詞と音楽の歌詞がぶつかっている気がしました。いっそのことインストゥルメンタルのほうがいい。・・・・でも正直言うと、彼等の音楽の甘さにも少し原因があるのではないか。これは生理的な、というか感覚的な、好みの問題かもしれません。
スピッツの音楽を生かす場合には、音楽なしで映画を展開して、最後のスタッフロールでこの映画を製作するきっかけとなった曲を流したほうがいいんじゃないですかね。
まったく音楽なしの映画、というのがあるのかどうなのか、映画通ではないぼくにはわからないのだけれど、物語の内容を詰めていって、最後にばーんと曲がきて、どどーっと落涙させるというか、ああ、やっぱりこの物語にはこの曲だよね、という感動を生むほうがよいと思いました。・・・とここまで考えて気付いたのですが、テレビドラマ自体がそんな構成になっていますね。ドラマの山場のシーンで曲が流れるわけで。
それにしても「海でのできごと。」は、そもそもドラマの内容がとても甘ったるい少女マンガ的な印象を受けたので、やさぐれたおじさんが休日に観るようなものではなかったなあ(苦笑)。中学生であれば観るのかもしれません。しかし、中学生はスピッツ聴かないのではなかろうか。と、すれば誰がこの映画を観るのか。宮崎あおいのファンだろうか。
批評するのであれば全部を観て批評すべきだと思うので、この映画に対する言及はここまでとします。ええと、観ないで返却しちゃったので。10分で観る必要なしと判断しました。
よい映画音楽とは、という高尚なことはぼくは語れないのですが、音楽に映像を付けるのであればどうしてもPV(プロモーションビデオ)のように、物語性が弱い空間的な映像にしたほうがよいのではないでしょうか。そして逆に、映画に音楽を付けるのであれば、物語や映像に邪魔にならない音楽がいい。あっちの映像とこっち音楽を組み合わせたらよいという話ではない。お互いに干渉しあう映像と音楽を持ってきただけの作品は成立しないような気がします。
ということを書いていて思い出したのは、久石譲さんの「感動をつくれますか?」という本のなかで「映像と音楽の共存」として書かれていたことでした。
感動をつくれますか? (角川oneテーマ21) 久石 譲 角川書店 2006-08 by G-Tools |
「あの夏、いちばん静かな海。」という映画を作るときに、北野武監督から言われたことが印象的でした(P.76)。
試写のあとにいわれたことがまた印象的だった。
「普通なら音楽が必ず入る箇所があるでしょう? そういう箇所から一切、抜きましょう」
音楽がつく箇所というのは、だいたい映画関係者はわかる。それをやらない方向でいくという。そんなことをいう監督に会ったのは初めてだった。普通は音楽を入れることでよりドラマチックに盛り上げたいものだからだ。
この北野武さんの映画は、ぼくもかなり前に観たのだけれど、よい映画だと思いました。静かに泣ける。
あの夏、いちばん静かな海。 北野武 バンダイビジュアル 2007-10-26 by G-Tools |
映画に挿入された久石譲さんの音楽をYouTubeから。ああ、なんだかこういう音楽をぼくも作りたい気がする(涙)。
■Silent Love 久石譲
「感動をつくれますか?」の本で久石譲さんは過剰な演出について批判し、北野武さんのスタイルに共感を示します。たとえばコイビト同士がいるとき、ふたりを見つめ合わせて、好きだと言わせて、バックに甘いメロディーを流し、さらにテロップで「彼等は愛し合っていた」というような演出がテレビの常套手段だったりするのですが、これはくどい、と。
映画でもこういう説明過剰なやり方は多い。
そういうのは薄ら寒くて嫌だという北野さんの考え方に、僕は共感するところが大きかった。
北野さんの映像の撮り方は、恋愛関係にある二人だったら、ただ寄り添っているだけでいいというものだ。寂しいシーンは寂しいまま、セリフも入れない。俳優に無理な演技をさせることもない。とってつけたような演技をさせるくらいなら、何もしないで佇んでいたほうがいい。
よい文章も同じことが言えるかもしれないですね。「月曜日は最悪だとみんなは言うけれど」というアンソロジーのなかに、作家レイモンド・カーヴァーと編集者ゴードン・リッシュの逸話が書かれていて、リッシュはカーヴァーの原稿をざくざく削ってしまったらしいのですが、結果としてその甘ったるい部分を削除する推敲が作品としての完成度を上げたとのこと。
というわけで、語らないことが多くを語る、ということもあるようです。音楽のない無音の状態であっても、ぼくらは内なる音でその無音を埋めることができる。作り手が過剰に音や言葉や映像で埋めてしまうことが、逆に作品の豊穣さを損ねてしまうことがあるということも認識すべきでしょう。
投稿者 birdwing 日時: 23:52 | パーマリンク | トラックバック
2008年5月16日
闘うルール。
R25の巻末、高橋秀実さんのエッセイ「結論はまた来週」の連載第108回「悪口の作法」を読んで、なるほどなあと思いました。とても興味深い内容でした。
高橋秀実さんは、まず3万8260件(文部科学省の4月15日の調査らしい)存在するという「学校裏サイト」について嘆いています。とんでもない誹謗・中傷が書き込まれていて、なかには「死ね」「殺す」などの発言もあるらしい。
「学校裏サイト」というのは、2ちゃんねるの低年齢化みたいな傾向として存在している気がします。便所の落書きばかりがネットではないと思うのだけれど、感情と欲望のままに書き込むと、結局、際限のない闇をネットのなかに生んでしまう。キホン的なマナーやリテラシーの教育を放置したまま、子供たちをネットにアクセスさせると暴走も生まれるのではないか。有害コンテンツのフィルタリングの問題にも関わるのかもしれないけれど、大人たちがガイドラインを定める必要があるのかもしれません。
まずは高橋さんの次の提言には頷くものがありました。
君たち、逮捕されたいのか?
