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2008年5月18日

音楽と映像。

「海でのはなし。」という映画を借りてきたのですが、10分観てダメだこりゃと断念。そもそもスピッツの音楽から生まれた映画、という創作の過程に関心を持ったのですが、映画というのは映像があって音を付けたほうがいいのではないか、という素朴な疑問が浮かびました。

B000NJLVYW海でのはなし。
大宮エリー
ポニーキャニオン 2007-05-25

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全編に絶え間なくスピッツの音楽が流されると、なんとなく苛立ってくる(苦笑)。スピッツファンのみなさんにはすみません。彼等の音楽のせいというよりも、ドラマのなかの台詞と音楽の歌詞がぶつかっている気がしました。いっそのことインストゥルメンタルのほうがいい。・・・・でも正直言うと、彼等の音楽の甘さにも少し原因があるのではないか。これは生理的な、というか感覚的な、好みの問題かもしれません。

スピッツの音楽を生かす場合には、音楽なしで映画を展開して、最後のスタッフロールでこの映画を製作するきっかけとなった曲を流したほうがいいんじゃないですかね。

まったく音楽なしの映画、というのがあるのかどうなのか、映画通ではないぼくにはわからないのだけれど、物語の内容を詰めていって、最後にばーんと曲がきて、どどーっと落涙させるというか、ああ、やっぱりこの物語にはこの曲だよね、という感動を生むほうがよいと思いました。・・・とここまで考えて気付いたのですが、テレビドラマ自体がそんな構成になっていますね。ドラマの山場のシーンで曲が流れるわけで。

それにしても「海でのできごと。」は、そもそもドラマの内容がとても甘ったるい少女マンガ的な印象を受けたので、やさぐれたおじさんが休日に観るようなものではなかったなあ(苦笑)。中学生であれば観るのかもしれません。しかし、中学生はスピッツ聴かないのではなかろうか。と、すれば誰がこの映画を観るのか。宮崎あおいのファンだろうか。

批評するのであれば全部を観て批評すべきだと思うので、この映画に対する言及はここまでとします。ええと、観ないで返却しちゃったので。10分で観る必要なしと判断しました。

よい映画音楽とは、という高尚なことはぼくは語れないのですが、音楽に映像を付けるのであればどうしてもPV(プロモーションビデオ)のように、物語性が弱い空間的な映像にしたほうがよいのではないでしょうか。そして逆に、映画に音楽を付けるのであれば、物語や映像に邪魔にならない音楽がいい。あっちの映像とこっち音楽を組み合わせたらよいという話ではない。お互いに干渉しあう映像と音楽を持ってきただけの作品は成立しないような気がします。

ということを書いていて思い出したのは、久石譲さんの「感動をつくれますか?」という本のなかで「映像と音楽の共存」として書かれていたことでした。

4047100617感動をつくれますか? (角川oneテーマ21)
久石 譲
角川書店 2006-08

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「あの夏、いちばん静かな海。」という映画を作るときに、北野武監督から言われたことが印象的でした(P.76)。

試写のあとにいわれたことがまた印象的だった。
「普通なら音楽が必ず入る箇所があるでしょう? そういう箇所から一切、抜きましょう」
音楽がつく箇所というのは、だいたい映画関係者はわかる。それをやらない方向でいくという。そんなことをいう監督に会ったのは初めてだった。普通は音楽を入れることでよりドラマチックに盛り上げたいものだからだ。

この北野武さんの映画は、ぼくもかなり前に観たのだけれど、よい映画だと思いました。静かに泣ける。

B000UMP1FWあの夏、いちばん静かな海。
北野武
バンダイビジュアル 2007-10-26

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映画に挿入された久石譲さんの音楽をYouTubeから。ああ、なんだかこういう音楽をぼくも作りたい気がする(涙)。

■Silent Love 久石譲

「感動をつくれますか?」の本で久石譲さんは過剰な演出について批判し、北野武さんのスタイルに共感を示します。たとえばコイビト同士がいるとき、ふたりを見つめ合わせて、好きだと言わせて、バックに甘いメロディーを流し、さらにテロップで「彼等は愛し合っていた」というような演出がテレビの常套手段だったりするのですが、これはくどい、と。

映画でもこういう説明過剰なやり方は多い。
そういうのは薄ら寒くて嫌だという北野さんの考え方に、僕は共感するところが大きかった。
北野さんの映像の撮り方は、恋愛関係にある二人だったら、ただ寄り添っているだけでいいというものだ。寂しいシーンは寂しいまま、セリフも入れない。俳優に無理な演技をさせることもない。とってつけたような演技をさせるくらいなら、何もしないで佇んでいたほうがいい。

よい文章も同じことが言えるかもしれないですね。「月曜日は最悪だとみんなは言うけれど」というアンソロジーのなかに、作家レイモンド・カーヴァーと編集者ゴードン・リッシュの逸話が書かれていて、リッシュはカーヴァーの原稿をざくざく削ってしまったらしいのですが、結果としてその甘ったるい部分を削除する推敲が作品としての完成度を上げたとのこと。

というわけで、語らないことが多くを語る、ということもあるようです。音楽のない無音の状態であっても、ぼくらは内なる音でその無音を埋めることができる。作り手が過剰に音や言葉や映像で埋めてしまうことが、逆に作品の豊穣さを損ねてしまうことがあるということも認識すべきでしょう。

投稿者 birdwing : 2008年5月18日 23:52

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