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2008年5月30日
教養のあるひとになりたい、Part-2。
誰でも簡単にネットを使ってブログを書き、関心のある事柄について討論や研究ができる昨今、意外にきちんとできていないのが学んだり討論したりするときの基本姿勢ではないでしょうか。
情報をどうやって探せばいいのか、探した情報の真偽をどう判断していいのか、単に引用するのではなく自分の意見を構築するにはどうすればいいのか、反対意見を述べるときコメントのリテラシーはどうすべきか。ぼくを含めてオトナたちの書き込みをみていても、できているつもりでいて、意外にきちんとできていないひとが多いと思います。こういうことを教えてくれるサイトは少ないですね。
ぼくもブログを書いていて感じることですが、共感した部分を確かめもせずに引用してしまったり、または感情的に脊髄反射で批判してしまったり、なんとなくスタイリッシュに知識を軽くなぞってわかったような振りをしたり、知識が深まっていかないことが多々あります。
そんなぼくの姿勢をあらためて正してくれたのが、「知識だけあるバカになるな!」という本でした。
知識だけあるバカになるな! 仲正 昌樹 大和書房 2008-02-09 by G-Tools |
この本は教養を学ぶ学生の「入門への入門」として書かれたようですが、ぼくのようにネットで何か思考を展開したいと考えているひとにとっても参考になる本だと思います。
困ったひとの例がいくつか挙げられているのですが、読んでいてこれがとても痛い(笑)。疑うことの重要性について考察された第1章から、次を引用します。
P.20
たとえば、大学の授業で、「常識を疑ってみましょう」と先生に言われると、すぐに「そういう先生の言葉を僕(私)は疑います」と答える学生が出てきます。
「そういう先生の言葉を僕(私)は疑います」などという陳腐極まりないことしか言えないくせに、「こんな台詞を返せる私は賢い!」と思い込んでいる学生は、たいてい何も考えていません。自己満足して、思考停止しています。
P.24
結局、自分で考えようとしないで、他人に依存しているわけですね。そういう横着な姿勢を一度身につけてしまうと、何でもかんでも、「~というあなたの言葉を疑います」と言って片付けてしまう。思考停止人間になってしまいます。
2ちゃんねるに意味のない書き込みをしている人とか、ブログで他人の考えを悪し様に言っている人たちは、どこかでそういう横着な癖を身につけてしまったのでしょう。
表面的な意味だけで相手を拒絶することだけでなく、妄信のように相手を信じることも思考停止といえるでしょう。そんなことは分かっている、というスタンスで他人の言葉を聞くと、それ以上にコミュニケーションが深まることはありません。話した言葉、書かれた言葉は氷山の一角のようなもので、その背後には途方もない文脈であったり、そのひとの経験が蓄積されていることがあります。
次の一文は、非常に重要であると感じました(P.47)。
優秀な人間は、“つまらない授業”だとしても何か学ぶべきことを発見できるはずです。
この誠実さは大事ですね。「授業」を「人間」と置き換えてみるとかなり辛辣かつ深い洞察があるように思うのですが、あいつはつまらないやつだ、と思って拒絶したり総括したときに、それ以上歩み寄ることもできなければ、理解を深めることもできない。もちろん見切ることが必要な場合もありますが、それでシャットアウトしてしまうことも多い。
一般的に否定と総括は思考停止させる思考ではないかと考えました。どういうことかというと、例えば「創造力は光だ」と発言したとします。そのときに否定系ならびに総括系のバリエーションを挙げてみると、以下のようなコメントを付けることです。
■否定系
①理由なき否定:「それは違うだろ」
②その逆を言及:「いや創造力は闇だね」
③人間失格:「だからおまえはダメなんだよ」
④無気力:「そんなこと言って何になるのさ」
⑤理解放棄:「まったく言っていることがわかりません」
■総括系
①人間に換言:「おまえってそういうやつだよね」
②全体に換言:「社会なんてそんなものだよ」
③過去に換言:「昔から言われていることだよ」
④偉人の威:「○○あたりが言っていそうだな」
⑤終了宣言:「ブログの創造力の議論は、もう終わってるよ」
奢っているように聞こえるのではないでしょうか。高みから見下ろして発言しているように聞こえる。誰かに対して、あるいは誰かが発言したことに対して、上記のようなコメントを付けると賢そうにみえることは確かです。しかしながら、その実は何も考えていない。
特に否定系では、発言されている軸に対して別の軸を立てれば、いくらでも発言できるわけで、安易にフォーマット化された思考なわけです。そして、仲正昌樹さんも書かれていることですが、この二項対立の思考は善/悪という枠組みに押し込めてしまうので、危険な思考でもあります。
教養あるひとになるためには、謙虚であることが重要です。以下、引用します(P.193)。
勉強すればするほど、知的に謙虚になり、自分のことを反省的に振り返るようになれる人ばかりであれば、何の問題もありません。自分の知的限界が本当に分かっていれば、次にどうすべきか自ずから分かってくるはずです。そういう人が、「教養のある人」だと思います。
ほとんどの人はその逆です。勉強して知識が増すほど、横着で傲慢になっていきます。横着で傲慢になると、自分の無知や考え違いを素直に認めることができません。頭が堅くなり、新しいことが学べなくなります。
自分に都合の悪い情報を隔離して、気持ちのいい言葉だけを受け入れようとすること。誰かの発言にわかったような否定や総括だけ加えて、それ以上そのひとの言葉に耳を傾けようとしないこと。そんな奢った姿勢を反省して、謙虚でありたいと思っています。
投稿者 birdwing : 2008年5月30日 23:17
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