と私は心配になった。これは刑法の脅迫罪にあたる立派な犯罪である。いっそサイトを禁止したいくらいなのだが、私も子供時代は悪口を言ったり言われたりして育っているので、あまり偉そうなことは言えない。ただ私は子供たちにこう諌めたいのである。
まず、名を名乗りなさい。
言いたいことがあるなら、まず自らの名前を表明しなさい。匿名で他人の悪口を言うのは卑怯者のすることだと諭したいのである。
ネットの匿名性が、悪い意味で暴言を許す方向に働いているのでしょう。発話者が特定されなければ、責任がないから言いたい放題になる。
ぼくは悪口や愚痴と、批判、批評、評論はまた別物だと思っているのだけれど、ネガティブという意味ではそれらをごちゃまぜにしてひとくくりにしてしまうことがある。単なる悪口なのに批判であると胸を張ってみたり、愚痴を並べただけなのに建設的な意見を述べて俺は偉いのだ、のように高みから見下ろすひともいる。という自分もきちんとわきまえたいところではあります。反省。
と、ここまでは普通のモラルに関する話なのですが、高橋秀実さんのお話の面白いところは、戦国時代に遡って悪口の文化史を短い文章のなかで整理されていることでした。
教育的指導の観点から、私は悪口にも作法があることを知ってほしい。
文献記録をさかのぼると、日本人が悪口をさかんに言い始めたのは戦国時代。
どうやら戦国武将は、鎧や刀で激しく勇ましく戦う前に「おまえのかーちゃんでーべーそ」のような悪口合戦を本戦の前に行っていた、とのことです、これは「ことばたたかい」というものらしい。ひげもじゃないかつい武将たちが言葉でののしりあう様子は、なんだか平和です(ほのぼの)。ことばで闘えば、こころは傷付くかもしれないけれど、身体を傷付けることはないですからね。以下のように解説されています。
やりとりはルール化されていたようで、武器による戦い「所作(しわざ)」に対して、これを「言技(ことわざ)」と呼んでいたそうだ。畳みかけるような弁論術で敵方を文字通り閉口させる。そして「言われてみればそうかもしれん」と納得させて戦意を喪失させるのである。ゆえに戦場では、力の強い者より口の達者な者が重用されたという。
企業でも同じようなところがあります。大きな声を出せる人間が、力を持つことはある。積極的だということもあるかもしれないのですが、騒いで問題を大きくするような人間が場を占有することもあり、こちらは困ったものですが(苦笑)。ただ、戦国時代からの名残りがあるのかもしれないですね。というか、人間はそもそもそういう社会性のもとに生きているのかもしれない。だからどんなによい考えを持っていても、表現できなかったり、ちいさな声で発話していると損をすることが多い。これはグローバル化などにおいても言われることかもしれないですが。
さらに、ほのぼのとしたのは次の記述です。
最強の武器は言葉だった。そして時に雄弁な者同士が悪口の応酬をすると、「敵モ味方モ、道理ナレバ、一度ニドットゾ笑ケル」(同前)というように、戦場は爆笑の渦になり、結局、戦をやめることにもなったらしい。つまり悪口は、面と向かってお互いに吐き出すことで暴力を抑止するものだったのである。
いまの学校裏サイトが暗く行き場がないのは、それが暴力の抑止になっていないということもあります。そこで吐き出した暴言が、実際のいじめなどを加速する増幅器になってしまっている。
ここで、ぼくが思ったのは、武将たちの「ことばたたかい」は遊びに近いということでした。真剣勝負の武将たちに叱られそうですが、どこかスポーツであったり、ゲームに近い。そして、いまの子供は遊びを知らないから制限のない学校裏サイトのような暴走になるんじゃないかな、ということでした。
子供によって差はあるかと思うのですが、うちの息子たちは、ほんとうにゲームばかりやっている。もちろんゲームにもルールはあります。けれども、友達と遊ぶときのルールというのは、場に応じてゆるくも厳しくもなるものです。ルール自体が改変されてしまうこともある。遊びやすい方法に改良されるわけです。
ところが、デジタルなゲームの世界ではそういうことはあり得ないですよね。遊んでいるつもりが、ゲームに遊ばされている。したがって、見えないストレスが負荷になることもあるだろうし、逆にその制限を超えてしまいたいような衝動があるかもしれない。
一般には暴力的なゲーム=リアルな暴力性のようにとらえられています。一方で、CNET Japanの「暴力的ゲームは子どもに影響なし--ハーバード大心理学者が調査」のような報告もあります。
Lawrence Kutner氏とCheryl Olson氏の2人の心理学者は、暴力的なゲームをプレイすることはほとんどの子どもにとって、ストレス発散に過ぎないとの結論に達している。もちろん、暴力的なゲームを数時間プレイした後に遊び半分の攻撃性を見せた子どもも中にはいたが、武道アクション映画を観た後の子どもが見せる反応と同じレベルだった。
しかし、ぼくはゲームにおけるルールによる拘束性、あるいは自由度のなさが、リアルにおいて特定の規範を超えてしまう力になっている印象を受けました。
高橋秀実さんの書かれていた内容に戻ります。「ことばたたかい」における「言技(ことわざ)」は、柳田国男さんによると「ことわざ」として残っているとのこと。とはいえ、相手を徹底的にやり込めるための武装ではなく、やはりちょっと手加減して、やわらかくしっぺするようなところがあります。次の言葉が印象的でした。
大切なのは切れ味とユーモア。悪口とは和平のために洗練を要する話術なのだ。
どこまで言葉で追い詰めるか、どこから一線を越えてしまうのか。そのルールをきちんとわかっていれば、他人を傷付けたり、自分を殺めるようなこともなくなるような気がします。そしてその規範を作るのは・・・やはり大人たちであるぼくらが、お手本を示すべきではないでしょうか。
投稿者 birdwing 日時: 23:55 | パーマリンク | トラックバック
2008年5月14日
デザインと発想。
デザイナーという職業の凄さは、描いたデザインの表現そのものというよりも、その発想にあるような気がしています。
もちろん美しい線を描けることや、色彩の組み合わせで感情を揺さぶることも重要だとは思います。けれども表現に至るまでの考え方であったり、発想がわかるとぼくは説得されてしまう。理屈でわかるのではなく、すーっと入ってくるものが望ましい。つまり作られた表現ではなく、そこにあるべくして成立したカタチというか。紆余曲折を経たとしても、最終的には削ぎ落とされてシンプルな佇まいのあるデザインがよい。
同じ方向性でバリエーションの違ったラフをいくつも作成できること、違いを明確にしつつヴィジュアルできちんと表現されていること。そんな力量も凄いと思う一面です。もやもやっと構想することはできるのですが、そのもやもやをカタチに落とし込むことは難しい。優秀なコピーライターさんとお仕事をしていても感じることでもあります。図案にすることと同様、曖昧な考えを言葉にするのはほんとうに難しい。ブログも同じなんですけどね。
ぼくは、ほそぼそと企業のコミュニケーションのお手伝いのような仕事をしています。しかしながらライターでもデザイナーでもなく、プランナーという仕事です。その立ち位置の曖昧さに、もどかしさを感じたりもします。概念的なことが多いからかもしれません(苦笑)。
ライターであれば考えたことを文章に、デザイナーであれば考えたことを図案に、それぞれ具体化できる。しかし、ぼくの場合は発想とロジックの組み立てや裏づけが中心になるからです。なんというか、タマシイだけがあって身体がないユウレイのようなお仕事なわけです。その曖昧さに開き直ると危険な気もしていて、表現の現場をわかっている必要がある。というのは、抽象論の宙に浮くような話ばかり展開していると、いつまでたっても地面に降りることができない。机上の空論に終始することになるからです。
考えるプロフェッショナルになることを標榜していて、その意味ではコンサルタントに近いかもしれません。もっと本質をわかりやすく語ってしまえば、悩んでいるひとがいて、その悩みを解決してあげる仕事というほうがわかりやすい。カウンセラーにも近い。企画屋とかプランナーのような、なんだかぺらぺらしている印象の職種には後ろめたいものも感じていて、カウンセラーのほうがひとに役立っている気がします。
発想法に関する技術や本はいくつも出ていますが、若い頃にはKJ法やブレストの技術について関連書籍を読み漁りました。といってもそれらの方法論をいくつも知っていても、実際に発想ができなければ、ハサミ(道具)はあるけど何も作れないことに等しい。では、どう発想するか、ということについては、影響力のある仕事をしているデザイナーであるとか、経営者であるとか、あるいは過去の偉人のようなひとたちの話を聞いたり、書物を紐解くのがいい。
というわけで、「見えるアイディア」を読み終わりました。
見えるアイデア ヴィジュアル・コミュニケーション・トレーニング塾 秋草 孝 毎日新聞社 2008-03-14 by G-Tools |
この本は電通で勤められた後に日本大学藝術学部や金沢美術工芸大学で講師を勤められた秋草孝さんが、ビジュアルによる発想力を鍛えるためのトレーニングの実践について学生の作品などの事例もふんだんに引用しながら、わかりやすく解説された本です。
とにかく何か表現する前に、考えるトレーニングが必要である、という姿勢がよかった。確かに自分もそうだけれど、手っ取り早く短絡的に何かをカタチにしようとする。しかし、実はその前にきちんと考えておくと、表現も違ってくるものです。できれば若い頃、思考が柔軟な学生時代に、デザインの道具はとにかく置いて、まずは発想力を鍛えておいたほうが、その後の表現力や発想力にも格段の違いが出るような気がします。
当然のことながらアートディレクターやクリエイティブディレクターなどを志向するひとに向けて書かれた本、というよりもデザインをする学生のために書かれているため、ぼくとしては若干、ビジネス視点に欠けるような気もしました。しかし、発想のヒントとして面白い視点がたくさんありました。
ちょっと感動して涙出そうになったのは、アートディレクターでもあり絵本作家「マルタン」でもある後藤徹さん・静子さん夫妻による「くるりんぱ活動」について紹介されていた部分でした。
いわゆる騙し絵のようなものですが、動物の図案がひっくり返すと別の動物になる。この活動の動機としては、次のようなものがあったようです(P.49)。
「ものの見方はひとつじゃないよ!」
「一つの考え方にとらわれないで、見方を変えてみよう。そうしたら、まったく違う世界が広がり、新しい考え方が生まれるよ!」
でも、このメッセージは少し難しくて、言葉だけでは伝わりません。そこで「マルタン」は、子供たちを集めたワークショップを、日本および世界各地で開くことにしました。
ワークショップでは次のように展開されるようです(P.50 )。
「この絵は何に見える?僕はウマだね」と、徹さん。
「私はペンギン」と、静子さん。
「何言ってるんだよ、ウマに決まってるじゃないか、ウマ!」
「あなたこそ何言ってるのよ、ペンギン!!」
ついに、夫婦げんかがはじまります。
「じゃあ、どっちのマルタンが正しいか、みんなに聞いてみよう!」
と、周りを囲んでいる子供たちに質問すると、彼らは「マルタン」の夫婦げんかに笑いながらも確かな声で、「どっちも正しい!!」と叫ぶのだそうです。
「うれしいですよね。くるりんぱメッセージが伝わった瞬間です。」
実際にこのマルタンの逆さ絵はWEB絵本でみることができます。
■くるりんぱ
http://www.kururinpa.com/kururinpa/index.html
これがウマの顔。
でも、ひっくり返すとペンギン。
そして、次の解説が泣けました(涙)。
「世界では戦争が起こり、人びとがいがみ合ったり、殺し合ったりしていることは知ってるよね。戦争というのは国同士のけんかなんだよ。でも、さっきのウマだと思ったら、ペンギンだったことを思い出してみて。どっちが悪いとけんかすることじゃなく、相手の気持ちになって見方を変えてみれば、その国のいいところや文化が見えてくるかもしれない。そしたら、けんかなんかやめて、友達になれるかもしれないよね」
この発想は、相手を思いやることにも通じるだろうし、企業であれば顧客志向の考え方にもつながると思います。二項対立、善悪という判断ではなく、どちらも正しいという状態がぼくらの世界には存在します。
これしかないでしょ!とキメ打ちする潔いひとがぼくは信じられなくて(たいてい資産管理の営業マン的なひとには多い)、こういうのもある、しかしこうも考えられる、のようにあらゆる側面から多様な考え方を示すことができるひとに憧れます。ただし、多様な考え方の問題点というのは、じゃあどれがいいの?と詰め寄られたときに、う・・・と沈黙してしまうことかもしれない(苦笑)。したがって、これがベストです、しかし、こんな風にも、こうだって考えられます、のように、多様な視点からさまざまな検証をしつつ、どの考えを選ぶか、という思考が大事かもしれないですね。
と、多様な考え方の取得に関心があり、つづけて購入したのが以下の本。勢いで半分近く読んでしまったのですが、非常に面白い。
知識だけあるバカになるな! 仲正 昌樹 大和書房 2008-02-09 by G-Tools |
ほんと、タイトルに説得された(笑)。まさにそうなりたい。
人文系の学問を学びはじめようと思ったひとのための、入門の入門書だそうですが、ネットにおける脊髄反射のコメントや、二項対立の枠組みで思考停止することの愚など、ぼくがいま読んでも十分に楽しめる。ちょっと、いてててて・・・という視点もあって、その辛辣さというか切れ味が気持ちいい。
そんな思考のストレッチをしつつ、先週買ったこんな本も読書中。
営業の赤本・一問一答 儲けにつながる99.5の教え ジェフリー・ギトマー 月沢 李歌子 日経BP社 2007-12-13 by G-Tools |
夢ばかりではなくてね、現実的に数字も上げなければならないわけで(苦笑)。おとーさんは大変なのだ。ビジネススキルをいちから構築し直しです。
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くるりんぱ活動は、ユネスコ世界寺子屋運動としても展開されているようです。生々しい手が出てくるのですが、子供たちにとってはわかりやすいページなのかな。ここまでリアルじゃなくてもいい気がするのだけれど。
■ユネスコ世界寺子屋運動
http://www.terakoya-kururinpa.jp/
投稿者 birdwing 日時: 23:25 | パーマリンク | トラックバック
2008年5月11日
レンジを拡げる。
ぼくらは多様な関係性のなかで生きていて、さまざまな役割を担っています。仕事における役割もあれば、家族のなかの役割もある。それぞれのペルソナというかキャラクターのようなものがあって、役割によって発言や行動が制限されることも多い。
ブログに関してもそうかもしれません。なんとなくぼくは背伸びをして書き始めたところもあり(途中から、方向転換をはかったけれど)、ハイブロウなテーマを多く取り上げて、どこかサブカルチャー的な雰囲気をめざしていたような気がします。紹介する音楽は、インディーズが中心で、ヒットチャートに出てこないような曲ばかりだったりして、おまけにあまり邦楽には触れていない。
一方で、やわらかな思考をめざしつつ、ほわほわした文体を志向していました。途中からは、できるだけ子育てやプライベートのあれこれを取り上げて(ときには、恥ずかしいこともカミングアウトしつつ。苦笑)、プライベートとパブリックを横断するような内容をめざしました。これがなかなか問題もあり、うまくバランスが取れないものです。成功すると、ほんとにあったかくてそれでいて節度のあるエントリーが書けるんですけどね。
しかしながら、ほんとうはもっと吹っ切れたことも書いてみたい。書いてみたいんだけれど、BirdWingというブロガーのキャラが固定しつつある現在、なかなか壊すことができない。先日ちょっと辛辣方面に内容を振ってみましたが、やっぱりどこか抑制してしまう。これが非常にもどかしい。
基本的に読むひとを排除したくないんですよ。お高くとまってもいたくない。まだぼくにはできないけれど、ほんとうにアタマがよいひとは、どんなに難しいこともやさしく(=優しく、易しく)書けるものだと思っています。テーマは知的で難解なことだったとしても、小学生にもわかるように書けるだろうし、こころを打つことができるはず。そんな文章が書けるようになりたいものです。
ブロガーを名乗っていますが、当たり前だけれどリアルなぼくはただの一般人です。要するにちょっとだけ文章が書けるかもしれませんが(というか、うまいかどうかは別として、文章を書くのが好きであるというだけですが)、ひとりのおじさんなわけです。かっこつけてもどうかなあ、と思いました。
そこで、少しばかりブログで扱う内容のレンジを拡げてみようと考えています。ぼく個人に近いところへブログの内容を持っていきたい。
というわけで、音楽のお話です。連休や週末を使ってCDなどを整理したのですが、久し振りに邦楽を発掘して聴いてみたら結構よかった。うわ、エレクトロニカやインディーズばっかり聴いていたけど、邦楽も結構いいんじゃないの?と思いました。よかったのは、こんなアルバムです。
BACK TO THE STREET 佐野元春 エピックレコードジャパン 1992-08-29 by G-Tools |
ハチミツ スピッツ 草野正宗 笹路正徳 ユニバーサルJ 2002-10-16 by G-Tools |
CLOVER スガシカオ キティ 1997-09-03 by G-Tools |
佐野元春さんは懐かしかった。先日も取り上げたけれど、若かりし日のぼくはフィルムコンサートに行ったり、カセット付きの本とか買ったりしたっけ。なんというかですね、いろんな洋楽の要素が詰まっていて素敵だと思う。音楽に励まされるというか、元気が出る。
スガシカオさんは古くから好きだったわけではないけれど、ハスキーな声がいいですね。あと楽曲のセンスはすごいと思った。ついでに歌詞のちょっとえっちなところも好み(笑)。考えてみると、佐野元春さんもスガシカオさんも、広告代理店に勤めていてミュージシャンに転職したひとでしたよね、確か。言葉はもちろん、音楽のセンスが光ってる気がします。
スピッツはどうかな、と思ったのですが、ギターのきらきら感にやられた。すーっと入ってきて、いままで難解な曲ばかり聴いていなかったかなーわたくし、シンプル・イズ・ベストかもしれない、と反省しました。知的で難解な曲もよいのだけれど、ギターの聴かせどころがわかりやすい曲も気持ちいい。
というわけで、スピッツがらみで次の映画を借りてきました。これから(というか来週の週末にでも)観るつもり。スピッツの曲から物語を膨らませて作った映画のようです。
海でのはなし。 宮崎あおい 西島秀俊 天光眞弓 ポニーキャニオン 2007-05-25 by G-Tools |
かつてのぼくであれば、こういうことは思っていたとしても書きませんでした。ブログに書く内容を選んでいた。インディーズ志向なのに邦楽のメジャーを取り上げるのはどうかな?という変な選別志向があったんですよね。
ただ、それが逆に自分で自分のレンジを狭めていた気もするので、ちょっと制限を緩くしてみることにします。といっても、てきとーに何でもかんでも書くのではなくて、BirdWingブランドを守るというか、一定レベルの文章のクオリティは保ちたいと思っています。個人的にも、クールで知的で、それでいてあったかいブロガーを標榜しているので。
+++++
そういえば。今日も半額セールのCDショップに行って、この音楽DVDを買いました。なんとなくYMO(というか高橋幸宏さん)つながりという感じです。
ザ・ヴェリー・ベスト・オブ ジャパン EMIミュージック・ジャパン 2006-05-17 by G-Tools |
ううむ。半額+古本屋で本を売りさばいたお金を充填したので、1300円ぐらいで購入したのだけれど、この内容はどうかなあ。それほどのファンではないので不満が残る。映像のクオリティが悪すぎる。音楽自体はとてもいいんですけどね。フランジャーききまくりの音に、おお!という感じ。退廃的な何かが、かき立てられました。JAPANに関しては、CD買えばよかったのかも。というか、ポール・ウェラーのビデオにしとけばよかったと後悔しています。
投稿者 birdwing 日時: 23:37 | パーマリンク | トラックバック
2008年5月10日
音とビジュアルに癒されて。
エディ・ヒギンズのCDを購入したときに新宿のTowerRecordsをうろうろしながらみつけたのが、schole(スコーレ)というフリーマガジンでした。そもそもぼくは自称フリーマガジン収集家で、R25、L25をはじめとして、東京の地下鉄においてあるmetropolitana、metro min.は必ず持って帰っています。捨てることができないので、部屋がえらいことになっていますが。
そんなわけでいろんなフリーマガジンを読んでいるのですが、このschole(スコーレ)がいい。素敵です。クオリティが高いと思います。インディーズの音楽、カフェやアートを中心に紹介されているのですが、初回限定でCD-ROMも添付されていて、インディーズのアーティストの作品が8曲ほどコンピレーションとしてまとめられています。ここに収録されているエレクトロニカがもろにストライクゾーンで、アンビエントな質の高いサウンドにびっくりしました。これ、無料といわず1500円ぐらいで売れると思う。いや、ほんと。
思わず04と05の2冊を持って帰ったのですが、小冊子をめくってアートを楽しみつつ、CDに収録されている音楽を聴きながら、とても充実した時間を過ごしています。
04号のインタビューでは、ぼくもお気に入りのI am Robot and Proud(Shae-Han Liemさん)のインタビューが掲載されています。レイハラカミのファンだということも書かれていて、なるほど、と思いました。音楽について、以下の言及も納得。
私は日常における様々な要素について、たとえば天候、人々、あるいは思い出などから発想を得ることが多いです。もちろん、曲のタイトルからその曲がどういった内容であるか、想像できるものもあります。しかし、私は曲のトピック(主題)の有無や理解度はリスナーにとって重要ではないと思っています。なぜなら、リスナー自身は曲を聴きながらそれぞれの物語を想像するものだからです。
ぼくも同じですね。共感。
不勉強なテキスト論でいうと、読者の受容美学のような観点に近いと思うのですが、作り手の想いというのは確かにあるのだけれど、それを100%伝えることが表現ではない。むしろ勝手に受け手であるリスナーのなかで、想いを増幅させたり、物語を作り変えたりできること。表現に加担して解釈を作りかえる余地があることが、すぐれた作品であるように考えています。
だからどんなに完璧な作品であっても、読者に理解を要求するような作品は質が低いのかもしれない。読者も想像性=創造性を発揮できること、ここはこうしたら面白いんじゃないかな、とカスタマイズの余地があることが、作品としても豊かといえるのではないか。そして、リスナーが満足すれば、それが作り手にとっても至福のときであると思います。
ええと、話が横道にそれましたが、彼のアルバムで持っているのは以下の2枚です。
The Electricity In Your House Wants To Sing I Am Robot And Proud Darla 2006-07-24 by G-Tools |
Catch/Spring Summer Autumn Winter I Am Robot and Proud Darla 2007-03-13 by G-Tools |
Scholeに掲載されているアートでは、04号のYoshimi。。。さんのSora。。。がよかったです。
それから、Yosua Seasunさんの「月の進化とコスモス畑」という幻想的な写真も素敵でした。
Yosua Seasunさんはインターネットラジオにも取り組まれているようです。考えてみるとぼくの音楽および宅録の原点は、小学校および中学校の放送部でDJ(ディスクジョッキー。回すほうではなくて、喋るほう)をやっていたことにありました。ミキシングのコンソールをいじったり、録音することに興味があった。生ロクに関心がありました。
その後、聴いているだけではなくて自分で作ったらもっと楽しいだろう、ということでバンドや宅録に進んだのですが、先日、声をカミングアウトしたこともあり、ラジオのようなこともやってみたいなーとちょっと思ったりしました。ええと、やりたいことが多すぎなので時間ありませんが(苦笑)。
ほんとにやりたいことが多すぎなのですが、ブログについても、もう少しきちんといろんなことを考えてみたい。なんだか最近、海外からのスパムコメントとトラックバックに悩まされているのですが、さすがにそろそろMovableTypeは4にバージョンアップしたいところ。CSSについても独学で勉強して、もうちょいデザイン的にも(派手ではなくても)クールなサイトにしたいなーと考えています。
音とビジュアルに癒されたら、なんだかいろいろと欲張りな気持ちが増えてきました(笑)
+++++
Scholeのサイト。最新号に掲載されているmp3の音楽ダウンロードもあるようです。
http://www.scholecultures.net/magazine.html
投稿者 birdwing 日時: 23:54 | パーマリンク | トラックバック
2008年5月 6日
連休の最終日に手に入れたもの。
黄金の休日の最終日、東京は暑い一日でした。後ろにしか進めないよう(涙)と情けないことを言っていた次男くんを幼児用の自転車(補助輪付き)に乗せて公園に行ってきたところ、帰りにはきちんとペダルを漕げるようになっていました。
やはりものごとのコツを掴むには、一定以上の時間が必要になることもあります。できないっ!とすぐに投げやりになる息子ですが(誰に似たんだか。ん?わたくしですか)、ちょっと付き添ってあげればできるようになるものですね。
うちの息子たちは外に出るのが面倒、嫌だ、というインドア志向なのですが、無理やりに連れ出してみたらそれなりに楽しそうだ。そういえば次男くんは、喘息になる前には、ベビーカーで公園に連れて行って、ぽんと地面に置くと、ぜんまいが切れるまで走りつづけている子供だったっけ。なんとなく昔に比べるとへろへろな走りぶりですが、やっぱり子供は、公園を走り回っている姿が子供らしくてよろしい。
そんな散歩から帰ってきて、とーさんであるぼくは映画観ようかCDでも探そうかとまた近所をうろうろと彷徨ってしまったのですが、何度か入ったことのあるちいさなCDショップに、閉店セールのビラを発見。音楽好きの、ちょっとかわいらしいおばさんがひとりでやっているショップで、ログハウス風の店内などが気に入っていたのですが、5月で閉店するらしい。そんなわけで、あらゆるものが半額になっている。
キリンジの最新アルバムがあり、どわーこれも半額か!?と思って裏返してみたら、割引対象外のシールがあった(苦笑)。まあそりゃそうだよね、と気を取り直してDVDのコーナーへ。コーネリアスとHASYMOのライブDVDが気になって、まさかこりゃ半額じゃないよなあと思いつつ、おばさんに聞いてみると「半額ですよ(あっさり)」とのこと。うぇぇ?と思いつつ、ついついHASYMOのDVDを購入してしまいました。昨年の5月に行われたライブですね、これです。
HAS/YMO HASYMO エイベックス・エンタテインメント 2008-03-12 by G-Tools |
YMO世代なんだけど、その割にあまりちゃんと聴いていない。だいたい中途半端なファンは排除されてしまいそうで、あんまりYMOのことは語りたくないのですが、それでも久し振りにDVDで音楽ライブを観て楽しめました。
なんか、ものすごくオーガニックというか聴きやすくなったな、YMO。まず、オープニングの「以心伝心」の楽曲のよさにあらためて感動。この英語詩のサビの部分が好きです。ストリングス系のシンセのアレンジも素敵だ。それから高橋幸宏さんの声いいなあ。昔から大好きでした。こういう優しい声で歌えたらしあわせだろうなあ(涙)
■以心電信
細野晴臣さんが、鍵盤ではなく、ふつうの4弦ベースを弾いているのもいい。なんとなく思い出してしまうのはYMOというより「はっぴいえんど」なのだけれど。ただ、テクノやエレクトロニカのライブって、なんかライブっぽくないですね、何度観ても(苦笑)。楽器を弾くのが音楽だ、と思っているひとは抵抗がありそう。ただ、クラシックにも近い気はするのだけれど、ラップトップコンピュータの機材が置いてあったり、映像と融合させたりして、この知的な配置が結構ぼくは好きだったりします。
RYDEEN 79/07は、あらためて楽曲のよさを再確認するとともに、個人的には挿入されているノイズのセンスに脱帽。グラスが壊れるような音というか宇宙人からのメッセージというか透明なノイズに、うわーこういう音好みだと思いました。たぶんテクノポップの昔のファンは抵抗あるんじゃないですかね。坂本龍一さんのカールステン・ニコライとかフェネスとのコラボレーションを聴いてきたぼくにとっては、すごいよくわかる。
■RYDEEN 79/07
ただ、最後のほうはどうかなーと思いました。「WAR & PEACE」のあたりはぼくはちょっとだれた印象があって、つまらなかった。また、アンコールで演奏された「CUE」は名曲だと思うのですが(コーネリアスの小山田圭吾さんのカバーも素晴らしい。CD持ってる)、この演奏よりもSketch Showで高橋幸宏さんがドラムを叩いていた演奏のほうがいい気がする。YMO、Sketch Show、HASYMOの順に3つの演奏を並べてみます。
インタビューを観ていて面白いな、と思ったのは坂本龍一さんが、おれはYMOはずーっとアルバイトだと思っていた(苦笑)のような発言でした。なかなかユニットで曲を作るのは難しい。いろいろと確執もあったような、ないような。また、坂本龍一さんと高橋幸宏さんがネット経由で曲のやりとりをやっていて、細野晴臣さんはあまりかかわらないのだけれど、時々コメントする、などという裏話が面白かったです。そうか、YMOもネットで音源をやりとりしているのか、とあらためて思いました。そういう時代ですね。
連休の最後に、公園での陽射しのきらめきと、ちょっと懐かしいサウンドをみつけることができて(リアルはもちろんネットでもいろいろと有意義な時間を過ごすことができて)、しあわせでした。
このしあわせな気持ちが、しばらくつづきますように。
投稿者 birdwing 日時: 23:00 | パーマリンク | トラックバック
2008年5月 5日
[DTM作品]LOVE RAIN
ぼくらの生は一回限りのものであり、不可逆なもの、つまり過去に遡ることはできません。巻き戻して、やり直すことができない。
バタフライ・エフェクトではありませんが、ちいさな岐路の連続がぼくらの生にはあり、選んだ選択肢の結果が後になって大きな違いとなることもある。だから、ああすればよかった、言わなきゃよかった、という後悔も生まれる。しかしながら、後悔した結果を未来への教訓として生かさなければ、前進できません。反省は大事だけれども、反省したらすっぱりと忘れてしまうことも大事です。過去にとらわれて生きていると、新しい契機を掴むこともできなくなります。
漫然と生きているのだけれど、ひょっとしたら「いま、ここ」で、何を発言するか、どんな行動を取るのか、ということは未来への選択として重要な礎になるのかもしれないですね。
大切なひとに告げたい言葉があっても、こころのなかだけに留めておいたら二度と話せないかもしれない。亡くなった父に対して、ぼくは話したいことがあったのだけれど、結局話せずに父を見送った経験がありました。そのときに、話せることはいま話しておかなければいけないのだな、と痛感しました。些細なすれ違いの喧嘩が別離に発展することだってある。気が抜けません。刹那をきちんと生きていくことが大切になる。
禍転じて福と成す、雨降って地固まる、のように、短期的にはマイナスの選択であっても、長期的な視点からみると、あのときに泥を被っておいてよかった、ということもあるものです。辛いできごとを経験することでやさしくなれることだってある。かなしい障害を乗り越えることで、強くなることもできる。
多くのものごとは両面を持つものです。よく引用されるのが、コップに半分水が入っているとき「半分しか入っていない」ととらえるか、「まだ半分もある」ととらえるかによって、悲観的にも楽観的にもなれるということ。解釈の違いが世界のパースペクティブを変えることもあります。
しかしながら、ぼくは理由のないポジティブ志向に対しては個人的には疑問を感じます。あらゆる課題に対して、まだ大丈夫、ぜんぜん平気、と考えるのは逆に思考停止しているんじゃないか。「半分しかない水は半分でしょう」とドライに現実を直視する、解釈を加えずに現実をありのままに受け止めることも大事ではないかと思うんですよね。
といっても、ネガティブ思考は断ち切りたい。できれば現実はありのままか、前向きにとらえていたい。
たとえば急に振り出した雨のことを想像してみます。びしょ濡れになって駆け込んだ通勤電車のなかは湿度が高くて、席に座れたものの、自分の前に立った誰かの傘から落ちる滴が自分にかかったりする。イラらつく。憂鬱になる。濡れたシャツが肌に貼り付いて、不快が募る。雨は嫌だなあ、と思う。
その気持ちは気持ちとしてあっていいと思います。けれども、いま自分が嫌悪している雨がさまざまな生き物にとっては恵みの雨であったりもする。農家では雨を待ち望んでいるひともいる。こころのコンディションによっては、しっとりとした雨の冷たさを心地よく感じるときもあって、外出を諦めて部屋で読書していたところ、思いがけない素敵な文章に出会えたりもする。突然振り出した雨によって、コンビ二で買った傘が忘れられないコイビトたちの思い出になるかもしれない。雨が取り持つセレンティビティ(偶然の巡り合わせ)だってある。
そんなわけで(前置き長すぎましたが。というか楽曲を公開するのが照れくさいので、ついつい・・・苦笑)、ひとびとに嫌われがちな雨を愛する曲を作りたいと思いました。ノスタルジックな暗いじっとりとした曲もありだとは思うのですが、できる限り、明るいポップスで。
久し振りの趣味のDTMの新曲です。「LOVE RAIN」というタイトルにしました。黒川伊保子さんの本「恋愛脳」のLOVE BRAINというタイトルにちょっと似ている気もしますが(笑)。
■LOVE RAIN (3分47秒 5.21MB 192kbps)
LOVE RAIN
冷たい雨
が
降る。この街の
風景が・・・
LOVE RAIN
いとおしい。あなた
に、
ここに
いてほしい。
詞・曲・プログラミング BirdWing
楽曲的にイメージしたアーティストは、ブライアン・ウィルソンです。ブライアン・ウィルソンはビーチボーイズのソングライターおよびベーシストであり、とても繊細な美しい曲を書きます。けれども冷静に聴くと、どこか脆くて、甘ったるい。なんとなく落ち着かない印象もある。でも、そこがよかったりもする。
80年代に出したソロアルバムでは、1曲目の「Love and Mercy」と3曲目の「Melt Away」は珠玉のポップスです。この2曲で何度泣いたことか(涙)。そんな曲を作りたいとずーっと思っていました。
Brian Wilson Brian Wilson Warner Bros. 2000-09-11 by G-Tools |
個人的に、彼のソングライティングで最も秀逸なのは、ビーチボーイズの名盤「ペットサウンズ」に入っている「God Only Knows」ではないかと思います。コード進行の切なさといい、すばらしい楽曲です。こちらはYouTubeから。若かりし日のブライアン・ウィルソンの写真がたくさん挿入されています。
■The Beach Boys - God Only Knows (Brian sings lead)
要するに、エレクトロニカのブライアン・ウィルソンになりたかったんですよね、ぼくは。というのは非常に大それた話ではあるのだけれど、そんな大きな夢も描いていたいと思います。たとえ趣味だとしても。
DTMの工夫点としては、まず冒頭でフィールドレコーディングによる音を入れて広がりを出しました。ほんとうは自分で録音したかったところですが、ネットで拾ってきたイギリスのメトロの雑音を使っています。
また、弦の音をサンプリングしてサビで使いました。コリン・ブランストーン(ゾンビーズ)のソロアルバムにも弦を使った素晴らしいアルバムがあります。ルーツを辿ればビートルズなのかもしれませんが、とにかくストリングスをうまく使ったクラシカルな曲が好みであります。そんなアレンジをしたかった。一方で、エレピの透明感は、スクリッティ・ポリッティという気もなきにしもあらず。
音色やエフェクトとしては、ブリッジ部分のドラムはモジュレーター(フランジャー)をかけて、次の部分へイメージを切り替える展開を考えました。最後のストリングスはフィルターをかけて幻想的にしたかった。シンセはすべてSONAR付属のTTS-1です。いろんなソフトウェアシンセを使うとマシンに負荷がかかるということもあるのですが、結局のところ音色よりもメロディと和音で勝負、と考えていたので。しかも奇をてらったメロディではなく、覚えやすいスタンダードなポップスをめざしました。
実は・・・制作中にのめり込みすぎて、廃人に足を突っ込んじゃったんですよね(苦笑)。できあがってしまったものを聴いていただくと普通じゃんと思われるかもしれないのですが、ぼくは鍵盤を使わずにマウスで音を置いていく作業(ステップ入力)で曲を作っています。絵画に喩えると、スーラの点描画のような作業です(わかりにくいか・・・)。
つまり、通常キーボードが弾けるひとは、Cのコード(ド・ミ・ソ)をばーんとキーボードで弾いて、リアルタイムで入力します。ところが、ぼくは方眼紙のような画面に、ドを入れて、ミを入れて、えーとあとはソ、という風にいちいち一音ずつマウスで音を重ねていく。そうやってこの曲も作っています。
緻密な作業もさることながら、そのデジタルな工程に、ぼくは感情を込めたかった。で、まずは音に込める思いのようなものと向き合い、この曲に込めたい思いは何かということを考え詰めました。そしてその思いを増幅させて作ったのですが、思い入れはもの凄いあっても、いざDTMの画面に向かうと単純な音としてしかアウトプットされない、表現できない・・・のようなジレンマに陥り、ほんとうに神経が衰弱しました。携帯電話で3行のメールを打つのにも、1時間半ぐらいかかるような燃え尽きようだった、という(苦笑)
そんなところも実はブライアン・ウィルソン的なのかもしれないのですが(彼は精神を病んで、ベッドルームに砂場を作って遊んでいた時期もあったような)、ぼくなどは音楽を趣味とする一般人なのですが、プロのアーティストってもしかすると強靭な精神力がなければできないのではないか?とあらためて考えました。だからドラッグなどに依存するようなことになるのかもしれないのですが。
というわけで、気持ち的には未完成ではあるのですが、未完成の完成として公開することにします。できれば、ここを起点として作り続けていたい。楽曲作りの難しさをあらためて感じたのですが、諦めずに続けたい。カタチは別の曲になったとしても、ここで考えたことを継続したい。
この曲を契機として考えたことは自分には尊いものでした。辛いことも多いのだけれど、出会えてよかったと思っています。
投稿者 birdwing 日時: 00:00 | パーマリンク | トラックバック
2008年5月 2日
価格と価値。
音楽のダウンロード販売が隆盛の時勢に、ぼくはまだ一度もダウンロードで音楽を購入したことがありません。ファイルにお金を払うのは実体がないような気がしています。身体というイレモノのないタマシイだけを買い求める感じがするから?時代遅れですね(苦笑)。アプリケーションソフトのパッケージがどんどんなくなっていく時代に、われながらそれはないだろうと思う。
たぶんレコードやカセットからCDやMDを経由して、iPodなどで音楽を聴くようになった世代だからかもしれません。パッケージからダウンロードへの過渡期に生きてきたわけです。最初から音楽はファイルで供給されるものだという文化を背景に育てば、何も問題がない気がしています。
考えてみるとレコードでは(若いひとって知ってる?レコード)、A面とB面がありました。それがCDでは全曲を通して聴くようになり、最初はわずかばかりの戸惑いがあったと記憶しています。そのメディアの変化は、CDパッケージの構成にも影響を与えているのではないでしょうか。A面/B面に別かれている場合、それぞれ気持ちを導入させる最初の曲、なんとなく締める最後の曲を配置します。なので、A/Bの構成に区切りがある。でも、CDからのアルバムにはそういう区切りはあまりないのではないか。
もちろんダウンロードで購入すれば、いいこともたくさんあるはずです。とにかく部屋を物理的に圧迫することがない。最近は紙ジャケット風のものが増えてきたけれど、CDケースによるスペースが軽減されます。それから、たとえばCDショップで試聴するような無駄な時間を減らすことができる。家で簡単に入手できるようになります。あるいは、アルバムではなくて楽曲単位で購入することもできるので、ほんとうに聴きたい1曲だけを手に入れることもできます。それでもなぜか、ぼくは非効率なパッケージを選んでしまうのだけれど。
ダウンロードによる音楽の流通は、一方で無料配布という動向にも広がりをみせて話題を呼びました。
大きな話題を呼んだのは、レディオヘッドの「勝手に好きな値段を付けてくれ」というセンセーショナルな配布方法だったかと思います。結局、その後にCD販売もすることになり、ぼくはといえばCDで買いました。個人的な感想を言わせてもらうと、あらゆる雑誌で絶賛されていたけれど、それほどでもないな、と思った。というよりもこのアルバムの音が個人的に肌に合いませんでした。あんまり好きじゃない(苦笑)。なので、騒がれなければ、買わなかったかもしれません。もう聴いていないし。このアルバムです。
In Rainbows
Radiohead
曲名リスト
1. 15 Step
2. Bodysnatchers
3. Nude
4. Weird Fishes/Arpeggi
5. All I Need
6. Faust Arp
7. Reckoner
8. House of Cards
9. Jigsaw Falling into Place
10. Videotape
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レディオヘッドの過激なプロモーション(プロモーション=販促というのは皮肉か。苦笑。まあ結果として、売れたのだからプロモーションの一環ではないか、と)に追随するようにして、以後、プリンス、ナイン・インチ・ネイルズなどがダウンロードで作品を発表するようになったようです。そして、コールドプレイもシングルを無料配布するとのこと。以下、Itmediaの「レディオヘッド、「価格はあなた次第」は一度きり」から記事を引用します。
オンライン版無人販売所でアルバムにお金を払ってもらうというレディオヘッドの決定は、同バンドが問題を抱えていたEMIから離れた直後に下されたものだった。この決定を受け、音楽業界そしてCD販売という先細りする収入源の今後の方向性について多数の人が意見を交わした。
レディオヘッドは依然、この実験が成功したかどうかについては沈黙している。多くのファンは一銭も払わずにアルバムをダウンロードしたと考えられている。「In Rainbows」は後に従来通りにCDでリリースされ、米国と英国のチャートで1位になった。
無料楽曲へと向かうかもしれないこの画期的なやり方は、プリンス、ナイン・インチ・ネイルズなど多数のアーティストに採用された。最近では英国のロックバンドのコールドプレイが4月28日に、ニューシングル「Violet Hill」を無料でダウンロード提供すると発表。その結果、同バンドのWebサイトは翌日にアクセス殺到でダウンした。
ここであらためて考えるのは、価値と価格とは何か、ということです。
やはり、アマチュアではなくてプロのミュージシャンが技術や魂を込めて作った音楽には、対価を払いたい。それが商業的に増産されたBGMのようなものであっても、もし場の雰囲気を変えるようなものであれば(たとえば、美味しく食事をできるような音であれば)、対価が支払われて当然です。プロの作家が書いた本をきちんとお金を払って購入して読むように、貨幣という基準で交換が成立する。お金を支払うべき価値がある。
個人的には思い入れの強い曲、そうではない曲があると思うので、価格のモノサシが変わるのもわかります。だから、レディオヘッドのようにリスナーが金額を決めるというのもありだと思う。ただ冷静に客観視すると、おまえらどうせ高く買うだろう?というアーティストの驕りがなきにしもあらず、ですけどね。実際には結局「一銭も払わずにアルバムをダウンロードした」リスナーが多かったとしても。
一方で、ぼくなどは趣味のDTMで制作した曲を無料で公開しまくっているのですが、楽曲を売ろうという衝動が生まれたことは、いまのところありません。売れるレベルじゃないだろう、という実感もある。ただ、“対価”のようなものはあって、何かというと、聴いてくれたということ、感想をいただけることです。つまりは、それが紛れもない対価であったりする。貨幣の価値以上に尊いのではないかと思っています。
ブログの世界にもいえるですが、受信されたという満足感が大きな価値となります。星を付けたりコメントをいただかなくても、かまわない。もちろん大勢に聴いてもらえば喜びもひとしおだと思うのですが、100万人のアクセスよりもたったひとりの絶賛がうれしいことがある。
いま複数の本を乱読しているのですが、やや宗教的な匂いを感じつつも「思考するカンパニー」というアミタ株式会社の熊野英介さんの本に共感を得ました。
思考するカンパニー―欲望の大量生産から利他的モデルへ 熊野 英介 幻冬舎メディアコンサルティング 2008-02 by G-Tools |
いじめ、自殺、猟奇的殺人が起きる現代を嘆きつつ、シューマッハーとドラッカーの著作にヒントを得つつ、「企業を超えた企業」を標榜されて、事業を模索されているようです。その冒頭で、価値を変えることの重要性を説かれています。引用します(P.13)。
人の言動と行動を変えるためには、価値観を変える必要がある。
価値観を変えるため、教育を変え、そして習慣を変えなければならない。
音楽のダウンロードによる無料配布も、レディオヘッドのような単なる反逆精神の注目集めではなく、追随したアーティストの柳の下にどじょうのようなプロモーションでもなく、社会における価値観の変革として考える必要があるのではないでしょうか。でなければ、ぼくは、「1回きりだけどもうやらない」という、レディオヘッドの腰砕けのような状況に終わるような気がしています。無料で配布しつづけたら、すげーなレディオヘッド、やっぱりカリスマだ、と尊敬したのですけどね。・・・残念です。
+++++
ちなみに今日は、会社の帰りに久し振りにCDショップに立ち寄ってこのCDを買いました。
マイ・フーリッシュ・ハート
エディ・ヒギンズ&スコット・ハミルトン エディ・ヒギンズ スコット・ハミルトン
曲名リスト
1. マイ・フーリッシュ・ハート
2. ロシアの子守歌
3. ホワット・イズ・ゼア・トゥ・セイ
4. ザット・オールド・ブラック・マジック
5. スカイラーク
6. 夜も昼も
7. エンブレイサブル・ユー
8. アム・アイ・ブルー
9. ジーズ・フーリッシュ・シングス
10. ザ・モア・アイ・シー・ユー
11. ザ・ソング・イズ・ユー
12. ジス・ラブ・オブ・マイン
Amazonで詳しく見る by G-Tools
エディ・ヒギンズの煌くようなピアノと、スコット・ハミルトンの肌触りを感じさせるようなテナーサックスに癒されるなあ。夜中にこんなピアノの音を聴いてあれこれ思いを巡らせている女性がいたら、素敵だなあと思う。惚れてしまうかも。そんなしあわせな気分に浸りつつ、黄金の休日のはじまりです。特別な予定はないけどね(苦笑)。
投稿者 birdwing 日時: 23:59 | パーマリンク | トラックバック
コンテンツありき、ユーザーありき。
気候はもはや夏ですね!あったかいを通り越して、暑くなってきました。今日は気温が30度を超えた地域もあったようですが、東京でもここ数日、陽射しの強い日がつづいています。そして、袖が短くなったり(つまり半袖)丈が短くなったり(つまりミニスカート)、街を歩くひとたちの装いも軽やかになってまいりました。
ええと、読まれている女性の方に対してはちょっと恥ずかしいのだけれど、ついでに自分のフェチ具合をカミングアウトするのもいかがなものかと思うのですが、あのう、女性の二の腕が好きです(照)。もっと好きなのは脚なんですけど・・・。
ところで、休日に「笑っていいとも!」をテレビで見ていたら、モデルの方が二の腕の美しい見せ方についてお話されていました。腕を身体から離す、つまり腋を空けると二の腕が美しく見える、とのこと。何気にインパクトのあるTipsではないでしょうか。つまり、腕を身体にぴたっと密着させると肉が横に広がるので、二の腕が太く見える。腋を離すと肉がたゆまないので美しく見えるそうです。お試しください。しかし、無理に脇を空けていると、鍛えられて太くなっちゃいそうな気もしますけどね。余計な心配か(苦笑)。
さて、コンテンツビジネスについて考察しようと思います(きりり)。
はああ、フェチな話をしたあとでは、きりりとできない(泣)。いや、しかし、気分を入れ替えて、真面目に考察します。
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先日、はてなのモバイル機能変更の騒動について考察したのですが、このときにさらに考えたのは、ユーザー視点からはもちろん、コンテンツビジネスという企業視点からこの機能変更がどういう意義があるのか、ということでした。
つまり、はてなも企業である以上、営利を追求しているわけです。この機能変更によって、はてなのビジネスとしてのチャンスは何かあるのか。というよりも、そもそもどうやって、はてなは儲けているのか。そして儲けとユーザー視点、サービスはどのような相互関係にあるのか。
通常、ブログやコミュニティのサービスを展開する企業の収益は、広告収入がメインではないかと思います。しかし、有料会員の制度があるはてなとしては、会員から徴収した会費も収入源といえるのではないでしょうか。そして、そのほかにも収入源はあるのではないか。
何気にアフィリエイトでしょうかね。憶測に過ぎないのですが、「はまぞう」というDVDやCDや本をブログに簡単に貼り付けられるサービスがあります。あれはAmazonのAPIを使ったウェブサービスだと認識していますが、はてなダイアリーの利用者が日記に貼り付けた映画やCDを経由して、訪問者がAmazonで何かを購入した場合、はてなにわずかばかりの収益が入るのではないか、ということを考えました。
個人でアフィリエイトプログラムを登録した場合には、おすすめCDからリンクを辿って購入した場合には個人にもちゃりーんとお金が入るのだけれど、きっと数%は、はてなにも落ちるのではないか。つまり販売代行のような仕組みです。したがって、無料のはてなダイアリー使っているユーザーで、映画や音楽好きで、はまぞうを使ってお気に入りのDVDやCDなどをばんばん紹介している場合には、きっと気付かないうちにはてなの収益に貢献している。自分のお気に入りのアルバムを紹介しているだけなのに、はてなを儲けさせている。
ということは、有料会員が増えなくても、映画や音楽好きの無料会員が集まってくれたら、わずかなちゃりーんも積もり積もってそれなりの収益になるのかもしれない。ええと、きちんと検証していないので、あくまでも憶測にすぎません。
なんか騙されている気がしますよね?コンテンツビジネスの裏側の仕組みをある程度理解すると当たり前のことなのだけれど、たぶんユーザーのほとんどは気付かないことだと思います。
はてなの近藤社長は、CNETに「1000万ユーザー規模のサービスを京都から--はてな近藤氏が目指すもの」というインタビューに応じていました。4月28日の記事から引用します。はてなの会社としてのミッションについての回答です。
ミッションですか(笑)。ちゃんと決めてくださいって、よく言われます。これですって1つ示せるものはないんですけど、いま言ってるのは、「自分たちの手で新しいものを作って、世の中の生活を変えよう」ということです。もう少し具体的にいうと、いまはとにかく、1000万人のユーザーを集めるような規模のサービスを作ろうと、数字としては掲げています。
どのように変えたいのか、が見えないのだけれど、1000万人会員を集めたいという意図は伝わります。
ちょっとうがった見方をすると、この記事は、横暴ともいえるモバイルフィルタリング対応や、強力な破壊機能(カテゴリーを消してしまう)のおまけで困惑を誘った「その場編集」機能の実装によって、ユーザーの乖離や批判が浮上したはてなが、急遽イメージアップするために、広報効果を狙った演出にも思えます。タイミングがよすぎる。
つまり、はてなぐらい注目されている企業であれば、CNETにバーター(広告費を出さずに記事を提供すること)で記事を提供する力はあると思います。さすがに編集部との癒着はないかもしれませんが、ユーザーに不安を与えたモバイルフィルタリングの騒動のあと、ユーザーを安心させるには悪しきイメージを払拭させる必要がある。だから広告塔として社長みずから夢を語った。
しかし、ぼくにはこの記事の発言自体が、モバイルフィルタリングの裏側の理由につながってしまうんですよね。どういうことか考察してみます。
あのとき、はてなはモバイルからアクセスした全員に「会員登録」をさせようとしていたわけです。つまり、会員を集める=収益構造を安定化させる、という企業の論理から、あの無謀な機能追加を強制的に行ったのではないか。
せっかくアクセスした日記なのに、会員登録しなければコメントができない・・・であれば、仕方なしに登録しようか、というユーザーもいたはずです。とくに著名人の有名ブログなどでコミュニケーションを楽しみにしていたユーザーにとっては、とにかく登録してコメントしたいと思ったのではないでしょうか。そんな狙いもあって、企業の論理から強制的に登録させようとして非会員ユーザーには登録を課すような機能を実装したのではないか、と。
1000万人会員を集めたい、という目標のためには、強硬手段も仕方ありません。ユーザーからの悲鳴は無視しても、登録は増やしたい。モバイル事業者からの要請と言い訳して、子供たちを有害コンテンツから守るという見せ掛けの正義で覆い隠して、実は登録増加を狙ったのではないか。
一方で、こういう視点もあります。会員以外のユーザーが携帯電話で知人のはてなダイアリーにアクセスしたらどうなるでしょう。
携帯電話の特性から、携帯電話の所有者はPCとは比べものにならないぐらい規模が大きいといえます。しかも、携帯電話は「いつでも、どこでも」個人がモバイルインターネットにアクセスできるツールです。電車のなかでも、ちょっと暇な時間にアクセスできる。ベッドのなかであっても、お気に入りの日記の更新を確認できる。
ここで何が起こるかというと、非会員ではないモバイルユーザーによるアクセスから、はてなのサーバーやインフラに24時間、アクセスの場所を問わずに過剰な負荷がかかることになる、ということです。そのための設備を増強しなければならないし、人員も増やさなければならない。収益に直結する増強であれば問題ありません。しかしながら、非会員のコメントは、単なる負荷にすぎない。はてなの収益には何も貢献しない。
だから、はてなは、モバイルフィルタリングという大義を前面に出しながら、自社の収益に貢献しない「負荷(=非会員モバイルユーザー)」を排除しようとしたのではないか。
ということを考えてみると、はてならしい施策ともいえます(苦笑)。ユーザーを単なる収益や機能改善のためのモルモットとしか考えていない。そんな企業姿勢が浮き彫りになる。
そういえば、はてなスターの機能を実装したときにも、ぼくらが時間を削って一生懸命に書いたブログの文章を「流れて消えていくもの」のように表現していたことを思い出しました。その拙い弁明に対して、ブロガーとして強い反発と憤りを感じたっけ。ユーザーに対する説明のひとつも満足にできない、へんてこな日本語しか使えない開発者のおまえに言われたくないだろう、と。
いま、秋草孝さんの「見えるデザイン」という本を読んでいるのですが、そのなかで、ひとびとの利益(=喜び)を優先することが企画には重要である、ということが書かれていました。
見えるアイデア ヴィジュアル・コミュニケーション・トレーニング塾 秋草 孝 毎日新聞社 2008-03-14 by G-Tools |
読み始めたばかりなのに、今日はさらに二冊購入。そのうちの一冊は、幻冬舎から、熊野英介さんの「思考するカンパニー」という本です。偶然ではありますが、こちらでも環境への取り組みを触れながら、営利を追求する企業であっても、利他的な思考の重要性を説かれています。
思考するカンパニー―欲望の大量生産から利他的モデルへ 熊野 英介 幻冬舎メディアコンサルティング 2008-02 by G-Tools |
自社の儲けや利益だけを盲目的に追求する企業は、利用者に愛想をつかされていく。利用者はそれほど馬鹿ではありません。むしろインターネットの登場により、利口になってきている。それよりも重要なことは、設立当初のユーザー視点に立脚した姿勢を、はてなは見失っているように感じています。あるいは時代の流れが変わりつつあることに気付いていない、というか。
「へんな会社」であるはてながどこへ向かおうとしているのか。正直なところ、ぼくにはよくわかりません。海外進出も志があったというよりも、何となく行ってみた(梅田望夫さんがシリコンバレーからの風も吹かせてくれたので)という印象があります。そして厳しい批判をすれば、結局のところ失敗したのではないか、という冷めた目もある。
しかしながら、開発のアイディア=企画に少しでもユーザー視点が加味されれば、若干はよくなるのではないかという期待もあります。「生活を変えるような」画期的なコンテンツありき、でもあるのですが、やはりユーザーありきのサービスではないか、と考えるので。
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あ、そうだ。備忘録的に書いておくと、もう一冊購入した本は、これ。
おしゃべりなデザイン―ニッポンのクリエイター12人のインタビュー集 田村 十七男 六本木 泰彦 Real Design編集部 〓出版社 2008-03 by G-Tools |
12人のデザイナーさんのインタビューです。ロボットのデザイナーさんもいる。ぼくはデザイナーではないのですが、デザインを仕事とするひとに対する憧れはあります。彼らの思考から、しなやかさを学びたいと思っています。
投稿者 birdwing 日時: 01:01 | パーマリンク | トラックバック